夢の終わり
私は人が嫌いだ。
私は嫌われ者だ。
どちらが先だったのか、老いた今では忘れてしまったが、どちらが先でも結局は何の違いもないことに気付き、考えるのをやめた。
五十を過ぎた私の身体が土の下に身を埋めるまで、あとどれくらいの時が残されているのだろうか。最近は自分の最期を想像してみることが増えた。
秋の終わり。鮮やかな赤や黄の葉の色も土色にその身を染めようという肌寒い季節の中。私の家も外の景色に溶け込んでいくかのように、外と同じ静けさにその身を浸している。
気温まで冷え込んできた。暖炉の薪を用意しなくてはいけない。そうすれば、薪の爆ぜる音で多少は賑やかになるだろう。
揺り椅子から身を起こすと、木の床を革靴が叩く。成人の平均を少々下回る私の体重を受けて、この家の床は悲鳴を上げる。ところによれば、断末魔を上げそうな場所もある。十五の頃からの付き合いなのだ、今更張り替えようとは思わない。この小さな村で、見栄えを気にしようとする気も起きない。
机と本棚、わずかな食器と食材の並ぶ簡素な家の中は、私が一度外に出てしまえば廃墟と何ら変わりはない様子である。いや、私自身も亡霊か何かと間違えられる可能性があるので、いてもいなくても大差はないかもしれない。その内近所の小さい子供たちが、お化け屋敷だなんだと押しかけることもあるのかもしれない。
ぞっとしない話だ。
外の薪を取りに行こうと、外と内を隔てるオンボロな木の扉に手をかけると、ちょうどその扉を控えめに叩く者があった。
私にはその主に心当たりがある。犬や猫ではなく、人間。困ったことに、私はその人間といくらかの交流があった。
例外というものは大方何にでも存在する。屁理屈をこねればそれこそ無数である。嫌って嫌われてを繰り返す私にも、それなりに会話のできる人間もいるというわけだ。
再び、今度は少し強めに扉が鳴る。これに反応しなければ、この扉の向こうの人物は諦める。また数時間後に懲りずに訪ねてくるのだが。
仕方なく私は南京錠を外し、扉を開けてやった。
開けた先にはブロンドの髪を肩ほどまで伸ばした少女が、手に草木で編まれた小さな籠を持って立っていた。籠は可愛らしい花の模様が刺繍された緑色の布を被っており、中身を知ることはできそうにない。
「こんにちは、エドおじさん」
年頃の少女らしい朗らかな笑顔。自分に向けられるにはもったいないものだ。
「ああ」
私が返事を返すと、少女は嬉しそうに手に持った籠をこちらへ押し付けてきた。
「木苺でね、ジャムを作ったの。きっとおいしくできていると思うからよかったら使って?」
「……私に配らずに近所を回った方がいいのではないかね」
「もうっ、またそんなことを言う。これは私が作った分だから私があげたい人にあげるの。おじさんがどう言おうが譲りませんからね」
「君は物好きだ。こんな枯れ枝に肥料を撒いたところで、君に得はないだろうに」
「そんなことないよ。エドおじさんとお話しするの楽しいもの。枯れ枝にだって、見応えのあるものがきっとあるでしょう。エドおじさんはそれなの」
よくわからないことを言う。この子は上手く返そうとして妙な返答をすることが多々ある。
彼女の名はエリーゼ。周りの人々からはリゼと呼ばれているらしい。もっとも、私が彼女のことを名で呼んだことはない。
私とは真逆の性質を持つ子である。社交的で、皆に好かれている。料理と歌が趣味なのだという。今日も、毒見ついでに私に歌を聴かせていこうという算段なのだろう。
「それでさ、エドおじさん。時間空いてる? 空いてるよね?」
「……薪をくべるから中で待っていなさい」
「はーい」
エリーゼは私に一度渡した籠をひったくると、「机に置いておくね!」と私の脇を抜けて家の中へと駆け込んで行った。籠がなくなり、自由になった左手で白髪ばかりになった頭を掻き回す。
外に出ると、秋の残骸が地べたに広がっており、白んだ空がこちらを見下ろしていた。日が当たるためか、家の中よりもほんの少し暖かく、もしかすると外の方が過ごしやすい環境であるかもしれなかった。
まあ、人の目に晒されるくらいなら土の中で過ごした方がまだマシというものだ。生物の絶えた広大な草原であれば話は別だが、生憎この村は小さいながら人がいないということはない。
「やあ、エドワードさん」
私が家の裏に回ろうとしたところで青年が声をかけてきた。名前は覚えていないが、私が外に出る度に待ち構えたようにして声をかけてくるやつだ。妙に馴れ馴れしい態度が気に食わない。
気付かなかったふりをして薪の入った小屋へと向かうと、めげずに青年は声をかけてくる。
「今日は冷えるね。薪を使うのかい? だったら俺が手伝うよ。エドワードさん、もう年なんだから、無理しちゃ駄目だよ」
心にもないことを言う。この青年の家は私の家の窓からその様子がよく見える。隣に住む、真に助けを必要とする老人に対してはロクに世話もしていないことを知っている。老人を労わるというのなら私に構う暇などないはずなのだ。
まさか、偶然私が外に出たところへ声をかけているわけではあるまい。善意のようで何らかの思惑があるのだ。私に対して用があるのだろう。口に出せば恐らく不快であろうと直接言い出しはしないが、そういった類の要件がきっと彼の腹の中に渦巻いている。
万人受けしそうな、お手本のような笑顔を張り付けてはいるが、どうにも気持ちが悪い。
「近寄るな。私に関わるのはよしてくれ。君にできるせめてもの親切というやつは、余計な気を回さず、口を利かず、ただ私に対して無関心でいてくれることだ」
私の拒絶に青年はきょとんとした様子を見せたが、すぐに困ったように眉をハの字にした笑顔に変わった。
「でもさ、やっぱり放っておけないよ。薪だって軽い物じゃないだろう」
「二度も同じことを言わせる気かね。それとも私からのお願いと言った方がいいのかな? 頼むから手を出さないでくれ。そうすることで私は大変助かるのだよ。薪を運んでもらうよりもずっとね」
そこまで言い切って、青年を無視して薪小屋まで向かって行く。今度は何も言わず、私の背中をただ見守っているだけのようだった。
何本かの薪を小脇に抱え、家へ戻ろうとしたところにはまだ青年が立っていた。何か言いたげにしていたが、私の目を見ると何も言わずに、ただただそこらに生えた枯れ木のようになって立っているばかりであった。
その様子を見届けて家に入ると、扉からすぐのところにエリーゼが座り込んでいた。
私の顔を見るなり小さな身体が跳ね起き、私の方へ飛びかかる。
「半分持つね」
エリーゼはそう言うと、私の持つ薪をほとんど抜き取り、家の奥へと消えて行った。
すっかり軽くなった身体にため息が漏れる。まったく、敵わない。
暖炉に火が灯り、家の内部に赤みが帯びる。気温も少しずつ上がってくるだろう。私が揺り椅子に腰を下ろすと、エリーゼはその傍らに立って私に何かを差し出した。見ればそれはちぎった丸パンに黒紫色の液体が付着したものであった。
「……木苺と聞いたが」
「だって似てたもの。きっと同じ種類だと思ったの。それに私も一つ食べておいしかったし、問題はないと思う」
「毒草だったら生きてはいないな」
「生きてるんだから問題ないでしょ?」
いいから食べろと言わんばかりにパンを口元に近づけるものだから、仕方なくそれを手で受け取り、口に含む。確かに妙な味はしない。ジャムにするとき砂糖をどれだけ使ったのかはわからないが、酸味はほとんど感じられず、舌には鈍い甘みが広がった。しかし、鼻に抜けてくる香りは葡萄に近く、あまりくどさは感じられない。
「甘いな」
「酸っぱくないでしょ」
「苦い物が合いそうだ」
「じゃああれ、コーヒー! 淹れよっか」
私の言葉を聞く前にエリーゼはいそいそとコーヒーを淹れようと動き始めた。
エリーゼはことあるごとにコーヒーを飲みたがる。この村では、いや、私の住むこの周辺の地域では一般的にコーヒーは出回っていない。ここにあるのは、時折村にふらりと現れる旅の商人から気まぐれに購入したものであった。
一度口にしてから幾度かその商人から購入する機会があり、今や私の家は村で唯一、この苦く真っ黒な嗜好品を口にすることができる場所となっているようであった。
普段紅茶ばかりを口にしているであろう彼女にとって、物珍しく思えるということは想像に難くない。
忙しない子である。ただ、その自由な振る舞いに何か口を挟もうという気にはならない。彼女に関してはある程度諦めているところがあった。
黒色の液体に満たされたカップが机の上に置かれるまで、窓の外の景色を眺めていた。青年の家がよく見え、その隣の家がわずかに見える。あの家に住む老人は今どのように生活しているのだろうか。ベッドの上から動くこともできず、ただ置物のような生を送っているのだろうか。
そんなことを考えていたせいで、妙な顔になっていたのだろう。カップを置き、自分の分もしっかりと淹れていたエリーゼは、湯気の立つ液体をすすりつつ、私の顔をまじまじと見た。
「何かあったの?」
「いや、君に話すようなことはないさ」
「もしかして、アレック? おじさんにさっき話しかけてたけど。何か言われた?」
「何も」
アレック。そういえば聞き覚えがあるような気がしないでもない。あの青年の名前であろう。覚えようという気は起きないが。
「悪気はないんだろうけど……まあいっか。さて、食べる物は食べたし、また歌うからさ。聴いてよ」
エリーゼは踊るようにくるりと回ると、何度か試すように声を出す。
「耳を壊さぬよう頼むよ」
「壊れたことないでしょ」
私は苦みのある液体を口に含み、揺り椅子に完全に身を預けた。それを見たエリーゼは大きく息を吐き、私の傍らに立った。
「じゃあ歌うよ」
エリーゼはいつものように、私の耳にすっかり馴染んでしまった歌を歌い始めた。母から教わった子守歌だという。決して上手いとは言えないものの、聴いていて不快というわけではない。
彼女の声は柔らかい。耳に優しいとでも言えばよいのか、とにかく聴けないものではない。
気付けば彼女の歌は終わっている。これもいつもの通りだ。そして私は形ばかりの感想を述べるのである。
「いつもの通り下手くそだな」
「だから、お世辞でも上手いって言ってくれてもいいでしょ! おじさんったら」
頬を膨らませ、エリーゼは自分のカップに残った液体を全て喉に流し込むと、机の上の籠を指差す。
「ジャム、全部食べてね! また来るから、籠はその時に持って帰るからね! またね!」
そう言うや否や、エリーゼは外へパタパタと駆け出して行った。
籠の中に直接ジャムが入っているわけでもあるまいに、ある程度来る理由を残してさっさと出て行ってしまうのも相変わらずだ。
籠を覆う布をめくってみると、私の拳ほどの大きさの瓶の中に詰まった黒紫色のジャムが二つ、仲睦まじげに並んでいた。一人分というわけではないのかもしれない。
ジャムを日の当たらない食器棚の空いている個所へ置くと、ふと本棚の上に置かれた懐中時計が目に入る。
数年前に仕事を辞めた彼は、今は薄い布団を被り、眠りに就いている。
◆
暗闇の中、炎を見る。
赤、橙、黄。揺れ動く度に忙しなくその身の色を変える。秋を思わせるような色をしているというのに、随分と騒がしいやつだ。
薪の弾ける音が小気味よく静かな部屋に響く。カップの中の暗闇がひらひらと光の旗を振る。
すっかり冷え切ったカップに口を付け、舌を苦味に浸していると、いつもの声が聞こえてくる。
『静かな夜だ』
「いつものことだ」
『寂しいことだ。家族も友人もいないのでは、この静けさも一層耳に痛い』
「そんなことはない、人は慣れる生き物だ。身体中にまとわりつく痛みも、もう長らく付き合っているが、今ではこれがなければ違和感があるほどだよ」
『そうかね』
「そうだとも」
一拍置くとソイツはやれやれとでも言いたげに息を吐いた。
『君は愛を知らん』
「どこで教えてくれるというのかね」
『君以外の人間が教えてくれるだろうよ。君に興味のある誰かが』
「そんな物好きがいるものか」
『あの少女は』
「あれはお気に入りのおもちゃを見つけたのだよ。それだけさ」
『おもちゃに対しての愛は愛ではないと?』
「愛の定義がわからない。単に趣味であるとしか、私には考えられない。そう、このコーヒーを飲むようなものだ」
カップの暗闇には二つの目玉が浮かび、こちらを見つめていた。私がカップを揺らすと、黒目がくるくると踊る。
『せめて、形あるものであれば君への説明も容易だろうに。恋の病ならぬ、愛の病なるものがあるのならば』
「残念ながら」
『残念だ。ある日突然、目に見える愛が現れればよいのだが』
「乙女のようなことを言う」
『それは偏見だ。人は夢を見たいものさ』
「そういうものか」
それきり返事はなかった。私は揺り椅子に深く座り、天井に目をやる。火の点いていないランタンが吊られてじっとしていた。
コーヒーを飲み下す。揺り椅子を揺らす。
ああ、静かな夜だ。
◇
目覚めると、何者かが窓や扉を叩いていた。それだけではない。家の中に重苦しく騒音が響き渡っている。
日の光は私の顔を照らさない。外は酷い雨であった。窓から見た外は白く霞んでおり、地面にできた大きな鏡はいくつも円を描き、その身に何も映そうとはしない。
人を拒絶しているような光景だが、それでも幾人かはレインコートを身にまとい、打ち付ける豪雨を物ともせずに忙しなく動き回っているようだった。作物の世話だろう。
私がぼんやりと外で行われる大騒ぎを眺めていると、一際大きく扉が叩かれる。硬い何かが二度打ち付けられたような音である。
まさかと思い、家の扉を開いてみれば、そこにはレインコートに身を包んだエリーゼの姿があった。
「何をしにきたのかね」
私は心底呆れたように言ったつもりであったが、彼女にはそう取られなかったらしく、曇天を振り払うような笑顔で「暇つぶしにきたの」と答えた。
コートからはみ出したブロンドの髪は濡れ、少々暗い色に染まっている。エリーゼはしきりに濡れた髪を撫で付けていた。その度に乾いた木の床に黒い点が描かれる。
「せっかく綺麗な家の中だったというのに」
「それは、まあ、ごめんなさい。……じゃあ今度お掃除しにくるね! それでいいでしょ?」
「また君は、暇だな」
中に通し、暖炉の前に客用の小さな椅子を置いてやる。妙に嬉しそうな顔をされたが、残念なことにこちらにあるのは家を汚して欲しくないという意図のみである。
幸せな子だ。
エリーゼが髪を掻き回している様子を眺めていると、ふと彼女の首元に目が行った。
ぷくりと小さな、赤みを帯びた出来物が右の首筋に目立っていた。
よくよく見てみれば首だけではない。腕や足にも大きさの違いはあるものの、似たような出来物が見られた。
「虫にでも食われたかね。秋の終わりにもなって珍しい」
「あー、これ? わからないけど、今のところ痛くもかゆくもないんだよね。何なんだろう」
「不摂生が祟ったのではないか」
「おじさんよりはまともな生活してるつもりだけど。おじさん、なんかまともにご飯食べてるイメージないもの」
「想像で人の生活を決め付けられては困る」
「違うの?」
「君には関係のないことだ」
雨は収まる気配がない。むしろ少し強くなったくらいだろうか。いつものように他愛もない会話をエリーゼと交わし、苦味を口に含み、彼女の歌にパッとしない感想を述べる。
普段ならここでエリーゼは何か、またここにくるための理由を適当にひねり出して、悪党の捨て台詞よろしく吐き捨てて去って行くのだが、どうにも今日はそんな様子が見られない。
「雨酷いし、今日は長居していい?」
彼女にしてみれば珍しく、控えめな提案であった。
「母親が心配するだろう」
「大丈夫だよ。お母さんにはちゃんとここにきてることは言ってあるし、おじさんのことはよく話してあるもの。いい人だって」
大人の立場からしてみれば、子供の言ういい人ほど信用の置けないものもない気がするのだが、まあこの少女のこと、大方強引に話を通してしまうのだろう。
「どうせ駄目だと言っても何かと理由を付けて居座ろうとするだろう、まったく」
「ありがとう」
何かあったのか。どうかしたのか。
妙な態度なものだから、ついついこのような言葉が口を這い出そうとする。
すんでのところでカップの飲み口で口を塞いだ。甘い言葉は苦味に誤魔化され、どこかへと消え失せた。
「雨、どうしたんだろうね。ここ最近はあまり降っていなかったのに」
「答えの出ない質問をされても困るな。降るべきだったから降ったのだろう」
「それはそうだけどさ、なんか、嫌だなあって思って」
「この大雨を大きく喜ぶ者は少ないだろう」
「んー、雨が嫌というか、暗いのがね。最近暗い夢をたくさん見るから、昼間は明るい方がいいなって」
「意外だな。君の頭の中では毎日学芸会でも開かれているのだと思っていた」
「馬鹿にしてるの? 考えてるからそれが夢に出るわけじゃないでしょ。夜はお腹が空くけど、それで食べ物をたくさん食べられる夢なんて見たことがないもの」
「覚えていないだけだ」
「そんなことは――ないとは言い切れないけど」
エリーゼは唇を尖らせ、窓の外を睨んだ。
「とにかく、暗い夢と暗い天気で何か嫌なの」
「ちなみにどんな夢だったのかね」
「……なんか、うーん」
エリーゼはより一層外の景色を険しく睨む。首を傾げたり、人指し指をしきりに窓枠に打ち付けたり、唸り声を上げたりしている。
しばらくその様子が続き、「なんか」と再び口にして彼女の夢語りが始まった。
「人がいなくなるの、たくさん。で、おじさんが立ってるんだ」
「いなくなるか。それだけかね」
「うん、そうなんだけど、嫌な感じがして」
「取って付けたように登場した私も意味がわからんな」
「おじさんは、まあ、私の夢だから?」
「なんだそれは」
「きっと暗い夢を明るくするためにきてくれたんだよ」
「ランタンでも持って、かね?」
「そういう明るいじゃありませんー!」
冗談を言うと彼女はいつもの調子に少しだけ戻ったようだった。ただ、時折不安気に窓の外を眺めている様子が気になった。
まるで、雨に紛れた何かを恐れるかのように。
◆
雨は止まない。かなり暗くなってエリーゼは自らの家に帰宅した。結局最後まで彼女の気分は晴れなかったようである。どこか寂しげな「またね」が印象的であった。
『随分物憂げな顔をしている。エリーゼのことが気になるのかね』
私の思考に余計な言葉を入れる声があった。相変わらず暖炉の火は忙しなく踊り狂っている。
「そんなことはない。他人の夢に少し興味を持っただけだとも」
『人がたくさんいなくなるか。病気だろうか? 災害だろうか』
「雨と重ねれば災害だろう。土砂が村を覆うかもしれん」
『単に去ることもあるだろう』
「この村の外に? まあ、あり得ん話ではないだろうな。不可能ではない」
『嫌な話だ。不吉だな』
「夢の話だ。気にすることはないだろう」
『本当にそう思うかね』
「何が言いたいのかわからないが、まさか未来を見たなどと、それこそ夢のようなことをぬかすわけではないだろうな」
『さて、どうだか』
「馬鹿馬鹿しい」
くだらない言葉ばかりを吐くソイツに嫌気が差し、まぶたを下ろす。
外の音色が自然と脳を満たす。
葉を叩く。木を叩く。水を叩く。地を叩く。雑音が世界を満たしている。
大小様々な音、音、音。出鱈目だというのに、そこに感じられる不快感はない。
ふと、何かが近付いてくるのに気が付く。足音が窓のすぐ前に迫る。
誰もいなくなる。その言葉が頭の中を駆け回る。彼は人を攫うのである。ただし、闇雲にではない。愛される者を選別して攫うのだ。
姿はない。臭いも、体温も存在しない。足音だけが彼の存在を示すものである。
しばらく様子を窺っていれば、それは私の家の周りを念入りに歩き回った後、ゆっくりと、消えるように遠ざかって行く。
私はお気に召さなかったというのか、わがままな魔物め。
まぶたを開こうとすると、それは鉛のように重かった。暖炉から伸びる巨大な手が私の身体を包み込み、深い闇へと誘おうとしている。
真実を見る必要はない。目を開いたところで、何かが映るわけでもない。ただ暗闇の安息に溺れてしまえばいい。
雨の音は次第に遠のき、やがて聞こえなくなった。
◇
白い光が薄暗闇を切り裂いている。大気を舞う塵がその身を輝かせ、光の刃を潜り抜けていく。
昨日の雨は夢の出来事であったかのようにどこかへ消え去っていた。
しかし、外は至るところにその痕跡が見られ、宝石めいた光をいくつか私に見せびらかせていた。
窓を少し開けてみると、雨の後の独特な匂いが漂っていた。土の汗のような、そんな匂いだ。
昨日あれだけ騒がしかった人はすっかり姿を消している。打って変わって随分と静かなものだ。
まるで、そう。私だけがこの村にいるかのような錯覚を覚えた。
エリーゼが妙なことを口にするものだから、そう考えてしまったのだろう。
どうせ皆、昨日の疲れが少し長引いており、それを癒すために今日は家の中に少し長く引き籠っているのだ。あともう少し、太陽が頭のてっぺんにくる頃にはいつも通りのはずである。
あの子だって、今日もこの太陽さえ目を剥くほどの明るさであのボロの扉を叩くのだろう。
パンに黒紫色のジャムを付けて、ジャムよりも濃い黒色の液体で舌を湿らせる。
極端な甘味と苦味。色は似ているというのに不思議なものだ、などと考えているうちに、外はいつも通りの絵が見られるようになっていた。
まばらに人が歩き、それを日が照らす。開けた窓からは人々が濡れた地べたを踏み歩いて行く音が聞こえてくる。
椅子の軋む音。鳥の羽ばたく音。人の息遣い、風が葉を揺らし、誰かが蹴り上げた水しぶきが地面を叩く。
誰かが歩いている。
誰かが笑っている。
静かで騒がしい。奇妙であるがそんな時間が流れて行った。
その日、エリーゼは家を訪ねてはこなかった。
◇
誰かが言った。「流行病だ」と。
誰かが言った。「これで五人目だ」と。
誰かが言った。「まだ子供なのに」と。
妙なことだ。まだ昼間だというのに。
◇
家の隅に随分古い様子の籠を見つけた。エリーゼのものより少し大きい気もするが、もしかするとこれも彼女の持ち物であるかもしれない。
回収しにこないとは困ったやつだ。うんと苦いコーヒーを淹れて懲らしめてやらねば。私は人が嫌いなのだから、嫌がらせは好きな方だ。
しかし、その当人がここにいなくては話にならない。
仕方がなく、私は初めてエリーゼの家まで出向くこととした。
傍らに目立つ巨木が生えており、それの陰になっているせいで自分の部屋は日当たりが悪いと言っていた。あと、ベージュ色の屋根色をしているとも聞いていたように思う。これだけわかればたどり着けるだろう。
私は籠に黒みのある茶色の粉末が詰まった瓶を入れ、家と同様に軋む身体をゆっくりと動かし始めた。
いつもなら外に出たところで例の青年が声をかけてくるところだが、今日はどうやらそんな気分ではないらしい。外に姿も見当たらない。
気にせず身体を動かしていく。
普段、杖は使わないようにしているが、あまり遠いようでは必要だったかもしれない。そうではないことを祈りたいものだが。
その祈りが通じたのか、エリーゼの家だと思われるものはそれほど離れていない場所に建っていた。
確かに、傍らには葉の付いていない巨木が一本あり、いくつかの窓に対して薄く影を落としている。
家の周囲に人の姿はない。いつもよりも少し長い距離を歩いたためなのか、家の扉への道は妙に足が重く感じられた。
扉を叩く。反応はなかった。
もしかすると遠出をしているのかもしれない。そう考え、右足を引いた直後に扉のノブが回った。
扉を開けたのは一人の女性であった。後ろでまとめ上げられたブロンドの髪。それにエリーゼとどこか似ているところがある。彼女の母親であるのかもしれない。
しかし、その様子は異様であった。
苦しそうに呼吸をしている。身体が思うように動かないのか、扉に寄り掛かるようにして立っている。何より、身体のあちこちに丸く、紫の色のあざが大輪の花のように広がっていた。
「あなたは……」
私はしばし言葉を失っていたが、足元の砂利を踏んだ音で我に返った。
「私は、エドワードというものだ。その、娘さんが、この、なんだ、籠を忘れて行ったので、届けにきた。……彼女は大丈夫だろうか」
「――ああ」
最初はいぶかしげな顔で私の方を見ていた女性は納得したように微笑み、扉から手を離してゆっくりと頭を下げた。
「娘がいつも、お世話になっているそうで。すいません」
「……大したことは、ない。それで」
私の言葉の先を読み取ったのか、女性は少々暗い面持ちになる。
「エリーゼは、その、今話せる状態ではないんです。でも、もしそれでもよろしければ」
話せる状態ではないのに追い返さない。その不可思議な対応に私は息を呑んだ。
いや、せっかくきた客人なのだから、ただ追い返すのは失礼だという配慮なのだろう。きっとそうに違いない。
「それでは、そうさせてもらいたい」
ぎこちなく答えた私に対し、女性は小さく微笑んだ。どこかエリーゼを思わせる笑みだ。
あえて彼女のあざのことに関しては触れることはしなかった。触れたところで、医者でもない私が何かできるわけでもなかったからだ。
家の中へ入り、すぐ右側の部屋へと案内された。ちょうど先ほどの大木が正面に位置するような部屋であった。エリーゼが嘆くわけである。
女性は小さく扉を開け、中の様子を確認すると私を通した。随分信用されている。彼女と私は、見ず知らずの他人に等しいというのに。エリーゼは何を吹き込んだのだろうか。
可愛らしい部屋であった。私の質素な乾燥した、枯れ木の中のような家とはまるで違う。人形やぬいぐるみが置かれ、清潔感のある白いカーテンやベッドが印象的であった。
ベッドの上には額に濡れた布を乗せたエリーゼが眠っていた。
荒く呼吸をする彼女の肌には、恐らく母親と同じものであろうあざが見て取れた。
以前会った時に見た、出来物があった位置を中心に広がっている。エリーゼは明らかに弱っていた。
「……おじさん」
私に気付いたエリーゼは薄く目を開けた。口元には笑みが浮かんでいる。
「ほら、君が忘れて行ったものだろう」
「……ふふ、違うよこれ。これは元々おじさんの家にあったものでしょ?」
「さてな、私も年を食ったから、そんなことはいちいち覚えていないよ」
籠の中から瓶を取り出し、エリーゼに見せてやると、彼女はまた微笑んだ。
「コーヒーだ」
「元気になったら飲みなさい。これは調子の悪い時に飲むものではない」
「えー……」
不服そうに頬を膨らませる。いつもの彼女である。少し元気がないだけで、大して変わりはない。少し体調を崩しているだけなのだ。
そうに違いない。
「医者には見せたのか」
「……ううん。今ね、お父さんが頑張って呼びに行ってるんだ。この前の雨で町への道を塞がれて、結構遠回りしてるみたい」
「この村の医者はどうした」
「……ちょうど、町に出ていないって。だから」
エリーゼは苦しげに咳き込んだ。随分喋らせてしまったようである。
「ゆっくり寝て、治しなさい」
「また、歌聴いてくれる?」
「元気になってからまた聞きたまえ」
そっと彼女の頬に手を置いた。酷く熱い。ただこうして寝ているだけでも辛いのかもしれない。
私は籠を置き、早々に立ち去ろうと立ち上がった。
「またな」
「うん、ばいばい」
彼女は笑顔で見送ってくれた。
◆
いつの間にか私は暗い空間で椅子に腰を下ろしている。エリーゼと別れてからの記憶が曖昧だ。私はどうやって帰ってきたのだったか。
暖炉の中で炎が躍っている。
「君の仕業なのか」
『それはどうして』
「君が言ったのだ。愛が見えればと」
『病気や災害とも口にした。なるほど、大層な理由じゃないか』
「違うなら違うと言いたまえ」
『それはできぬ相談だ。そうであること、そうでないことは答えられん』
「どうして」
『どうしてかな』
「あの子はどうなってしまうのだろう」
『医者が間に合うかどうか。性質の悪い病であれば、なかなかに厳しいだろう』
「何故、あの子なのだ」
『愛を受けていたから、ではないのかね?』
「……そうなのか」
『さて』
「そうか、愛を受けていたから、あの子が真っ先に病にかかってしまったのか。あのあざはあの雨の夜、家の周りをうろついていた魔物の手形ではないのか?」
『さて』
「私がこうして無事なこともそれでよくわかるではないか。きっと向かいの青年が今日顔を出さなかったのも、病にかかったせいなのだ。きっとそうに違いない」
『さて』
「私には何かができるだろうか」
『愛を向けないことではないか』
「私は彼女に愛を向けてなどいない」
『そうだろうか』
「そうだとも」
『今日の行動は何だね』
「あれは、一日がいつも通りでなかったために気持ちが悪かっただけだ」
『そうかね』
「そうだとも」
『君は彼女に関わるべきではないのではないか』
「何故だ」
『彼女は君を気に入っている節がある。それに対するようにして、君は彼女に愛情を注いでしまうのではないかな』
「そんなことは」
『ないかね?』
「……愛とは」
『その問いに答えはない。私には答えられぬよ。だがね、わかるのは、君が何を愛だと名付けているかということだ』
「それは」
声はそれきり途切れてしまった。
私はうなだれ、何かをしきりに考えた。その何かは夜の闇に紛れ、溶けて消えた。
◇◆
流行病は村中に広がったようであった。
数日経つと、村中から人が消えた。
ある者は病に倒れ、ある者は町への長い道を歩いて行った。
あざが身体の至るところに広がるそうである。
原因はまだ不明であるが、一つわかったことがあった。
この病は、人を殺すということである。
つい先日、この村から五名の死者が出た。名前は聞いていないが、かかった順だと噂に聞いた。
もう、それだけで十分だった。
◇◆
おじさん、エドおじさん。
エリーゼが私を呼んでいた。結局、あれから一度も会いには行かずに過ごし、現在に至る。
彼女は変わらぬ笑みを浮かべて、家の窓の外に立っていた。
『ほら、待たせては悪いだろう』
「わかっているとも」
私は長く歩くことを覚悟して、杖を持って歩き出した。
家の扉を開けると、エリーゼが立って待っていた。待ちきれないとばかりにこちらを期待の目で見つめてきている。
私が一歩、歩み寄ろうとすると、エリーゼは一歩先に進む。老人を永遠に歩かせていじめる遊びを思い付きでもしたのだろう。
仕方なく、私はエリーゼの後を追うことにした。
村は静かなものだ。私の生み出す音が妙に鮮明に響く。周囲を見渡してみると、あのうるさい青年はもちろん、私の他に歩く者はエリーゼくらいのものだった。
ふと、気になって近所の老人の家の窓を覗いた。中には日の光を反射する埃だけが宙を舞っていた。
私の口からは笑みか嘆きかわからないため息が漏れる。そっと足を動かし始めた。
砂利を踏み、杖を突く。幾度その音を聞いたかは知れないが、しばらくしてやっとエリーゼに追いついた。
気付けばそこは彼女の家の近くである。家まで呼び込んで何をたくらんでいるというのだろう。
エリーゼは私を家の傍らにある大木に案内した。すると、その木の陰に小さな実を付けた植物が揺れていた。
いつかエリーゼが言っていた、ジャムの元になった実であろう。
「これを私に食べさせたいと」
エリーゼは嬉しそうに頷いた。大方、ジャムとは違って酷く渋かったりするのだろう。その反応を楽しもうというのだ。
その実は黒ずんだ紫色をしていた。口に含むと、やはり渋味は強かったが、その後にあのジャムの甘味をほんの少し薄くしたような味と、やはり葡萄に似た香りが鼻を抜けた。
ぽつり、ぽつり。
雨が数滴、地面を濡らしていた。
きっとこれは、彼女の夢の続きなのだ。
どうも、桜谷です。
一応受け取り方が二つある作品として書いてみました。
エドワードのいる世界は妄想なのかファンタジーなのか、というところで。
感想や意見などあればぜひ、残して行っていただければよき私の肥料となります。