つづきを、ください
俺は、まだ死んでいなかった。
おんなのこは、くらいおへやに、とじこめられてしまいました。とびらをおしても、ひいても、あきません。
私は何度も扉を叩いた。握りこぶしの痛みが、手首のあたりまで広がってきた。それでもやめなかった。叩くのをやめてしまえば、世界は私がここにいることを忘れてしまう気がした。
返事はない。
男は、背後を振り返った。
おじいさんは、ゆかのうえで、ねむっていました。
眠っているだけならよかった。肩を揺すれば目を開けて、うるさいな、と笑ってくれればよかった。
ぼくは、おじいさんのてをにぎりました。
あたたかい。
俺は、あいつを死なせない。
女は顔を上げた。
壁の高いところに、小さな窓があった。私は腕を伸ばした。指先は、何にも触れなかった。
ぼくは、かいだんをつくることにしました。
ひとつ、のせます。
もうひとつ、のせます。
まだ、たりません。
少年は靴を脱いだ。そろそろと足をのせ、壁に手をつきながら立ち上がった。
やっと、まどにとどきました。
でも、おんなのこは、そとへでられませんでした。
その穴は、腕を通すのがやっとだった。
私は手を伸ばした。外の空気は冷たかった。冷たいというだけで、これほど欲しいものになるとは知らなかった。
そこから、くつがみえました。
くろいくつ。しろいくつ。はやあしでいってしまう、おおきなくつ。
男は声を張り上げた。
また、車の音がした。
ねえ。
ここだよ。
ほんの少し下を見てくれればよかった。その人たちの行く先ではなく、足もとを。
私は喉を押さえた。口を開いても、もう、息しか出てこなかった。
ぼくは、かいだんをおりました。
おじいさんは、まだ、ねむっていました。
女は床に膝をついた。横たわる男の頬に手を添え、もう一度、その名を呼んだ。
何も起こらなかった。
返事のないことに、慣れそうになっている自分が恐ろしかった。
ぼくは、おうちにかえりたくなりました。
でも、ひとりでは、いやでした。
私はあの人の手を取り、自分の頬に押し当てた。
大丈夫、と言ってほしかった。
嘘でもかまわなかった。
おんなのこは、なくのをやめました。
まだ、できることがあるかもしれません。
俺は、残っている力を使い切るつもりだった。
私はここにいます。
だれか、たすけてください。
おじいさんを、おこしてください。
このおはなしのつづきを、かいてください。
*
新聞配達の小林は、そこで顔を上げた。
手の中の紙は、大きな裏紙を二枚、糊でつないだものだった。
最初の一行は、黄ばんだ文庫本。その次は、大きなひらがなの並ぶ絵本。細い活字も、太い活字もあった。行の長さは揃っておらず、隣の文章を切り損ねたらしい文字の端が、ところどころにくっついていた。
一字ずつではなかった。
何行かの文章が、そのままのかたまりで切り取られ、貼りつけてあった。
それが、丸い銀縁の眼鏡を包んでいた。
小林は、その眼鏡を知っていた。目の前の古書店の店主が、新聞を読むとき、いつもかけているものだった。
歩道に不格好な紙の包みが落ちていて、破れ目から銀色のつるが出ていた。踏まれたら危ないと思って、自転車を止めたのだ。
古書店のシャッターは、まだ閉まっている。
小林は包みを拾った場所へ戻った。壁の根元に、細長い換気窓があった。小さなガラス戸が、開いていた。
しゃがみ込んだ。
「いますか」
返事はなかった。
携帯電話を取り出しながら、もう一度呼んだ。
「読んだよ」
今度は、音がした。
窓枠が、こつ、と鳴った。
それから、もう一度。
小林は歩道に膝をつき、顔を近づけた。
「読んだ。全部読んだ。今、助けを呼ぶから」
暗い隙間から、小さな指が出てきた。
指には、乾いた糊が、白い皮のようについていた。
*
地下の書庫では、倒れた本棚が、内開きの扉を押さえ込んでいた。
店主は棚を避けようとして転倒し、頭を打っていた。意識のない祖父と、ひとりでは棚を動かせない孫娘が、中に取り残されていたのだった。
救助隊が入口を開けたとき、八歳の女の子は、祖父の服の裾を握っていた。
「いっしょに」
声はほとんど出ていなかった。
「うん。一緒に出よう」
その言葉を聞いてから、ようやく手を離した。
天井では、古い電球が一つ灯っていた。
換気窓の下には、厚い本を組み合わせた階段があった。いちばん上の本には、小さな裸足の跡が二つついていた。
床には、穴だらけになった絵本と小説が散らばっていた。
どれも、祖父が以前に読み聞かせた本だった。孫娘は泊まりに来るたびに、その棚から一冊選んでは、上へ持ってきてもらっていた。
その日は、店を閉めたあと、二人で本を選びに下りていた。
店主の携帯電話は、階上の帳場に置かれたままだった。
床に開いた修繕道具の箱には、鋏と糊があった。
箱のそばには、インクの出ない油性ペンと、何度もなぞられた、かすかな「た」の字。
その隣の紙には、小さく切り抜いた文字が、二つ、糊に埋もれていた。一つは裏返しだった。
最後に見つかったのは、古い作文練習帳だった。
短い物語のあとに、何行もの空欄が並んでいる。
そのすぐ上だけが、細長く切り取られていた。
*
一週間後、礼を言いたいと招かれ、小林は店主の病室を訪ねた。
店主はベッドの背を起こしていた。鼻には、あの銀縁の眼鏡があった。
女の子は脇の椅子に座り、足をぶらぶらさせていたが、母親が例の紙を広げると、両足をぴたりと揃えた。
「いっぱい、切っちゃった」
祖父は紙を見た。
「うん」
「字、書けなくて。ペン、出なくて」
「うん」
「ちっちゃく切ったら、くっついちゃって。だから、おじいちゃんが読んでくれたところ、探したの」
女の子は、膝の上で指をこすった。
「起きないのも、外に出られないのも、ちゃんとわかってほしくて」
祖父は頷き、ゆっくりと読み始めた。
女の子は、その横から一か所を指した。
「ここ、おんなのこじゃなくて、男の人になっちゃった」
少し下を指した。
「こっちも。ほんとは、わたしなのに」
祖父は読んでいた。
女の子は、もう指を出さなかった。そのかわり、祖父の顔ばかり見ていた。
「変なお話で、ごめんなさい」
祖父は最後の行まで読んでから、紙を胸の上に置いた。
「わかったよ」
「なにが?」
「おまえが、どれだけ頑張ったか」
女の子の口が、少し開いた。
祖父は手を伸ばした。女の子が近づくと、膝の上でこすっていた指を、自分の手の中に包んだ。
「どこを読んでも、おまえだった」
女の子は、ベッドの端に額をつけた。
しばらく、そのままでいた。
やがて顔を上げたとき、小林はポケットからハンカチを出した。
女の子は受け取り、小さく頭を下げた。
「眼鏡を包んでくれたから、気がついたよ」
小林が言うと、女の子は祖父を見た。
「これ、ないと、本、読めないから」
鼻をすすって、続けた。
「落ちてたら、だれか、返しに来てくれると思ったの」
祖父は眼鏡を外した。
レンズを拭こうとして、手元に布がないことに気づいた。
女の子が、ハンカチのまだ使っていない角を差し出した。
*
古書店が再び開いた朝、小林は、新聞受けの上に置かれた封筒を見つけた。
中には、あの切り貼りだらけの紙のコピーが入っていた。
最後に、一枚だけ、新しい紙が足されていた。
文字は鉛筆で書かれていた。大きさは少し不揃いだったけれど、はじめから終わりまで、同じ筆跡だった。
小林は自転車を止めたまま、続きを読んだ。
きのう、わたしは、おじいちゃんと、いえにかえりました。
おじいちゃんが、おかえりといいました。
わたしも、おかえりといいました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
先日友人に「視点がぶれています」と直されました。
推敲する側からすれば、なかなか骨の折れる仕事だったと思います。
ただ、その違和感を取り除くのではなく、違和感があること自体を、物語にできないだろうか。
それが、このお話でやってみたかったことです。
今回は、そこを思いきり不揃いにしてみました。
読み始めたときには、ばらばらな誰かの声に聞こえていたものが、読み終えたときには、ひとりの声として聞こえる。
文章は変わっていないのに、その言葉を選んだ理由がわかるだけで、伝わり方が変わる。
地の文の面白いところです。
最初は「この文章、直したほうがいいのでは」と思った方にも、最後には「この言葉でよかったんだな」と思っていただけていたら、うれしいです。
本当に誤字だったら、ご指摘ください笑




