第五話:秀才と武人、沈まぬ太陽
ヒカルとレヴィアが出会った日から2年後——竜の国、王都アグニカの大演習場。
午後の陽光が砂塵を金色に染める中、騎士団の訓練生たちが隊列を組んで駆けている。17歳になったフレアは壇上から鋭い目でその動きを追っていた。2年前に騎士叙任を受け、今や副団長の職を預かる身。鍛え抜かれた体躯と厳しい眼差しが、若き武人としての風格を漂わせている。
「第三小隊、踏み込みが浅い! 敵は待ってはくれんぞ!」
フレアの叱咤が響く。訓練生たちが慌てて姿勢を正した——その時。
「お言葉ですが、副団長」
涼やかな声が、背後から降ってきた。
演習場の日陰に折り畳み式の机を持ち込み、書類の山に囲まれた少女が座っている。艶のある黒髪を顎の線で切り揃えたショートボブ。紺と白の戦略院の制服を隙なく着こなし、銀縁の眼鏡の奥の碧眼は冷静そのもの。
一見すれば20歳を超えた大人の女性にも見えたが、フレアと視線を合わせる際にほんの一瞬だけ顎を上げる仕草に、まだ16歳の輪郭が覗いていた。軍師候補生シエル。次女アクア王女の家庭教師にして、王立戦略院の最年少研究員。
「踏み込みの深さを矯正したところで、根本的な問題は解決しません」
「……何の用だ、シエル。訓練中だ」
「ええ、だからこそ、よ」
シエルは書類の1枚をフレアに差し出した。数字と図表がびっしり並んでいる。
「過去3年間の人間側の軍事技術推移です。魔導兵器の射程は年平均1.4倍で伸長、対竜結界の精度は2年前の3倍。5年以内に、我が騎士団の近接戦闘優位は無効化されます」
「数字の羅列で戦場は語れないぞ」
フレアは書類を一瞥し、突き返した。
「そもそも実戦で剣を振るったこともない者が、訓練方針に口を出すな」
「……机上の空論ではなく、数学的事実です」
シエルは立ち上がった。フレアより頭一つ低い。それでも一歩も引かず、真っ直ぐに見上げる。
「筋肉で国は守れません、副団長。必要なのは戦略の転換です」
「……黙れ」
フレアの声が低く硬くなった。訓練生たちが動きを止め、息を呑む。
「貴様の分析が正しいかどうかは俺が判断する。だが、訓練の場で騎士の士気を削ぐ真似は許さん。言いたいことがあるなら正式な会議で述べろ」
「正式な会議では、古参の将軍方が居眠りをなさるので。あなたならわかってくださると思ったのですが……」
フレアの額に青筋が浮いた。シエルは涼しい顔で眼鏡を押し上げ、書類を鞄に仕舞う。
「データは置いていきます。お時間のある時に。——では、アクア様の講義がありますので」
一礼して去るシエルの背を、フレアは苛立たしげに睨んでいた。だが——その手は、残された書類を無意識に拾い上げていた。
同じ頃。王都から遠く離れた北方の辺境、霧に沈む古城の地下。
「……ここね」
17歳のヴァルキリアは、苔むした石壁に指先を這わせながら呟いた。闇色の長髪が薄暗い通路に溶け込み、蒼白い肌だけが仄かに浮かんでいる。闇の竜族の血を引くその瞳は、光のない場所でこそ最もよく見えた。
「気をつけなさい。ここから先は王弟派の残置結界が生きている」
背後から落ち着いた声。24歳のミラ——ヴァルキリアの実姉にして、王家直属の諜報部隊の長。妹と同じ蒼白い肌と黒髪を持つが、幾分柔らかな目元が、歴戦の諜報員にしては穏やかな印象を与えている。
「分かっているわ、姉様」
ヴァルキリアは右手に闇の魔力を凝縮させ、壁の紋章を読み取った。
「やはり——教団の紋章と王弟派の暗号が重なっている。国境の軍事演習は偽装。本当の目的は、この密輸ルートの確保ね」
「何を運んでいるの?」
「わからないのよ。それが問題なの」
ヴァルキリアは目を閉じ、この場に染み付いた残留思念を読み取った。闇の魔導でしか触れられない、情報の深淵。
そこに——異質な影が見えた。
巨大な2つの輪郭。一つは眩い光を放ち、もう一つは全てを呑み込む闇を纏っている。「光の竜」と「闇の竜」——竜族の始祖伝説に語られる、世界の均衡を司る二柱の力。
だが、その輪郭は歪んでいた。荘厳さはなく、継ぎ接ぎだらけの——誰かが無理やり再現しようとした、粗悪な模造品。
「姉様」
ヴァルキリアの声が震えた。
「誰かが始祖竜の力を人工的に再現しようとしている。竜族と人間の技術を融合させて」
ミラの目が細くなった。
「王弟派だけの仕業ではないわね。教団と帝国が噛んでいる。——かなり深い階層で」
姉妹は顔を見合わせた。古城の地下を、冷たい風が吹き抜けていく。
王宮の華やかさの裏で、腐敗は着実に根を張っていた。
その夜。離宮の私室で、12歳のレヴィアは寝台に横たわっていた。
右腕の紅い布に左手を重ね、目を閉じる。毎夜の習慣。ヒカルの鼓動を確かめる、彼女だけの祈りの時間。
とくん、とくん。規則正しく、力強い脈動。レヴィアはそっと息をつき、唇の端に笑みを浮かべた。
「……教団の最年少分隊長。大したものだわ、ヒカル」
誇らしさが胸に灯る。我が見込んだ男だもの、当然だわ——。
だが、その笑みはゆっくりと翳った。分隊長。ドラゴンスレイヤー教団の分隊長。竜を狩る刃を率いる者。ヒカルが強くなるほど、彼の剣は自分の同胞を脅かす。
レヴィアは布を握る手に力を込めた。
「……関係ないわ。ヒカルは、我のヒカルなのだから」
呟いた瞬間——布の脈動が変わった。
とくん——とく、とくとくとくとく。
規則正しかったリズムが乱れ、急激に熱を帯びていく。まるでヒカルが何かに怯えているか、あるいは何かと必死に戦っているような——。
レヴィアは跳ね起きた。布を胸に押し当て、意識を集中させる。
布が伝える情報は断片的だ。映像も音声もない。ただ、鼓動と熱と、そこに滲む微かな感情の残響だけ。
恐怖ではない。怒りでもない。これは——悲しみだ。深い悲しみ。何かを失おうとしている者の。
レヴィアは窓辺に駆け寄った。夜空に星が瞬いている。結界の向こう、遠い人間界のどこかで、ヒカルが泣いている。
「……待っていなさい」
黄金の瞳が、夜闇の中で燃え上がった。
「我は必ず——貴方のそばに行くわ」
紅い布は、まだ激しく脈打っている。
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