現代人類というディストピアの基本構造
2016年の米国大統領選挙以来、しばしば陰謀論として批判される「ディープ・ステート」というモチーフがある。国家の民主主義的な意思決定機構が完全に形骸化し、官僚組織のなかの超エリート層が決定権の実態を握っているという社会の見方であり、その特権層を「ディープ・ステート」と言う。米国については、一部エリート官僚が特権を掌握している事実はなく、その意味での「ディープ・ステート」は陰謀論だとされる。
しかし、お金がすべての金権政治はかの国の実態だし、その意味で「民主主義が形骸化している」ことは事実だ。実際、「自由と民主主義を守るため」というモチーフで正当化された近代の多くの戦争が、エネルギー利権に関する経済的な利益で説明できる。例えばなぜ2003年に大量破壊兵器の存在を捏造してまでイラク戦争を演出し、その後もシーア派による権力を強調して国家の分断と実質的な崩壊を維持しなければならなかったのか? 公正と幸福の追求としては手痛い失敗にしか見えない戦争の数々は、「エネルギー利権に関する経済的な利益」についてはすべて完全に合理的なのだ。
映画などでは、一部の具体的で独善的な「悪者」が、周囲を騙し信任を得ずに悪行を行うモチーフが描かれる。しかしそれは、最も幼稚な現実の見方だ。現実の「陰謀」を駆動しているのは大量の人間からなる複合的な過程であり、ある個人やある組織にほとんどの権力が集中しているわけではない。現代人類社会の秩序が国際巨大資本によって駆動されているのは事実だが、特定の資産家や資産家一族が覇権的な権力を備えているわけではない。ただ、先進国の庶民が物価上昇を恐れたり、企業経営者が経営状態の改善を望んだり、そういった堅実な足場があって、エネルギー産業は大量殺戮を実行する。誰かが明確な意図や悪意を持ったわけではなく、資本主義的構造の自然現象として、戦争は引き起こされ、また正当化の虚飾を施されるのである。
また、パレスチナ問題について米国が熱烈にイスラエルを贔屓している現実は、米国の高級官僚、さらには国際巨大資本にユダヤ系の人材が多いことを強く示唆している。このように、現代世界に国際巨大資本がどれだけ決定的な影響力を持っているかということは、ほとんどの人々の直観的な世界理解を遥かに超えている。逆に言えば、実は資本によって支配されているメインストリームのマスメディアは、半ば意図的に事実を隠蔽している。つまり、「ディープ・ステートというモチーフ」は、非常に解像度の低い雑な抽象化かもしれないが、それが指し示す現実はどこまでもリアルに実在している。
振り返ってみれば、「自由と民主主義と善良な一般市民」が「一般市民に不幸を強いる邪悪な権威主義」を次々に打破している物語として、歴史は語られつづけてきた。それは、1789年のフランス革命などの市民革命の時代にはすでに明確にあったモチーフだ。それはつまり、正義が悪に勝利することの繰り返しであり、幸福の増進、「進歩」という歴史観である。進歩史観だ。
しかし、その長い歴史を科学的に俯瞰的に見ると、資本主義的な自然現象として説明できる。封建主義を打倒したそもそもの市民革命自体が、中産階級への資本の移動と市場の自由化圧力として十分に説明できる。そして、その長年の結果は現代における金権政治の先鋭化であり、「善悪」のナラティブに関する情報支配の徹底である。すると、「進歩」を反復した末にそのようなディストピアに到達したというナラティブは自己矛盾している。この事実は、そもそもの「進歩史観」の事実性を確かに棄却している。
つまり、近代を通して人類は進歩していない。技術的にはもちろん明らかに進歩しつづけているが、法理が根本で定める公正を追求するシステムとしては、進歩していない。むしろ退歩や失敗と呼ぶほうが自然だ。つまりは、「自由と民主主義と善良な一般市民」が「一般市民に不幸を強いる邪悪な権威主義」を次々に打破している物語、は事実無根のファンタジーだと見なしたほうが科学的にずっと安全なのだ。
しかし、そのファンタジーは現代でも繰り返し用いられている。なぜなら、国際巨大資本にとっては、大多数の大衆を騙せればそれでいいからだ。事実を指摘する声には、ディストピア体制を転覆させる実力が伴っていないからだ。
そのファンタジーによって、「公正世界仮説」と呼ぶべき認知バイアスが大衆の脳において強化される。それは、自由市場原理の公的な合理性を繰り返し強調し誇張するし、さらには、利他的な倫理的責任を放棄する利己的な個人像を正当化する。
そして、人間脳にとって「自己正当化」は麻薬のように甘美だ。その麻薬はあまりにも甘美であって、ほとんどの人は抜け出せない。自己正当化は反作用として「他者不当化」や「他者悪魔化」とでも呼ぶべき認知構造をもたらすが、そのように他者を蔑むことは人間脳にとって甘美だ。しかも「正義な自分達」が「勝利する派閥」にも属していたらどうだろうか? より強い派閥に迎合しつづける習性を備えた人間という社会的動物の脳は、快楽の分泌を止めることがないだろう。
したがって、資本主義的な「公正世界仮説」は国際巨大資本の意図するところだが、その半面は、大衆の大衆性そのものから自己発生的に生じたものである。歴史的な封建体制では「徳治主義」が語られたが、実際に倫理的論点に興味があるのはごく一部の貴族階級だけであって、市民革命によって解放された庶民は、自己の動物的な利己性を肯定する「新しいナラティブ」を求めていたと言ってもいいだろう。そしてそれは、共感的な利他性にもとづく歴史的な善意の価値と尊厳を棄却し、自由や平等、そして民主主義的に制定された法律として、新しい倫理の基準を宣言するものであった。
現代では、法的正当性と倫理的正当性の実は決定的な違いに関する認識が限りなく希薄だが、それが希薄であることは、自由市場と利己的個人が利益と正当化を最大化するために道徳律を棄損する方法として、不可欠かつ自然なのである。
つまり、ディストピア体制のメカニズムは、単に軍事的・政治的な力による支配にとどまらず、明らかに、すべての個々人の脳内にまで及んでいる。
したがって、共産主義が資本家を批判するように、現代の「ディープ・ステート」を非難することは、システムへの非難としては一面的かつ欠陥品だ。そのような「他者悪魔化」によっては、事態は根本的な解決に到達せず、さらなる技術発展によって状況はより悪くなりつづける。言ってみれば、「善良な貧乏人は邪悪な金持ちよりも偉い」という感覚が社会全体に徹底されるほど「愛の尊厳」を復権しなければならないのだが、そのような革命の実現は、何よりも庶民自体の利己性によって最大の反発を受ける状況だ。
このディストピア体制において大衆が望む「公正世界仮説」ナラティブにおいては、「優れた者ほど栄える」というモチーフが徹底的に汎用される。それはもう、絶対的に自明な事実だとまで狂信されている。
例えば、賢い人ほど良い成績や学歴を得て大きな会社に就職しより多くの収入を得て長生きする、といった直観は公正世界仮説だ。実際には戦場のように、社会全体の利益を守るために自己犠牲的に貢献してきた人々が存在するため、価値ある人間ほど長く生きるという事実はない。例えば歴史的な戦争についても、「馬鹿な軍部が独善的に開始した」と強調し、「戦争の悲惨さを知っていれば話し合いで避けられた」と考えたり、「悪いことをした人々や劣った人々が、より正しいことをする人々や優れた人々によって滅ぼされた」と考えると、人間の脳にとっては楽である。
逆に言うと、「公正世界仮説という認知バイアス」を放棄することは、人間という動物の脳にとって大きな苦痛だし、不自然なのだ。より強い派閥に繰り返し迎合するという処世術を原理としている庶民において、そのような自己をメタに認知してしまうことは、まさにそのような「迎合」を自然には行えなくしてしまうからである。
そして、資本が要求するメインストリームのナラティブに反発するような者が、記者として成功するだろうか? あるいは、実際のところ強烈に権力的構造である教育システムにおいて、学者として成功するだろうか? 国民を最も愛する者ほど官僚として成功するのか? 正義感の強い者ほど警察官や軍人として成功するのか? 「公正世界仮説」は、実際のところナンセンスなのである。
例えば、既存の社会の不正義を批判する成功した思想家は多く実在する。しかしその成功は実は、「賢すぎない」、「真実に近づきすぎない」ということによって支えられているのであり、実際には、社会的に名を成す成功者よりも優れた人材は山ほどいる。
例えばこの文書は真実を語っているが、こういった内容のものが世間的に広い評判を得ることは、政治力学的にありえない。個々人の脳内のディストピア構造からして、起こらないのだ。
そして、この文書に限らず、優れた者が優れているがゆえに権力や成功から排除される現実など、現代にはいくらでもある。なぜなら、現代人類社会が全体としてディストピアだからだ。公正、「公正世界仮説」とは、現代の現実は逆に位置しているからだ。
そして、こういった事実は繰り返し隠蔽されるし、そのような事実を隠蔽することが、「公正世界仮説」ナラティブである。現代人類というディストピアの基本構造だ。
極端には、「他者悪魔化」された相手に庶民は憤り、それが滅ぼされるときに喝采して喜ぶ。世界が「より良くなった」と考える。しかしそのとき世界は「より悪く」なっているし、現代人類社会がディストピアだという事実を深く知る者は人々と価値観を共有できない。
そこにあるのは、孤独だ。そのように事実を知って生きる人生とは、何だろうか?
ディストピアにおいて、人間はみな不正義の奴隷であり、悪と教えられて射殺している相手は罪のない子供、それも自分達より優秀で善良な価値の高い者達を清掃しているのだ。
どんなに「人殺し」なんかと関係のない業務に従事していると言ったって、それは現実の認知から遠い安全地帯だというだけで、システムを通じて間接的に犯している罪は少しも軽くはならない。
苦しみを厭い死を恐れて本能的に幸福を追求するという自然な個人のあり方が、公正なきシステムのもとではすでに重罪だ。
そこにおいてもしも正義があるとするなら、罪に罰を下すところにあるのだろう。