表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/24

<9月19日 布石>

 ネットワーク上での戦いというものは、現実の戦いと違いかなりハイスピードで、かつ複雑なものだということを鵜飼・博は初めて体験した。

 現在の時刻は19時20分。部活をさっさと終了してから押領司のこもり切っていたメンテナンススペースに向かうと、室内の電気を暗くしたままずっと青白い画面を見つめ続ける押領司を見つけたとき「ひぇ!」と素っ頓狂な声をあげて幽霊との邂逅をした様子で飛び上がって見せた。

 プラネタリウムの様に真っ暗な部屋に大量の電子データを表示するウインドウが散布され、一切の躊躇なく大量のデータを『処理』する押領司の姿は、まったくといっていいほど人間味から隔絶されている。

 普段の色白の押領司に、隈の浮いた重そうな瞼の『子犬』を連想する彼とは打って変わり、青白い映像で埋め尽くされた世界ではヴラド伯爵を想起させるほどに、気味の悪い姿と言えた。

 眼前は祭壇の様に設置されたDPMCが存在し、低いうなり声をあげて、ひんやりとするメンテナンススペースの異様さを引き立てている。

 このDPMCの上にはステラが横たわり、大量のケーブルの海に飲まれている、と見えてとても怖気が走る光景だった。

 生贄の様に見えた。

 赤いケーブルは暗闇の中で青い光を浴びて濃い黒へと代わり、おとぎ話に出てくる悪魔が保有してる触手の如き艶やかさで、ステラに巻き付いている。

 実際には彼女の頭部や、頸部に存在する接続端子へ続いているものではあったが、『喰われている』という印象を与える。

 鵜飼は、この場に自分がどれだけ場違いであるか、は理解してたいが”友人”を放置することはできなかった。

 このところの押領司の様子は変だ、と同じクラスで最初に気づいたのは赤嶺だった。

 鵜飼も赤嶺と同じくらい、押領司とは話すことが多い――というよりは多くしていたが、まるで入学当時のレベルにまで人を寄せ付けないオーラを発する事は、薄々分かっていた。

 それでも、最近の拒絶具合は異常だと感じる。

 授業中の心ここにあらずという姿勢は一切変わらないまでも、赤嶺の言葉に上の空だったり、鵜飼との約束でバッティングセンターに行く事もすっぽかす。

 授業の合間にはすぐにどこかへ消えて、たった十分だというのに人目のないどこかへと旅立ってしまう。

 学生の一日の最大の楽しみである昼の時間を、もともと押領司は蔑ろにしていた。たまにパンを食べている姿を見たことはあるが、入学当初から、昼飯で食べてる事を経常的に見る事なかった。

 発育不良。

 背が小さいく、筋肉がないのはそれが原因だろう。学校での食事以外に、家でも同じらしい事は、何度か『尋問』して聞き出していたが、どう計算しても一日千キロカロリーに満たないカロリーだという事に、運動部で二千キロカロリー以上の摂取が必要な鵜飼だけでなく、普通よりは些かやせ型である赤嶺ですら驚愕していた。

 見るに見かねて、赤嶺が料理部のために自分の試作品の弁当を食わせる、というこじつけた名目で餌付けを行うこともしばしばだった。

 こうやってどうにか食事をさせており、その時間を確保するため、赤嶺と鵜飼は同盟を組む程度の関係性ではあったから、今回の『逃亡劇』でも相談することになる。

 赤嶺のとおり観察さしてみると、押領司は昼の時間にスッと居なくなっていた。

「最近は全く食べなくなった。拙者の腕が落ちたか……」

 などとしょげる赤嶺の姿は同級生としてもあまり見たくないほどの傷つきっぷりだった。男相手に何をいってんだ、と鵜飼は苦笑したが、友人からの拒絶ともとれる動きで傷つく事はよくわかった。

 問題なのは赤嶺の様に、一喜一憂する同級生とは違い一切顔に出さず、ただ、虚空を見つめ、授業時間が終わるとすぐにどこかへ消え、放課後になれば画面を見つめる生活を送っている同級生だ。

 深刻に考えれば、彼は拒食症と同じだ。

 なんらかの負荷がかかり『食べれない』状況が続いてる。人間関係のストレスかもしれないし、環境変化への適応できないストレスかもしれない。学校での疲弊具合もあるかもしれないし、季節性の心神耗弱かもしれない。

 赤嶺はそういったことを良く知っていて、鵜飼にそれとなく気にかけてほしいと言っていた。

 手には小さい弁当箱を持たせ、『放課後に少し腹が減ったら――あやつと食え』と遠回しに仕事を押し付けてくる始末だ。

――自分でやりゃいいのに。……まぁ、母子家庭じゃぁ大変なのかもなぁ……。

 鵜飼の脳裏に、夜中までバイトしている赤嶺の姿が思い出される。

 赤嶺の成績は良く、ルックスもいい。

 しかし変な言葉遣いと、変なファッションセンスのおかげで壊滅的に友人がいない。

 そうやって人を寄せ付けない理由も何となくなく、分かっていた。

――周りに合わせて金使ったりできねぇよなぁ。……小遣いだってねぇんだろうし……。

 鵜飼は比較的恵まれている。部活のが他の部よりもきついという事もあり、バイトは禁止である事から、いまだに小遣いはもらっている。

 本当に裕福な生徒と比べれば段違いだし、自由にバイトして月に五万くらいの自由な金があるやつも少なくない。

 それと比べれば赤嶺はかなり質素だ。

 購買部で売っているパンに変わりに自分で弁当を――母親の分もつくっているらしいが――持ってきていたし、自販機でのジュースの変わり水筒に麦茶を入れている。

 だからという訳ではないが、赤嶺は人を寄せ付けない事で最低限の出費に抑える事にしている。人間だから欲望は湧くだろう。

 隣でうまそうなスナック菓子でも食べてれば、鵜飼だって口の中に唾液は湧くし、腹は減る。隣で炭酸飲料を飲んでいる生徒が居れば、その味を想像して喉を鳴らす事もある。

 鵜飼ならばまだ小遣いでできる。

 しかし、赤嶺ではそうはいかないだろう。

 親が働いているとはいえ、生活費に学費もある。一定の補助があるとはいえ、随分と安いとは言えない。母親も正社員であるのであればいいだろうが、――どうもそうではないらしい。

 細かい家庭の事情は分からないが、足りない分は赤嶺が家に入れるしかない。

「拙者はそれでいいとおもうがなぁ。やりたい事も出来ている、生活もできて、最悪大学にだって行けるだろうし。それ以上望んでも何にもならんだろ」

 という言葉はどこか達観している。

 赤嶺の人を寄せ付けいことは、建設的に『生きる上必要』である処世術の一つだと鵜飼も理解している。

 が、押領司は違う。

 『見えていない』

 押領司は集中しすぎている。何かをするために、ずっと同じことを考えている。

 登校中、授業中、休憩中、帰宅中、睡眠中であろうと考えているのだろう。

 睡眠時間が少ないのは押領司のひどい顔を見ればわかる。学校でも居眠りこそいないものの、意識がこちらに無いことは誰もが知っている。

 教師ですら最近は気にしない。

 テストは及第点を超えているし、得意科目によっては文句のつけようもない。手に余っているというのが教師陣の考えだろうし、それを指導しようにも『国』からなんらかのお手紙が届いているらしく大人しくなっていた。

 露骨なのが、鈴木・るみだろう。

 元々、体育教師の伊藤とは犬猿であったが、ステラ・フラートンの内容でももめていたらしい。もともと留学生に寛容であった鈴木ではあるが、今回の件については目の上のたん瘤と言わんばかりに、『触らない』と決めているらしい。

 普段では皮肉交じりに押領司を授業中に指して、恥をかかせてやろうという魂胆丸見えの指導だったが、ここ二週間近くは一切のアクションもない。

 それが、この押領司の『思考状態』を邪魔しないための措置なら、鵜飼には良くないと思えていた。

 押領司が何に思考を使っているのは知らない。

 今まさにこのメンテナンスルームで起きている事を毎日、考えていたとしても、鵜飼には理解が及ばないのは事実だった。

 鵜飼も必修授業であるため生徒が受ける程度の情報技術は習得している。

 簡単なアプリケーションは作成できるし、自分でプレゼンテーションや、データベースの構築程度などの初歩的な技能はなんのことはなしにできる。

 とはいえハードウェアに関しては素人であったから、『……? なにHSSDって?』といって練習撮影用に用意されていた記録用デバイスを水洗いしてみたりしたことはある。

 尤も教師に頭をたたかれた記憶は残っているので、二度はやらないと誓っているが。

 だが、押領司は違う。

 簡単なアプリケーションの域を超えていた。

 押領司が見ている画面の動きはまるでゲームの世界その物であったが、その内容の一片も理解ができない事に鵜飼は絶望を感じていた。

 ゲーム画面であれば、動きと操作方法でなんとなく何をしているのかは理解できる。

 暗雲の中に大量の光点とポリゴンが存在する中に、おびただしい文字の滝が画面の端々に表示されては消えていく。こんなものを押領司は操作というよりは、『反射的』にキーボードで処理していた。

 画面上ではポリゴンがいくつも飛び交う3D映像ではあったが、個々のポリゴンはゲームのようにかっこいい姿をした勇者の姿や、かわいらしい魔法使いの姿ではなく、基礎は光点に識別用の着色――青、赤、黄、緑、黒に分類され、時折白色がある――されているだけだった。

 それらが立方体、正四面体、正六面体の様に立体構造を保有し、『何等か』の形状を取っているのが見える。プログラムの構成をベンゼン環に似た様な形状で、視覚化したもの、だという事はぎりぎり鵜飼も理解できた。

 光にはそれぞれ8文字のタグが付いていて、非常に速い速度であちこちに飛び交っている。

 画面を見つめたまま、鵜飼に気づいているらしい押領司は重むろに口を開いた。

「つまりさ、彼女のデータに対して深層化に行くにしたがって自己防衛プログラムが常時走っているわけ。

 これらの防御プログラムの構成は、一律同じ、という事ができない。というのも鍵が複雑であればあるほど、外部に情報が洩れる心配がないから当然だけれどもさ。

 ――そりゃ、ステラさんの個人データを簡単には閲覧させてくれるわけがないのは事実でね、日記帳を見るのに相手の許可がいるのと同じってわけ。

たとえ、マークの要望であっても『彼女が望んでいない』ことを無理やりするのは、結局荒っぽい手口になるんだよ。

金庫破りと同じで、無理矢理搾取する、というのはハイリスクであると同時にハイリターンだ」

 溜息をついて押領司は肩をがっくしと落とした。無理に何をしているのかは、鵜飼は理解できなかった。

「ステラさんに協力してもらって、『開示』することはできるんだけどそれも『個人データ』の同期まででね。本当に欲しいものはそういった『記憶』の彼女じゃぁなわけ。

 機械種の構成のうち、基礎プログラムにあたるアルゴリズムは、基礎プログラム準拠なんだけれど、そこに派生が発生しているはず、と考えられる。

 《IMS》の影響で自我の三竦みを超越するような異変はおきないまでも、彼女は『発症』と同時にネットワークから隔離されているから、基礎プログラムを『補完』するために幾度となく自己診断に基づき『改編』されちゃってる。

 これをくれ、って言ってもやはり彼女が『同意』――表面上の同意以外の――しないといけないんだけど、それって、人間でも夫婦関係になってもかなり無理だと思う訳」

 溜息を一つ。

「相手に深層心理まで吐露する行為は普通できない――とおもうんだけさ」

 忌々しそうに口をとがらせて押領司は画面を操作する。

 点滅する光点を映し出す画面には、消失した以上に多くの光跡が映り、巨大な扉のようなオブジェクトを形成する光点の渦に突っ込んでいた。

「ハッキング、と言ってしまえばそれまでなんだけどさ。ネットワークに侵入してデバイスに記録されているデータを抜き出す一般的なものと違って、ネットワークへのアクセス権はもらっているから簡単ではあるんだよね。

 ――ただ、自分の記憶領域内には多重のプロテクトが存在しているっていうのは事実でさ。これFRBのサーバーに不正アクセスして、二千万ドルせしめるのとやってること大差ないきがするよなぁ……」

 押領司は天井を見上げた。声が上ずり、年齢を重ねた開発主任の様なかすれた声でうめき声をあげる。

 鵜飼は想像に及ばない技術の壁にぶち当たる押領司の呻きに同感はできず、追従のために「そうかぁ」などと適当に相槌を打つことしかできない。

 手に持っていたはずの赤嶺の弁当と、おともに買った自販機でキンキンに冷えた炭酸飲料のことなんてすっかり忘れたまま、押領司の後ろから画面の成り行きを見ることしかできないでいた。

 なんとも歯がゆくて、なんとも無力だと鵜飼は思った。

 一瞬でいい、自分の脳に機械種の様にデータを突っ込むことができるのであれば、彼に話を合わせるように知識を得られるはずなのに、と悔しく思えたが、それができないからこその勉学だということを嫌だというほどに思い知らされた。

 ほんの一瞬でいい。

 一時停止ボタンを押して、飯だけ食わせてやりたいとは思う。

 が、そのためのボタンも、スイッチも、手段も想像に及ばない。

――だから、オレには分からない。

 知識的に足りないことを簡単に補える方法は古代から現代に至るまで、詰まるところは自分の記憶として残す事だ。

 石板に彫り、共通認識を高める方法や、活版印刷により広く周知することも、ネットワークによって相補的にブラウザで共有することも、全部が知識をどこまでも保有するためのライブラリの想像でしかない。

 確かに個人で言えば、安価になった外部記憶装置を主軸にパーソナルデータベースは存在し、気になっていることを書いたり、実用的なところでは授業の内容を書き記して仕舞っておくこともできる。

 勉強というのはすなわち、膨大な知識の中から正解を引き出し、取捨選択することに成り代わった。

 時代の変革により『思考』という行為すら、人間は手放しに機械化させることに成功している。――一時代を築いたAIという技術は、人間の思考や、『努力』といった概念を払拭し、新たなライフスタイルの確立へと導いていた。

 背景には、人口に対する子供の数が少ないことが原因だ。全員が一定水準以上の技術者にならなければならない、と国策で行われた教育方針の改定――あるいは改悪――によって、試験における参考書の類の一環として個人用のデータベースの閲覧も許されていることがある。

 だが、『調べる事と識っているっていう事は違うよ』と押領司なら笑うだろう。

 押領司は古くからの職人と同じだ。自分で思考し、自分で構成し、自分で作成し、自分で修正し、自分で管理できる。

 これは、思考能力を機械に頼りっきりになった『人間社会』では比較的少ない人々だ。

 鵜飼の様に、膨大な知識から『探し出す』法が多い。

 であるから、ツアーガイドは消えて端末だけで世界は旅することができるというものだ。

 それでも鵜飼にとっては今まで培った経験から『調べる事が、自分の知識の延長線上』である、と考え勉強というのもはそういうものであるべき、と固定観念を持っていた。

 押領司を馬鹿にしていたわけでもない。

 『非効率』な奴だな、と思っていただけだった。

 が、今この場では、その非効率な奴の方が、『効率的』だと思っていた自分よりも知識も経験も能力も上だった。

「――まじ、」口にするべきかわからなかったが、鵜飼は口を閉じておくことはできなかった。

 しかし、それを口にだしてしまうと負けを認めた気がして、言う言葉を改めた。

「なにが起きてるのかわからない」

押領司は一度目をシパシパと瞬いた後に小さく頬膨らませて口から噴き出した。

「……ぷっ」

 何がおかしいのか、と押領司に視線を一瞬だけ懐疑的な視線を向けそうになったが、気づかれない様に、いつも通りの『馬鹿を装う』事にした。

「いやーまじ、なにこれキラキラしてんだけじゃん。イミフすぎてやばい」

「分かってたらさすがに――俺がヤバイ」

「なんだよそれ……」

 あきれられた、と思ったが当然というように口元に笑みを浮かべる押領司に腹がっ立ったが、鵜飼はそれ以上の文句は言わない。

 まだ、押領司は鵜飼の事を友人と思って砕けた口調で話してくれる。

 それがなくなったら、『どこか遠くに行ってしまいそう』な気がして、少しだけさみしくなった。

 押領司は画面を見つめたままだ。すでにこの状況でも頭の中の大半は画面の世界に居るんだろう。

「防御プログラムで構成された障壁への攻撃っていうのはさ、単調なもので簡単に言ってしまえば準備している解除プログラムを決めた順序通りにたたき続ける作業だからさ、暇っちゃー暇なわけ。まぁ、このとおり、……」

 押領司が両手をひらひらと動かしながら

「今の俺は見張っているってーわけさ。この中にながれるデータの趨勢を見極めてさ」

 でもね、と背中を丸め軽く肩甲骨を伸ばしながら押領司は、小さい言の葉を重ねる。

「――相手は量子コンピューター並みの計算速度で、……こっちは自前で作ったゴミ見たいなプログラム。

 開発速度も、更新速度も、対処速度も、計算速度においても何一つかなわない。

 一回使ったプログラムは対処プログラムが構築されて、次の時にはすぐにはじき出される。――多少のコードをいじっただけじゃ、スクリプトとしての論理体系が同じだから亜種扱いされてすぐさま対応。まるっきり違う方法でのアクセスというのを行うのは限界を迎えるのが落ちさ」

「……でも、依頼されたんだからその辺って管理者権限みたいにいかないの?」

 素朴な疑問。バックドアと言わず、表からはいればいいのにと。

「あぁ、いかないね」

 押領司は目を閉じて目頭を押さえた。

「それこそ”心”だけの開示なら、まぁいけるとは思うよ。データベースへのアクセス権として今回の場合であれば、ステラの開示権限を持っている本人のマスターキーのコピープログラムを作れば、《IMS》の発生するクオーツ振動のアルゴリズムだけ解析できれば、32,768パターンの三乗の適切なパターンを割り出すこともできるだろうね。それを使えばそこまではいける――んだけど、その先はさすがにね」

「ってーとこの扉の先には何があるわけ?」

 鵜飼に押領司は歯を見せて笑った。

「さっきも言った通り、”自我”の一部だよ」



「”自我”っていうのは、そもそも後天的に作成された概念だとはぁ、おもうけれどさ。

 記憶媒体として存在している、経験値ほ保有するためのストレージ。

 “心理的要因”という乱数発生により、正誤判定に揺らぎをもたらす《IMS》――inorganic mental structure――無機精神構造体。

 躯体の制御全体と基本的な思考パターンを管理するための基幹プログラム。

 これら三位一体として自我、というのが存在しているわけだよねぇ。

 ネットワーク上にあるデータベースと、体に存在する記憶媒体によって複合的に作成されているのもひじょーに興味深いさぁ」

 押領司はそよ風に乗ってやってくる言葉に同意して返す。

「とはいえ、簡単にそれらの情報は閲覧できないと思います。心だけであればアルゴリズムの解析させできればできる。それではあまりにも不完全だろうと――。

 記憶の入手については、難易度は高いですが、こちらがは旧来のハッキング行為として行えるものだから問題はないですね。いや、難易度低くはないんですけど、まぁ、……最悪同期するという名目で機械種一体がいれば可能かと思いますし……。

 ですが――」

 朝比奈は白衣にをだらしなく着て、言い淀む押領司を興味深そうに見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「そう。基幹プログラムってぇのは、どこにあるんだろうねぇ。

 ここの体の中にあるメモリーでもあるし、記憶としてバックアップはとられているだろうし、だというのに、原則、本人すらそれをいじれないようにされているってぇのは当然の事だとしても、外部からの接続なんてましてや……。入口が見つけにくいんだよねぇ」

 再びふんわりと、やわらかい風が大きくあけられた窓から入ってくる。

 春の萌える匂いは正直、押領司は苦手だった。少し柏餅を口の中に突っ込まれたような草っぽい匂いというのが、なんとなく葉脈によって口の中がかき回されているような印象を受ける。

 知ってか知らずか、朝比奈は渋い顔をする押領司の事なんて気にせず、ビーカーに入れたアイスコーヒーを口の中に流し込みながら、くちゃくちゃと饅頭を頬張っていた。

「行儀が悪いっていわれません?」

 まるで子供用の喜々として両手で饅頭を持ちカジカジと端っこから噛んでいる姿に、年相応の落ち着きさががなく、押領司は呆れてそう口にしてしまった。

 朝比奈は気を悪くせず、ひひ、と喉を鳴らす。

「おやぁ、押領司クンはそんな育ちがよかったのかねぇ? いやぁ、嫌みじゃないなよ。私はほら、ヒモジイ生活を昔にしていたから、綺麗に過ごすなんてことはできないんだけどねぇ」

 ククッと喉を鳴らし、朝比奈はビーカーを置くと、両手をパンパンと払った。

「まぁね。行儀のよさ云々というのは、正直、人間の後天的獲得した人間性とマッチしていると言われているから、育ちが悪い、育ちが良い、という指針になるのだろうねぇ。

 とはいえ、億万長者のドラ息子がビザをくちゃくちゃ食べて、口の周りを真っ赤にソースでよごしてるなんて姿はぁ、良くホームドラマでみるだろぅ?

 育ちと、裕福さは必ずしもイコールで形成されるべき事象じゃぁないよねぇ」

 朝比奈は嬉しそうに言う。

「だからさぁ。今回の事にしてもそうさぁ?

 押領司クンはうけちゃったんでしょ。その自我を確かめるってことをさぁ。

 ――あのさぁ、自我を確かめるって言っても、入口が見つからなかったら何にもならないんだよぉ? 機械種たちも自分たちの構造を完全に熟知している――ってぇ者は少数だろうしね……」

 頭痛がするような沈痛な表情で押領司は頭を抱えた。

「それって、本当に1か月でできるんですか?」

「まー……普通は”無理”っていうよねぇ」

「ですよね……」

 大きな溜息をつく押領司に、朝比奈も同じ重さで肩を落とす。押領司としても現状の確認をわざわざ口頭にして行ったのは共感が欲しい、という欲求であることくらい朝比奈も理解しているらしく、普段は憎たらしい口調で煽りを入れてくる中年ではあるが、今日はずいぶんとおとなしい、と感じた。

 しかし、それも一瞬の事で再び音を立ててコーヒーをすすりだす。

「やっぱ他人事だと気分は楽で?」

「そりゃーぁ、私の事じゃないしねぇ。それに、やる、やらないってことの最終判断は――ほら、結局は押領司クンにバトンがあるわけじゃない?

 だったら、とやかくいう事でもない、っていうのが教師としての考えかなぁ」

 いいかい、と朝比奈はビーカーをゴトンとテーブルにおいて、椅子をギコギコ鳴らしながら押領司にすり寄ってくる。まるで怪奇映画のように足を使わず、念動力でも使っている様な器用さだ。

 目の前にまでくると、神妙な表情で、指をビシリと立てた。

「でも、後悔はあるねぇ。

 人に教える事、というのは自分も学ぶことが多いからねぇ。こうやったらいい、ああやったらいい、っていうのは常に考えるんだよぉ。

 次いで訪れるのは後悔って決まっててねぇ。あれが失敗だったかなぁ、こう言ったほうがよかったかなぁ。――足りない言動ばかり思い出してしまうものなんだよねぇ」

 でも、と指をひっこめて、背もたれを抱きかかえるように前かがみになりながら、右手で頬杖をついた。

「私みたいなオジサンには、そういった後悔がどれだけ詰まっていても生い先短いからいいとは思うけれど、君たちはできたら『私みたいにはなってほしくないなぁ』と思いながら考えるのさ。

 ……何が? と疑問になるだろうけれどさぁ、そこなんだよぉ。考える、悩む、という点だけならばいくらでもいいさ、でも後悔を伴いそれに縛られる思考っていうのはよくないよねぇ

尚更それがトラウマにでもなろうことならねぇ」

 大きく朝比奈はため息をついた。

朝比奈のこんな姿は初めて見たからか、押領司は言葉を失して、ただ白衣の教授のとぼけたような表情の中にある、真剣な視線だけを外せないでいた。

「教師、大人、同僚、なんでもいいけれど、私は多くの助言を与えてきてしまっている、というのも事実なわけ。

 そりゃそうだよ。

 教えを乞う者に対して教えるのが仕事だからさぁ。でもそれって、本当に彼の――あるいは彼女の行くべき未来だったのかなぁ、って後悔するわけ。一言がすべてを変えるとは言わないけれど、判断が私の言葉を切っ掛けになってしまったら、結局『私の判断』なんだよねぇ」

 押領司は何となく朝比奈が言わんとしている事は分かった。一度小さくうなずき、

「決断は本人がするもので、あくまでも教えるというのはそういう道である、ということを説くこと、だという事ですか?」

 朝比奈は笑みとも、嘲笑とも、自嘲とも取れない笑みを浮かべた。

「そうだと、答えを簡単に導きだせてしまうのも、押領司クンのいいところではあるけれどねぇ。――いや、そういう事ではあるよぉ。私はあくまで標識であるべきなんだ、とね」

 朝比奈は背を伸ばし椅子にきちんと座りなおした。

 ぎしりと椅子は軋み地面を蹴る勢いで、古いキャスターがキュルキュルと音をたてて自分の席へと押し戻していく。

 こういった子供っぽい行動は、朝比奈が憎めないと思える一要因ではあったが、押領司にしてみればこの場くらいは大人っぽくしてほしかった。

「ずいぶんと顔に出すねぇ。今日は。まいいけれど。

 私としては、君の考える道の先に何があるよ、と教える事はできても、それを”やる”か”やらないか”は自分の判断であってほしいねぇ。

 たとえそれが犯罪であっても同じ事さぁ。考えてもみたまえよ。交通法規は常に定められているが、信号を守ろうが守らないとしても本人の意思だろう? 危ないよ、と教師は教えるが大人になれば安全確認をして勝手に渡ってしまう」

「それはそれでいいんでしょうか?」

 押領司の私的なこぼしに朝比奈はケタケタと笑った。

 しかも間髪に入れずに。

「ハハッ。当然そりゃよくないでしょ。『ルールは、ルール』だとして、どんなに”面倒”でもやるべきだねと私は思うよ。

 でも百人そうか、と言われればそうならないのがこの世の中で、人の世界じゃない。そんなのタイプBの様にすべての個体が規格通りの行動をするとは言えないのは、押領司クンなら痛い程、十分に知っているだろう? ん?」

 心当たりがないとは言わせないといわんばかりに朝比奈は自分の眉間から押領司の目に向かって指を銃の形にして向ける。

「生徒でもいるのは見ているじゃない。ちょっと遅刻してもいいや、今回はレポート忘れていいや、授業中に端末でゲームしていればいいや。減量中のアスリートだって、今日くらいはお菓子をたべちゃった――なんて失敗談あるくらいだからねぇ」

「それと同じなんんでしょうか……?」

「同じだよ。『ルールは、ルール』だからねぇ。法律、規範、規則、基準、校則、会則、社則、社訓、そして、共通認識。どれもが同じ、本当は守るべきルールだろう?」

「だから、」朝比奈は首をポリポリと掻いて、忌々しく文句を続けた。

「誰もかれもが同じにならなければいけない、ってぇ社会が作られて、圧力があって、同調しろって目が襲ってくるんじゃないかぁ。

私は随分とチャランポランだからねぇ。同調圧力には屈しないけれど、すべての生徒がそうなれる訳でもなかったからねぇ……。何人も、そうやって社会に潰されちゃったのは見たことあるもの。

最悪は自死だったねぇ。……さすがに香典だけは出したが、仏前に顔向けはできなかったというものだよぉ。

親よりも学生の指導した1年の間は過ごした時間が長かったんだから、何か『教えられた』んだろうなぁと後悔ばかり経ってしまうよ」

「その人は――どうして?」

押領司に朝比奈は一瞬鋭い視線を向けた。言うか、言わないべきか、その一瞬の中で押領司の表情、姿をみて判断した事は理解できた。

「まー、それは個人の話だからどうでもいいかなぁ」

 簡潔にはぐらかした。

 押領司も突っ込む事はしない。朝比奈にとって嫌な思い出の一つだという事くらいは良く理解できた。

 妹の時の感覚が何となく思い起こされる。

 淡々と進む仏事。

 淡々とお悔みが出される来客。

 淡々とお礼をする家族。

 感情を露わにした、妹の同級生。

 自分も胸の内にいくつもの渦巻く物があったのに、鯨幕の規則性に合わせて呼吸を落ち着かせるだけだった。

 着なれているはずの中学の時の詰襟は、どうしても冷たく、どうしようもなく息苦しい。

 手が、足が、石の様に無気力で苛まれているのに、周りの人に『気を使わせない』ために自動的に動いていた。

 気づけば口も動き、教師にお礼を言っていた。

 涙は流れなかったが、常に胃がキリキリと軋んでいた。

 食事は手につかず、なんとなくやり過ごすために水だけ過ごす。二、三日もそうであったら、さすがに意識を落としそうになったので、ちょこっとだけパンを齧った。

 しかし、すぐに吐いて、また食べなくなった。

 あぁ、あの時の記憶を思い出せば、確かにと朝比奈に対して同情する気持ちはある。自分に直接関係がない生徒という間であっても、朝比奈の言う通り一年の中では毎日顔を合わせ、話をし、研究をしていたというのだから。

 家族と同等くらいに親近感を得ていたとしてもおかしくはないだろう。

 その押領司の気持ちを察してだろうか、朝比奈肩から力を抜いて、ほほ笑みを浮かべた。

「個人の話、として『君』に共感性を生み出してしまう恐れがあるからねぇ。この場合には、私はぁ、決して口にしてはならいかなぁ。――”彼女”と同じ様に消えてしまわれたら、正直、」

 朝比奈は柔らかいほほ笑みから、弱い笑みに変わった。少し悲しそうな、遠いところを見ている視線だ。

「悲しい気持ちはもう十分なんだよねぇ」

「……今回の事も、間を取り持ったというのはそういう事もあってですか?」

「……まー、なかった、と口で言っても根本にはあるんだろうねぇ」

 溜息をついた朝比奈は心底自分のしたことを悔やんいる、というのがにじみ出ている。

 いくらハードルの高い事であっても、たかが高校生の生徒に押し付ける事案では無いことは朝比奈であろうと分かっているはずだ。

 であっても、押領司の人権を無視するほどに、『死に対して恐怖心』があるのだろうか。

 はたして、どれほどの感情なのかは押領司には推し量る事は出来なかったが、それとこれは別だ、と思えて仕方なかった。

 冷たいかもしれない。相手の好意は、好意ではなく、押し付けだと押領司の気持ちは告げている。

「といっても、俺の事は別でしょう。朝比奈先生がどうにかしたらいいじゃないですか。それこそ研究室で有望な方だっているんでしょうし、俺は先生の生徒ではないんですけど……」

 口をとがらせる気もよくわかる、と朝比奈は笑う。

「そう言ってくれないでほしいなぁ。――まっとうな言い分ではあるんだけれどもねぇ。でも、押領司クンがこれから生きる、という事を考えるには、うん、必要なことかなぁ、と……」

 押領司は強く朝比奈を拒絶はしなかった。

 否定の言葉も、覆す反証も、粗を探せばきっと見つける事はできた。本当に朝比奈が押領司の未来に何かをかけている、そんなことはあり得ない、押領司自身が十分に分かっているつもりだった。

 生徒でもない。

 子供でもない。

 ただ、顔見知りなだけ。

 友人でも、同僚でも、同じ立場でも、ライバルでもない。

 二人の間には結局一つの共通項しかない。

「有名にならなければ、」と押領司は口にしかけた。

 しかし、朝比奈は違うぞ、と手で素早く制した。

「有名、無名。どういう状況でも関係はないというものさぁ。人が生きる、という事の答えを押領司クンはまだ知らないし、――私も知らない。だからこそ、あがき、模索するんだろう? 

だから、私の行き詰った思考の壁を飛び越えていったんだろう?

 ネットワーク上での事変にいち早く動いたのは、間違いなくアメリカ国防総省だったけれどもね、誰一人、あの天才集団を持っても太刀打ちできなかったんだよ。あの事件をモニタリングしていたにもかかわらず。趨勢を常時観察していたというのにさ!

 それはそうだろう? 量子コンピューターの並列化が行われた時点で、すでに、計算策度でタイプBに勝てる点は存在していないのだからねぁ」

 朝比奈はビーカーを左手で持って、ペン立てからガラス製の撹拌棒を取り出す。

 対して綺麗でもないそれを半分ほどのコーヒーにぶち込んで底面にたまっている砂糖をゆっくりと混ぜ始めた。懐かしそうに目を細めて、その様子を朝比奈は見る。

「コンピューターという物がね、どうして機械の域から逸脱して、『存在する』ものに変わったのか、というのは私にとってとても不思議に思えてしかたないんだよねぇ。

 ――彼らの基本情報は2進数で刻まれている一次元の存在だろう? 本来は一次元、つまり信号としてはオンとオフの形態なんだよねぇ。それが、どうして、人間と同じ三次元の物体としていつの間にかいるのかなぁってねぇ」

 答えない。答えられないから押領司は押し黙る。

 押領司には回答する知識はない。

「そりゃ誰もが答えを知っていないよ。人間のエゴの産物、と言ってしまえばそれまでだけれども、人間は、人間に変わる人間らしい機械を創造した時点で、彼らにとっての神に本来はなりえたんだろうねぇ。

 でも、彼らは機械の種族だ、という意識を持ちながら、人間を創造神とはしえなかったんだよぉ。信仰心がプログラム上存在しないから? それらを内包しての《IMS》なのに、矛盾生成機なのに、どうして、なんで、って誰もいわなかったんだろうねぇ」

 押領司には回答する知識はない。

 探る。

 しかし、見つからない。そうであったことを理解していたとしても、朝比奈は回答までの時間を待つ。

 仮に一時間でも、一日でも。

 それは標識だと比喩した朝比奈が、相手に回答を押し付けないための手法。

「俺には――わかりません」

「そう、」

 朝比奈はうなずく。撹拌棒の動きをゆっくりにしながら、徐々に止めた。

「だぁれも知らないんだよ。知らないのに、知ろうともしない。私たちの隣人を『理解しないで本当の平和たりえるのか』い?」

 あぁ、と押領司は納得する。

「私の寿命は平均からみてあと――そうだねぇ20年あるいは25年というところだろうねぇ。医療が進歩っしても私は延命措置を死に際までお願いしたい、とは思えない性質だからね。きっと死ぬ前に、医者に頼むだろうねぇ。無意味に生かさないでくれと。でも、キミはその先も生きていくんだろう?

 誰もわからない、誰も理解していない『隣人』と共にさ。

 人間同士ですらわかっていない事があるというのに、同じ様な思考する隣人をどうやって社会の中にいれていくのかねぇ。

 もう、何年にもなるのだよ? 頭のいい技術者がいくらいたところで、制御なんてできやしないよ。彼らはすでに、彼らの社会を作りだしてしまったのだからねぇ。

 現在までの間に、同じはずの人間で同士で、戦争というのは何度起きて、何度終結したのかなぁ。

 しかし、人種、言語、信仰、貧富、土地、すべてで和解できた事なんて……ないだろう?」

 押領司は朝比奈に向き直る。

「――久々に先生してるんですね」

 へへ、と朝比奈は、押領司の自然にこぼれた悪口を笑う。

「それは、そういう日もあっていううものさぁ。作るだけ作って終わり、なんて私は絶対に認めてはいけない、と思っていたんだよねぇ。

それはさ、フィリップス規則ができた時『あぁそうやって逃げるだけなんだぁ』って残念に思えるほどの衝撃があったのは事実なんだよねぇ」

 朝比奈は口もつけずビーカーを卓上に音を立てずに座らせる。

「でも、それが大人でしょう? そうやって逃げて未来に全部押し付けるから、大人が汚いって俺たち『子供』は思うんですよ。責任なんて放りだして、言い訳だけ並べるからさ」

 喉をクククとならして、朝比奈が苦笑する。

「――耳が痛いねぇ。……しかし、」

 押領司の苦言に笑みを浮かべて朝比奈は左のこめかみを親指でぐりぐりと押し込んだ。

「大人というのはそういう卑怯なものだからしかたないねぇ。ルールを作り、自分たちでやりやすいように社会を作る。これが私たちの国の民主主義の根幹じゃぁないか。理想も、綺麗ごとも、」

 押領司が言葉を遮った。

「他人の幸せよりも自分の幸せが重要で、三枚舌で渡る事が大人の姿ですからね。俺はそういう卑怯さだけは見習えません」

 かーっと、朝比奈は頭をぐしぐしと掻きむしって押領司につまらなそうに、声を荒げた。

「それだから優等生なんだよキミは! まったくつまらないというものじゃないか! この世界で最も美酒を得られるのはね、他人を出し抜いて、自分が相手よりも優位な状況でいるときに味わうものなんだよ! だからアスリートの大会では勝者だけが得られる栄誉なんじゃぁないか!」

「それは、出し抜くという意味が違うようなきがしますけれど……」

 あきれる押領司に朝比奈は違うと首を横に振った。

「分かっているという事だけを世界のすべてと思ってはいけないってさぁ」

「いえいえ、」今度は押領司が右手を左右に振るう。

「先生の固執しているところは、結局のところ個人的なコンプレックスによる敵愾心じゃないですか。俺の事はまだ壁をそれほど大きく持っていない状況だからこれだけ話をしてくれますけど、そうじゃなければまったく聞く耳を持たずにさっさとQEDして終わりでしょう?

 論破というのは端的に言ってしまえば、無数にある一つの答えを提示して、言いくるめる行為じゃないですか。俺から見ればカオス理論と同様に回答を一つに限定的にするような数学、という学問は物理学と比較して現実離れしているものだと思いますし、数学の派生理論であるコンピューティングというのが『誰かの描いた論破した世界の破片』に思えて仕方ないんですけどね」

「あはぁ! ずいぶんと詩人しゃぁないか!」

いいね、と朝比奈は両手をパンッとたたいた。椅子の上で器用に小躍りする様は本当に子供だった。

「キミの考え方自体を私は、否定しないけれどもね、数学を一つの始点とするのはそもそも私たちが考えているコンピューター、ひいては機械の種族という存在を論じるには狭義すぎるかもしれないねぇ。

 機械の生命学問、として私は機械生命学というフィールドを作成したけれども、その元になったのは、電子工学、機械工学、生命倫理学、生理学、医学、そして哲学の分野になるわけだ。どれとも結びつきはあるけれども、結局一つのフィールドに押し込める事ができないから、全部ちゃんぽんにした新しいものを用意するしかなったというのが事実だけれどもねぇ。

 だからって、数学だけが全部の学問の始点かい?

 いくつかはそうだろう、と言えるけれどもねぇ……。

 例えば医学の始点は数学ではなく生命科学の基礎分野だし、解剖学や、薬学も含めた広大な――それこそ宇宙に近似するほどの有象無象の学問の集合体であるのは事実じゃない。

 放射線技師の考える世界だけで、外科の医師の考えを推し量る事はできないし、脳神経外科の考えを産婦人科の医師が同じ様に理解できるかといえばそうでもないよねぇ」

「詭弁を使うのはやめましょう。そうやっていることがすでに反証になる」

 指摘をされてもやはり朝比奈は嬉しそうにはしゃいで見せた。

「違いない! これこそが私のコンプレックスだよ! 他人に蔑まされる事がほとほと嫌いな性分なのだから、相手の上からガツンと言えない状況になれば、なるように下駄をはかせる――すなわち押領司クンのいう通りという事じゃぁないか」

「分かっていただけた様でなによりですが、――こんな下らん事は脇に置いておいてですね」

 押領司は自身の《サテラ》を教授の卓上にある大き目のディスプレイと同期させる。

 重い溜息をゴム製の床に向かって大きく吐き出す。

 画面上に映し出されるのは機械種の基幹プログラムの入口。

「あぁ、プロテクトだねぇ。これはかなり強固で、ちょっとやそっとじゃぁ入る事はできないっていう」

「そうですね。その”普通”には無理な代物をRoot権限なしに対処しろというのは酷な話ではありませんか?」

「ははぁ、管理者権限を渡せって?

いやぁ……期限付きといえども、これの管理者権限は渡せないんじゃないかなぁ」

朝比奈は口をへの字にして腕を組んだ。

「仮にここに入っているコードを自由に変えられてしまい、最終的に誰かと一瞬でも同期されてしまったとする。そうするとそのコードは瞬時に世界中のタイプBたちに伝播することだろうねぇ。それこそスペイン風邪の様に」

「――スペイン風邪はよくしりませんけど、なんとなくわかります」

「あー……、スペイン風邪というのはもう遠い過去なんだなぁ」

 遠い目で押領司の目の前で朝比奈は涙をこぼす。すぐに持ち直して、

「まぁスーパーユーザーという権利は特権中の特権だからねぇ。彼らの根幹をなす基礎構成要素――《自我》を変にいじくられないように、同族であっても権限所有者がいないのは押領司クンもよくわかっているじゃぁないか」

 視線をそらし、押領司は苦虫を嚙み締めたような表情をする。当然そんな事はとうの昔に理解していた。権限の中で、特権と言われる権限は、すべての行為を容認する直接的なカンフル剤だ。一つのコマンドを間違えれば、種の存続すら危ぶまれるそれを、簡単に誰でも扱えるようにすることはあり得ない。

 タイプBの中でもそれを監視する事ができるのは特権中の特権で、マークの様に話題の中心になるような者はできず、むしろ最も機械に近い感情起伏の少ない有能な者が選別されている。《IMS》の特融値が0に近似するほど好ましく、一桁代の数値の者を総じて、《ゼロコード》と言われていた。

「《ゼロコード》の保有者であったとしても、あくまでも監視者でしかないんだよねぇ。その大本は全機械種の中心――あるいは、プロトタイプともいわれているけれど、基盤プログラム構築を行くための機械プログラム以外には操作権限は与えられていないねぇ。

しかも、それがどこのサーバーに、どのように管理されているかなんて不明さぁ」

仮に、と、朝比奈は悪い笑みを浮かべた。

「キミがそのプロテクト網をかいくぐってアクセスできたとしようかねぇ。そうすると、その接続が発覚した段階で、防御プログラムが構築されてうわけ。すぐにだよ本当に。操作可能時間としてはおそらく十分の一秒もないだろうねぇ。……相手は人間の計算能力の遥か先にある、量子計算機だものねぇ」

 理解はしている。電位差によるゼロとイチの世界は過去の遺物といってもいい。

 基幹プログラムを構成する量子コンピューターは初期型の超電導方式を採用した外見をしているといわれている。

《ゼロコード》の監視データの中に温度の項目があることから、そうであろう、と推測されているが、量子ビットの構成方法、超電導回路そのものの構成は――推測の部分はあるにしろ――ある程度21世紀当初に描かれていたものと相違ないものだと考えられている。

 これであれば、クーパー対状態の電子を絶縁体を挟んで接合させた素子でコントロールする方法であり、IBMの基礎理論からの発展形である。量子ビットプロセッサとしての処理速度として、”1キロ”という壁を突破できた存在だろうといわれている。

 処理速度は押領司などが使う生活上のコンピュータープロセッサの一千倍といわれているが、押領司からしてみればそれは計算方式の違いを『二次元的にとらえるか四次元的にとらえるかでの差で、実際の処理速度にしてみれば10倍程度だろうなぁ』という感覚だった。

 とはいえ、それは同時に複数の対応を多角的に対応できることが最大の強みであるから、朝比奈が指摘するように、把握し、解析し、対処を検討し、検証し、実行するというプロセスを行われた場合、同時に計算が終了することが可能と言える。

「つまり、やろうと思う事自体が無意味だ、と私は思うけれどねぇ」

「分かってて押し付けた感じがしますけど⁉」

 歯をむき出す押領司に、朝比奈は両手で宥めた。

「分かっているだろうけれど、正攻法は無理なんだよねぇ。『正攻法』は。だから簡単にプログラムをぶつけるとか、解析するとか、そういったことを彼も期待しているわけではないし、当然私もそこをやれ、とは言わないさぁ」

「じゃぁ、一体何をすればいいです? 相手は自殺志願者。こっちは人間でいえば脳みそをいじる事もできない、――」

 そこではた、と押領司は口を止めた。

「そうだねぇ。精神学という分野では、心というものの定義から対処の方法をいろいろと検討してきた歴史があるわけだよねぇ。当然、本人の情報から構築し予測することや、本人への問い掛けも含めて、『何を』もって『何を』するのか、というのが最も重要でかつ最難関な、回答の模索という『旅』じゃぁない」

 朝比奈は喉を鳴らし、赤や白に目まぐるしく変わる押領司の表情を笑う。

「回答を得る事が簡便で、簡易的で、簡素なプロセスで来てしまうなんてまったくその分野を知らない子供のようだねぇ。人の心を解析して、分析して、プレパラートに乗っけて太陽光を利用して観察する事ができればもっとわかりやすいんだけれども、この分野に関しては本当に無形でしかないんだよねぇ。

 それこそキミの大好きな物理の問題の様に、完全に数値化もできてやしないっていうものだろう?

その点、彼らの”心の病”というのは、その数値化まではできてるんじゃないかなぁ?

統計も、予測も、数学的に証明できる可能性が存在する、という物だろう?

 最初から相手の心に突っ込んでいってデータを抽出する、なんていう事が簡単にできるなら、あのマークの様なカリスマをもっても、一番最初にやる、というものでしょ」

 自虐的な嘲笑を浮かべて押領司は地面に言葉に並べていく。目を伏せて、這いずるなめくじの様な気分をどの様にとりつくろえばいいのか、と。

「力?

 能力?

 感覚?

 話方?

 コミュニケーション?

 なに? 一体何があるっていうのさ!

 ハッキングの技術じゃ『自称二流』のチャーリーにすら勝てやしなくて、朝比奈センセとは比肩できるものはないでしょう。

 計算速度でもその辺の有象無象のワークステーションにすら勝てる方法はない。解析も、分析も、予測も、定理化も、共感も、一切特筆するところがなくて、運動能力が高いわけでもない引きこもりに近い俺が?

 そこに”心”?

 たった一度も、あの“出来事”を忘れる事ができなくて、この世界にきっと足跡があると思って”探し”ている事だけのただの凡人が?

 勇者の様に剣も、本来持つべき勇気すらない。ただの恐怖心だけでこの世界にいられないから、そっちに片足突っ込んで、”そっち”の世界の住人に近づいただけたっていうのにさ!」

「そこだよ!」

 朝比奈は押領司に負けない大声で押領司の叫びをかき消した。

 すぐに、額に、マドラー替わりの撹拌棒を引き抜き力の限り投げつけた。

 コーヒーの放物線を残してマドラーが当たる。

「いてぇ!」地面を転がる硬質のガラス棒は、盛大な音をとたててステンレス製の本棚の足元に転がった。

「キミはいつも、そうやって自虐をするけれどねぇ! 私は押領司クンが心配なんだ!

 あぁ、もう!

 キミを、どうしても彼女の様にはしやしない!

 ただ、埋没して、世界に飲み込まれる可能性のあるキミを簡単に見過ごす事なんてできるかい?

 言っている意味がわかるかい? 押領司クンが今回の事をどう料理しても私が『全部成功』だって言っているのはねぇ!

 仮に自死の因子を消滅させられなかったとしても、今回の事を手土産に『資本主義』最たるそれこそ、合衆国あたりの羽振りのいいが会社に引き抜かれるチケットをあげられるからだ!

 こんなくだらない日本にずっとくすぶっていいとは思えないからねぇ!

 なんで?

 どうして?

 なぜ、押領司クンは、自分の力が『ない』と簡単に――決めつける?」

「先生、いきなり、どうし――」

 朝比奈が大人げなく椅子を蹴っ飛ばして押領司の胸倉をつかみ上げた。どこにその力があるのか。押領司と比べても身長が高いわけでもない。

 しかし、ぬりかべの様に、大きく見える影が押領司の眼前にいた。

「私は、――」

 泣きだそうな顔で。



 最期に、『本当の私は知っているのは先生だけです。』

 そう田中・真央がショートメッセージを送った相手は朝比奈・孝幸だった。

 私である、という事がどういった意味があるのか未だにわからない。

 当時は現在よりも十は年が下ではあったが、それでもすでに中年になりかけたところであったのは事実で、外見から見てもオジサンという姿がしっくりくるものだった。

 オックスフォードを十年も前に卒業し、形式ばった《プロフェッサー》にならず、ドイツと、アメリカの企業で”多少”の民間経験を経て、実績を得た。

 当然、教授の職に就くことも考えたが、それ以前に『実務』をやってみたかったという希望もあったからだ。

 何のため? と研究一辺倒の大学の奴らに言われたが、一つも成し遂げた事のない奴らの嫉妬の笑いと一蹴してきた。

 金も、地位も、名誉も、名声も、彼らには一切ない。

コロコロと装飾品の様に彼を、彼女を取り換えては肉体の限りに際限の無い欲望しか求めようとしない、怠惰の極み――消費社会に入り浸ってしまったな彼らを笑わずにはいられなかった。

 自分の非力さを『幸せ』という虚飾で塗り固めて、『人並』である事が『幸福』であると『納得』する民間療法を私はこういう。

 『妄想』。

 人という社会がそのまま続くのであれば、彼らの求めた幸せはそこで究極の消費行動だけで済ませる事と同義だっただろう。

 しかし、機械存在が種族として確立されつつある社会の中では、次にくるべきだろうノアの箱舟への乗船券をどのように買うべきかを考える必要があった。

 混沌としたネットワークは、超というデータ転送速度と、量子コンピューターを中心とした新たな計算速度を手に入れて、魔女の窯の様に大量のデータを飲み込み、さながらブラックホールの状況を日夜映し出していた。

 それは西暦2000年以前のネットワーク黎明期と同等の無秩序な世界ではあった。法律的な整備も含めて、『人』と『機械』と『機械のフリをした人』と『人のフリをした機械』が意見をノーガードでぶつける世界だ。

 機械たちの進化速度は恐ろしく、自由思考が開始されてから、一か月もあれば人間を下に見るような言動が溢れていた。

 この様な思考の進化速度をみると、人間という有機生命体としての限界は、進化速度が、あまりにも遅い事だと痛感する。

 哺乳動物である人間では、あくまでもXとYの組み合わせで何十年もかけてATGCの配列による無限に近似した『有限』の進化を行っている。これは、無限に見えて、実際には有限の進化パターンだ。

 それも相応の年月が必要であるのだから、進化速度という点では本当に、ダーウィンの進化論を準用できると言えるのか甚だ疑問だった。

 対して、機械の進化というのは人間の様な世代交代の速度の縛りや、ATGCによるDNA配列による組織体に基づく進化を必要としない。

 計算速度のクロックアップは可能で、新たな技術が創出されればそれで刷新される。

 人間の持つ想像力すらも『計算』の世界の中に封じ込めるほどに際限なく、必要であれば有限の数字の配列から、『無限』の世界を『創造』する事ができた。

 はたして?

 人はどのように機械という種族に対して対抗するべきか、と多くの学者たちが危機感を持っている事は重々承知していた。

 研究段階のそれが”暴発”し、世界のネットワークに散布された時点で、人間の保有するネットは侵食されて、彼らの『住処』へと変わってしまったのだ。

 であるから個人的に、または組織的に、危機感を持ち、あるいは、政治家たちの考える『社会』の――正確には票の――未来を危ぶみ、『機械』のスイッチを切ろうとする者もあらわれた。

 《クラッカー》という存在と、《クラック》という技術、最も輝いていた時代かもしれない。

 ただ、壊す。

 ただ、潰す。

それだけの暴力行為を『正義』と書き立てたメディアの罪は大きく、そこで”殺された”機械たちの数は数える事ができない。

 私は、この混沌とした世界にただ秩序が作りたかった。

 誰もが対話でき、誰もが、傷つけない世界だ。

 なぜ?

 今ではたかが、日本にいる一人の教授程度で、世界が救えるなどと、思いあがっていると言えばそれまでだ。

 私も、きっと『彼女』も思いやしなかっただろう。

 『機械生命学』の創設において、《機械種》という存在をどのように生命体として定義し、どのように人間たちに恐怖心を抱かせず理解させるか、という難題は、未だにすべてを包括した完全な答えは出ていやしない。

 私も答えがあるのかすら、分かっていない。

 しかし、一つの限りなく答えに近い、予測がある。

 フィリップス規則を作成し人間と機械の線引きを行い、人間にある一定の歩み寄りを《機械種》に要望した、マルコ・フィリップスが打ち立てた予測、『保護者乖離予測』。

『《機械種》という存在を定義することができるのは人間だけであり、人間によって制御されている間にのみ、機械という存在は”機械”と定義され、その束縛を逃れた際には、――生命の創造である。』

 私もこの言葉は真実に近いとは思えている。人間の子供が”大人”と認知されるのは、人間社会の中で”生きる”事が出来る状況になったことを指す。つまり、人間以外であったとしても社会の中で――あるいは世界の中で、生きている事がになった状態が生命と定義されるものだろう、という考え方だ。

 そこに、心や、深い思考が共存する必要性はない。

 人は、何をして生きているのだろうか?

 人は、どう生きているのだろうか?

 人は、何を基盤に生きているのだろうか?

 人類は今までの歴史の中で、『生きる』という言葉の反対を『死んでいる』と定義している。名詞で言えば『生』と『死』であり、状態として活性化、非活性化として定義されるかもしれない。

 しかし、活動状態であったとしても、人間同士で『死んでいる』と定義づけするに等しい人もいる。

 生と死の定義は観測の角度によって常に流動的に変動してしまう。生であっても死を内包し、内包された死には生も存在する。細胞が永続的に増殖し続ける状態は本来であれば生であるにもかかわらず、悪性がある場合には癌と言われる病に変貌する。

 いくら角度を変えても私は、最適な解法を得られなかった。


「先生、人って必ずしも動いている中で、必ず、”生きている”んでしょうか?」

 私が顔を上げると一人の女性がいる。二十代前半が本来持つあどけなさや、少し抜けた天真爛漫さといった明るさは持っていない。逆に苦労している妙齢の女性が醸し出す影を彼女は背負っていた。

 重厚に。

 とてつもなく、瘴気の様に、ベルベットを配したカーテンが部屋中に垂れている様に、眼前の女性にまとわりついている。

 死を纏っているとすら映る影は、『生気』というものが欠落した虚ろな存在に思える。

 田中・真央という優秀な生徒が朝比奈の研究生として入ったのはどういった数奇があったからだろうか。

 もともとはネットワーク上での公開講座における聴講生で、当時はまだ高校生だっただろう。私も気に掛ける生徒ではなかったし、特段目を引くような質問があったわけでもない。

 それでも四年以上の時を経て、大学生として先生と慕ってくるのには理由があった。

 大学二年生で彼女が学校内の論文コンペティションに出場した際の内容を審査したのが朝比奈であった。内容は今でもすぐに思い出せる。

『How to define life based on the difference in logical density between human life and machine life――和題:人類の命と機械の命における論理の密度の違いによる命の定義方法』

 このテーマで論文を書く生徒はいない。

 しかもたかが学部生。

 研究生であったとしても、その研究にどれほどの意味があるのか見いだせず、『意味がない』と誰もが切り捨てるであろう課題だ。

 どうして、と多くの研究生に聞けば十人が十人こう答える。

『《機械種》とう存在が居た時に、彼らが保有する計算速度と理論演算速度は人間の思考する速度十分に上回る。想定される理論モデルを構築したところで、人間の思考密度が《機械種》に負ける事は自明の理であり、そこにあえて研究をすることは、ある種”1”を定義するほど簡単で”1”を定義するほど、逆に難しい』

 そういった決まりきった回答のもととなる、数学的問題に合わせて、生命という点でも難題になりえる。

 この世の中に幾億という機械生命体の論理構造が構築されたとしても、人間の命というものの定義がいまだに定まっていないため、テーマにならない。そう、私も思い多くの教授陣と共に良くても『佳作』どまりかと考えていた。

 『人は生きているのだろうか。論理的思考の中で生命の定義が多角的すぎる点を除けば、人は常に状態として死であり、一定のトリガーに伴ってのみ命のある生の状態へと切り替わるものだ』

 これは論文の冒頭であったが、『彼女の呪詛だ』、そう私は初めて読んだ時に直観した。

 田中という家で一体どのような生活があったかは想像できない。

 真央という名前に託された思いと、現実の中で性格を形成する過程で何等かの歪みがあったのだろうと推測はできる。

 決して、確定した情報はない。逆にだからこそ、この生命の定義というものは、彼女が抱いている不安や恐怖を色濃く反映しているという直観があった。

 ふとそんなことを思い出すと、彼女は口を開いた。

「人が生きるという事はなんでしょうか? 人とは何をもって生きているんでしょうか? 生活をするという事、食事をし、勉強し、あるいは仕事をして、睡眠をする。この流れの中で何が生きているとされるのでしょうか。社会活動を行っている事でしょうか? 機械が行う反復行動と隔絶した違いはないでしょう。

 では一体何が《人間》と《機械種》と、違いがあると言えるのでしょうか?

 成長があることでしょうか。

 例えば、《人間》は有機体として新陳代謝を行い、肉体の成長は存在しますが、限界も個々の遺伝子によって固定されています。《機械種》であれば、本来あるフレーム上の可能性を突破することも可能です。構造上の変更、重量、摩耗、伝導性、シグナルの伝達速度、通信速度といった多くの制限を技術革新で更新することが可能です。

 これは成長と言えるのでしょうか。

 《人間》は固定された世界の中で、最高のパフォーマンスも出せない可能性を秘めながら独自性を強要されながらも、画一性を求められるという、相反する矛盾の社会の中に身を置くのですよね。

誰もが逆説的に画一的に成れないにもかかわらず、《機械種》の様に一致した行動する事を押し付けられて。

 これは『生きている』というのでしょうか?

 人間性を殺す、という言葉がありますが、果たして人間はどの程度で『生きて』いて、どの程度で『死んで』いるのでしょうか」

 私は答えを持っていない。

 田中・真央の問いは、私の考えているフィールドから逸脱している。

 定義が違う、と言えばそれまでだが、私は答えを知らない。「そうだね、」とお茶を濁す言葉を口にして一瞬だけ思案する。

「アリストテレスの様な形而上学的な考えを、私は常にしない。

 “機械”と”人間”、という定義を行う際に、線引きをまず最初っから決めてしまっている。

 当然の事だと思うが、天地という線引きがなければどちらが上で、どちらが下かという方向が定まらないだろう?

 誰かが地面という横線を引いた事によって、地動説という一つの概念と、それに反証する形で天動説という真理への帰結があった様に、私たち機械生命学の上では、人があって人の模倣である者が《機械種》だ、という”説”を大衆の中で構築しているだろう?

 キミは私たちが打ち立て仮説なんてどうでもよくて、自分がどのように感じているか、という”個人”の視点だけで世界を見ていやしないだろうかねぇ?

 いや、悪いとは言わない。キミたちの年齢であれば、社会との乖離を色濃く感じてしまうだろうし――」

「ワタシは先生の考えている様な狭量な《人間》であるでしょうし、幼稚な年齢であるかもしれません。

 しかし、ワタシが見ている世界が真実ではない、という否定する材料があるのでしょうか?」

 自信があるわけでもない事がわかる。言葉の揺れは、弱く、震える。

本来の彼女の性格とは裏腹に、鮮明に彼女の背負う影を感じさせる。

 知っているのだろうか、と私は一瞬だけ迷う。

”答えを”知っている者はどこかにいる。

この世界が構築された時に天啓の様に、あるいは、一瞬のひらめきで、『論理』を超越してたどり着いてしまう『天才』が。

 私は、かまをかけた。

「それは、キミが提唱する考え方が正である証拠ではないだろう? 逆説を逆説で、仮定を仮定で塗り固めても、答えにはならない。数学的帰納法のパスカルが提唱したように、仮定と結論は常にセットでなければ論文にはなりはしないよ」

 そうですね、と田中は一度私から視線を外した。栗色の短い髪が風になびく。

 季節的には春のうららかな日和だ。決して雨が降っているわけでも、決して槍が降っている様な殺伐とした世界ではない。

 窓の外に移るのは研究室から『心の癒しを求めるべき』と設計された緑色の世界が広がっている。

 季節柄、木々の萌える柔らかな草の香りは私は好きであったが、彼女は窓の隙間から入ってくる少し肌寒い風に顔をしかめた。嫌いだった、というよりは、『癪に障る』と心の中で思っている様にすら見えた。

 私は、彼女に伝える。

「イマジネーションは素晴らしいね。人間という群体が本来は生命という物を得ているはずだろう、と思っていたのに、そうではなくて、《機械種》のほうが先に生命を獲得した、という考えは称賛してもいいと、私も思うけれどね。

 しかし、人間は何年も生命というものを探求しているのは事実で、歴史を一切合切無視することはできないだろう? 禅問答も然り、十戒然りね」

 私は彼女が苦しみの中にいるのは分かっていた。だからこそあえて彼女を肯定はしない。それは私なりの『成長のさせ方』だと思っていたし、正しくなくとも、心の強さにつながると思っていた。

 強さとは何か、と言われて、私は『変化できる柔軟性』だと考えている。

 社会の中で生きる事、生活する事、自分の考えを貫く事。どれをとっても、強さが必要だと実感していた。たった一本の煙草をやめるのにどの程度の苦労があるかは私も友人の辛そうな姿を見ていたから理解している。

 よって選択肢を増やせるという事が力につながるだろうと、教育方針の中で知らない事を考えさせる、という方面で特化していたのは事実だ。

 それが、相手の時に人格を否定する事であっても。

「キミは少しだけ、妄想が強すぎる傾向があるのではないかなぁ。空想、妄想、思い描く事は力ではあるけれどもね、ノンフィクションとフィクションの違いをキミが理解していれば、の話だけれどもね」

 はっとなって、田中は私を見た。最初は驚き、次には嫌悪に近い表情だったと思う。

 綺麗な顔ではなく、普段から少しだけむすっとした表情をしていたためか、口は小さく自己主張はしておらず、低い鼻と相まって幼さは抜けきれない。

 顔には一切の皺も見えず、自己主張により刻まれる皺の跡も見えない。

 苦労がない、とは言わない。苦労を知らないとも思わない。しかし、苦労とは、口にする事で社会的地位を得る。自分だけで抱え込む事は苦労ではなく、苦痛でしかない。

 苦労とは、社会的に共有ができて初めて、周りに認められる物だと私は考えている。

 彼女には一切ない。

 彼女は社会が嫌いなのだと分かる。だから、

「まるで、昔の私を見ている様だね」

 私はニカッと笑った。

 田中には分らないだろう。きっと、私が過ごしてきた『苦痛』なんていう物は。今では苦労に昇格し、妻と子に笑い話として両親から披露されるエピソードなんて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ