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第四話:秘された楔と、沈まぬ紅の残り火

 翌朝。

 離宮の回廊に、柔らかな陽光が差し込んでいた。


 白亜の壁に映る光の筋が、磨き抜かれた床を這うように伸びている。昨夜の嵐が嘘のような穏やかな朝だった。中庭の噴水が軽やかな水音を立て、侍女たちが洗い立ての白布を風に翻している。何もかもがいつも通りの、離宮の朝。


 ただ一つ——レヴィアの右腕に巻かれた紅い布だけが、この完璧な白の中で異物のように浮いていた。


 レヴィアは長袖のドレスでそれを隠し、食堂へ向かった。足取りは普段より慎重だった。右腕を不自然に庇わぬよう、左手でスカートの裾を摘まみ、背筋を伸ばす。何事もなかった顔。いつも通りの朝。そう自分に言い聞かせる。


 食堂の扉を開けた瞬間、花の香りに混じって、仄かに風の気配がした。


「おはよう、レヴィア」


 長卓の奥に、母——炎竜王妃フランメリアが座っていた。


 暗紅色の髪が緩やかな波を描きながら腰のあたりまで流れている。炎の竜族に多い烈火のような紅ではなく、熟した葡萄酒を思わせる深い色。光の加減で紫にも見えるその髪は、彼女の血の半分が風の一族に連なることを静かに物語っていた。長身の身体を椅子に預け、湯気の立つ茶杯を白い指で包んでいる。


 穏やかな微笑み。けれど、その翡翠の瞳には——陽だまりの中に潜む炎のような鋭さが宿っていた。風の一族から嫁ぎ、炎の王家で王妃の座を揺るぎなく守り通してきた女性の目だった。


「……おはようございます、お母様」


 レヴィアは努めて平静に椅子を引いた。いつもなら「おはようなのだわ!」と元気よく飛び込んでくるはずの娘が、妙にしおらしく着席したことを、フランメリアは見逃さなかった。


「あら。今朝は随分とおとなしいのね」

「べ、別に。普通だわ」

「そう? いつもなら、朝食の前にフレアを叩き起こして模擬戦を始めている頃でしょうに」


 レヴィアは黙ってパンをちぎった。バターを塗る指先が微かに震えているのを、テーブルの下で握り締めることで誤魔化す。


 フランメリアは茶杯を置いた。かちり、と受け皿に磁器が触れる小さな音が、静かな食堂にやけに響いた。翡翠の瞳がゆっくりとレヴィアを見つめる。その視線が、長袖のドレスの裾から僅かに覗く紅い布の端を掠めた——ように、レヴィアには思えた。心臓が跳ねる。


「レヴィア」

「な、何かしら?」

「昨夜、結界の魔力に揺らぎがあったそうよ。フレアは自然現象だと報告していたけれど」


 空気が張り詰めた。レヴィアのパンを持つ手が止まる。


「……お母様は、フレアの報告が嘘だと?」

「いいえ。フレアは嘘が下手な子だもの。あの子が嘘をつくとすれば、それは守りたいものがある時だけでしょう」


 フランメリアは微笑んだまま、言葉の刃をそっと差し出すように続けた。風の一族の血がそうさせるのか、彼女の言葉はいつも穏やかで、それゆえに逃げ場がない。烈火のように叱られるほうが、まだ楽だとレヴィアは思った。


「——ねえ、レヴィア。少しお転婆が過ぎはしなかったかしら?」


 心臓が止まるかと思った。


 知っているのか。どこまで。結界を破ったことか。墜落したことか。人間の少年に助けられたことか。全部——?


 レヴィアは必死に表情を繕った。けれど指先が震え、パンの欠片がテーブルに転がった。


「我は……ただ、少し空を飛んだだけだわ。離宮の上空で。それだけよ」

「……そう」


 フランメリアはそれ以上追及しなかった。再び茶杯を手に取り、一口含む。窓から差し込む朝日が、暗紅色の髪を透かして淡い金に染めた。穏やかな沈黙が流れる。


「お父様には……」

「あの人は昨夜、北の砦で会議よ。何も気づいていないわ」


 レヴィアは、ほんの僅かに肩の力を抜いた。それを見て、フランメリアは目を細めた。


「でもね、レヴィア」


 母の声が、一段だけ柔らかくなった。茶杯を卓に置き、長い指をそっと組む。それは叱責ではなく、もっと深い場所から来る響きだった。


「空の向こうに何を見たとしても、傷ついて帰ってきてはいけないわ。貴女が傷つけば、貴女を大切に思う者たちが——もっと深く傷つくのだから」


 レヴィアは俯いた。パンの欠片を見つめたまま、長い間黙っていた。右腕の紅い布が、袖の下でじくりと熱を持ったように感じられた。


「……はい、お母様」


 小さな声で答えた。それが精一杯だった。


 フランメリアは静かに頷き、席を立った。レヴィアの傍らを通り過ぎざま、そっと娘の頭に手を置く。風の一族の血を引く指先は、炎の竜族にしては少しだけ涼しくて、けれど——確かに温かかった。


「強い子ね、貴女は。……私に似て、少し不器用だけれど」


 それだけ言って、フランメリアは食堂を出ていった。暗紅色の髪が扉の向こうに消えるまで、レヴィアはその背中を見つめていた。


 母の手の温もりが、頭のてっぺんにまだ残っている。それはヒカルの手とは違う温かさだった。けれど、「傷ついた自分を心配してくれる人」の温もりが、どこか——似ていた。


 レヴィアは右腕の布をそっと押さえた。母の前では泣くまいと決めていた涙が、一粒だけ、パンの上に落ちた。





 朝食を終えたレヴィアは、誰にも告げず離宮の地下書庫へ向かった。


 埃っぽい石段を降りると、魔導書の背表紙が壁一面に並ぶ広大な空間が現れる。天井近くまで積み上げられた書架の隙間から、魔力で灯された蒼白い照明が静かに揺れていた。普段この書庫を訪れるのは王宮の学者か、稀にフレアが戦術書を借りに来る程度だ。十歳の王女が足を踏み入れる場所ではない。


 けれどレヴィアは迷わなかった。書架の列を縫い、奥へ奥へと進んでいく。目指すのは禁書区画——封印術と探知魔法に関する古文献が収められた一角だった。


 目当ての書を見つけ、石の机に広げる。革装の表紙はひび割れ、頁は変色していたが、記された魔法陣は今なお鮮明な光を帯びていた。


 レヴィアは右腕の紅い布を解いた。机の上にそっと広げる。汚れて、ほつれて、ところどころ血が滲んだ布。ヒカルの上着だったもの。——ヒカルの手が、ここに触れていた。


 古文献の頁を繰る指が、微かに震えている。探知魔法は本来、高度な魔力制御と長年の修練を要する上級術式だ。十歳の少女が扱えるものではない。


 だが、レヴィアの目は真剣だった。


「……ヒカルの魔力の残滓が、この布にはまだ残っているはず」


 呟きながら、布の繊維に意識を沈めていく。微かに——本当に微かに、ヒカルの温もりの名残のような魔力の波長が感じ取れた。人間にしては異質な、澄んだ力の匂い。


 レヴィアは息を整え、魔法陣を描き始めた。布を中心に、石の机の上に紅い魔力の線が走る。一本、二本、三本。汗が額に滲む。指先が痺れる。十歳の魔力では足りないと分かっていた。けれど、足りない分は——執念で補った。


 半刻が過ぎた頃、魔法陣が淡く脈動を始めた。紅い布が微かに熱を帯び、まるで心臓のように——とくん、とくん、と一定の間隔で温もりを発する。


「……できた」


 レヴィアは荒い息を吐き、額の汗を袖で拭った。


 布はもう、ただの布ではなかった。ヒカルの魔力波長に同調し、彼の居場所を——そして彼が窮地に陥った時、その危機を知らせる探知の楔。生涯にわたって、あの少年の鼓動を追い続ける「再会への道標」。


 レヴィアはそれを再び右腕に巻いた。結び目をきつく締め、長袖の下に隠す。肌に触れた布が、とくん、と脈打つ。遠い場所で、ヒカルが生きている。その証が、腕の内側で温かく鳴っていた。


「見つけるわ、ヒカル。いつか必ず」


 黄金の瞳が、書庫の薄闇の中で静かに燃えていた。





 ——それから2年が過ぎた。


 人間界。教団の訓練所。


 10歳になったヒカルは、同期の少年たちの中で異彩を放っていた。剣術、体術、基礎魔法。いずれも訓練所の記録を塗り替える速度で上達していく。教官たちは彼を「神童」と呼び、同期の訓練生たちは畏敬と嫉妬の入り混じった目で彼を見つめた。


 だが、ヒカル自身にはその実感がなかった。ただ——胸の奥に空いた穴を埋めるように、がむしゃらに身体を動かしていただけだった。


 訓練の合間、ふとした瞬間に手のひらを見つめることがある。汗と泥にまみれた掌。そこに、誰かの肌の温もりがあったような気がする。細い指。冷えた肌。震えていた——誰かの。


「……何だろう、これ」


 いつも同じ問いが浮かび、いつも答えが出ない。二年前の雨の夜から、ぽっかりと欠けた記憶。夢の中で紅い何かが揺れている。髪のようにも、炎のようにも見える。手を伸ばすと——消える。


 その喪失感が、ヒカルを駆り立てていた。失くしたものが何か分からない。だからこそ、強くならなければと思った。もし再びあの「紅い何か」に出会えた時、今度こそ守れるように。


 ——竜の国の離宮。


 12歳になったレヴィアは、右腕の紅い布が伝える脈動を、毎夜確かめるようになっていた。とくん、とくん。規則正しい温もり。ヒカルが生きている証。


 布が時折、ひときわ強く熱を持つことがあった。ヒカルが激しい戦闘訓練に臨んでいる時——あるいは、大きな功績を上げた時。レヴィアはその熱を掌で包み、目を閉じる。


「……教団の最年少分隊長、ですって?」


 探知の楔が拾った断片的な情報。ヒカルが「神童」と呼ばれ、前例のない速さで頭角を現していること。レヴィアは口元に誇らしげな笑みを浮かべた。


「当然だわ。我が見込んだ男ですもの」


 だが、その笑みは長くは続かなかった。


 分隊長。——ドラゴンスレイヤー教団の、分隊長。


 それは竜を狩る者の称号だ。ヒカルが強くなればなるほど、彼は竜族にとっての脅威となる。レヴィアの同胞を、いつか彼の剣が貫くかもしれない。


 あの優しい手で——自分の傷を包んでくれた、あの手で。


 レヴィアは右腕の布を握り締めた。爪が布に食い込む。


「……関係ない」


 呟いた声は、自分に言い聞かせるものだった。


「ヒカルはヒカルだわ。教団の誰であろうと、あの子は——我の、あの子なのよ」


 王宮の空気は、二年前より冷え込んでいた。父王の不在が増え、兄姉たちの表情にも翳りが見える。廊下を行き交う文官たちの声はひそやかで、離宮全体がどこか息を潜めているような——そんな空気。


 けれど、レヴィアの右腕の布だけは、変わらず温かく脈打っていた。


 冷え込み始めた王宮の中で、それだけが——彼女が唯一信じられる「真実」だった。


 紅い楔は鳴り続ける。遠い場所で生きる少年の鼓動を、十二歳の竜姫の腕に伝えながら。


 二人の距離は、まだ遠い。記憶の壁と種族の壁が、彼らの間に横たわっている。


 それでも——和音は途切れていなかった。



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