朝:カッパさんかなぁ~
「銀の! お前はどうしてこのテストを白紙提出など……」
「白紙じゃない、ほら『三年一組 魚沼 銀之助』って書いた」
目の前にはチョーンと不機嫌そうな底瓶眼鏡を装着した小さな少年が座っている。これで眼鏡を付けておらず笑ったならば『美少年』とまでは行かずとも、可愛がられるだろうに気難しそうに眉を寄せる。見た目は小学生に行かぬほどに見えたが、三年生。目の前の我が『息子』は俺の血を引いた為かとても小さかったが、顔は醜悪ではなく良かったと思う。
「なら何故白紙だ? 解けぬのか?」
すぅっと眼鏡を外して睨む。この状態で『嘘』を言っても無駄な事を知っているのか、少年は頭を垂れた。
「……だってさ。この先生、来年は別の学校に行っちゃうから。このテストが悪い子は補習するっていうから、白紙で出したら行けるかなって」
「だが補習は本当に解らない子が理解するが為に受ける授業であって、我が儘で行く場所じゃない」
「はい……それに『こんな事するなんて先生が嫌いなの』って言われた……」
「何で冴……かーさんに言わなかった?」
「だってあんなに心配して……余計に言えなくなって……ごめんなさい」
手を伸ばして髪をくしゃくしゃにして撫でる。
いつもはこんな点数を取る子でないが故、ワザとに白紙提出したのはバレてしまい。再試験では満点で提出、補習には行けなかったようだ。
「でもそうまでして一緒に居たかった、それは、とても銀にとって、いい先生だったんだな」
「……うん」
「そうだな。春休みの間はまだ先生は居るんじゃないか? どうしてそうしたのか本当の気持ちと、謝罪と感謝を込めた手紙でも書いて持って行ってやるがいい」
「うん」
「……所で、弓姫とはどうだ?」
さらりと口を突いて出て来た名前。弓姫……目の前の少年の想い人であるようだ。名前が出た途端、はっとした様子だったが、すぐに表情を暗くした。
「……俺と居るより、叔父さんのピアノの側がイイって言われた」
「なかなかツレナイな。お前、ピアノは続けるのか? 諦める気になったか?」
「諦めねぇ~し!」
そう答えて不機嫌さを増しながら部屋を出て行く少年。ドアの向こうで『心配かけてゴメン』と、少年の素直な謝罪の声が聞こえ、入れ違いに冴が入ってくる。
「あの子、壊滅的にピアノは駄目だったけれど、それでも頑張っているあきらちゃんが言ってましたわ。両手弾きも少しは出来るようになったようですから。長い目で見てはいかがかと」
「わかった。だがあやつもいろいろヤル事があるからな。少し負担を減らしてはと思っただけだ。で、白紙理由は聞こえたか?」
「ええ。私には話さなかったのですけれども、そういう理由でしたのね。少し心配し過ぎでしたかしら? 鉄太様には出張から帰って早々、すみませんでした」
「いや。二週間ほど居なかったからな。不自由はなかったか?」
「はい、銀之助の白紙答案が気になっていましたが、巴恵も夜泣きはなくて。助かりましたわ。さぁ、今晩は何か作るより、コロッケを買ってきましたの。でもお野菜も食べて下さいね」
食卓に行けば、俺の好きなコロッケをオーブンで炙ったイイ匂いが充満している。ひじきの炊き込みご飯に、年を取った俺の体を心配して薄味、だがしっかりと出汁が取られた味噌汁の香りが食欲をそそり、細く切られたキャベツの千切りにトマトの赤が美しかった。
「……夢、か」
年度末だった昨夜は、遅くまで冴も俺も事務仕事だった。だが、『今日は』と求められて長く夜を過ごした。
結婚し一年半……まだ子供には恵まれていない。
確かに子供は欲しいが、無理はしなくともいい。
そうは思うが、俺の方が順に行けば、かなり早く死ぬ。金はそれなりに残せるし、このビルも買い取ってある。冴自身が資産持ちであるからその辺りは大丈夫だろう。だがその後、誰かが彼女と過ごしてくれるだろうか。
子供だって大きくなれば親離れするであろうが、連絡を取り合い、成長を楽しむ者がいれば彼女もきっと寂しくはないだろう。昔の様に。
太く短い指でそっと冴の髪に触れる。
若くて美しい妻。今年度で俺はもう五十七、冴は三十だ。縮まる事のない年の差、それどころか一つ年を食うだけでその差は年々広がっているように感じる。
「それでも愛しているのだ。すまないな」
愛と言う言葉で縛らず、やはり突き放せばよかったかとたまに思う。後悔する、彼女を一生守る事は出来ない定めに……そんな事を言えば、冴は『人間の未来なんて明日をも知れないのですわ』と笑うのだろうが。
布団からそっと抜け出し、屋上で素振りする。一階に道場はあるが、朝の空気の中で剣を振る事は清々しい。
それでも晴れない心だったが。
ひらりと一匹の蝶が舞う。降り注いだ太陽にその羽が、まるで銀の様に美しく輝く。
「銀之助、か……」
夢の中の息子は、気難しそうな少年だったが、心の中はとても優しい何かで詰まっていそうだった。
今日は四月一日、エイプリルフール。
だが、あの少年が嘘ではなくいつかこの手に抱けるのならいいのに。夢でも……良い夢を見た。そう思いながら相変わらずカッパ似と自覚する顔に微かな笑いを浮かべ、朝の空気を割くように素振りを続けた。
次はお昼前頃~♪