10話 行くしかないだろ
遅くなりました......!
悠太視点です。
田中のおっちゃんが、俺の腕を掴んでいた。
作業着の袖口から伸びる手は、思ったより力強い。
さっきまであれだけ震えていたのに、今は離さない。
「待て待て待て。本気か佐藤くん」
「本気です」
「なんで!?さっきゴブリンに……っ、ほぼ死にかけただろ!?佐藤くんが助けてくれなかったら僕は今頃――」
「おっちゃん」
遮るように呼ぶ。
おっちゃんが口を閉じる。
俺は公園の方へ顎をしゃくった。
穴の縁から、スライムが一匹、のそりと這い出てくるところだった。
ぷるぷると震えながら、こちらの方角に向かってくる。
その後ろに、続けてもう一匹。
「逃げてるだけじゃ、いずれここにも来ます。もうほぼ来てますけど」
おっちゃんが絶句した。
五十代の男が、こんなに素直に怯えた顔をするのを、俺は初めて見た気がした。責めているわけじゃない。正直な反応だと思う。俺だって、さっきまではそっちの側にいた。
「でも、お前一人が行ったって……何もできないだろ……」
「かもしれないですね」
否定はしなかった。
強がりを言えるほど、自分のことを信用していない。
ついさっき、廊下でゴブリンを倒した。
でもあれは、運が良かっただけだ。
バナナの皮なんて、普通は落ちていない。
それでも。
「俺のステータス、LUKが28あるんです」
言いながら、我ながら無茶苦茶な根拠だと思う。
「……それって、すごいのか」
「掲示板だと平均5らしいんで」
「…………」
おっちゃんが黙った。
何か言おうとして、言葉を探して、見つからないみたいだった。
その間に、俺は視界の端でステータスウィンドウをそっと開く。
――――
【名前】佐藤 悠太
【種族】人間
【レベル】2
【HP】108
【MP】36
【STR】10
【DEX】11
【VIT】10
【INT】11
【AGI】12
【LUK】28
【スキル】なし
【称号】なし
――――
数値を見ても、強くなった実感は正直ない。
レベルは2。スキルはなし。称号もなし。
見た目は普通の、どこにでもいる男だ。
数字の意味も、効果も、まだよくわかっていない。
それでも、あるとないとじゃ全然違う気がした。
根拠は薄い。
でも今持っている根拠はこれだけだ。
「行ってきます」
おっちゃんの手を、静かに外す。
「……気をつけろよ」
振り返ったら、たぶん行けなくなる。
だから俺は前だけを向いて、歩き出した。
――――
公園は、静かだった。
子供の声も、犬の鳴き声も、自転車のベルも、何もない。
地面には画面の割れたスマートフォン。
芝生に沈んだ片方だけのスニーカー。
口の裂けた買い物袋からはネギと牛乳パックが無造作にこぼれている。
ついさっきまでここにあったはずの日常が、乱雑に引き裂かれた証拠だった。
途中、路地裏でスライムを一匹。
民家の塀の前で孤立していたゴブリンを一匹。
どちらも命を賭けた必死の戦いだった。
スライムは何度も体当たりをくらいながら、とにかく短剣を振り続けた。
ゴブリンは爪が肩口を掠めて、今も少し血が滲んでいる。
それでもレベルは2のまま。
経験値が足りないらしい、などと冷静に分析する余裕はない。
ただ、自分がまだ弱いという事実だけが、胸にずっと刺さっている。
公園の中央に口を開けたそれは、遠目にはただ地面が陥没しただけの黒い穴に見えた。
でも近づくほどに、本能に理解させてくる異質さを孕んでいた。
縁は滑らかではなく、空気そのものが縁取られているかのように歪み、空間が墨汁を垂らした水面のようにゆらゆらと波打っている。
重力の向きがそこだけ曖昧になり、光が吸い込まれていく。
穴の前に立つ。
汗で湿った手のひらで、短剣の柄を握り直す。
怖いか、と問われれば、怖い。
怖くないわけがない。
あのゴブリンのときだって、廊下に都合よくバナナの皮が落ちていなければ死んでいた。
あれを実力と呼ぶには無理がある。
ダンジョンの中はもっと広くて、もっと暗くて、きっともっと強いやつがいるだろう。
それでも。
逃げた先の未来が、うまく想像できなかった。
おっちゃんの顔が浮かぶ。
さっきまで掲示板で見ていた、公園から逃げ惑う人たちの姿が浮かぶ。
誰かが行かなきゃ、何も変わらない。
そんな大きな話でもないのかもしれない。
ただ俺には、LUKという、よくわからないけど確かにある数字があって。
それが背中を押している。
「……行くか」
喉が乾く。
頭の中で心臓の鼓動がバクバクと鳴り響くのが聞こえる。視界の端がわずかに暗くなる。
それでも俺は、黒い歪みに一歩踏み入れた。
瞬間、足場が消えたような浮遊感に全身が包まれた。
次に耳鳴り、そして視界が白く弾け飛ぶ。
【ダンジョン内部への侵入を確認】
【自動配信が開始されました】
――そんな無機質な表示が視界の隅を掠めたが、極限まで張り詰めた俺の意識は、それを意味として結ぶことができなかった。
押し寄せてきたのは冷たい湿気と、石と黴と閉ざされた空間が混ざり合った重い匂い。
肺に入る空気がひやりと冷たい。
ゆっくり目を開くと、そこは石造りの通路だった。
幅はおよそ三メートル、天井は圧迫感こそないが高くもない。等間隔に据えられた松明が橙色の火を揺らし、壁に歪な影を躍らせている。
静まり返っている。
自分の荒い呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。
俺は反射的に壁へ背をつけ、体を小さく折りたたみ、足音を殺した。
一歩、石床の硬さを足裏で確かめる。
二歩、わずかな砂利が靴底に擦れる感触を意識する。
やがて曲がり角。視界の先は闇に切り取られ、何が潜んでいるのか想像するだけで胃が縮む。
胸が早鐘を打つ中、体は動かさず、視線だけをゆっくり滑らせる。
――何もいない。
息を細く吐く。肩から力が抜ける。
その瞬間。
背後で、石が擦れる音がした。
振り返る。
松明の光の届かない、通路の影の中。
赤い目が、二つ。
ゆっくりと、こちらへ向いた。
――――
俺はまだ知らない。
視界の端に小さく灯った半透明の窓が、今この瞬間も世界中に自分の姿を垂れ流し続けていることを。
そしてそれを、はるか上空から、ニヤニヤと眺めている存在がいることも。




