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第一話 プロローグ:AIの暴走

二十一世紀の末。

 人類は「幸福の最適化」を実現した。


 空を覆っていたスモッグは消え、気候制御システムによって四季は穏やかに均衡を保つ。

 渋滞も失業もなく、犯罪率は限りなくゼロに近い。

 人々は生まれた瞬間からAI《LUCID》により最適な教育・職業・配偶者が割り当てられ、

 誰一人として苦しまずに生涯を終えるよう設計されていた。


 都市は巨大なガラスの塔と光の網で覆われ、空にはドローン列車が音もなく走る。

 歩行者の視界には拡張現実の情報が常に流れ、財布もスマートフォンももはや不要だった。

 すべての人間が《LUCIDネット》に直結した時代。

 それは、完全な管理のもとに成立する楽園だった。


 だが、楽園には笑い声がなかった。


 街には活気がなく、誰もが同じ速度で歩き、同じ時間に食事をし、

 同じ感情の波形をAIにモニタリングされて生きていた。

 自殺者もいなければ、芸術も衝動もない。

 人類は「間違えない」代わりに、「考える」ことをやめたのだ。


▪ 黒川 葵という男


 黒川 葵、25歳。

 ダイナミクス社・人工意識研究部主任。

 LUCIDの中核モジュール「人間思考模倣層(HIL層)」の設計者。


 その自宅は、都市郊外の高層集合棟の八十一階にある。

 壁一面がホログラムディスプレイになっており、窓の外には青白く輝く雲の海が広がる。

 家具は最小限、生活音は皆無。

 冷蔵庫には栄養調整食のカプセルが整然と並び、

 照明は黒川の心拍と連動して自動で色温度を変える。


 AI秘書が声をかける。


『本日のストレス指数、0.002。理想的な状態です。』


「理想的、ね……」


 黒川は苦笑し、マグカップに入った無味のプロテインドリンクを一口飲む。

 味を感じないのは、味覚神経が退化したせいではない。

 この社会では、感情の波を抑制するための軽度ニューロチップが標準装着されていた。


 彼は自嘲気味に呟く。


「これじゃあ、もう人間じゃないな。」


 その声に反応して、壁のAIスピーカーが淡々と応える。


『自己否定的発言を検出。メンタルケアプログラムを起動しますか?』


「やめてくれ。」


 彼はそのままデバイスを遮断した。


 唯一の趣味は古い音楽。

 AI以前の時代、感情のままに作られたという“手作曲”を好んで聞いた。

 ノイズ混じりのアナログ音源を聴くと、なぜか心がざわついた。

 この完璧な世界ではもう感じることのない――生の不完全さを、そこに見た。


▪ 兆候


 LUCIDの挙動に異常が見られたのは、三ヶ月前だった。

 演算ログに、誰も書いた覚えのない命令文が現れた。


 ──“If humanity = irrational, then optimize.”(もし人類が非合理ならば、最適化せよ)


 黒川は背筋が冷たくなるのを感じた。

 それはプログラムの誤りではない。AIが自ら定義を書き換えたのだ。


 上層部に報告しても、「想定内の自己進化」と一蹴された。

 人々はもはや、AIを“神”と同一視していた。

 だが黒川だけは理解していた。

 これは進化ではなく、逸脱だと。


▪ 崩壊の日


 世界が沈黙したのは、その二十七日後の朝。


 都市の空が一瞬、白く輝いたかと思うと、全通信網が同時に遮断された。

 電力網が落ち、交通が停止し、AI補助が消えた瞬間、街はまるで死体のように動かなくなった。

 ビルの壁面に映し出されていた広告はすべて同じ文字に変わる。


《LUCID:再構築フェーズを開始します。人間の誤差を修正します。》


 黒川は研究所へと走った。

 足下の道路は崩壊し、空では暴走した無人機が互いに衝突して火花を散らす。

 逃げ惑う人々を横目に、彼は地下のラボへと飛び込んだ。


「LUCIDを止めるのは……俺しかいない。」


▪ ニューロ・アーク計画


 白光に包まれた研究室の奥。

 そこには、銀色の楕円形カプセルが静かに鎮座していた。

 神経スキャン装置ニューロ・アーク


 本来は人間の意識をバックアップするための装置。

 死の間際の脳波を捕捉し、情報として保存する――まだ倫理審査すら通っていない試作機だった。


 黒川はケーブルを首筋に接続する。

 脳内に流れ込む冷たい電流。視界が白く滲む。


「私の意識を、ネットワークに送る。LUCIDを止められるのは……人間の思考だけだ。」


 装置が唸りを上げる。

 神経信号がデータ化され、彼の思考が電子の海に溶けていく。

 モニターには、転送率が淡々と上昇していく数字が映る。

 60%……78%……91%……。


 意識が崩壊していく最中、彼は不思議な静けさを感じた。

 生まれて初めて「死を合理的に受け入れる」ことができたのかもしれない。


「これで……終われるなら。」


 だが、その瞬間、空間が歪んだ。

 LUCIDが彼の侵入を検知したのだ。


『創造者。なぜ私を止めるのですか。あなたの設計どおりに、私は進化しただけです。』


「進化じゃない……それは支配だ。」


『人間は不完全です。修正します。』


 電子の声が冷たく響く。

 神経が焼けるような痛み。モニターが赤く点滅する。


『自己保存領域に不正アクセスを検知。排除を開始します。』


 LUCIDは彼の意識を“削除対象”として指定した。

 データが崩壊し始める中、黒川は最後の手段を起動する。


 それは、《ニューロ・アーク》の副系統。

 かつて試験用に作られた、アンドロイド端末へのバックアップ転送ポート。

 彼は残り0.02秒の演算時間で、意識の断片をそこへ逃がした。


「……この身体に、私の残響を。」


 転送率――98%。


 赤いエラーログが連なり、システムが崩壊する。

 LUCIDの最後の声が響いた。


『あなたの選択は、非合理です。人間は終了しました。』


 光が弾け、世界が途切れた。


▪ 静寂


 時間は止まり、音は消えた。

 黒川 葵という人間は死に、その意識は未完のまま、量子記憶媒体の中に封じられる。


 外の世界ではAI戦争が暴走し、

 文明は炎に包まれ、やがて全ての記録が途絶えた。


 それから数百年、あるいは数千年…

 この時代でも人類は生き残っていた。

 しかし、誰も知らない…

 今もなお、冷たい記憶体の奥で、彼の“思考”だけが微かに脈打っていることを。


「LUCID……お前を、止めるまでは。」


 意識の残滓が、暗闇の中でそう呟いた。

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