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第十一話:墜ちた風、届かぬ帰還

 南方国境から王都アグニカへ至る街道を、風の部隊が飛んでいた。


 ゼニス王子率いる帰還部隊、150名。出陣時は500。南方国境に200を残置し、撤退戦で150を失った。残った150の中にも負傷者は多く、万全の兵は半数に満たない。それでもゼニスは帰還を選んだ。王都が墜ちた以上、前線を維持する意味はない。


「殿下、王都上空の偵察結果です」


 斥候が戻り、ゼファーが報告を受け取った。翠の髪が風に靡く。その目元にいつもの余裕はなく、報告書を読む横顔は引き締まっていた。


「王宮の旗が変わっている。——王弟の紋章よ」


 ゼニスは金髪の下の目を細めた。予想はしていた。だが実際に聞くと、胸の奥で何かが軋む音がした。


「帝国の旗じゃないのか?」

「表向きはね。だけど城壁の外周に帝国式の対竜魔導砲が配備されている。旗だけ付け替えて、中身は帝国の傀儡——そういうことでしょう」


 ゼニスは部隊を見渡した。疲弊した150の兵。王都奪還には到底足りない。だが——


「セフィラの安否が確認できていない」


 ゼファーが頷いた。それだけで十分だった。


「全軍突入は無謀だ。精鋭30を選抜して王宮に潜入する。残りは南方街道で待機、撤退の受け皿になれ」


 副官が敬礼し、編成が始まる。ゼファーはゼニスの隣に並んだ。


「30人でも多いくらいね。私たちが先行して道を開く。——いつも通りでしょう?」

「ああ、いつも通りだ」


 ゼニスは剣の柄に手をかけた。風の魔力が刀身に流れ、低い唸りを上げる。


 王都の空は黒かった。ミラの死が生んだ常闇が、昼の太陽すら覆い隠している。その暗い空の下、王宮の尖塔に王弟の旗がはためいていた。


 ゼニスたちが裏門の排気口から潜入し、精鋭30名が3組に分かれて西棟・中庭・地下を目指した。ゼニスとゼファーは中庭を抜けて西棟へ——セフィラの部屋がある方角へ向かった。


 中庭が開けた瞬間、ゼニスの足が止まった。


 2つの影が待ち構えていた。


 水色の長髪を揺らす女。冷え切った微笑を浮かべ、手には透明な杖。水の六征竜、ミスト・マキナ。

 石の重鎧を纏った巨躯。背丈はゼニスの倍近い。三つ編みの茶髪が鎧の隙間から覗く。手には巨大な石槌。土の六征竜、アイアン・ウォール。


「——お待ちしておりました、ゼニス王子」


 ミスト・マキナの声は氷水のように滑らかだった。


「南方からの帰路を3日と読みました。誤差は2時間。……許容範囲ですわね」


 そう、分かっていたが、罠だった。最初から、全てが。国境の襲撃も、伝令も、裏門を開けたままにしていたことも。


 背後で悲鳴が上がった。別動隊が伏兵に捕捉されている。


 ゼニスは剣を抜いた。


「ゼファー。予定変更だ。——ここで斬り抜ける」





 風と水の衝突が中庭を嵐に変えた。


 ゼニスの風の剣がミスト・マキナの水幕を切り裂く。だが斬った端から水は再生し、霧となって視界を奪う。足元ではアイアン・ウォールの石柱が次々と突き上げ、空中での機動すら制限される。


 風の優位は速度。しかし水の霧が目を封じ、土の壁が退路を断つ。風属性にとって最悪の組み合わせだった。


 ゼファーが双剣で霧を薙ぎ払い、ゼニスと背中を合わせた。


「策士の方が厄介ね。石の方は動きが遅い——私が水を引きつける。貴方は土を……」

「そうだな。石の一撃はお前の軽装では受けられない」

「だから受けないのよ。——信じてるわ」


 ゼファーが飛び出した。双剣に風を纏わせ、ミスト・マキナに斬りかかる。水の鞭が迎撃に来るのを、身を捻って紙一重で躱す。その動きは戦闘というより舞踏だった。


 ゼニスはアイアン・ウォールに正面から突っ込んだ。石槌の横薙ぎを跳躍で越え、鎧の継ぎ目に風の刃を叩き込む。


 だが——刃が弾かれた。傷一つつかない。


「……硬いな」


 アイアン・ウォールは無言で2撃目を振り下ろす。石畳が陥没し、破片が弾丸のように飛び散った。ゼニスは風の障壁で凌ぐが、衝撃が腕を痺れさせる。


 消耗戦。それがミスト・マキナの狙いだ。風は瞬発力に優れるが持久力で劣る。時間が経てば経つほど不利になる。


 ゼファーがミスト・マキナの杖を弾いた。初めて水の策士の顔から微笑が消える。


 だが——ミスト・マキナは弾かれた杖を捨て、素手で水を練り上げた。鎖だった。水の鎖がゼファーの足首に絡みつき、一瞬だけ動きが止まった。


 その一瞬。


 アイアン・ウォールの石槌が、背後からゼファーに向かって振り下ろされた。


 ゼニスは考えなかった。身体が勝手に動いていた。ゼファーの前に飛び込み、風の障壁を全力で展開する。石槌が障壁に衝突し——障壁が、砕けた。


 鎧が弾け飛ぶ。胸骨が折れる音が、自分の耳にはっきりと届いた。


 吹き飛ばされたゼニスの身体を、ゼファーが受け止めた。


「ゼニス……! なぜ……!」


 凛とした声が、初めて掠れていた。


 ゼニスは血を吐いた。もう立てない。次の呼吸ができるかも分からない。


「……逃げろ、ゼファー。セフィラを……頼む」

「馬鹿なことを——」


 馬鹿じゃないと、ゼニスは笑った。血に塗れた、けれど穏やかな笑みだった。


「お前と出会えて、よかった。……セフィラを頼む。それと——」


 ゼニスは最後の力を振り絞った。胸の奥に残った風の魔力を、全て声に変える。


 念話。王族の血に流れる、魂を媒介にした遠距離通信。


「——レヴィア。アクア。みんな、聞こえるか」




 ◇◆◇◆◇


 地下水路の闇の中、レヴィアの頭の奥に声が響いた。


 右腕の布が震え、それとは別の振動が脳を直接叩く。幼い頃に肩車してくれた、優しくて少し不器用な兄の声。


「ゼニス兄様……!?」


 離れた水路にいるアクアにも、同じ声が届いている。


「——俺はもう戻れない。父上も、もういない。だが、お前たちは生きている。……それだけで十分だ」


 声が途切れかけた。苦痛が滲む。


「王国を……いつか、お前たちの手で。急がなくていい。生き延びろ。……頼んだぞ」


 念話が途絶えた。




 ◇◆◇◆◇


 ゼニスの目から光が消えていく。ゼファーの腕の中で、最後に唇が動いた。声にはならなかった。だがゼファーには読めた。


 ——セフィラに、ごめんと。


 ゼファーはゼニスの額に自分の額を押し当てた。涙を拭わなかった。


 ミスト・マキナが杖を拾い上げた。


「——終わりにしましょうか」


 ゼファーは立ち上がった。涙の跡が残る頬。だが、その目には風が宿っていた。

 ゼニスの身体をそっと石畳に横たえ、双剣を構える。


「終わりになんかさせない。——あの人が託したものがある限り、私は止まらない」


 全身から放たれた突風がミスト・マキナの水幕を貫き、アイアン・ウォールの巨体すら後退させた。

 その隙に、ゼファーは飛んだ。


 2人の六征竜を振り切り、西棟へ。セフィラの部屋へ。


 約束を、果たすために。





 ◇◆◇◆◇


 レヴィアは水路の壁にもたれ、膝を抱えていた。


 兄の声が消えた後に残ったのは、胸の奥を焼く静かな痛みだけだった。


 フレアが傍らに立っていた。何も言わなかった。ルーナがレヴィアの隣に座り、そっと肩に頭を預けた。13歳の少女は姉の涙を見てももう泣かなかった。ただ温もりだけを差し出した。


 やがてレヴィアが顔を上げた。目は赤かったが、涙は止まっていた。


「……フレア。念話のことだけど」

「はい」

「魔力の消耗が大きすぎる。それにあれだけの魔力放出は、敵の感知網に引っかかる。——今後、姫同士で使うなら、ルールが要るわ」


 フレアが頷いた。


「年に一度。冬至の夜だけ。全員が同じ時刻に意識を開く。それ以外では、命に関わる場合を除いて使わない」


 レヴィアはわずかに残った念話の余韻を辿り、アクアへ短く送った。——「年に一度。冬至の夜に」


 遠い水路で、アクアが足を止めた。「了解」——それだけの返信が届いた。


 細くて確かな糸。散り散りになった姉妹を繋ぐ、たった一本の命綱。


 その時、地下水路の壁を伝って別の振動が届いた。念話ではない。地面そのものの震え。規則的で、力強い。まるで大地の心臓が脈打つように。


「……この振動」フレアが壁に掌を当てた。


「東方領の方角だ。土の魔力——エレクト王女!?」


 レヴィアの胸が締まった。エレクト。異母の姉。土の王妃ガイアリスの長女にして、東方領を統べる土属性の王女。母ガイアリスが命を落とす前に、妹のテラを連れて東方領へ赴いていたと聞いていた。


「エレクト姉様が、まだ戦っている!!」

「東方領はアグニカから最も遠い。王弟の手が最後に届く場所です」


 フレアの声は静かだったが、その裏に苦い計算が滲んでいた。


「だが——ゼニス殿下が討たれた今、六征竜の次の標的は明白だ」


 レヴィアは拳を握った。壁の向こうから伝わる土の鼓動。それは「まだここにいる」と告げていた。そしてその傍らには、まだ幼いテラがいる。母を喪い、姉に守られている妹。


 自分の隣にいるルーナと、同じだった。


「生き延びろ」レヴィアは立ち上がった。


「ゼニス兄様がそう言った。エレクト姉様もテラも、アクアもシエルも——全員で生き延びて、必ず取り戻す」


 右腕の赤い布が微かに熱を帯びた。遠い人間界の、顔も忘れかけた少年の鼓動。その熱だけが、今のレヴィアにとって怒りでも悲しみでもない、唯一の感情を呼び覚ます。


 ——いつか必ず。


 フレアが剣の柄に手をかけ、前を向いた。「進みましょう、姫様」


 レヴィアはルーナの手を取り、水路の先へ歩き出した。背後で土の鼓動が静かに続いている。東方の大地で、姉がまだ立っている。


 その鼓動が止まる日が来ることを、レヴィアはまだ知らなかった。


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