むしゃくしゃしてハイヒールを投げたら……
久しぶりに書きました。
アメリアは侯爵家の長女として舞踏会の壇上に立っていた。
大広間は整えられ、壁に沿って燭台が等間隔に並び、天井からは大きなシャンデリアが下がっている。床には赤い絨毯が敷かれ、楽団が曲を奏でている。
招待客たちは決められた席に着いていた。視線は一斉に壇上へ向けられ、彼女は緊張していた。
アメリアは胸の奥に重さを感じていた。ここ数か月、家のための準備と稽古が続いていた。舞踏、会話、笑顔、衣装の着こなし、どれも細かく決められている。失敗は許されず、注意を受ければやり直しが待っていた。そんな事もあって、ここ暫くは疲れがたまっていた。
相手のラルフ・エルドリッジは、家柄も財産も申し分ないと言われていた。だが、アメリア自身は彼の人柄をほとんど知らない。親しく話したこともないまま、婚約は進められていた。貴族社会のルールだと説明され、彼女は反対できなかった。家のためだと繰り返し聞かされ、嫌々ながら受けてきた。
壇上の中央で、ラルフがゆっくりと歩み寄ってくる。決められた位置に立ち、差し出された手を取るよう求められる段取りだ。父は前列の席から目で合図を送り、母は後方から娘の動きを見ている。誰もが予定どおりに式を進めることしか考えていない。
アメリアは足元のハイヒールに力をかけた。踵が高く、つま先が細く、足先がしびれるように痛んでいる。姿勢を崩せば目立つので、重心をずらすこともできない。胸の奥にたまっていたものが、息を吸うたびにさらに重くなっていくのを感じた。
――何故、こんなに苦しいのだろう。
思い返してみれば、彼女の人生は自由とは最も無縁だった。
侯爵家の長女として生まれたその日から、彼女の生活は決められていた。広い屋敷、贅沢な衣服、学びのための教師、何一つ不足はなかった。だが、そこには選択の余地がなかった。
習い事はすべて家の方針に従い、友人を選ぶことも、外に出かけることも、許可がなければできなかった。読書ひとつとっても、父の承認した本だけが与えられた。周囲から見れば恵まれた暮らしに見えただろうが、彼女にとっては、不自由そのものであった。
「あなたは侯爵家の長女なのです」
その言葉は幼いころから繰り返し聞かされてきた。だからこそ、彼女は反発する気持ちを心の奥に押し込んできた。
そして今、目の前に差し出されたラルフの手もまた、自分の意思とは無関係に決められた未来の象徴だった。ここで手を取れば、婚約は公に認められ、二度と退けられなくなる。それは父や母にとって誇らしい未来かもしれない。だが、アメリアにとっては地獄に足を踏み入れるのと同じだった。
どうにでもなれ、と思った。
アメリアは肩の力を抜いた。父の期待も、母の目も、壇上の拍手も、いまは届かない。これまで押し込めてきた不満が、やけになって表に出てきたのだ。
――もういい、誰が何と言おうと構わない。
彼女はハイヒールの留め具に手を掛けた。片方を外すと、素足の感触が床に伝わる。冷たさが一瞬だけ意識をはっきりさせた。
アメリアは右手に残ったハイヒールを握りしめた。力を込めて振りかぶり、声を出した。
「自由になりたい!」
言葉と同時に腕を振る。ハイヒールは彼女の意志を乗せて放たれた。
投げた瞬間、後悔が押し寄せた。
公の場で叫んだ。父の顔は強張り、母は手を口に当てた。来賓たちの視線が一斉にアメリアへと向けられる。
ハイヒールが空を切る音がした。
次の瞬間、乾いた衝突音が壇上に響いた。
アメリアは反射的に目を見開いた。
放物線を描いたハイヒールは、ラルフではなく、その背後に控えていた使用人の肩に命中していた。
「っ──!」
鈍い音がして、男は小さく呻き、手にしていた銀のトレイを取り落とした。
金色の杯が転がり、赤いワインが床に散る。
アメリアは息を呑み、顔を青ざめさせた。
(やってしまった……!)
思わず前へ一歩踏み出し、謝ろうとしたその瞬間だった。
転がったトレイの下から、何かが金属の音を立てて転がり出た。
しかし場の空気を一変させるには十分であった。
「……あれは?」
誰かが呟く。視線が一点に集まる。
アメリアも思わずその方向を見た。
床に落ちていたのは、袖に隠せるほどの短い刃。貴族の宴に持ち込まれるはずのない短い刃物だった。
「な、何をしている!」
ラルフが声を荒げるよりも早く、近くの兵が駆け寄った。使用人は慌てて拾おうとしたが、その手を掴まれ、床に押さえつけられる。
音楽が止まり、客たちのざわつきが波のように広がっていく。
「何の真似だ! 誰の命令でそれを――!」
ラルフの声が震えた。だがその視線の先で、押さえつけられた使用人の顔は恐怖に染まっている。
「ち、違うのです、旦那様……!」
「違う? では何だこれは!」
怒号が飛ぶ中、アメリアはその場に立ち尽くしていた。
足元が冷たい。素足に伝わる石の感触だけが現実を繋ぎ止めている。
――わたし、ただ投げただけなのに。
彼女の喉は乾ききって声が出なかった。けれども、すべての視線がいま、ラルフとその使用人に集まっていた。
「申し訳ございません……!本当に私は――!」
使用人がうわずった声で叫ぶ。
兵がその腕を押さえつけると、外套の内側から、小さな鞘が転がり出た。
「お前、どうしてそんなものを持っている!」
「ち、違うのです、旦那様! 私は……私は頼まれただけで!」
「頼まれた? 誰にだ!」
「そ、それは……」
使用人の目が泳ぐ。汗が額を伝い、視線は壇上にいるラルフから逃げ続けていた。
「この愚か者!」
ラルフは自ら階段を降り、兵の前まで歩み寄る。
「我が名を汚す気か! このような場で刃物を隠すなど――恥を知れ!」
その怒気に、使用人は完全に崩れ落ちた。
「か、家族を人質にされてるんです。あの……屋敷の出入り商人に……」
その一言に、客席がざわめく。
「外部の者?」「まさか、誰かが狙って……」
ラルフは奥歯を噛みしめた。
「なるほど……宴の混乱を狙ったというわけか」
彼は兵に指示を出す。
「こいつを拘束しろ。徹底的に調べろ」
兵たちが頷き、使用人を引き立てていく。
場内のざわめきはまだ止まらない。
だが、ラルフが静かに頭を下げると、少しずつ空気が落ち着きを取り戻していった。
「皆さま、ご安心ください。この不始末はすべて、私の監督不行き届きです。必ず責任を取ります」
その堂々とした姿に、客席の視線が変わる。
冷たい疑念が、次第に尊敬へと変わっていくのが分かった。
壇上からそれを見つめていたアメリアは、いつの間にか息を詰めていた。
――思っていたより、ずっと誠実な人だった。
「……あの、私……」
言葉を発しかけたアメリアの声は、緊張で震えていた。
ラルフは彼女を見上げ、かすかに微笑んだ。
「あなたが謝ることではありません」
ラルフの声は、静かで、それでいて会場全体に届くほどよく通った。
「むしろ、あなたが声を上げてくれたおかげで、事は大事に至らずに済みました。感謝いたします、アメリア様」
「……わたしが?」
自分の声が、情けないほどか細く聞こえた。
ラルフは、少し驚いたように眉を上げたあと、柔らかく息を吐いた。
「ええ。あなたのあの声がなければ、誰も気づかなかった」
「で、でも……私、ハイヒールを……」
言葉が続かない。
ラルフはふと笑った。ほんのわずかに、困ったような、呆れたような笑みだった。
「少々、斬新な方法でしたが」
その冗談めいた一言に、張りつめていた空気がふっと緩む。
アメリアは顔が熱くなるのを感じ、俯いた。
「……恥ずかしいです」
「恥ずかしがることではありません。あなたは勇敢でしたよ」
ラルフの声は穏やかで、どこか温かかった。アメリアの胸の中で、今まで重くのしかかっていた何かが少しだけほどけていくのを感じた。
●
事件の翌日、侯爵家とエルドリッジ家の間で協議が行われた。
結果として、婚約は白紙に戻された。
両家の面子を保つための判断――とはいえ、誰も強く反対しなかった。
噂の使用人は、取り調べの末にすべてを吐いたらしい。
やはり、敵国の商人に唆され、家族を人質に取られていたという。
しかし、今朝、家族はすでに無事に保護され、王国の保護下に置かれたと報告があった。
本来ならば死罪は免れない。だが、ラルフの温情によって命は助けられたと聞いた。
◇
数日後、彼女は改めてラルフと会う機会を得た。
応接室の空気は穏やかで、かつての舞踏会の緊張が嘘のようだった。
「……あの時は、本当にご迷惑をかけました」
アメリアは頭を下げた。
ラルフは少し驚いたように彼女を見たあと、ゆるやかに首を振った。
「迷惑などではありません。あなたがいなければ、大変な事になっていたでしょう」
「でも、私はただ……勢いで叫んで、ハイヒールを投げただけです」
「その“勢い”が、命を救ったのですよ」
彼はそう言って、わずかに微笑んだ。
沈黙が落ちる。
それは気まずいものではなく、どこか心地よい静けさだった。
窓の外で、小鳥の鳴き声が遠く響いた。
「使用人の家族は、無事だそうですね」
「ええ。王都で保護されています。彼自身も命は助かりました」
「普通なら死刑ですのに……あなたが助命を願い出たと聞きました」
「彼が悪人なら、あのとき刃を振るっていたでしょう。しかし、家族を守るために選んだ道なら、私が罰することではありません。それでもここ数年は牢からは出られないでしょうがね」
アメリアは思わず見つめた。
「……思っていたより、ずっと優しい方なんですね」
「そう言われるのは、少し照れますね」
ラルフが小さく笑う。
アメリアもつられて笑ってしまった。
舞踏会で感じた“重さ”が、今はもうどこにもなかった。
「もしよければ――」
ラルフが少し言葉を選ぶように話す。
「一からやり直しませんか。今度は、婚約者としてではなく、人として」
アメリアは驚いたように瞬きをした。
そして、すぐに頬を緩めた。
「……はい。私も、もう少しあなたを知りたいと思いました」
二人の間に、ゆるやかな微笑みが流れる。
テーブルの端には、あの夜片方だけ残したハイヒールが置かれていた。
アメリアはふとそれを手に取り、軽く見つめる。
「もう片方は、あの夜のまま……どこかに飛んでいってしまいました」
「では、次に会うときは、新しいハイヒールでも買いに行きましょうか」
アメリアは一瞬、何を言われたのか分からず、まばたきをした。それから、思わず小さく笑ってしまう。
「そんな誘い方、初めて聞きました」
ラルフも肩の力を抜いたように笑う。
「あなたとなら、そんな始まり方も悪くないと思いまして」
アメリアは手の中のハイヒールをそっと置いた。
「ええ、いいですね。今度は――自分で選びたいです」
「もちろんです」
ラルフの返事はどこか嬉しそうだった。
窓の外では、春を告げる風がカーテンを揺らしている。紅茶の香りが漂い、アメリアはそっとカップを傾けた。




