第六話:不協和音と教団の牙
竜の国の南方国境が、炎に染まった。
教団の組織的な襲撃——これまでの散発的な小競り合いとは次元の異なる規模だった。結界の弱点を正確に突く突破作戦、帝国が供与した最新の魔導兵器、そして竜の鱗すら貫くという「対竜魔導砲」の存在。報告を受けた玉座の間は騒然となった。
「南方の守備軍に増援を送り、防衛線を再構築すべきです。地方軍の権限で十分に対処できる規模かと」
穏健派の文官が地図を広げて進言する。だが、その声を遮ったのは王弟だった。
「地方軍に任せる? その地方軍が破られたから、今こうして報告が上がっているのだろう」
王弟は玉座の前に進み出た。冷たい視線が、兄である現王に向けられる。
「兄上。貴方の穏健策が、この惨状を招いた。人間どもとの対話だの共存だのと甘言を弄している間に、奴らは着々と牙を研いでいたのだ。——今こそ全軍を以て報復すべき時だ!!」
「報復は新たな報復を呼ぶ。我が民の命を賭け金にするつもりか!?」
現王の声は静かだったが、その奥に鋼のような意志が覗いていた。
「賭け金? すでに民の血は流れている! 流させたのは兄上の弱腰だ!!」
王弟が声を荒げた。居並ぶ貴族たちが息を呑む。
兄弟の対立は周知の事実だったが、玉座の間でここまで露骨にぶつかるのは初めてだった。急進派の貴族たちが王弟の背後で頷き、穏健派は顔を見合わせて沈黙する。議場の空気が、目に見えて二つに割れていた。
「……父上」
その亀裂に割って入ったのは、ゼニスだった。
25歳の王子は壁際から一歩進み出て、父と叔父の間に立った。金髪を後ろで束ね、白と金の鎧を纏ったその姿は、光の竜族の血を色濃く受け継いだ端正さを持っている。
「私が参ります」
議場がざわめいた。ゼニスは構わず続ける。
「地方軍では対処できないという叔父上の指摘は正しい。しかし全軍を動かせば国内が空になる。——であれば、王の名代として王子が精鋭を率いて出陣するのが最善かと。王家の威信を示しつつ、王都の守備も維持できます」
現王は長い沈黙の後、重い息を吐いた。
「……ゼニス。お前に行けと命じるのは、父としては本意ではない」
「ですが王としては、そうすべきだとお考えでしょう」
父と子の視線が交わった。現王は静かに頷いた。
「——行きなさい。ただし、深追いはするな。民を守り、帰ってこい」
「御意」
王弟は腕を組み、無言でゼニスを見つめていた。その口元に浮かんだ微かな笑みの意味に、この場の誰も気づかなかった。
その夜。王宮の家族の私室。
ゼニスは外套を羽織り、光の杖を壁に預けて窓辺に立っていた。遠く南方の空が、まだ薄く赤い。穏やかな顔立ちに、隠しきれない疲労の翳りが落ちている。
「——明朝、発つ」
静かな声に応えたのは、壁際で腕を組んでいたゼファーだった。
「当然、私も行くよ。殿下一人に前線を任せるほど、私は薄情じゃない」
18歳の風の騎士。茶色の髪を高く結い上げ、白と水色の軽装鎧を纏ったその佇まいは凛として美しい。中性的な顔立ちに涼やかな声、物怖じしない立ち居振る舞い。王宮の侍女たちが「王子様」と頬を染め、若い騎士たちが背筋を正す——ゼファーとはそういう存在だった。
「ゼファー。お前には残ってほしかったんだが……」
「却下! 私の剣は殿下の隣にあるのが一番切れ味がいい。それに——」
ゼファーは壁から背を離し、ゼニスの隣に並んだ。同じ南方の空を見つめる。
「私がいないと、殿下は休憩を忘れるでしょう?」
ゼニスが苦笑した。言い返せないのだ。
「ゼファーお姉様! ゼニスお兄様!」
廊下を駆けてくる小さな足音。10歳のセフィラが、翠緑の髪を揺らしながら飛び込んできた。真っ先に向かったのはゼファーの足元で、その脚にぎゅっとしがみつく。
「お姉様も行っちゃうの?」
「ああ、少しだけね」
ゼファーは片膝をつき、セフィラと目線を合わせた。小さな頭をくしゃりと撫でる。その手つきは騎士というより、慣れた姉のそれだった。
「セフィラ。私とゼニス殿下、どっちが先に帰ってくるか賭けないか?」
「えっ……じゃあ、ゼファーお姉様に賭ける!」
「いい度胸だ。——殿下、聞いたか。末妹殿は私に賭けたぞ」
「……手厳しいな」
ゼニスが笑い、セフィラを抱き上げた。小さな手が兄の外套をぎゅっと掴む。
「セフィラ。お兄様もゼファーも、必ず戻る。約束だ」
「……約束?」
「ああ……」
ゼニスはセフィラの額に唇を落とした。ゼファーがその二人を見つめ、僅かに目を細める。それは微笑みだったが、どこか——覚悟を決めた者の顔でもあった。
窓の外では夕陽が沈み始めていた。王都アグニカの白い尖塔が、茜色に染まっている。
これが、家族が揃う最後の夜だった。誰一人として——そのことに気づかぬまま。
翌朝。
ゼニスとゼファーは精鋭部隊を率いて南方国境へ発った。王都の守備兵力は、大幅に削られた。
国境の戦場は地獄だった。
帝国が提供した対竜魔導砲が白い光を吐くたびに、竜形態の兵士が墜ちていく。あの誇り高き鱗を紙のように貫く冷酷な光。ゼニスは光の結界で味方を庇いながら前線を押し上げ、ゼファーは風の刃で砲台を次々と斬り裂いた。だが教団の部隊は、倒しても倒しても後方から補充されてくる。
「殿下」
返り血を拭いながら、ゼファーがゼニスの傍に降り立った。
「敵の質が低すぎる。精鋭ではなく数だけを揃えた使い捨てだ。——時間稼ぎが目的だとしたら」
「ああ……狙いは、ここじゃない」
ゼニスの顔から血の気が引いた。
「間違いない、やつらの狙いは王都そのものだ!!!」
——同時刻、王都アグニカ。
戦略院の執務室で、シエルの手が止まった。
「兵站の数字が合わないわ」
碧眼が書類の数列を追う。南方に送り出した補給物資の量と、王都の備蓄減少量の差分。誰かが王都の物資を、記録に残らない経路で流している。
シエルは椅子を蹴って立ち上がった。
「アクア様!」
隣室から、15歳のアクアが水色の長髪を揺らして顔を出す。
「どうしたの、シエル。怖い顔して」
「今すぐ脱出の準備を。クーデターが起きます」
アクアの碧眼が見開かれた。だが問い返す前に、シエルの表情が全てを物語っていた。アクアは唇を引き結び、水の杖を掴んだ。
「……分かったわ。ルートは?」
「地下水路を使います。3分で支度を」
シエルが鞄から地図を広げた——その瞬間。
王宮を覆っていた結界の光が、ふっと消えた。
内側から。
遠くで、地鳴りのような轟音。王都の門が——四方同時に開かれる音だった。
シエルの顔が蒼白になった。
「間に合わなかった——いえ、まだ間に合う。アクア様、走ってください!」
王弟軍と帝国軍が、開け放たれた門からなだれ込んでくる。
王都にある炎の離宮。
王城から目と鼻の先にある王妃専用の離宮のひとつである。
レヴィアは寝台で目を覚ました。右腕の紅い布が、焼けるように熱い。
ヒカルの鼓動とは違う。これは——自分自身の周囲に迫る、差し迫った危機の反響だ。布が警告している。
起き上がろうとした瞬間、私室の扉が蹴り破られた。
「姫様! すぐにお逃げを!」
フレアだった。
深紅と金の鎧が返り血で黒く染まっている。オレンジの短髪が汗と血で額に張り付き、左腕が不自然な角度でぶら下がっていた。炎の剣を右手一本で握り、肩で息をしている。
だが——その蒼い目だけは、揺るぎなくレヴィアを見据えていた。
「クーデターです。王弟が動きました。王宮の結界が内側から破られた。……もう、あちこちで戦闘が始まっています」
「フレア、その腕——」
「そんなことどうでもよろしい! 走れますか!?」
レヴィアは裸足のまま寝台を飛び降りた。右腕の布を握り締める。
「お母様は?」
「王妃様の居室へ向かいます。ですが姫様——」
フレアが一度だけ言葉を切った。その一瞬の沈黙が、レヴィアの胸を鋭く刺す。
「——何があっても、走り続けてください」
フレアに手を引かれ、白亜の廊下を走る。裸足の足裏に冷たい石の感触。そして——点々と続く、赤い飛沫。誰かの血だ。何人もの。
遠くから悲鳴が聞こえた。金属が打ち合う音。壁が崩れる轟音。見慣れた離宮が、一秒ごとに見知らぬ場所へ変わっていく。
走りながら、レヴィアは右腕の布を強く握った。
——ヒカル。
あの雨の夜、小さな手で自分を支えてくれた少年の温もり。今はそれだけが、12歳の少女の足を止めさせない唯一の楔だった。
白亜の回廊の向こうで、何かが轟音を立てて崩れた。振動が足元を揺らし、天井から粉塵が降り注ぐ。
レヴィアは走った。フレアの血塗れの手を握り、前だけを見て。
母の元へ。
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