第1話
王立エクリプス学園の大講堂は、新入生と来賓の熱気でむせ返るほどだった。
天井まで届くステンドグラスから春の光が差し込み、磨き上げられた床に七色の模様を落としている。
その光景を前にして、俺は小さく息を吐いた。
ここは前世で遊び倒したゲーム『エクリプス・アカデミア』のオープニングで、何百回も見た場所だ。
鬱アカの愛称で呼ばれるほど救いのない物語で、ヒロインは全員がどこかのルートで闇に堕ちてボスになる。
しかもその始まりを告げるのが、今まさに行われている入学式なのだ。
壇上では学園長が祝辞を述べている。
白い髭を蓄えた穏やかな老人で、原作の序盤では頼れる大人として描かれていた。
祝辞の内容まで、俺はほとんど覚えている。
学園の歴史と王国への忠誠を語り、最後に「諸君の未来に光あれ」と締めくくるのだ。
ゲームではボタンひとつで読み飛ばせた長話も、こうして本物の椅子に座って聞くとやけに長く感じられた。
学園長が王国の建国史に触れたあたりで、俺は壇上の袖に目をやった。
白い聖衣の裾がちらりと見えて、心臓が跳ねる。
あそこで出番を待っている少女が、もうすぐ原作の運命と向き合うのだ。
この祝辞が終わった直後、新入生代表として登壇した聖女セシリアが、制御を失った光の魔力で講堂を半壊させる。
それが原作の開幕イベント「聖女暴走」だった。
教会に感情を削られ続けた少女が、晴れ舞台の緊張をきっかけに壊れてしまうのだ。
怪我人が何十人も出て、セシリアは災厄の聖女と呼ばれるようになり、そこから彼女の転落が始まる。
画面越しに見ていたときでさえ胸が苦しくなった場面だった。
「続いて、新入生代表の挨拶です」
司会の声が響き、講堂が静まり返った。
俺は思わず膝の上で拳を握る。
大丈夫なはずだ。
そのために十年もかけて準備してきたのだから。
壇上へ向かう少女の姿が見えた。
腰まで届く銀色の髪に澄んだ空色の瞳をした、純白の聖衣の少女。
セシリア・ルミエールは、原作の立ち絵と寸分違わない美しさだった。
ただひとつ違うのは、その表情だ。
原作の彼女は人形のように無表情だったが、今の彼女は少し照れくさそうに唇を引き結んでいる。
緊張しているのが遠目にもわかって、俺はつい笑ってしまった。
セシリアは演台の前に立つと、一度だけ客席に視線を走らせた。
誰かを探すようにさまよった瞳が、俺のところでぴたりと止まる。
そして彼女は、ほっとしたように微笑んだ。
その瞬間、講堂のあちこちから息を呑む音が聞こえた。
聖女の笑顔など誰も見たことがなかったのだろう。
俺の隣に座っていた男子生徒なんて、口を半開きにしたまま固まっている。
「新入生代表、セシリア・ルミエールです」
澄んだ声が講堂に響いた。
魔力が暴れる気配はどこにもなく、春の陽だまりのような柔らかい光が彼女の周りでかすかに揺れているだけだ。
挨拶は短かったが、丁寧だった。
学園で学べることへの感謝と、仲間と共に成長したいという素直な抱負が語られていく。
原作で彼女が口にするはずだった台詞は、もっと空っぽで誰の心にも届かない言葉だったはずだ。
最後に一礼したセシリアへ、割れるような拍手が送られた。
俺も手を叩きながら、肩から力が抜けていくのを感じていた。
起きなかった。
聖女暴走は、起きなかったのだ。
「……よかった」
声に出したつもりはなかったのに、口から漏れていた。
隣の男子生徒が怪訝そうにこちらを見たので、慌てて咳払いでごまかす。
「なあ、聖女様って笑うんだな」
男子生徒は気にした様子もなく、熱に浮かされたような声で話しかけてきた。
「噂じゃ、何を言われても眉ひとつ動かさないって聞いてたんだけど」
「人前で緊張してただけじゃないか」
「そうかなあ。誰かに笑いかけてたように見えたんだよな」
彼はしきりに首をひねっている。
まさか自分の隣の男がその相手だとは、夢にも思っていないのだろう。
俺は曖昧に笑って、それ以上は何も言わなかった。
思えば長い十年だった。
六歳で前世の記憶が戻ったとき、俺は自分がレイン・アッシュフォードという名前だと知って絶望した。
辺境伯家の次男で、原作では物語が始まる前に病で死んでいるキャラクターだったからだ。
立ち絵すらなく、ヒロインの過去話で名前が一度出てくるだけの、本当にそれだけの存在だった。
だからこそ、俺は好きに動けた。
原作の筋書きに縛られない立場を使って、ヒロインたちの闇堕ちの原因をひとつずつ潰してきたのだ。
聖女を壊す教会の腐敗派も、幼馴染から家族を奪う魔獣の大氾濫も、天才少女を閉じ込める違法研究所も、もうどこにもない。
悪役令嬢の家を陥れる陰謀も、獣人の少女を縛る奴隷の首輪も、全部片づけた。
そして今日、原作の始まりを告げるはずだった事件が起きなかった。
それは俺の計画が成功したという、何よりの証拠だった。
入学式が終わり、新入生たちがぞろぞろと講堂の出口へ向かっていく。
俺は人波に押されながら、高い窓の向こうに広がる春の空を見上げた。
これから三年間、俺はただの一生徒として学園生活を送ればいい。
授業を受けてそこそこの成績を取り、卒業したら実家の領地経営を手伝う。
ヒロインたちが闇に堕ちる心配のない世界で、平凡に穏やかに生きていくのだ。
講堂の扉をくぐる直前、俺はもう一度だけ壇上を振り返った。
セシリアの姿はすでになく、演台の上には春の光が静かに降り注いでいるだけだった。
原作では、この場所に瓦礫が散らばり、怪我をした生徒たちのうめき声が響いていた。
その中心で、セシリアはひとり立ち尽くしていたのだ。
自分が何をしてしまったのかもわからないまま、涙さえ流せずにいた彼女の姿を、俺は今でもはっきり思い出せる。
もう、あの光景を見ることはない。
そう思うと、十年分の疲れがまとめて報われたような気がした。
「さて、寮の場所でも確認しておくか」
誰に言うでもなくつぶやいて、俺は講堂の外へと足を踏み出した。
このときの俺は、本気でそう信じていた。
やるべきことはもう、すべて終わったのだと。




