グッドラック 砂漠を旅するお嬢様
車窓には、黄金色に輝く砂漠がどこまでも広がっていた。
「喉が渇いたわ。マリーベルカフェのレモネードが飲みたいわね」
ひどく揺れる車に顔を顰めながら、わたしは白手袋を填めた手で扇を煽いだ。いつもの皮張りでほどよい弾力のシートとは違う、カバーがボロボロでやたらと固い座席の感触にいいかげん辟易していた。
「うるせぇ娘だ。こいつが見えねぇのか?」
わたしの両脇を固める貧しい身なりの男たちは、わたしに銃を見せつけながら怒鳴った。レーザー銃だが、だいぶ年季が入っていて精度は疑わしい。彼らは腕を精密作業用に機械化しているようだが、よほど近距離の射程でない限り補正しきれるかどうか。
車の中の男たちはいかにも低俗で、話す気にもなれなかった。わたしからすると襤褸布みたいに見える服を纏い、体の一部をサイボーグ化したのに人工皮膚で隠すこともできない貧乏臭さなのだ。
わたしは脅しを無視して、自慢の波打つ金髪を整えた。緑のワンピースの裾を直し、唯一邸から持ち出せた革張りの小さなトランクを抱え直す。わたしの今お気に入りの鞄だ。
「生意気なガキが! 殺すぞ!」
わたしの右隣に座る男がいきり立ったのを、前方助手席に座る男が静止した。
「やめろ! そいつは人質なんだ。お嬢ちゃんも、自分の立場をよく考えな」
わたしはミラー越しにわたしを睨む助手席の男を鼻で笑った。
「ふふふ。あなた、わたしのメイドたちの弱みを調べつくしたみたいね。彼女たちのうちの誰かを脅してわたしを屋敷から連れ出す隙を作ったり、移動手段をうまく乗り継いで追手を播いたりした手腕は誉めてあげるわ。でも、そろそろ終わりだと思うわよ」
「なんだとぉ?」
凄んでくる右隣の男の唾がかかりそうだったので、わたしは扇子で口元を覆った。
「あなたたちはどうしてわたしを誘拐したの?」
「お前が世界有数の資産家、テラー財閥総帥の娘だからだ」
「身代金狙いね。パパとママはわたしを溺愛しているから、はした金を出すのなんて痛くも痒くもないでしょう。でもね。わたしのことを誘拐したあなたたちのことは地獄の底まで追いかけて制裁するんじゃないかしら。たとえ、わたしが無事に帰って来たとしてもね」
「逃げ続けりゃあ、手出しのしようが……」
「これだからバカな貧乏人はいやなのよ。パパとママは、わたしの体内にマイクロチップを埋め込んでいるの。常にわたしの位置情報がわかるようにね。とっくに現在地はバレていると思うわ。わたしの安全確保のための手配が完璧に整うまでは、手を出さないで観察しているかもしれないけれど」
男たちは愕然とし、顔から色を失う。今更慌てるなんて笑ってしまう。
「て、て、てめぇ! 騙したな!」
狼狽した右隣の男に銃を額に突き付けられて、わたしは怯える代わりに笑った。
「あのね。わたしを殺したら、その瞬間にあなた達は終わるわよ。わたしの心臓音が止まったら、すぐ通知されて、誤差数センチで報復用のミサイルが飛んでくるでしょうね」
「ぐっ……! くそ」
「どうすんだ?」
男たちが慌てふためく様子を眺めながら、わたしは溜息をついた。
「やっぱり貧乏人はバカばっかりね」
うっかりとそう呟いたわたしを、男たちが怖い顔で睨んだ。銃やナイフに手を掛けながら。
――――◆――――
「キレてもいいけれど、なにも砂漠の真ん中に捨てて行かなくてもいいでしょうに」
あの後、男たちはわたしを車から外へ蹴り飛ばし、猛スピードで逃げて行った。
「しばらく待てば、助けが来るかしら」
わたしは革製のトランクから白い日傘を取り出すと、トランクを砂の上に放り出してその上に座った。
レースとリボンの飾りがふんだんにあしらわれた日傘を差し、じりじりと焼けつくような砂漠の太陽に曝されること数時間。
「なんで誰も来ないのよ」
わたしの声は砂漠に落とされた一滴の水のように、むなしく虚空に消えていく。
地平線の彼方に、砂の潮を噴き出しながら回遊するスナクジラの群れが見えた。遺伝子加工生物が違法投機された結果、独自進化してこの地に定住した彼ら。近くで見ればド迫力なのだろうけれど、こんなところからは可愛いオモチャくらいの大きさにしか見えない。
わたしが誘拐犯に言ったことは嘘ではなかった。そろそろ迎えがないとおかしい頃だというのに、一体どうしたのだろう。
わたしは一旦立ち上がり、トランクからオペラグラスを取り出した。見かけはゴシックな古めかしいデザインだけれど、数十キロ先まで見通せる光学補正式疑似レンズが使用されている。
「むぅ……」
車の影も、飛空艇の影も見えない。オペラグラスからは先ほどのスナクジラの群れ以外、空の青と砂漠の金色しか見えなかった。
「あら? あれは何かしら……バス停?」
倍率を上げると、半ば砂に埋もれたバス停のポールがはっきりと見えた。
「ここで待ち続けるよりはマシかしらね」
わたしはワンピースの裾の砂を掃うと、トランクの取っ手を掴んで歩き始めた。
※
そのバス停は今どき珍しく、文字をポールに印字しただけのもので、その文字は太陽に焼かれて解読不能なほどに色褪せていた。わたしは溜息をつき、半分砂に埋もれたポールの傍らで、ベンチ代わりのトランクに腰掛ける。
日傘しか持っていないわたしを嘲笑うように、砂漠の熱風はわたしの髪と肌とワンピースを無配慮に撫でた。目の前には太陽に焼かれた砂漠の大地がただただ続く。
暇だった。暇、暇暇暇暇、暇!
(何してるのよ、パパもママも! 普段はわたしの外出にあれこれ煩く口出しするくせに……!)
イライラが溜り、今にも決壊しそうだったその時、騒がしい音がわたしの耳の鼓膜を揺らした。
音のする方を向くと、砂嵐が接近してくるのが見えた。いや、砂嵐ではない。よく見れば大きなバスだ。巨大なバスが砂と時代遅れの騒々しいエンジン音と汚い排気を撒き散らし、ゴツいスパイクタイヤで砂を噛みしめながら進んでいる。その大きな車体は所々塗装が剥げて錆び、薄汚れ、エレガントとは程遠い容貌だった。
「砂塵交通、千三百十三系統、オアシス『ヘブンリー』行き乗り合いバス。料金は後払いです」
外部スピーカーから合成音声かと思うほど冷たい男声が流れた。砂漠の熱も凍りつきそうな冷たさだった。プシューッという圧縮空気を吐き出す古めかしい音と共にドアが開いた。
「乗りますか?」
素っ気なくそう言った運転席の青年と目が合った。
黒く塗りつぶしたような冷たい瞳、目と同じ色の長い髪。白いシャツに細長い黒のタイを締めて、頭には制帽を被っている。砂漠で仕事をしているのが信じられないくらい透けるような白い肌で、おそろしく整った人形のように冷たい顔立ちをしていた。
どうしたものか。
一瞬躊躇したけれど、結局わたしはバスのステップを昇った。灼熱の炎天下で待ち続けるのもバカバカしい。それに、どこに行こうとパパとママにはわかるはずだった。
「整理券を取ってください。終点は明後日正午到着予定です」
冷たい声でアナウンスする青年運転手の横を通る時にわたしはギョッとした。彼の体の大部分が運転席と同化していたからだ。
「身体改造者……!」
しかも、体のほとんどすべての。
「出発します」
わたしの呟きなど無視して、青年は淡々と運転を再開した。バスが滑らかに走り出す。外観の印象に反して、車内はびっくりするほど静かで揺れもあまり感じなかった。
おそらく彼は連続稼働や精密運転のために身体改造したのだろう。腕は鋼鉄製で、片腕は普通にハンドルを握っているものの、もう片方は先端が何方向にも分かれ、各種のレバーと結合して同時操作していた。バス前面の計器類からは彼の側頭部へ直接ケーブルが接続され、栄養補給や老廃物交換のためだろうか、車体から数本のチューブが彼の脇腹のソケットに伸びている。いくつものペダルを踏み分ける脚部はもはや人間のものとは思えぬ形状で、彼はバスと同化していた。
「お客さん、邪魔だから早く座ってください」
冷水を浴びせるような声にハッとし、同時にそれが癇に障って、わたしは彼を睨みつけた。
「失礼な言い方ね。言われなくても座るわ」
わたしは彼のすぐ後ろの席に座った。
バスの内部は片側三列のシートが通路を挟んで両側に、後方までずらっと並んでいた。合計二百席くらいだが、半分は埋まっていないように見える。客は皆、汚い身なりで、わたしは乗車したことを少し後悔した。
「珍しいね、こんなところから可愛いお嬢ちゃんが乗ってくるなんて。旅行かい?」
わたしの後ろに座っていた乗客が声をかけてきた。パパよりは若いくらいの年だろうか。襤褸布を纏った痩せた男だった。浅黒く日焼けして、疲れの滲んだ目をしているが、表情は人懐っこくニコニコしていた。隣の席に大きな篭を置いている。
「俺は行商からの帰りでね。うちでは母ちゃんと一緒に娘が待ってんだ。お嬢ちゃんよりちょっと年下かねぇ。お嬢ちゃんも別嬪さんだけど、うちの娘もそりゃあ可愛くてよ」
痩せた男は肩の関節部分を機械化していた。おそらくは重い荷物を背負ったり、長時間歩いたりするのを補助するためで、この分だと足の関節も改造していることだろう。
「ほら、これが娘。金を貯めて、この前やっと写真館で撮ってもらえたんだよ」
男は首から下げたペンダントのロケットを開いてわたしに見せた。あどけなさの残る女の子の写真が納められている。
わたしは痩せた男の馴れ馴れしい態度にイライラした。それに、安っぽいロケット写真なんかで喜んで、まったくくだらない。
「そんな小さな写真しかないなんて、あなたも娘さんも可哀想ね。わたしのパパは大きな肖像写真も三次元ホログラムも撮ってくれたわ」
「そ、そうかい……? 俺の甲斐性がないばっかりに家族に贅沢の一つもさせられなくてよ。情けなくて涙が出らぁな」
痩せた男は悲しそうに微笑んだ。すると、男の後ろに座っていた女がわたしたちの会話を聞いていたらしく、不機嫌そうに声を掛けてきた。
「お嬢ちゃん、そんなものの言い方はないだろうよ。金持ちなのかもしれないけど、ちったぁ年上を敬う気持ちを持ちなよ」
スラリとした長身に小麦色に焼けた肌が印象的な女性だった。二十歳を越えたくらいだろうか。傍らにはギターケースが置かれている。切れ長の瞳と赤い髪の、気の強そうな女だった。
わたしは赤髪の女を睨んだ。
「あなたに説教される筋合いはないわ」
「はあ? 嬢ちゃん、アンタいくつだい?」
「十六」
「アタシより五つも下じゃないか。アンタのパパがどれだけ偉いか知らないけどさぁ、アタシらには関係のないことだよ」
「何よ! あなただってわたしのパパの名前を聞いたら、驚いてひれ伏すわよ。それに、あなたどうせ、いかがわしい仕事をしているのでしょう?」
わたしの言葉に、赤髪の女の顔がサッと怒りの色に染まる。
「いかがわしいってなんだい! アタシは歌手だよ。そりゃあ、歌う場所はキャバレーだとかだけど、どんな仕事だって他人に見下される筋合いはないよ!」
「やっぱり下賤だわ。必死になって見苦しい」
「好き勝手言いやがって! アンタなんか、どうせパパがいなければ生きていけない小娘のくせに!」
「それの何が悪いの? パパがたくさんの資産を持っているから、わたしは人生に何の心配もいらないの。あなた、もしかしてわたしを僻んでいるのかしら?」
「は? 偉そうに何様だよ! 資産なんて言ったってねぇ、不景気だとか倒産だとか……栄枯盛衰って言葉知ってるかい?」
「パパの地位に限って、それはありえないわ」
「むぐぐぐ! ああ言えばこう言いやがって! アンタ、ちょっと黙りな!」
赤髪の女が今にも掴みかかってきそうな勢いだったので、痩せた男が慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと、姐さん、落ち着きなって!」
それでも赤髪の女はわたしを睨んで捲し立てた。
「あんた、本当にそんなお嬢様なのかい? こんな貧乏バスに乗って、妙じゃないか!」
「は?」
「本当は金持ちのパパなんかいないんじゃないのかい? 可哀想な女の妄想なんだろ!」
「わたしはあなたなんかとは比較にもならない家系の娘よ。だから、誘拐されたの。砂漠に捨てられて、今は家からの迎えを待っているだけ」
私の言葉に赤髪の女は疑り深い視線を寄越したが、痩せた男は素直に驚いて大きく目を見開いた。
「え、誘拐! 大丈夫なのかい? 保安局へは?」
「通信手段は屋敷を出るときに犯人に取り上げられたから、通報はしていないわ。でも、わたしの体内には衛星通信で居場所を通知するデバイスが埋め込まれているから、そのうち家から迎えが来るはずよ」
「ふふん。だったら、アンタしばらくはお家に帰れないねぇ」
「どういう意味?」
訝しむわたしに、赤髪の女は勝ち誇ったような笑顔を、痩せた男は憐れむような表情を向けた。
「この辺は昔、大きな戦争があってよぉ。だから砂漠になっちまったんだけど。その頃、衛星通信とかの電波を妨害する装置がここいら辺にたくさん設置されたんだ。それは今も撤去されてねぇ」
「この辺で通じるのはローカルなラジオ放送くらいなものさ」
赤髪の女は可笑しそうに笑った。
「嘘……。じゃあ、パパとママはわたしを見失っているの……?」
わたしはそれしか言えず、以降は絶句することしか出来なかった。
「あらあら、嬢ちゃん、不安そうだねぇ。少しは自分の立場が分かったかい?」
「ちょっと姐さん、あんまり追いつめちゃあ、可哀想だ」
「何よ、アンタが情けないから助け船を出してやったんじゃないか!」
「そりゃあ、ありがてぇが、なにもこんな可愛い子を責めなくても」
「ああ、やだやだ。オヤジは若い子に甘くて」
「そ、そんなんじゃねぇよ」
赤髪の女と痩せた男が言い合っている。でも、その声はほとんどわたしの耳に入ってこなかった。
(わたしはパパとママと切り離されてしまった)
その事実が、わたしを混乱させていた。
パパとママにいつでもどこでもわたしの居場所が知られている。それを煩わしいと思ったことはたくさんあった。いつどこに行ったのかがすべて筒抜けで、なぜ早く帰れなかったのか、誰と行ったのか、何をしていたのか、そういう詰問が煩すぎる程に煩かった。そんな柵から解放されたいと思ったことは何度もあった。
(でも、いざそれがなくなった時にこんな気持ちになるなんて……)
不安。
一言でいえばそうだった。巨大なデパートで親とはぐれた幼子のような、巣から落ちた雛鳥のような、そんな心細い気持ちだった。絶対の安全圏にいたはずなのに、わたしはそこから零れ落ちてしまったのだ。それは、頭の中の歯車がカラカラと空回りするような感覚だった。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん?」
「なにを急に深刻な顔になってるのさ! べ、別に心配してやってるわけじゃあないけどさ……」
痩せた男と赤髪の女の気遣わしげな声や視線を感じたけれど、わたしは無視した。座席に身を預けて、窓の方を向く。
わたしが何の反応も返さないので、二人は戸惑っていたが、そのうちに諦めて元通りに席に着いたようだった。バスの微かな振動だけがわたしを刺激する。やがてわたしは、わたしの中の扉を閉じるように瞼を閉じた。
――――◆――――
「見て。雨雲人形が通るよ」
バスの微かな振動に揺られているうちに、わたしはいつの間にかうつらうつらと意識を手放していたらしい。赤髪の女の声でハッと目が覚めた。今までの経緯を束の間だけ忘れて、ぼんやりと視線を巡らせる。
フロントガラスから見えるバス前方には、砂漠には似つかわしくない黒々とした厚い雲が迫っていた。一方でわたしの横の窓からは沈み行く太陽が血のように真っ赤な光を放っている。黒い雲、青から徐々に赤色に変化する空の色彩は壮絶だった。
バスは雨雲の方角へ進んでいた。雲は今にも雨が降りそうな色をしているのに、どうやら雨粒は落としていないようだ。雲の下には小さな人影が見え、バスが雲に近付くにしたがってその人影も大きくなっていった。それはどうやら少女のようだったが、とても異様な雰囲気を放っていた。
「あの子も、大変だねぇ」
赤髪の女が溜息をつくと、痩せた男も頷いた。わたしはトランクからオペラグラスを取り出して覗いてみる。
その少女のシルエットは可愛らしい女の子だった。わたしと同じくらいの年頃だろうか。髪を二つに分けて結わいて、緑色と水色のふわふわと裾の広がるワンピースを着ていた。
しかし、少女はその肌までが水色と緑色だった。水色と緑色の手足と頭部からは細いワイヤーのようなものが雨雲に向かって伸びている。彼女は一歩ずつ砂を踏みしめて歩いているのだが、そのたびに肩を前後させながら手足を放り出すような歩き方で、ふらふらと歪な動きをしていた。まるで雲に操られるマリオネットのようだった。
「……あれは何なの?」
思わずわたしが呟くと、痩せた男と赤髪の女がわたしに視線を移しながら答えた。
「あの子は雨雲をオアシスへ運んでるんだ」
「気候操作は前から実用化されてるだろ? けど、ここはさっきも言った通り、衛星通信が妨害されてるからねぇ。あの子がああやって、人力で雨雲の行先を指示してるのさ」
「移動中に砂漠の微かな水分を集めて雲を作って、街に着いたら降らせるんだってよ」
バスは雨雲人形と呼ばれた少女のすぐ脇を通り過ぎた。窓から間近に少女の顔が見えた。顔も水色と緑色をしていたが、水色の綺麗な瞳をしていた。
「あの子は人間なのよね?」
「ああ。きっと親の借金とかそういうので売られて、身体改造させられたんだろうさ」
女が眉根を下げた。わたしも悲しくなって視線を下げ、トランクを抱きしめた。そういう子がいることは、知識としては知っていた。でも、実際に見るのは初めてだったのだ。
「俺はあの子に注文を貰っていてよ。丁度バス停なんかでかち合えりゃあ、頼まれた商品をすぐに渡せたんだがなぁ」
痩せた男が残念そうな顔で傍らの籠の中を覗いた。
「今すぐバスを停めればいいじゃない。ねえ、運転手さん、聞いてたんでしょ。停めて!」
「バス停以外では停まれません」
麗しい顔の運転手は振り向きもしないで冷たく言い捨てた。
「何よ! ケチ!」
「会社の規定です」
「あの子にちょっと品物を渡すだけよ! そのくらい、いいじゃない!」
「お嬢ちゃん、やめときな」
痩せた男は申し訳なさそうな顔で言った。赤髪の女も困ったような表情を浮かべていた。
「アタシは別にいいけどさ。乗客はアタシたちだけじゃあないんだ」
「仕事で急いでる人がいるかもしれねぇし、例えば家族が病気でちょっとでも早く帰りてぇ人がいるかもしれねぇ」
「それにアンタの我儘を聞いて一回規約を破っちまったら、俺も俺もとキリがなくなるに違いないよ」
わたしは振り返ってバスの乗客を見渡した。百人くらいの人たち。みんな違う顔をして、違う服を着て、違う表情をしていた。
「……そうね」
わたしはおとなしく席に着いた。赤髪の女と痩せた男は驚いたような表情でわたしを見る。
「わたしも我儘なばかりじゃないわ」
「あらあら。我儘の自覚はあったのかい?」
赤髪の女は可笑しそうにくつくつと笑った。わたしが口を尖らせると、赤髪の女が小さな何かを投げて寄越した。掴んだ手を開くと、紙に包まった飴玉だった。わたしが戸惑いの表情を浮かべると、赤髪の女はにっこりと笑う。
「アンタ、案外いい子だからあげるよ」
「ありがとう……」
「いいさ。アタシもさっきは言い過ぎたしねぇ」
きつい印象だった赤髪の女は笑うと柔和な雰囲気だった。自然とわたしも笑みがこぼれた。痩せた男も嬉しそうに笑う。飴玉はイチゴ味で、とても甘くて美味しかった。
※
砂漠の夜は寒いと聞いたことがあるけれど、バスの中は快適だった。照明が落とされて、乗客は皆寝静まっている様子だ。わたしは痩せた男から買ったブランケットを頭から被っていたが、なかなか寝付けなかった。
カーテンで隠された運転席は、その隙間から微かな明かりが漏れている。あのやたらと美しくて冷たい青年は夜も眠らず運転し続けているのだろう。
わたしは眠るのを諦めて、ブランケットを膝にかけ直すと、カーテンの隙間から運転席に顔を突っ込んだ。はたして青年は運転していたが、耳に古めかしい有線のイヤホンを付けていて、わたしの侵入には気付かなかった様子だ。ニンマリと笑って、わたしは運転手の肩をトントンと叩いた。彼はハッとした様子で、わずかに目を見開いてからわたしを振り返った。少しだけいい気分。
「何を聞いているの?」
「ラジオ……」
相変わらずの冷たく素っ気ない返事。運転手はすぐに前方へと向き直る。
「片方だけ聞かせて」
彼は一瞬躊躇したが、黙って片側をわたしに寄越した。一つのイヤホンを二人で分けあって聴く。イヤホンからはエキゾチックな音階で歌う女性歌手の曲が流れていた。
「ねえ、あなたはどうしてそんなに体を改造して運転手をしているの?」
青年は少しの間黙っていたけれど、少しずつ熱のない声で話し始めた。夜に暇を感じているのはお互い様だったのかもしれない。
「会社で、この砂漠地帯の支店へ異動命令が出た。ここに運転手として赴任することは体を差し出して改造されるということ。それは暗黙の了解として知っていた」
「拒否できなかったの?」
「辞退してもよかったが、しなかった」
「嫌じゃなかったの?」
「別に。運転だけして煩わしいことをしなくていいから、僕には楽だ。給料も良くなるし、砂嵐が酷い二ヶ月ほどは運行休止で休める」
本気でそう思っているのだろうか。わたしはフロントガラスに写る青年の美しい顔を見つめた。漆黒の瞳はじっと前方を見つめて運転に集中しているようで、特段言葉を取り繕っているようには見えなかった。
「休暇中は通常体型のボディに乗り換える。それで図書館に通って、本の山に埋もれる。それだけできれば僕は十分だから」
美青年の透き通るように冷たい声が低く響く。わたしは妙に感心した気持ちになって頷いた。
「いろんな人がいるのね」
わたしには理解できないことばかり。わかるのは、この世界にはわたしとは違う考え方、生き方をしている人たちがいるということくらいだ。
ラジオでは女性歌手の物悲しい歌声が途切れ、ニュースのオープニングが流れた。
『ここからはニュースをお伝えします』
もういいとイヤホンを返そうとしたとき、アナウンサーが聞き慣れた名前を発した。
『テラー財閥総帥が、昨日夕方、財閥の援助で設立された孤児院を訪問されました。総帥は奥様、お嬢様と共に到着すると――』
――は? 昨日夕方?
娘が誘拐されているというのに、のん気に視察。しかも「お嬢様と共に」というのはどういう意味なのか。わたしは一人っ子だ。
『ご夫妻、お嬢様とも親しげに孤児院の子供たちと語り合い、優しく頭を撫でるご様子も――』
でも、屋敷に帰ったらすぐに手を洗い、消毒する。パパとママはそういう人間だ。わたしもそうだったけれど。
『視察後の総帥のお言葉です』
『今日は妻と娘と一緒に子供たちの笑顔を見られて、たいへん有意義でした。お前も挨拶しなさい』
『わたし、パパとママと毎日幸せに暮らしています。この孤児院の皆にもその幸せを分けてあげられたら嬉しいわ』
ラジオからはパパとわたしそっくり――いや、わたしそのものの声が流れた。わたしがこういう公式行事の時にいつもやっていたような、思いやり深いご令嬢の猫を被った声。
わたしはドキリとして、ある推測が閃いた。同時に頭の中がすっと冷めるのを感じた。運転手がわたしの表情に何かを読み取ったのか、訝しげにチラリとわたしを見たので、わたしは溜息と共に言葉を吐き出した。
「これ、わたしのパパ。わたしはパパのたった一人の娘で、目の中に入れても痛くないっていう風に育てられたわ。本当よ。でも、きっとわたしは捨てられたのね」
わたしは笑った。
「ねえ、わたしの子供の頃の写真と、美容整形メーカーが作った、何も施術せずに大人になった場合の予測グラフィックを見てみる? 不細工で笑うわよ。メーカーが過剰演出したのかもしれないけれどね」
運転手は相変わらず冷たい表情で、聞いているのかいないのか分からなかったが、わたしは話を続けた。
「わたし達の娘が可愛くなかったら可哀想。わたし達の娘はスポーツも勉強も出来た方がいいわよね。何かあっても生命維持し続け、多少のことは自衛できる機能をつけて……って、わたしのこの体はこう見えてかなり改造させられたのよ。わたしは実はあなたとそう変わらないわ」
ラジオからは、記者と楽しげに話す父と母と、そして、わたしの声が流れ続けていた。
「でも、その娘が音信不通になって、あの人たちは耐えられなかったのかもしれないわ。わたしのクローンだかコピーアンドロイドだかが作られていたのは知っていたけれど、こんなに早く入れ替えるだなんて。あの人たち、玩具がなければ一瞬たりとも生きていけないのかしら?」
わたしは一気にしゃべると、溜息をついた。
「これからどうすればいいのかしら……」
わたしは涙を溜めた目でじっとフロントガラスに映る運転手の目を見つめた。意外なことに、運転手の眉が微かに下がり、労わるような表情を見せた。それを見たら、なんだか可笑しくなってしまい、わたしは笑った。
「なんて、わたしが落ち込むと思ったのかしら? アハハハ!」
ニンマリと笑うわたしに、運転手は不機嫌そうにその美しい顔の眉間に皺を寄せた。
「明日から何をしようかしら。早く眠って体力回復しないと。おやすみなさい!」
わたしは運転席から顔を引っ込めると、座席に体を預けて頭からブランケットを被った。目を閉じて、眠ろう眠ろうと呪文のように心の中で唱えた。心臓がバクバクしていた。体がガクガクと震えそうだった。運転手に言ったことは嘘ではないが、同時に泣き出しそうなほど寂しくて心細かった。
とにかく眠ろう。明日の朝になれば、新しい光景が見えるかもしれない。わたしは眠るための努力を続けた。
しばらくすると、運転席のカーテンが開く音がして、何か無骨な感触がブランケット越しにわたしの頭を撫でたような気がした。けれど、その頃には緩やかに優しいバスの振動に眠りの世界へと誘われつつあり、それが夢か現かわたしには判別することができなかった。
※
赤髪の女が目を冷まして、窮屈に縮こまっていた体を解すように手足を伸ばした。
「おはよう」
わたしが朝の挨拶をすると、彼女の切れ長の瞳が驚いたように見開かれた。
「……おはよう。随分とまあ、わんぱくな格好になったもんだねぇ」
わたしは今朝早く、ぱちりと目が覚めた。続いて起きた行商の痩せた男に着ていたワンピースを売り、代わりに簡素なTシャツとショートパンツを購入したのだった。同時に鋏も買っていた。
「お姐さん、手先は器用な方かしら?」
「人並みにはねぇ」
赤髪の女にわたしの長い金髪を短く切ってもらうと、随分すっきりした気持ちになった。
「ありがとう」
「ふふん。似合うじゃないか」
「さっぱりした顔になったねぇ」
赤髪の女と痩せた男が優しく笑った。
わたしはバスの窓を開け、髪を外に捨てた。風に乗ったそれは、一部はバスのタイヤに轢かれ、一部は黄金に輝く砂の色に混じり、すぐに見えなくなっていった。
「次はアンジュ・ドゥ・シエル」
場内放送が流れる。わたしは降車ベルを押した。
「こんなところで降りるのかい?」
「なんにもないところだよ?」
心配そうな二人に、わたしは笑顔を返した。
「綺麗な名前のバス停だもの。直観に従うわ。たぶん、わたしの旅の出発点にはぴったりよ」
わたしはトランクを持って出口へ向かった。精算機に整理券と硬貨を入れながら運転席を覗くと、美しい青年運転手はこちらを見ようともせず、漆黒の瞳は冷たく前を見つめていた。
「運転手さん、さようなら」
それだけ言ってわたしはバスのステップを降りた。圧縮空気がドアを閉める音が響く直前、「グッドラック」という冷たい声が聞こえたように思ったのだけれど、気のせいだろうか。
――――◆――――
「こんにちは。はじめまして」
「……こんにちは。わたしみたいな雨雲人形に話しかけてくれる人は少ないから驚いたわ」
「そうなの? わたしは気にしないわ。そういえば、行商のおじさんから商品を預かっているの。立て替えておいたから渡すわ」
「まあ、ありがとう! 待って、すぐに清算させて」
「よかった、お釣りなしでちょうどだわ。商品はこの包みの中よ。何を買ったの?」
「手鏡と髪飾りと、あと音楽ディスク」
「そのバンド知っているわ。わたしも好きよ」
「辛いことも多いけど、彼らの音楽を聴いてる時だけは幸せな気持ちになれるの」
「素敵ね」
「父さんの借金も今月でやっと返せる。でもね、あと半年は頑張ろうと思っているの」
「まあ、どうして?」
「お金を貯めて、彼らのライブに通いたいの」
「あなた意外とアグレッシブなのね」
「ふふふ。あなたは何をしている人なの?」
「旅の途中。今回はあなたの行き先についていってみようかしら」
「ドューンへ? あそこは砂漠漁業が盛んね。スナクジラ漁とか」
「まあ素敵! やってみたいわ」
「ヘビィな身体改造が必要だって聞くわよ」
「望むところだわ」
「ふふふ。男前ね」
「あなたもね」
「あはははは!」
「あはははは!」
【終】