昼:縁ってムズカシイ
喫茶店『Courage クラージュ』。
ここでウェイトレスのバイトをしている美月の話。
まだ少し怖い、もう来ないと思っても。
外は怖い……そう思いながら大学から出る。早く家に……
「おや、美月さん?」
声をかけられてビクリと振り返る。そこに居たのは彼女の通う大学の助教授、篠生。ピアノ科の若い男性だ。目が細いがニコニコと優しそうなマスクが人気だが、教授の呼びがないと全く来ないという謎な教員。実はこの大学の理事だとか、どこかの町で文具店のバイトしていたのを見たとか、美月もいくつか噂を聞いた事もある。真相は知らない。
彼女は彼の担当教授のゼミに参加した事はなかったが、眼鏡の向こうの猫目を細くして笑いながら、近付いて来る。
「今日はまだ春休みなのに。ああピアノを借りに来たのですか?」
今日は2015年4月1日……大学は春休暇中。時間予約制で学校では楽器と部屋の貸し出しをしており、美月は今日、朝の早い時間に予約が取れてピアノに触りに来た帰りだった。
「はい。グランドが弾きたくて」
「君は……一人の事が多いですね。誰かと一緒に帰ったり、遊びに行ったりしないのですか?」
「…………え、その……」
「君はソリストとは行かずとも、素直なピアノの音を奏でていましたね……保育士養成課程を取っていたと記憶しています。きっと子供達が元気になる様な曲が弾ける、いい先生になるでしょう」
「あ、ありがとうございます。でも何故、私を?」
「君だけを特別覚えているわけじゃないですから。ただこの学園の生徒は音で全員覚えているだけですよ。試験の時はまんべんなく聞きに行きます。千年の逸材に会えないかと。これまでに……たった三人しか見付けられていませんがね」
「そうなのですか……わ、私、急ぎますので。失礼します」
美月はサッと頭を下げて、家に戻った。本当は急ぐ事などなかったが。その背を眺める篠生がふっと笑って、
「人間とは短い一生を頑張って生きるから良いのですね……あの町で、きっと貴女を真実に愛す者からの加護があるでしょう」
そう言っていたのを美月は知らなった。
彼女は大学近くのコーポで一人暮らしをしている。
ここで暮らし始めたのは学校までの距離が遠かった事だけではなく理由があった。
小学生の卒業頃、ピアノコンクールで銅賞をもらった美月。全国区に出るには銀や金がいる為、特別に目立つ事はなかったが、容姿もそこそこで明るく、伸びやかな音と声も出せる事に目を付けたプロダクションからスカウトがかかり、一時そう言う世界を目指した。
だが、中学半ば頃、『人前で歌うな』『ミツキは僕のだ』などというおかしなファンレターに、『同じようにしてあげる』と血の付いた刃物や、末には動物の変死体までが毎日のように届くようになる。危険を感じて届け出たものの、動物愛護管理法に抵触する以外、彼女に対して実害がなく、正体が掴めなかった為に警察が大きく動く事はなかった。彼女を女手一つで育てていた母親やプロダクションとが話し合い、美月がその道を諦めて人前に立たなくなると、手紙など不審な物は届かなくなった。
「よかった、きっと私の事なんて忘れたんだわ」
人の嗜好など移り変わりが激しいモノだ。
一線から退いた事で『そのひと』は消えたのだ。
夢は諦める事になったものの、垣間見た『大人の世界』の黒い所が飲み込めないとも感じていたので、又、次の夢を探そうと考えを切り替えて美月は普通科の高校を受験した。
そして高校生になり、交友関係が広くなっていったある日、一人の男が現れる。
『みつきは、ぼくの、だ』
どこにでもいる男、年の頃は少し上だと思った。
会った事もない……いや、もしかしたら無名ではあったが、活動していた時期に握手会や営業先に居たような気もする。が、ともかく美月は『そのひと』だと直感し、恐怖に彼をまともに見る事が出来なかった。
『ミツキ、ミツキはボクの事だけ考えて……何度も言ったよね。約束したよね? 君は一生……ボクのオヨメサンとして生きるんだよ』
いつ約束したのか、そんな事実はないし、美月には意味が解らない。体が竦んで逃げる事も出来なかった。手を引かれ物陰に引き込まれそうになった時、偶然パトカーが通りかかり男が立ち去ったのが唯一の救い。
もしあのまま引き込まれていたらと考えたくはなかった。
具体的に目の前へ『そのひと』が現れたのはこの一度だけだった。
刃物などを見せつけられたわけでもない。だが小動物をその手で傷つけていたのは郵送物から明らかで、その声と凡庸な容姿にニイっと上がった口角、こちらを見てくる瞬きの少ない空洞の様な瞳。ワキワキと微妙に動くその指が触れ…………たった一度で強烈なインパクトを美月に与えた。
それから更に彼女と親しくしようとした男子生徒に『そのひと』と思われる男が近付き、『ミツキに近寄ったら容赦しない』っと脅す事があった。その後、仲のいい女子の友人にも同じような事があった上、姿は見なくとも背後から美月は執拗につけられ、靴箱には、
『男に近付き過ぎたらダメだよ。ミツキは、ボクのヨメだよ』
『昨日は英語のテストお疲れ様。ボクのミツキ』
『早く眠らないと。明日はマラソン大会だね。ミツキの写真をいっぱい撮っておくよ』
などと、行動を見ているのを匂わせる手紙が入るようになった。
気にしないと言ってくれた友もいたが、美月自身が友達に何かあっては困ると思った。又、忙しい母を煩わせたくなくて、親友に口止めし、先生にも言わず、人と余り積極的に関わらなくなった。
「何故、こんな事になったの?」
いつも一人。
声をかけてくれる友も無視して、いつしかクラスでも孤立した。『そのひと』は完全なストーカーになり、投函される手紙は増え、何度メアドや電話番号を変えてもおかしなメールや着信が後を絶たなくなる。それでも母以外の人に接触しなければ、回りに何かが起こらなくなった事が彼女の口を塞ぎ、孤独に追い込まれた。
自分が黙っていればいいと思ったから。
差し伸べられる手はなかった。
行き場がなく、誰もいない。
怖くてたまらない。
チラつく『そのひと』の影。
死をも意識した時、美月は懐かしい歌を聞いた。
風に乗って、近くの幼稚園から聞こえた子供達の他愛ない歌声。偶然にも早くに亡くなった父がよく歌ってくれた曲だった。それが彼女を励まし、勇気を与える。その楽しげなピアノの音に、自分もあんなふうに子供へ楽しく弾ける先生になれたらと思い、少し遠かったが保育士養成課程のある音楽系大学を受験して合格した。
恐怖の中にありながらも、やっと夢を掴んだと感じたと同時に、美月を育てる為に頑張って仕事をしてきた母親が病気で急逝した。美月が黙っていた為、ストーカー行為が深刻さを増したのを母親は知らぬまま。ある日、突然、の事だった。
呆然となり、本当に一人になったのだと思った。
だがもしもの時の為、後見人として母は伯父に美月の事を頼んでいた。伯父とはそれまで余り会った事はなかったが、良い人だった。話し合った結果、母と住んでいた家を手放し、部屋を借りて、認められた奨学金で美月は受かった大学に通う事となった。
伯父と一緒に住むのは性別的に憚られた事、それでも住む場所を変えれば、さすがにストーカー男もついて来れないと思ったのもあった。
予想通り『そのひと』の影が消えた。母に話さなかった後悔から伯父には仔細を話し、携帯は伯父名義で契約したのを借り受け、高校までの知り合いとは付き合いを絶った為、足がつかなくなって悪戯も無くなった。
でも外に出る恐怖感はまだ残ったまま。
更にいつの間にか、人を寄せ付けないのが習慣になっていた。
孤立しがちな事に気付いた伯父は、大学より少し離れたうろなと呼ばれる町で開いている、喫茶店『Courage クラージュ』でウェイトレスのバイトを美月に勧めてくれた。彼女は学校に支障がない日曜や祭日にそのバイトを引き受けるようになったのである。
茶色のメイド服、白いエプロン、レースのカチューシャ。
伯父がくれたお金で揃えた制服。
本当はメイド服なんて恥ずかしかったが、思い切り自分を変えようとした結果、コレを選んだ。これを纏うと昔の人怖じしない明るい性格に戻れる気がした。それも昔、母と住んでいた町から随分離れたことで、『そのひと』が来ないという予測が彼女を快活にする。
喫茶店には大好きなピアノがあって、空き時間には弾いて過ごし、お客様にも『美月さん』と呼んでもらって、看板娘として、かわいがってもらい、この町なら人と関われるようになった。
そして美月がバイトを始めて一年程した時、うろな町の町長就任一周年を祝おうと住民が動き、その流れで喫茶店に町長を案内してきた男性と知り合った。
鹿島 茂。
人当たりが良く落ち着いた声。美月が愛している音楽に造詣が深く、少し話しただけでどこか心惹かれた。何故かホッとした。年は二十代半ばであったが、とても大人びた感じがとても好ましい男。当時うろな町のショッピングモールで営業部長として働いていた。
この男、極度のシスコンだったが、初めはそんな事は知らなかった。喫茶店で使う食材での取引先であり、平日の常連客でもあったため、身元も確かであったのが美月としては安心できた。『そのひと』の影がない場所であったから、好意を寄せてもいい気がした。
それからは……知りあう前は休日には来なかった鹿島だったが、『取引の都合』で、美月が勤める休日にもちょこちょこと顔を見せるようになった。
寄ればコーヒーを飲み、カウンター越しに話をする。
音楽関係の話が多かったが、慣れてくるとそのシスコンぶりも垣間見るようになった。萌と言う名の可愛らしい少女。それは兄弟の居ない美月には羨ましい関係に思えた。
それも親が亡くなった事で、『事故死した両親に代わって幼い妹の面倒をちゃんと見なければ』という誓いを守り、病気がちだった妹を守ってきた兄……その気持ちが強すぎて厚塗りされた事を知ると、美月は彼の深い優しさを理解し、共感した。美月には幼い兄弟もいず、手を貸してくれる伯父もいたが、学生時に親が急逝する大変さは身を持って知っていたのもある。
妹の素晴らしさを語る彼の熱に、呆れる事無く、にこやかに返す珍しい相手となった。
鹿島は徐々に仕事のついでではなく、美月のシフトに合わせて、ピアノを楽しみながらコーヒーを飲みに来るようになっていく。
「学生の演奏ですからプロと比べればタカが知れていると思いますが、良い音を出す人もいます。ぜひ来てくれませんか? 私も頑張って弾きますので……」
貴方の為に……とまでは言えなかった美月だが、思い切って大学での定期演奏会に誘うと、彼は忙しい中に時間を見つけ来てくれた。その事が彼女にとってどんなに嬉しかったか、彼は知らないだろう。
高校以来、深い友人を持たず、母も亡くなり一人きりで暮らすのは、夢の為とは言え寂しかった。
ただ美月は昔ストーカーに纏わりつかれていた過去を、彼に話さなかった。高校を卒業して一年半も経ち、その影はもう消えたのだから。と。
『それなりにカワイイ顔だからって、男に酷い事したのだろう』
『そんな事される、本人にも問題があるんだ』
『ストーカーされるなんて、あの子、ウリでもやってたんじゃない?』
そこに事実は何もなかったし、鹿島がそんな事を言う人間には思えなかった。
だが、にこやかに笑って居る裏で昔、自分がそう言われていたのを美月は知っていた。鹿島に声をかけてもらい、仲良くなっていくにつれて、心無くもそう言われた過去が恥ずかしくなった。自分が悪い事をした意識はない。だけど何をどこから話していいのかわからなくなり……彼には一番に想う妹がいるのだから、終わった事に煩わせることはないと判断した。
そして。無事に新年が開け、先の二月。
鹿島が勤めるモールの中央ホールで、プロアマ合同でバレンタインのミニコンサートが開催された。美月も誘われ、ピアノ二曲の演奏で参加した。その舞台に上がる寸前、一度会ったきりの『そのひと』に気付いてしまった。
こわい。
こわい。
こわい。
単純にその単語しか思い浮かばず、緊張がその指を震わせた。
『ずっとさがした、みつけたミツキ』
声もなく唇の形がそう告げる。
終わったのではなかったのか、そう考える美月の額からは冷や汗が流れ、それでも責任感から指をピアノに走らせる。
そんな一曲目が終わり、急に乱入したのは……
美月が予想した『そのひと』ではなく、この町の名物とも言える『天狗仮面』と言う男。
皆が彼に気を取られているうちに、『そのひと』は観客席から消えていた。
「入口のドアの辺りを見てみるのである。」
こっそりと告げられた天狗仮面の言葉で『そのひと』が立っていた場所を勇気を振り絞って、見れば恐怖の対象は掻き消えて、従業員用出入り口に、
『舞台は整った。
いつもの優しい音色を聞かせてほしい。
君の一番のファンより』
そう書かれた手書きの張り紙を見つける事が出来た。
その強いけれど、優しさを感じる美しい字。
いつもの。
優しい音色。
……そして一番。
それは鹿島から送られた言葉だとすぐに分かった。
美月は勇気づけられ、二曲目を伸びやかに、とても楽しく弾く事が出来た。
彼は長年彼女をストーカーをしていた男とは知らずではあったが、偶然にも『そのひと』をうまく撃退してくれたのだ。更に花束を贈呈しに来た彼から、食事に誘われ……
美月にとって幸せな時間。
外で一人になると緊張するが、以降『そのひと』を感じる事はなかった。
美月は児童心理学の教科書を枕にウトウトしていたのに気付いた。
「夢……」
時計を見るとお昼前になっていた。
休暇が明け、学校が始まれば大学三年生になり、保育園の実習や幼稚園のボランティアが入って、今以上に忙しくなる。
……そんな春の朝にピアノを大学に弾きに行って、帰ってきて勉強しながら過去を思い返していたら、どうやら眠ってしまったようである。
二月のバレンタインの日、『そのひと』が撃退されたのも、美月の中で愛しい心のヒーローとなった鹿島から食事に誘われた事も夢ではなかった。
その日から彼女の『夢』はさらに具体的になっている。
「保育士に早くなって、…………彼の住む町で働けたらいいのに」
今、見た夢の中で、美月は大学を卒業して、夢叶い保育士として働いていた。
そんな中、鹿島とは『妹』を一番に、自分はそれ以下とわかっていて、付き合いを深めていっていた。家族思いの彼である事自体が鹿島のアイデンティティなら、美月にとっても大切な事だったから。美月にとって、順番などどうでもよかった。
「俺は君を一番に考えられない。距離をおこう」
こんなセリフも『一番』が指すのが妹以外の他の女性であったなら退き時と思ったが、そうでないとわかれば美月は笑って返す事が出来るくらいには彼を理解できていた。
「一番じゃなくても、嫌いじゃないなら待っていてはダメですか?」
いつかそんな美月に彼が声をかけてくれる。
『本当に俺でいいんですか?』
『貴方じゃなきゃ嫌です、美月はわがままでしょうか?』
そんな未来の淡い夢……今日はエイプリルフール。
夢の中で鹿島に手を差し伸べられるのを感じた。それは夢や嘘でなければいいのにと思いながら、美月はバイト先である喫茶店『Courage クラージュ』に向かう。
大学は後二年、頑張らなければならない。
まだ一人だと外は緊張するが、春の日差しに溶けだす様に少しずつ氷が緩んでいるのを美月は日々感じている。氷の心はいつか全て溶け、彼と彼の愛する妹の名の様に、豊かな緑が萌え、茂り、美しい月の下にいつしか実りを感じるだろうと言う明るい予感に歩を進める。
もしかしたら今日も、鹿島に会えるのではないかと期待しながら電車に乗り、最寄駅に俯く事なく姿勢よく降り立った彼女の横を、一匹の蝶がすり抜けて空高く飛んで行った。
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"うろな町の教育を考える会" 業務日誌 (YL様)
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うろなバレンタイン狂想曲2015(YL様)
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鹿島さん 萌ちゃん
うろな天狗の仮面の秘密 (三衣 千月様)
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うろなバレンタイン狂想曲2015内の天狗仮面様ちらり
次は3時頃~