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第一話:紅蓮の幼き逃避行と、小さな手のぬくもり

 南方の乾いた風が、竜の国の最果てに位置する「離宮」の白い壁を撫でていく。風に乗って微かに香るのは、結界の外から運ばれる名も知らぬ花の匂いだった。まさに「炎の竜族」の栄華を象徴する白亜の輝きを放っている。


「はあぁッ!」


 中庭の石畳に紅蓮の火花が散った。十歳のレヴィアは、自身の身の丈ほどもある演習用の木剣を魔力で赤熱させ、地を蹴る勢いで鋭く踏み込む。小さな足が石畳にひび割れを走らせた。


「……くっ!」


 それを受け止めたのは、十五歳の若き騎士フレアだ。次期将軍候補の筆頭と目される彼でさえ、今の一撃には数歩後退せざるを得ない。受けた剣を握り直す両腕に、痺れが尾を引いている。——この歳でこれか。戦慄にも似た感嘆が背筋を走った。


「どうしたのフレア? 将軍候補ともあろう者が、我の一撃で腰が引けているなんて情けないわ!」


 レヴィアは木剣の切っ先を突きつけ、にやりと口角を上げた。


「……姫様、あまりに無茶な魔力の使いようです」


 フレアは額の汗を拳で拭い、姿勢を正す。


「我ら竜族は強大ですが、人間との小競り合いが絶えぬ今、無駄に力を誇示するのは感心いたしませんよ」

「……またそれ?」


 レヴィアは木剣を石畳に突き立て、つまらなそうに唇を尖らせた。黄金の瞳が、離宮の壁の向こう——遠く霞む水平線を捉える。


「退屈だわ、フレア。人間がなんだというの? ゼニスお兄様もエレクトお姉様も仰っていたわ。人間界には我らの峻険な山々にはない、地平線まで続く肥沃な平野があるのだわ。そこには知らない花や、甘い果実が溢れているのでしょう?」


 彼女はくるりと振り返り、風に靡く紅蓮の髪を押さえもせず、真っ直ぐにフレアを見据えた。


「我はそれが見たいのよ!」

「人間は強欲で狡猾なのです!!」


 フレアの声が低く、硬くなる。


「彼らは我らの領土と強大な魔力を狙い、数千年にわたり結界を侵そうとしてきた。だからこそ陛下は、この離宮の先に絶対の結界を張られたのです。姫様を——そして国を護るために」

「護る、護るって……」


 レヴィアは石畳から木剣を引き抜き、地面に叩きつけた。乾いた音が中庭に響く。


「もう、飽き飽きよ! そんなのただ閉じ込めているのと同じだわ! そんなに人間が怖いのなら、我がその『ごうよく』な連中を全員跪かせてやるわよ!」


 不敵に笑った瞬間、レヴィアの足元から爆発的な魔力が噴き出す。石畳が放射状にひび割れ、熱風が中庭の砂塵を巻き上げた。


「——!? レヴィア様、待ちください!」


 フレアが手を伸ばした。だが、その指先が掠めたのは残像だけだった。


 レヴィアは炎の推進力を足裏に凝縮させ、一気に離宮の最上階へと飛び上がる。眼下でフレアの叫びが小さくなっていく。最上階には父王が張った最強の拒絶結界が、淡い光の膜となって展開されていた。


 だが、十歳の少女はその「穴」を見抜いていた。


 結界の継ぎ目——魔力の波長が僅かに揺らぐ一点。レヴィアは飛翔の勢いを殺さぬまま緻密に魔力を練り上げ、自らの波長を結界の揺らぎにぴたりと重ねる。


 一筋の紅蓮の矢となって、禁忌の領域へ——突き抜けた。




 離宮を脱したレヴィアは、風の壁を突き破りながら空中へ身を投げ出し、真の姿を解き放った。


 全身を覆う緋色の鱗が、陽光を受けて燃えるように輝く。優雅に弧を描く翼。十歳とは思えぬその巨体が、白い雲を切り裂いて加速していく。風が頬を——鱗を叩く感触が、たまらなく心地よかった。


「ふふふ! 見たこと、フレア! やはり我こそが空の支配者なのよ!」


 翼を大きく広げ、螺旋を描いて上昇する。どこまでも続く蒼穹。離宮の壁しか知らなかった世界が、一瞬で果てしなく広がった。


 しかし——その歓喜は長くは続かなかった。


 国境の結界の外側には、常に「空の穴」を監視するドラゴンスレイヤー教団の「ワイバーン騎兵部隊」が滞空していたのだ。日差しの中に、無数の黒い影が扇状に展開するのが見えた。


「——警告! 結界を突破した竜個体に告ぐ。直ちに旋回し、領空へ戻れ。さもなくば実力行使に移る!」


 拡声の魔導具を通じた冷酷な声が、空気を震わせた。同時に、レヴィアの鼻先を掠めるように数本の魔導矢が白い軌跡を引いて飛来する。


 威嚇射撃。それが——幼い竜姫の激情に、火をつけた。


「なによ、貴様ら! 我の優雅な飛行を邪魔するなんて、不敬だわ!」


 全身の鱗が逆立つ。喉奥から灼熱が競り上がる。


「灰にしてやるわ!」


 レヴィアは首をもたげ、紅蓮のブレスを叩きつけた。激しい爆炎が空を焦がし、熱波がワイバーンの編隊を散り散りに弾き飛ばす。それが、「開戦」の合図となった。


 空中で繰り広げられる激しいドッグファイト。


 レヴィアは急降下からのバレルロールを鮮やかに繋ぎ、機動力に勝るワイバーンたちの攻撃をことごとく躱していく。雲の隙間を縫い、陽光を背にして死角から襲う。十歳の本能が、戦いの中で研ぎ澄まされていた。


 しかし、相手は竜を狩る専門家だ。一体を躱すたびに別の二体が回り込み、逃げ道を潰す。網を絞るように包囲網が狭まっていく。


「ちょこまかと……うざったいわね!」


 右に左に、弾丸のような速度で空を駆ける。苛立ちを乗せたブレスでワイバーンの一体を引き離した——その一瞬の隙。正面の雲間から突き出た大型バリスタが、「重魔導矢」を射出していた。


 回避が、間に合わない。


 鈍い衝撃が、右翼の根元を深く抉った。


「——っ!?」


 痛みではなかった。熱くない。翼の感覚が、急速に消えていく。


「熱く、ない……?」


 羽の傷口から全身へ、呪印の冷気が這い広がる。魔力の循環が断たれ、鱗を覆っていた紅蓮の炎がみるみる色を失っていった。


「おのれ……我が、墜ちる、なんて……!」


 必死にもう片方の翼を動かすが、身体が言うことを聞かない。制御を失った緋色の巨体は、重力に惹かれるまま、深い霧が立ち込める森の奥へと——墜落していった。






 激しい雨の音が、レヴィアの意識を呼び覚ました。


 頬に触れるのは冷たい土の感触。鼻腔を満たすのは湿った落ち葉と苔の匂い。墜落の衝撃で竜の姿を維持する体力は残っておらず、彼女はボロボロになったドレス姿で、森の湿った地面に横たわっていた。


 見上げた空は、鬱蒼とした樹冠に遮られ、どこまでも暗い。


 十歳の少女にとって、初めて経験する「敗北」と、たった独りの「森の夜」。


「……痛い、のだわ……っ」


 右腕には深い裂傷。魔力回路が焼けるような痛みが脈打つたびに走り、レヴィアは泥を掴む左手に力を込めた。勝気な炎の姫として、涙だけは流すまいと歯を食いしばる。けれど、止まない雨が体温を奪い、暗闇が心を蝕む。見知らぬ森の獣の遠吠えが、やけに近くに聞こえた。


「お父様……お母様、お姉様……」


 声が震えた。黄金の瞳が潤む。


「……フレア……助け、て……」


 こぼれた声は雨音にかき消された。——その時。


 カサリ、と。草を踏む音。


 レヴィアの心臓が跳ねた。教団の追手か。全身に走る恐怖を振り払うように、痛む右手を必死に持ち上げる。震える指先に、小さな——今にも消えそうな火花を灯した。


「こ、来ないで……!」


 声が裏返る。それでも精一杯の威嚇を込めて叫んだ。


「我に触れたら——灰にしてやるから……!」


 霧の向こうから現れたのは、鎧を纏った兵士ではなかった。


 重そうな薪の束を背負った、自分よりも小さな男の子。八歳くらいの少年だった。黒髪に、やや茶色の瞳。どこかのお屋敷の従者のような質素な身なりだが、雨に濡れたその眼差しは、驚くほど澄んでいた。


 少年——ヒカルは、火花を灯して身構えるレヴィアを見て一瞬足を止めた。目を見開き、息を呑む。しかし次の瞬間には、背中の薪を迷いなく投げ捨てていた。


 駆け寄ってくる。真っ直ぐに。


「危ないよ! そんなにひどい怪我をして……!」

「寄るなと言っているのだわ!」


 レヴィアは歯を剥く。だが、叫びと同時に指先の火花がぷつりと消えた。無理に絞り出した魔力の反動が膝を砕き、身体が傾ぐ。


「……っ、あ……」


 冷たい地面が迫る——その前に。小さな手が、レヴィアの肩を支えていた。


 泥だらけの、けれど温かい手。


「大丈夫? 今、手当てするからね」

「な、何をしているのよ……」


 レヴィアは支えられたまま、少年の顔を睨み上げた。だが視線に込めた敵意は、震える唇が裏切っている。


「我は……人間なんて、大嫌いなのよ……」


 ヒカルはその言葉に怯む様子もなく、レヴィアをそっと木の幹に凭れさせると、迷わず自分の上着を脱いだ。雨の中、薄い肌着一枚になったことも気にせず、清潔だった上着を力いっぱい——ビリッ、と引き裂く。即席の包帯を手際よく作り出した。


「関係ないよ」


 ヒカルは裂いた布をレヴィアの右腕に巻きながら、穏やかに言った。


「君が泣いてるみたいだったから」


 レヴィアが息を呑んだ。泣いてなんかいない——そう言い返そうとして、頬を伝う雨粒が妙に温かいことに気づく。


「……僕はヒカル。この先の村で修行中なんだ。君の名前は? どこかのお屋敷から迷い込んじゃったの?」


 ヒカルは、レヴィアのボロボロになったドレスを見て、近隣の貴族の令嬢だと思ったらしい。怪我の深さに眉をひそめながらも、丁寧に、そして驚くほど優しく傷口に布を巻いていく。きつすぎず、緩すぎず。その手つきには、幼いなりに誰かの世話を焼いてきた者の慣れがあった。


 冷たい雨の中で、ヒカルの手だけが温かい。その温もりが、雨で冷え切ったレヴィアの身体を——いや、心を、微かに解かしていく。


 唇を引き結んでいたレヴィアが、ふいに視線を逸らした。


「……レヴィア」

「えっ?」


「我の名前は……レヴィアよ」


 俯いたまま、ぽつりと。それから、ばっと顔を上げ、濡れた前髪の奥から黄金の瞳を光らせた。


「覚えておくのが良いわよ、この不敬な人間め」


 精一杯の強がりだった。けれど、その黄金の瞳に溜まっていたのは、もはや恐怖の涙ではなかった。


 雨はまだ降り続いている。森は暗く、傷は深い。それでも——この小さな手の温もりだけが、確かにここにある。


 これが、後に世界を塗り替える「絆のユニゾン」の、あまりに小さく、尊い始まりだった。


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