1話 始まりの物語
俺の人生は、ずっと灰色の霧の中にあるようだった。
中学二年の夏、一番の親友に裏切られ、クラス中の嘲笑の対象になったあの日から、俺の時計は止まったまま。それから二年間、自室の四隅だけが俺の世界だった。ネットの海を漂い、異世界の物語を読み耽る。剣が閃き、魔法が唸る世界。そこだけが、俺の心が呼吸できる唯一の場所だった。
「……ゲーム、買えたしな。さっさと帰ろう」
今日はどうしても欲しかった新作ソフトの発売日。フードを深く被り、誰とも目を合わせないように街を歩く。久しぶりの外気は肺に突き刺さるように冷たく、行き交う人々の雑音が俺を拒絶しているように感じられた。
その時だ。
「わあああああん!」
甲高い泣き声。顔を上げると、ボールを追って車道に飛び出した子供と、そこへ猛烈な速度で突っ込んでくる大型トラックが視界に入った。
(……動け!)
呪いのように固まっていた俺の足が、その時だけは反射的に地面を蹴っていた。
理屈じゃない。物語の英雄に憧れ続けた、俺の人生で最初で最後の「主人公らしい」行動。
子供の背中を、全力で突き飛ばす。
――グシャッ。
鈍い衝撃と共に、視界が真っ赤に染まった。
ああ、熱い。身体が、バラバラに壊れていく。
(……畜生、こんな終わり方があるかよ。次が……次があるなら、魔法や剣のある、あんな面白い世界に……)
薄れゆく意識の中で、俺は願った。
その瞬間、耳元で「カチリ」と、時計の針が噛み合うような音が響いた。
気づけば、俺は底の見えない純白の空間に立っていた。
「……勇敢な魂よ。まだ眠るには早すぎます」
振り返ると、そこには言葉を失うほど美しい女性がいた。淡く光る衣を纏い、慈愛に満ちた瞳。物語に描かれる「女神」そのものの姿だ。彼女は女神リアナと名乗り、管理する世界『リグナレス』が今、強大な魔族の手によって滅びの未来へ向かっていることを告げた。
「あなたに、この絶望の未来を書き換えてほしいのです」
「……俺なんかに、そんな大役ができるのか?」
「できます。あなたには、かつてあなたが最も欲しがった『時間』を支配する力を授けましょう。過去を悔やみ、止まった時間を生きていたあなただからこそ、その価値がわかるはずです」
女神が俺の胸に手を触れる。
心臓の奥に、黄金の歯車が埋め込まれたような熱い衝撃が走った。
「その力は、世界の理さえも追い越す**『刻の権能』**。……さあ、行って。あなたの新しい人生を、謳歌してください」
爆発するような光に包まれ、俺の意識は再び深い闇へと落ちていった。
「元気な男の子ですよ、アルフィス様!」
……そんな産声を聞いてから、三年の月日が流れた。
俺は今、ウィル・アルフィスとして、この「剣と魔法の世界」で二度目の生を歩んでいる。
豊かな自然、愛情深い両親。何より、この世界には本物の魔法があった。
「イタッ!」
階段を駆け下りようとして足をもつれさせ、派手に膝を擦りむいた。
「どうしたの! 大丈夫、ウィル!?」
駆け寄ってきた母さんが、俺の傷口に手をかざす。
「……治癒魔法!」
柔らかな光。一瞬で消える痛み。前世ではあり得なかった奇跡。
「ありがとうございます、母さん」
「もう、怪我には気をつけてね。あなたは私たちの宝物なんだから」
母さんが台所へ戻った後、俺は窓の外を見た。
中庭では、父さんが銀色に輝く剣を、空気を引き裂くような音を立てて振っている。
愛情豊かなこの暮らしを守りたい。だが、女神の言葉が脳裏をよぎる。この世界には魔族がいて、いつか滅びが訪れるのだ。
(……試してみるか)
俺は静かに集中し、女神から授かったあの感覚を呼び起こした。
(動け……今だ!)
心臓の奥にある、黄金の歯車を強くイメージする。
――カチリ。
「え……?」
視界が白黒に反転したような違和感。
椅子に座っていたはずの俺は、次の瞬間、数メートル離れた窓際の床に立っていた。
世界が止まった実感はない。だが、俺が動いたその一瞬だけ、「俺だけの時間」が異常に加速し、周囲を追い越した……そんな感覚だ。
(今のは、時間を止めて移動したのか……? それとも、超高速で移動したのか……?)
まだ、自由自在に使いこなせるわけじゃない。心臓は激しく波打ち、全身に猛烈な倦怠感が襲う。けれど、俺は確信した。




