第九話:遺された希望、ミラの殉教
レヴィアたちが地下水路を抜けた頃——王宮の深部では、もう一つの戦いが始まっていた。
闇の長女ミラは、単身で王宮の最深層へ向かっていた。
26歳の諜報部隊の長。蒼白い肌と長い黒髪は闇の竜族の証だが、その目元だけは妹のヴァルキリアより幾分柔らかい。だが今、その穏やかな面差しは血と泥と疲労に塗り潰されていた。左肩の鎧は砕け、脇腹には止血が間に合わなかった切り傷が口を開けている。
それでも足を止めなかった。
ヴァルキリアとシェイド。妹と娘。あの2人がまだ王宮の中にいる。フレアからの伝令でそれだけは確認していた。——それだけで、十分だった。
最深層への階段を降りるたびに、空気が変わっていく。松明の灯りが届かなくなり、代わりに壁の魔導紋が不気味な紫光を放っている。王弟派が結界を張り直したのだ。普通の兵なら踏み入ることすらできない。だがミラは闇の魔導の使い手だ。結界の隙間に自らの影を滑り込ませ、音もなく深部へと潜行する。
最深層の大広間。
その光景を見た瞬間、ミラの足が止まった。
広間の中央に、闇の檻があった。黒紫の魔力が鳥籠のように編み上げられ、その中に——10歳のシェイドが膝を抱えてうずくまっていた。闇の竜族の血を引く白い肌と黒い髪。まだ幼い身体が恐怖で震えている。自分の娘。守ると誓った、たった一人の子供。
「シェイド……!」
叫びかけて、ミラは口を噤んだ。
檻の前に、一つの影が立っていた。
19歳のヴァルキリア。妹だった。蒼白い肌。闇色の長髪。その佇まいは確かにヴァルキリアのものだ。だが——その目が違った。あの聡明で、慈愛に満ちた光が消えている。虚ろな瞳が、まっすぐ前を見据えていた。何も映していない目。
「ヴァルキリア……?」
ミラの声が震えた。
ヴァルキリアの背後に、王弟が姿を現した。腕を組み、壁に背を預けている。その顔には、戦勝の高揚ではなく、実験の経過を観察する研究者のような冷静さがあった。
「遅かったな、ミラ。もう少し早ければ、この子の意識がまだ残っているうちに再会できたものを」
「貴様、妹に何をした!?」
「ふん、精神汚染の魔導だ。帝国の技術者が開発した最新のものでね。記憶を消すのではなく、感情の基盤そのものを書き換える。——ヴァルキリアの知性と戦闘力はそのままに、忠誠の対象だけを入れ替えた」
ミラの拳が震えた。
「……お前は、シェイドを人質にして私たち姉妹を従えるつもりだったはずだ。私が従えば妹と娘には手を出さない、そういう取引だった。——なぜヴァルキリアを洗脳した!?」
「思いのほか抵抗したのでな。従えるだけでは足りなくなった。ヴァルキリアの力は、得難い武力だ。道具として使うには、—心ごと、こちらのものにする必要があった」
王弟の声には、罪悪感の欠片もなかった。
ミラは妹を見た。虚ろな瞳。かつて姪のシェイドを抱き上げ、「闇は大切なものを守るための力なのです」と優しく教えていた、あのヴァルキリアの面影は、もうどこにもなかった。
「ヴァルキリア! 私よ、ミラよ! 目を覚まして!」
叫んだ。声が広間に反響する。
ヴァルキリアの瞳が、ミラを捉えた。だがそこに姉を認識した気配はなく——ただ、「侵入者」を検知した兵器の冷たさだけがあった。
「私が欲しかったのは、お前ではない。ヴァルキリアだ。すでに目的を達した以上、お前は用済みだな、ミラ」
「なっ!?」
「……排除対象を確認。——始末します」
ヴァルキリアの声だった。声だけは、昔と同じだった。だからこそ、その一言はミラの胸を深く抉った。
ヴァルキリアが動いた。
闇の魔力を纏った右手が、鎌のように弧を描いてミラに迫る。闇の竜族同士の戦い——それは可視光の届かない領域での、影と影の衝突だった。
ミラは咄嗟に闇の盾を展開した。ヴァルキリアの一撃を受け止め、その勢いで後方に跳ぶ。衝撃が腕を痺れさせた。
——強い。ヴァルキリアの戦闘力は、洗脳によって枷を外されたのか、以前よりさらに増している。
「ヴァルキリア、聞いて! シェイドが見ているのよ! あの子の前で——私を、母親を殺すの!?」
叫びながら、ミラは攻撃を受け流し続けた。反撃はしない。できるわけがなかった。
ヴァルキリアの2撃目が脇腹の傷を抉った。血が飛び散る。3撃目が左腕を切り裂いた。ミラの膝が折れかける。
それでも——ミラは闇の魔力を攻撃ではなく、別の術式に注ぎ込んでいた。
シェイドを閉じ込めている檻。その結界の構造を、戦いながら解析していたのだ。諜報の長として鍛え上げた分析力。ヴァルキリアの猛攻を受けながら、その合間に一つずつ、檻の魔導紋を読み解いていく。
「——見つけた」
檻の構造に、1箇所だけ綻びがあった。急造の結界特有の弱点。そこに闇の魔力を流し込めば、内側から檻を解放できる。
だが、術式を起動するには、両手を使って集中する必要がある。つまり——ヴァルキリアの攻撃を、無防備で受けるということだ。
ミラは覚悟を決めた。
「……ごめんね、ヴァルキリア」
盾を解いた。両手を檻に向けて掲げ、解放の術式を組み始める。闇の魔力がミラの指先から檻の綻びへと流れ込んでいく。
ヴァルキリアの刃が、容赦なくミラの背中を貫いた。
肺を抉る衝撃。口から血が溢れた。視界が明滅する。それでもミラは手を下ろさなかった。術式を——止めなかった。
檻が、砕けた。
黒紫の魔力が霧散し、中にいたシェイドが床に崩れ落ちる。泣きつかれて眠っているようだ。
「シェイド……」
ミラは血を吐きながら振り返った。背中にヴァルキリアの腕が突き刺さったまま、それでも——妹の顔を見た。
虚ろな瞳。何も映していないはずの目。
けれどミラは、その奥の奥に、微かな揺らぎを見た気がした。
「シェイド。生きるのです。そして、ヴァルキリアを……あの子を、お願い……」
ミラの手が、ヴァルキリアの頬に伸びた。血で汚れた指先が、冷たい肌にそっと触れる。
「ヴァルキリア。……貴女は、強い子よ。だから……いつか、必ず……」
手が落ちた。ミラの身体から力が抜け、ヴァルキリアの腕に支えられるようにして、ゆっくりと床に沈んでいった。穏やかな目元が、最期まで妹を見つめていた。
——ヴァルキリアの瞳に、光が戻った。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。
「姉……様……?」
声が震えた。自分の右腕が姉の身体を貫いていることに気づき、目が見開かれる。
「あ……あ、ああ……!」
叫びが広間に反響した。悲痛な、魂を引き裂くような叫び。ヴァルキリアは姉の身体を抱きかかえ、崩れ落ちた。
「嘘よ……嘘……私が……私、が……!」
正気だった。この瞬間、確かに正気に戻っていた。
だが——王弟が指を鳴らした。
「感情の揺れ戻りか。——修正しろ」
背後に控えていた帝国の術師が杖を掲げた。紫の光がヴァルキリアの頭部を包み込む。
悲しみが、消えていく。姉を殺した罪悪感が、記憶の底に沈められていく。代わりに注ぎ込まれるのは、王弟への忠誠。任務の遂行。目的の達成。
ヴァルキリアの涙が止まった。目から光が消えた。
再び立ち上がった彼女の瞳には——もう何も残っていなかった。
「対象を管理下に置く。命令を受諾した」
ヴァルキリアはシェイドの手を掴んだ。
シェイドは動かなかった。叔母の手に掴まれたまま、ぼんやりと床に倒れた母の目を見つめていた。ミラの瞳はもう閉じていた。けれど——さっき、ヴァルキリアの目に光が戻った瞬間を、10歳の少女は確かに見ていた。彼女も洗脳にかかりかかっていたが、帝国の術は不完全で、先ほどのヴァルキリアの叫びで、実は術は切れていた。
「(母様は命をかけて私を護ってくれた。そしてヴァルキリア姉さまを救えるのはもう私しかいない……。泣いちゃダメだ……)」
シェイドは、あえて洗脳されているふりを貫くことに決めた。10歳の子供とは思えない覚悟だ。
尊敬する叔母、ヴァルキリアを救えるのは自分だけだ。
それだけを胸に刻んで、シェイドは叔母と共に闇の奥へ歩き出した。
ミラの死によって、闇の属性の均衡が崩れた。王宮の上空を覆っていた薄雲が急速に黒く染まり、夜が——終わらなくなった。太陽が昇る時刻を過ぎても、王都の空に光は差さなかった。
竜の国の空は、この日を境に、二度と太陽の輝きを取り戻さなくなった。
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