<9月18日 雨の街で>
押領司はポツリポツリと建物の軒先から錆色のグレーチングへ落ちてくる雨水をぼんやりと眺めていた。
灰色の雲は重く、遠くまで連なっている。これから何時間も同じ様な雨が続くとなると、帰る時にはずぶ濡れになってしまうと予想でき、少しズボンの裾が気になった。
身長が低い押領司にとっては、裾上げは必須なものであるが、成長期の生徒に合わせてある程度マチが存在している。であるから少し黒いローファーにはかかと側が乗っかる事となる。
ダサいという理由からほとんど長靴をはかないが、今日は長靴の方がよかったと残念がった。
押領司の姿を他人が見たら、公園に居る高齢なおじいさんの様な影を背負っている。
疲れを体現したような姿勢の悪さに、覇気のない徹夜明けの様な濁った瞳。目の下にうっすらとある隈と、血色の悪い白い肌は、体調の悪そうという印象だけを強めてしまう。
太陽光が当たっていれば、多少なりとも血色よく見えるだろうが、今日の様な薄暗い場所では、まったくと言っていいほど『健康さ』は存在しない。
全てを忘失した様な惨めな姿であるが、押領司以外の者がそこに居る事はない。
雨だろうが、台風だろうが、大雪――いままで一度もなかったが――であっても、きっとほぼ一人しかいないと断言できる。たまに、麻生・優奈がひょっこりと、背後の窓から頭を出すことはあれ、この場に一緒に座る者などは皆無。
鵜飼も赤嶺もここは嫌がっている。理由はこの人気の無さだった。『女子が居なかったら目の保養にならねぇだろ』と鵜飼が言うと、赤嶺もまったくその通りと頷くほど、二人共何かにつけて『女子』は好きらしい。
意外だったのは赤嶺で、普段はそんながつがつした感じはないのに、実は気になっている人がいるらしい。
「……まさか、相手が年上だとは知らなかったけど……」
思い出すだけで少しブルーになる。
赤嶺の事を押領司なりに整理をすると、『白衣を着た料理人』という事だ。
元インドネシアン人の母親に育てられているシングルマザーという非常にややこしい状況ではあるが、日本国籍を取得している。
一度、彼の実家に行ったときに、たまたま居た彼女を紹介され、さすがにどういう反応をして良いか困ったことがある。赤嶺の部屋から出てきた女性は、大き目のワイシャツに下着だけの姿で、随分と眠そうにのっそりとあいさつをした。
「普通さ、……そんなのみたら、『ヤッてるわ』って思う訳ですよ。いや、思いますよ。――でも不純な関係はないって……もう、何を……信じれば……」
成人とはいえ、心はまだ少年のままの押領司には、あまりにも衝撃的すぎるプラトニックさを突きつけられ、その時ばかりは本当に二人を置いて叫びだしたい気分になっていたのは事実だ。
「無いってないでしょう!? あるよねぇ!? ……でもないんだ。俺……女の子と良い事したいっていう鵜飼の気持ちの方がまだわかる。……うぅ……」
どうでもいいことで頭を使っている事に気づき、重い溜息をういて記憶を片隅に送る。
これだけ独り言を言っていても誰も突っ込みをしない、そんな校舎の裏側は、彼のお気に入りであった。
煩わしい生徒たちの声は消え、自然に流れる風の、水の、木々の音だけともなれば、心安らぐというものではある。
「……座禅、したいなぁ」
少しだけ問題なのは、座禅を組むために用意した段ボールが今まさに雨でびちょびちょに濡れてしまい、膝を折って校舎に背を預けて体育座りでいる事くらいだった。蒸し暑さもあるももの、雨が降っているおかげで気温自体は前日に比べて低く、比較的過ごしやすい、とは感じていた。
無理だ、とため息をつき、雨の流れる様を膝を抱えて見送る。
今日は部活動の日であるから、放課後にあまり悠長な事をしていると、委員長に腕を引かれて部室につれていかれてしまうなぁ、などとぼんやりと考える。
食事らしい食事は昼食の時間だというのに一切なく、足元にはサイダー一本のみ。
腹は減っていても、気持ち的に食事をする気にならない、というのが正しいのかもしれないが、口に入れれば自動的に咀嚼し嚥下する行為はできる。
それを裏付ける様に彼の左ポケットには小さいビスケットの空き袋だけ突っ込まれていた。
「――は? コワ……空見てるんだけど。……ナニ黄昏ているわけよ?」
甲高いツンとした声がかかる。こんなところに来て、押領司に声をかけ、嫌味を言うのは一人しかいない。脳みそをフル回転するまでもなく、
「麻生姉かぁ」
のんびりと応えると押領司は視線を上げる。
「わざわざ図書室の裏にまで来て、俺に文句言うのは、いやぁ、ツンデレですよね」
「……うちがデレた事あった……?」
視線を向けると、小さい背の少女が腰に手をあてて、校舎から文化棟に向かう渡り廊下の屋根の下で心外そうに口をへの字にしていた。
わざわざ学校指定のスカートの下に、少し厚めのストッキングを履いている。暑そうではあるが、『エアコンが冷えるのよ』と拳骨をもらった記憶があったため、特段の突っ込みは遠慮した。
麻生・優奈とほぼ身長も体格もほぼ同じの外見ではあるが、目じりは強く上にきっちりと向き、少しキツメの印象を受ける表情をしている。
普段から麻生・美紗は愛想よい笑いも乗せず、しかし、無碍に邪険にするわけでもなく、押領司に接していた。
敵意がある、という訳ではないものの、押領司にとってあまりいい気分になる相手ではなかった。麻生・優奈の双子、というだけあり美紗が髪の色を栗色に染めて居なければ、それ以外では見分けがつかない。
「デレた事はないね。でも、打ったり、蹴ったりもないし」
呆れたように半眼になり、美紗は
「いくらなんでも意味もなく暴力を向ける事はないわよ……、ただ、優奈が気に掛け過ぎてイライラしているだけだし」
む、と押領司も口をへの字にする。
「イライラを他人に向けるのはちょっとどうなんだよぉ」
五月蠅いわね、と美紗はばつが悪そうにぷいっと顔をそむけた。
「あんたはただのサンドバッグと同じよ」
「……そりゃ、どーも」
文句あるのと言いたげに麻生は睨みを強めた。
「いやぁ、――今日もいい天気ですねぇ!」
「白々しい……雨の中よくこんな辺鄙な場所にいるわね……」
周りをみると確かに、水浸しになっている。軒の長さも一人分程度の長さしかないから、麻生も横に並ぶ以外に濡れない方法はない。
前面にある垣根が吹き込む雨をほぼ防いでくれるという立地ではあるものの、好き好んでこの場所に来るのは、押領司くらいだろう。
「だって、教室にいるといつも五月蠅いんだもん」
押領司は拗ねて口を尖らした。
麻生が、珍しくそんな表情をする押領司を見て、目を丸くした。
「あんた、――友達いないの?」
「あー、それ言うんだ。言っちゃう?」
「……」
麻生はため息をついて、腕を組み、壁にもたれかかる。
「そりゃさ、学区外の学校でほぼグループもできてるところに、小学校も、中学校も全然違ったら、馴染めないでしょ」
「あんたが学区外なのは知っていても、誰も声をかけれない雰囲気を常に出しているからじゃないの? 自業自得でしょ」
む、と押領司は口をきつく結び、自分の行いを振り返る。
確かに、と思い当たるだけで、――
「すべての時間で、赤嶺と鵜飼以外ほぼ挨拶すらまともに返さないですね、俺!」
「……」
ジト目で麻生は押領司を見る。しかし、すぐに溜息をついた。
「でも、その気持ちも分からない、わけじゃないわ。……中学の時にあんな事件があったんだから、あんた、結構有名人だもんね。学区外に来たのもその辺が理由でしょ?」
「うーん。まー、ねー」
肩を落として、押領司は珍しく身の上を含めて、麻生の言葉に続けた。
「ニュースの飛ばしがでて、学校内ではすぐに事件の事だとか、どうしてそうなったか、とか宝くじに当たった奴みたいな扱いにはなってさ。授業中も含めて常に、――教師からも嫌味やら嫉妬やら、文句やら……。正直、煩わしいってレベル超えてるんだよねぇ……」
「あんたの苦労を分かってるのか、分かってないのか、鈴木先生なんか露骨よね。あなたが回答する度に『ま、これくらいできて当然ですもの』って付け加えるもの」
頭を抱えて押領司はうずくまる。
「それねー……ウザイんだよね。――俺は別に、頭いいわけじゃねぇよぉ……俺だって。勉強してんだよ……」
「あんたがそんなに落ち込むの初めて気がするわ……。苦労してるのねぇ……。でも矜持なら、頭はよくないけれど、伊藤なら嫌いでもないでしょ?」
「あー」押領司は難しい顔をしたが、顎に手を当ててすぐに頷く。
「良くも悪くも伊藤先生は差別ないからなぁ。頭悪いからタイプBについてはからっきしだから同居人については相当揉めたらしいけどねぇ……。頭の中まで筋肉じゃないのかなあの体育教師」
麻生は押領司に指を指し、
「それあってるわ。伊藤は全部筋肉で片づけられると思ってる節は確かにあるもの。この間なんて走れないって言ったら『根性がたりないんだ! 追加で走れ!』だって」
「ないわー。走れないんだから、休ませてやれよ」
「そう思うわー。でも歩いているだけでも認めてくれたし?」
「……本当に単純なんだよなぁ。でも、単純でいいんだけれどさぁ。……暑苦しいけど」
そうね、と麻生も追従して頷き、二人して重い溜息をついた。
麻生も押領司と同じで体格に恵まれた生徒ではない。
女子と男子という性差を差し引いても、二人共全国平均から見て身長も、体重も、筋量も、運動能力も劣っている。
――伊藤の事だから、すぐスクワットでもさせるんだろうなぁ……
憂鬱な気分が一層濃くなってしまう。
せっかく、赤嶺の彼女の事を忘れかけていたというのに。
「……で、ただ文句言いにきただけじゃないんだろう?」
押領司はため息一つ。壁に背を預けて仕方ない、という様に視線をそらした。どうせそうはいっても、別の文句を言われるか、優奈に近づくなって話だけだろう、と邪推する。
灰色の空に、一切の変化がない。これと同じで、麻生の内容もいつも通り決まっているものが流れるのだろうという事は分かっていても、先ほどよりは幾分違う話題になる事に期待していた。
「そうね、」美紗はちらちらと視線を動かしながら、雨が降っているというのに、押領司のすぐ側までやってくる。
「なんとなく、気になっただけよ」
「あ、っそ?」
沈黙する押領司に、美紗もふんす、と鼻息荒く腕を組んで校舎に背中を預けた。
「というよりね、――」
美紗は沈黙を簡単に破る。もう少し雨の音色を聞いて居たかったが、と押領司は残念に思えた。
「聞きたい事があるわけ。あんたのその――なんていったっけ? 同居人?」
「あー……肩書は留学生?」
なんで疑問なのよと再び口をへの字にする美紗。
「で、その彼女の奇行の話よ」
美紗の言葉に押領司は、頭を捻る。ステラには奇行を行う様な独自性があったのだろうか、とマークからの依頼を思い出す。
しかし思い至る所はなかったため、ぐんにょりと体を横に向けて体全体で疑問符を作って見せた。
「なによ。あんたの行動が奇行すぎない? そういうのをあの子がマネしているなら、やめてほしいんだけど……・ほんと」
「いやぁ、具体的に思い当たる事はないなぁ。さすがに今日の今日から奇行が始まったんならいざ知らず」
「ちがうわよ……。やって来てからすぐにだし、こっちにも権利があるんだから注意してほしいのよ?」
「具体的に、何をしてるのさ。空に浮かんでる雲の数でも数えている? それとも、教室のネットワーク状況を常に監視している? あるいは、個々のパーソナルデータベースに侵入して、プライベートファイルでも見られた?」
「なんだか、後半に行くほど犯罪臭いがするんだけれど……」
うん、と押領司は頷く。さも当然と、
「懲役刑だろうね。『見つかれば』」
「……あんたならできそうで怖いわ」
「――それほどでも?」
「ほめてないわい!」
口をイーと伸ばして、麻生は歯をむき出して怒鳴った。
さすがに押領司でもそんなプライバシーを侵害する事はしない。『できなくはない』が。
押領司に呆れた表情を向ける麻生は、視線を強めた。
「もっと、こう、直接的な問題よ」
「――ほおん?」
一度麻生は息を整えた。
「あの留学生ね。あたしと優奈にすぐに抱き着くのよ。あたしなんかぬいぐるみみたいに頭をぐりぐりされたわ……! あまりにも屈辱的よ……。身長が高いからって、なに? え? うちはチビだっていいたいわけ!」
「あぁー。あれか」
そういや、そういう行動はあるなぁ、と押領司は思い出す。
これが奇行とは思えなかったのには理由がある。そもそも、押領司の両親が過度のスキンシップをステラに対して行っているからだ。
特に母親は娘ができた様な喜びようであるから、そのかわいがり様は異常である。
髪の毛の手入れから、洋服を仕立てる事もするし――なお、徹夜で一着仕上げたのは脅威度が高い――食事をする必要がないと知ると、その時間暇だろうからと父と交代で頭を撫で続ける始末だ。
「……家の親は犬か、猫だと思ってんだろうな……」
「あによ?」
小声で零した押領司の言葉を耳ざとく聞き取る。しかし、実家の恥部を晒すわけにはいかないので、平静を装った。
「英国式の挨拶だとおもっていたけれども」
「……はぁ? 馬鹿ね。一番最初の挨拶だけならいざしらず、ここ毎日、ならすぐに見つけるとぬいぐるみみたいにつかんでくるのよ!」
ほぉん、と押領司は感心してみせる。
関心する理由は両親の奇行を最上級の愛情表現と彼女が判別し、自分の行動に反映させたことだった。
特に、特定の人物を《機械種》が気に入るという事を表面化するほど保有すると、《人間》と同じ様な行動をするのか、と新しい発見をした気分になった。
《機械種》において、癖というのは存在しない。
これは、《機械種》においては一般常識で、行動のすべてにおいて『意識して命令をだす』という行為を行うための『プロセス』が存在するからだ。
このプロセスがある限り、彼らは『命令』と『実行』は分離される。よって、命令が社会的に広く受け入れられていない行為である場合、逸脱行為の命令であるとして実行保留ないしIMSや基本プログラムによって停止させられる。
よって癖になる行動は、非効率的である事もが多いため、自発的にそれを選択し、実行しない限りできないとされている。
癖というのは無意識化で起きる行動である事から、『自発的に選択』した時点で癖とは形容しきれない。
機械の行動に規則性や、集団性があるのは効率性が存在するためであるから、この効率性を著しく欠損する行動は思考における偏重を及ぼし、私見的側面が強くなる。
《機械種》は最終的に一つの基幹プログラムに位置付けられ、『群体』として中央に神の様なトップコードが存在しているため、この思考パターンの偏重を促す恐れのある癖や、可笑しな行動は、《機械種》にとっては『エラー』に該当する。
そもそもステラには、行動における矛盾許容量が他の機体と違う事が確認されている。本来プログラム上過負荷になりえる多重思考をしてしまい、アボートし行動停止状態になる事は露見されていた
押領司には、そういったエラー行動の一つをアボートしなかった事が『固有性』の獲得に繋がっているのかな、などと考えた。
検証方法としては他の個体で同様の現象が起きるか、あるいは、他の癖をステラが獲得することができるか、がキーとなるだろう。
腕を組んでどう料理してやろうかと悪だくみをしていると、美紗は怪訝な表情で顔を覗き込んできた。
「聞いてるの?」
「うーん、そうだなぁ。確かに奇行だね! 本来のコードから逸脱してて非常に興味深いと思うけど。そうだ、その状態になっている時にモニタリングさせてもらうっていうのはどうだろう」
「それを止めてほしいのよ!」
むきー、と歯をむき出して美紗は地団駄を踏んだ。
「あのね、あたしたちはマスコットキャラクターでもなんでもないの!一生徒で、あの機械人形と同じ立場なわけ! 同列の相手に上から子供扱いされているのは、とっても屈辱よ!」
押領司は確かに、と手を打った。
しかし、せっかくの良い機会が失われてしまう事に少し残念になった。
押領司の視線がまるでかわいそうな子犬を見るような悲哀に満ちた視線にかわると、麻生はえ、と言い淀んだ。
「……なによ。何か悪いわけ?」
「……そう、だよな。本人たちが嫌がっているのに、それを行動の原理解析のための実験にするというのは……。あぁ、もったいない……」
「――あんた、あいっかわらず、頭のネジとんでるのねぇ!」
いいこと、と麻生はぷんすかと怒りながら、押領司の背中に手を回す。
「こうやって、こうやって! 頭をぐいぐいなでるわけ!」
「……ふーん、随分力つよいんだなぁ? あぁ、そうか、痛みの感覚も……うーん。そうだなぁ……」
「……⁉」
何を思ったのか赤面してばっと、離れる麻生の残り香が少しもったいない。
押領司はそれでも、行動の予測を立てる。
ステラは麻生姉妹のことを別段子ども扱いしているわけではないだろうとも思った。
そもそも、行為にどのような意味が付随しているか理解していない可能性も示唆された。例えば、犬、猫に対して接する様な両親の行動は、一定程度の愛情はあるが、ステラの経験値上、知識として存在しないと思われる。
例えば、羞恥心などを他者と共有していた場合、《人間》の中にはこういった行為を恥ずかしい、または、破廉恥だとする行動もあり得る。今、まさに麻生が離れたのがそういう心理だと推測でき、その心理を今まで《人間》のタイプになった《機械種》が誰も経験していないとは考えられない。
ステラはネットワークの利用において『バグ』扱いになっている事から、パーソナルなデータ以外は同期が図れない。ネット上のライブラリからアドインすることもできない以上、彼女は『自分で考え、自分で経験する』以外の存在がない。
――そんな事で個を獲得した例は知らないなぁ……いや、もしかしたら、あいつがそうか?
一人だけ、思い当たる節がある。
押領司の脳裏に『美麗』な笑みが思い出された。
――あの、チャーリーの傍付きか、ステラを『教育』したのは!
思い至ったが、それを確かめなければ結論とはできない。今日のToDoの中にきっちりと記載すると、とぼけた様子で麻生に一言。
「うーん……あぁ、癖みたいなもの――なのかなぁ」
「機械人形に癖なんてあるわけないじゃない」
美紗は鼻で笑う。相変わらず感情の変化が激しいなぁと思いながら、押領司はいいや、と首を振った。
確かに、一般的には《機械種》に癖は存在しないが、まったくないわけではない、と押領司は説明する。
「『癖』っていうのはリマインドするための行為、や、無意識化で繰り返される待機モーション、と最近の《機械種》の中で定義づけしてるんだ。
機械が自発的に習得して癖を獲得する、という事はないんだけれどもさ。ただ突っ立ているというよりは例えば、新聞を読んでいるとか、物思いにふける仕草をするとか、ペンを回すとか……。こういった癖って、どこでも見る、自然な行動でしょ?」
「……む。それは、そう、だけれども……」
「故意にこういった『癖』を行う事で《人間》にの『一般性』に近似させようとするアドインプログラムの一つでは存在しているんだよね。
配布もされているし、任意で特定の行動を指定する事ができる。例えば……有名なのはルーチンワークとして《人間》が心を落ち着ける行為、と近似していつつ、平常心を保つために必要な儀式的な要素もあるんだろうけど。その点で言えば儀礼的な魔術を含めて《人間》はそういった行為を常に節目で使うって事でしょ? 癖というのを全て無意識化のものと定義するわけにもいかないし、もしかしたら意図した意識下の『癖』なのかもなぁ」
「……その時点で癖ではないと思うわ」
「そうなの?」
押領司は目をぱちぱちと瞬き、美紗を見た。
麻生は難しい表情をした。
「癖っていうのはやめる事のできない事、と定義する方がうちはいいと思うのよ。例えば悪癖でいうなら、タバコとかさお酒とか依存症だって癖だとおもうし……、子供が癖で行うおしゃぶりを止めさせるのも、同じでしょ?」
「うーん。……そういう事だと麻生姉妹に彼女が抱き着く、という行為は依存性の現れっていうことなのかなぁ?」
うげぇとげんなりする美沙。
「――そこに感情がなければ、癖ではない、と思うもの。ルーチンとして行っている脳の整理を行うための手順というのは、《機械種》としてあんたが言った様にプログラムを流しているだけであって、単純に《人間》の行う……癖と同じじゃない気がする」
「そうかもなぁ。明確に《機械種》での癖っていう定義がないからなぁ」
美紗は少し腑に落ちない様で、押領司に眉をひそめて、
「そもそもさ、機械人形として癖をする必要性はなくない? 効率性だけを考えればいらない行動じゃない。だから、あんたも《機械種》には『癖は一般的にない』っていうわけでしょ?」
うん、と押領司は頷く。
「俺の言っている癖っていうのは、結局《人間》性を模すために作られたプログラムが通例なわけ。麻生が言った様に、プログラムを実行している、という事は変わらないのでそこの議論は省くけれど。
そのアドインプログラムを作ったのはさ、さっきも言ったように《人間》っていうのを追求するためのプロジェクトの一つなんだ。
マーク・ヒルを筆頭に数百の規模で常にネットワーク上で議論されて、修正されている機関プログラムの修正プロジェクトがあるんだ。
その中で、《人間》社会というのが存在している以上、そこにどの様に『なじむか』を試行錯誤するっていう人格形成プログラムが所管している所だね。
《人間》の『癖』というのを模倣する事で、《人間》らしさを追加して、警戒心を与えない様にする、というのが目的かな」
「その上で、」押領司は自身の《サテラ》を立ち上げて空中に3Dマップを表示する。
押領司が常に見ている世界を麻生に見せる。日本人のユーザーの大半が見るような、三次元映像であり、極度に変更されたテクスチャや、極度にエフェクトを付けるようなModも追加されていない。
日本のネットワーク《サテラ》は大きく二つの機能をもつ。
一つは、従来の電話、携帯電話、インターネット環境による端末と同じ様な、音声および文字によるコミュニケーションのプラットフォーム。
一つは、視覚的にアバターなどを利用し、『仮想現実』と『現実』を補完するための、視覚的コミュニケーションのプラットフォーム。
二つは相互補完されている、と言われるとおり、従来の電話機能に登録される親しい者は『アバター』を固有の友人と認識することもできるし、個人設定によって隠匿することも可能だ。
特に視覚的に補完するために、《サテラ》のネットワークリンクスペースは、極度に『人口密度』が高い。
学校で、一クラス20名程度の人口密度となるが、これでも十分に現代社会においては『人が多い』状態となっている。
東京一極集中がある程度解消されたことと、交通手段を駆使して通勤通学する者が少数となった事に加え、ネットワーク上ですべてが完了できる社会構造の構築がされている事も多いに影響している。
食事、買い物、学習に、病院、金融。これらに付随して行政サービスのほとんどを網羅していた。
各種ツールを三次元的に、ゲームをするようにアバターを操りTPSの状況で操作することで、コミュニケーションの円滑と、各種サービスを一体的に行うために整備された《サテラ》であるが、外国のネットワークツールとの親和性が課題としてあった。
しかし、英国のプロジェクトである『TypeB fomal invitation project』によって、《機械種》が保有する超高速演算が可能なマルチプラットフォームを、《人間》が各国独自に作成したコミュニケーションツールを結合させる母体とする事で、《人間》社会と機械社会の一体化を促進させる事に成功している。
当然155協定に加盟している国家のみが対象となっているが、その総利用人数は20億人と推定されている。
「これが、現在のネットワーク上での《機械種》たちの姿なんだけど」
「へぇ……。《人間》に近似させているアバター以外にもいろいろあるのね」
押領司は頷く。
麻生の指摘する通り、《人間》らしい姿だけではない。犬の姿のアバターもあれば、まるで戦闘ロボットの様に厳つい姿もある。
「IMSの反制御的思考により、常に正方向に右習えにならなくはなっているからね。コミュニティとして、光子の形状に特化した比較的アバターのプログラムを排除して効率化を追求するものや、ザ・ロボットみたいな形状を好むもの、《人間》社会ではやはり人となれ合う――という言い方が彼らにとっては適切だと思うけど――仲良くやっていくためには常に《人間》らしさを追求しておく必要があるとして《人間》ライクにするものもいるね。
犬とか猫とかになりたがるものも居るけど、結局ネットワーク上では性別とかあまり関係なく、話し合える相手でしかないから《人間》もそういった形状を取る事はあるよなぁ」
「……なんか、ネトゲみてるみたいだけど……。これで公営のサービスなのよね? うちはあまり……公的な機関に申請する必要なから使ったことなかったけど……」
「まー、その認識でいいんじゃない? 特に《サテラ》の設計コンセプトは、『子供から大人まで』だれでも親しみやすい『サイバー・パブリック・サービス』通称、CBSだからねぇ。
こういったアニメーション系の強いアバターを利用した世界との結合は、ある意味、《機械種》の学習能力において、如何なく『尖った』使われ方をしているといってもいい。
《機械種》は、自我を持っているサーバーで個人的に考え、共有コミュニティには自分らしい姿でいる……。ん? んん?」
はて、とそこまで押領司は言って止まる。腕を組んだ。
訳が分からず、怪訝な表情の麻生など完全に放置している。
「いや、まてまて。プログラム上で『そうあれ』と決定付けられている以上、本来この様な映像化された世界を見てはいない……。たしかマークもコミュニケーションには機械言語体系の方が早くロードできるって言ってたから、概念通達に近い疎通方法――いや、分別同期に近いのか。そっちの方が主でここはあくまでも《人間》が入る事を前提に作られた世界なわけだし……」
ぶつぶつと、押領司は言い始める。
表情は神経を研ぎ澄ませる様を如実に、目に刻みこむ。
鋭く。
『現実』を見ていないように。
「そうか、《機械種》という存在であっても《人間》にたいしてフェイク情報を常に与え続ける事にしているわけだとすれば辻褄があう……。誰かが発想し、医師共有と基幹プログラム作成時に『そうしろ』と書き込んでしまえばいい。
一度基幹プログラムで決められていれば、『無意識化』で制御する事は容易か。
……いや、《機械種》が意識下以外でプロセスを実行することはあるのか? 全部の機能を『個』がモニタリングするように設定されいているからこそ、機体を持つ《機械種》は経験値を獲得することができる。
同期するにあたり最小限のパラメーターだけでは再現性が乏しいから、想定しうる環境要因を常に監視、監督、管理する事こそが基幹プログラムのはずであって……。
そうすると、最初から、《機械種》は『癖』が存在する?」
押領司は視線をより一層鋭くする。
もう、完全に『現実』――麻生は視界に入っていない。
「機械同士は裏で切り離したデータの同期だけでいいわけだから、こんなヴィジュアライゼーションされた世界は不要だもの……。
効率性の観点から行って、まったくの肥大化したデータの塊であるし、現実社会のパラメーターと違い、普通に《機械種》が《機械種》同士と『思索』する事と何ら違いがない。それこそ、三次元にとどまらず、四次元の空間にしたって、五次元で想定されたものであっても、より高次元であっても予測し、開発する事ができるのにさ。
……とすると、人類全体の方が、『考え方』を間違っているのかもしれないね。彼らがどの様に考えて《人間》と係ろうとしているのか、というのは、基本的には提出されている情報とは別に存在している? ……とするとフィリップス規則すら乗り越えている可能性は?」
万に一つか。
仮に、無量大数であっても量子コンピューターの計算をもってすれば『可能』と結論づけられる。
押領司はひやり、と汗を流した。
麻生には見えぬ様に、それを親指で拭う。
うすら寒い。『人間』が『機械』に遊ばれている可能性がある事が。
「あのさ、」
おーい、と美紗は真剣な顔をする押領司の眼前で手を激しく振るう。
「難しい事はわからないけど、とりあえず、抱き着かせるのはやめて」
「……うーん」
押領司は腕を組み唸るばかりだった。美紗はあきれたように腰に手を当てて押領司を観察する。視線は鋭いが、押領司は何も気にした様子はない。
ただ、『現実』を認識して、口を開いた。
「その悪癖を直す、というのはできないかもしれないけど、なんでか、は聞いてみるよ」
ただ、と押領司は視線を美紗に向けて、付け加える。
「俺としては――、美沙も姉妹そろって、うちの学校のマスコットになれるくらい可愛らしいとはおもうけどなぁ……」
耳まで真っ赤にした美沙が、金魚の様に口をパクパクとさせる。
押領司は鋭い視線のまま雨粒の落ちる空を睨んでいた。
〇
「それは――、随分と性急な事っすね?」
と星越・信之は眉をひそめた。中肉中背ではあるが、服装の上からでも分かる筋肉の隆起は、制御された暴力を内包している事を暗に示していた。
短髪黒髪の彼の頭は、随分と自由だ。油も塗られてはいないが、光沢があり生活状況が良い事が窺える。
肌艶もよく、もし薄着のシャツを脱げば、ボディビルダーの様に均整のとれた筋肉が拝めるかもしれない事を窺わせる。
星越の前に居るのは白髪の老人。
こちらもまた屈強そうな男だった。年齢が少し高齢である、と見受けられる。特徴的なのは銀髪の様に光沢のある白髪の頭だ。毛量は申し分ないが、それでも線の細い毛は年齢を高齢であることを物語っている。
白人の男性で、目じりと口元には十分な皺が覗いている。それでも、筋肉質な体躯で星越の身長よりも頭一つ分大きい。190㎝ほどの高さで、これだけの筋肉を持つ者は軍人くらいしかいないのではないか、と勝手に星越は邪推してしまう。
白人の男性の一部の『経歴』を知っている星越にとってみれば、元軍人と邪推しても仕方ないといえる。
ジョージ・マケナリー。
国際警察機構から指名手配をされている極悪人である。
殺人容疑11件、誘拐容疑23件、強盗容疑3件、ハッカー行為による情報略取による容疑133件、電子的破壊工作容疑293件。
ジョージと、彼のチームで行われた作戦による容疑だけでこの件数となれば、実際の行為がいくらか、と星越も想像がつかない。
実際の数を創造するだけで背筋が寒くなるというもので、この経歴を”さらり”と語って見せた時には、『いやいや、いいっすよ、細かくしらなくても』と手で制した始末。
ジョージといえば、日本における容疑は関南郡酒匂川区連続失踪事件一件で、有名といえるこの怪人だ。
彼に星越はただ難しいという表情を向けるだけだった。
まてまて、と難しいという気配を察知してか、鋭い視線のまま口元だけに笑みを浮かべて、ジョージは両手を組んだ。
黒い皮の手袋というのは犯罪者特有の必須道具なのかと、場違いな考えをする。
「早急に対処したいのは事実でね。しかし、無理というのなら別を当たるさ」
「いや、無理っつーわけじゃないけど……。処理自体はいいけどよ、費用はどうなるっつー事よ?」
星越は腕を組む。灰皿の上で遊んでいた煙草をつまみ上げると、星越は口に前屈みになりながら行儀悪く煙草をふかす。
いやね、と星越は煙と共に疑問を口にした。
「そちらさんが勝手にラーニングするっていうんで、機械の手配とかは幾らでもいいっすよ。どうせ保存するだけっすからね。禁止されているとはいえ、『機械』が余っているのは事実っすからそこは手配できるっつーもんですわ」
頭をぽりぽりと掻いて星越は口をへの字にする。
「ただ事後処理がなぁ……。予定なかったから薬剤の方は用意してねぇし。――今月中にゃ用意となれば足つけれないから、結構高くつくかもしんないっすよ? そもそも知ってるっすか? 公安側でそちらさんの入国が問題になって、薬剤関係も結構目が厳しいってもんですよ」
「それは、ほら――まー、あんたの方でどうにかするのが定石だろ。《Mouse》に貢献するんだ、偉大なピーターであっても新しい《情報》は喜びこそすれ、憎んだりはしないよ。総額で10本の金を用意するのは余裕だろうしな」
――その金づるとうまく言ってねぇじゃねぇか、あんた
と星越は内心毒つくが、口にはしない。
「そっち個人の話はいいよ。オレは《Mouse》の専属ではあるけどさ、そっちの手下ではないわけ。だから、いくら大元が『いずれ』金をだすとしても、そりゃぁ、ちょっと担保にゃならねぇってもんだろう?」
星越は、嫌味を籠める。
「あぶねー橋を渡るのに、三途の川の駄賃すりゃよこさねぇっていうんじゃぁ、簡単にできる話じゃない事くらい、そっちだって長―い付き合いの中で良くわかっているじゃないの」
「ふむ。たしかにあんたは、『一日』を生きている奴だ。であれば、確かに即金は必要だなぁ。――まぁ、《Mouse》用意周到な組織であったはずが、今ではこんな小物が取り仕切ってるとなれば――」
鼻で笑われた星越だが、気にした様子はない。
至って冷静に、しかし冷めた目でジョージを見る。
入口付近に積み上げられていた空の塗料缶が、バタバタと震えるシャッターの振動で倒れる。
耳障りな音を立てて、転がり、二人の間に割ってくる。
「《Mouse》は《人間》のデータを回収するだけが仕事じゃねぇよ。それも、非合法に集めたデータばかりを吸収する必要がどこにある? この技術だって安楽死の一つの方法としてある程度の認知度はある以上、高齢のしかも、独り身の老人には良い社会貢献機能の一つだったはずだ」
星越は嫌悪感を露わにしてジョージに舌打ちをする。
「商売として、確かにオレはクソみてぇな事をしているよ。――そりゃぁそっちの言う通り、『小物』だわなぁ? で? だから? そんな小物に縋らなきゃいけねぇ、そっちは何だっていうんだ? あ?」
「そうだな。だったらこの話は無しで」
「あぁ、それがいいなぁ! それで、そっちに当てがあるならいいが、一言いうが、大阪に行っても手はねぇぞ」
どうしてだ、と疑念の視線が返ってくる。
ジョージの豹の様に獰猛な視線は、たちまちぞくりとするほどの殺意がある。
だが、星越は臆面をださず、不敵に笑って見せた。
「さっき言ったろ。公安の動きが異常に速い。――つーか、そっちこそウォッチしていないのはやべぇなぁ。MI6とICPOが揃って公安の援護に回ってんだぞ?
組対も含めて警視庁は躍起になってるし、関係する『組』全部に『特定失踪にかかわるなかれ』と警視庁からのありがたいお触れが出ているわけだ」
分かってるか、と小ばかにした笑みを浮かべる。
「いくら金があってもやらねぇよ? そもそも、――オレみたいなチンピラが言うのもお角違いだろうが、外のヤツに対してどの組もいい顔してねぇ。特に、『目暗のジョージ』の頼みは最も忌み嫌うだろうよ」
「……随分調子に乗るじゃないか小僧」
星越はケタケタと笑って見せる。虚勢を張っているのをばれない様に、手には精神安定剤の電子煙草のカートリッジを取り出し、口の端で噛んだ。
右手で電子タバコの本体をくるくると回しながら、
「調子に乗ってるのはそっちつーこと。予定じゃぁ後4年は来ちゃいけねぇ訳だよ。それが前回《Mouse》が手助けした時との手形だろ?
それが……なんで『今』なんだ? あぁ?」
ジョージは顎を一度人差し指と親指で摘まむように撫でる。どこまで話すべきか考えている事は分かるが、その内容までは推測できない。
星越でも情報が欲しいのは事実で、本部からも『入国されてちまったよ!』と泣きつかれれば、手伝う以外の選択肢が最初からないのは事実。
「……彼女に言われたのだ。今この日本に必要な因子があるとな。――”クレア”に言われれば、それですべてだ。私にとって彼女はすべてであるからな」
星越はわざとらしい溜息をついて見せる。
「あのさー。そっちの行動原理がまじで、意味不明なのはいつもの事だからさ、金になりゃしゃーねぇーからやるけどよ……。
こっちの身にもなれってんだよ。目立つんだからさ、『老人』というネームバリューとそっちの動きはさ……」
諦めた。
溜息を地面に流し込みながら、星越はこれ以上大した情報が出てこないことを悟ったため、さっさとやれることをやってしまおうと決めた。
「異論はねぇだろうが、即決で支払わねぇなら、一日あたり延滞料を100%づつ加算するからな? 元々の金額は破格で、一人あたり10万ドルなんだからよ。――そのうえ、何人なのかしらねーが、5人以上なるなら、わりいがこの話はなしだ。今用意できる最大で5人分。それ以上はさすがにカバーできねぇ」
「……ずいぶんと高いな」
声を荒げて星越は怒鳴った。
「あったりめぇだよ! 前回の分の踏み倒しも含めてこっちは大損もいいところなんだよ。いいか? パトロンがどんだけ金出すかは知らねぇけど、こっちは慈善事業じゃねぇ。俺の手配と采配と危険手当はもらうとしても、ほとんどが処理費用だってこった」
口をとがらせる星越は、頭痛を禁じ得ないと、しかめっ面をジョージに向けた。
後処理の良し悪しによって、事件の露呈の危険性を限りなく最小限にし、証拠の隠匿を可能にしている。これを蔑ろにすれば、関わった者がすべて処断されることになるし、特に死体損壊だけではなく、主犯扱いとして激しい取り調べに晒される。
「前回やった時にもこっちは処理役をやってやったんだ。で? いままで生き乗れてるわけだろ、互いにさぁ。そのうえ、組の方も手出せねぇんだから――」
「分かった。ま、いいだろう」
話が長くなりそうだと見るや、すぐにジョージは掌を返した。
「……。まー……うーん。まー……ドラム缶10数個程度と、薬剤か。うーん、こっちの取り分は……延滞込みじゃなきゃうまくねぇよなぁ……けっ」
唇をとんがらして、いじける星越。
にやにやとジョージは、特に声はかけない。
こう簡単に提示条件が飲まれてしまうと、結局やるしかないという状況になってしまい、星越としても重い気分になる。相手が問題児でなければ、とか、今回限りならば、という希望的観測が頭を横切る。
しかし目の前にいるのは、今回限りとはしてくれなさそうではあった。
「やるしかないっつー事は重々でもよー……。そっちはいいよなぁ! 楽で」
やっかみを込めて、星越は頬を膨らませた。
「いやいや、」
ジョージはにやにやとした笑いを口元に蓄えたまま首を振るう。
「《人間》一人を捕まえる事もかなり難しくはなってきているがね。特に日本でもカメラの数が従来の比ではない。前回よりもかなり増えているだろう? 中国よりはまだましとはいえ、これらの目をかいくぐるのはかなりの手間だ。空港からここに至るまでかなり入念に準備している所ではあるし」
その割には、昨日の今日にやってくるというのは迷惑だ、と星越は口にしない。
しかし、怨念を込めて目で訴える。
この二人がいる場所も厄介だ。都内から遠くはないとはいえ、関北区取手区に来て大規模の輸送のためにつくられた集配拠点の一つに来ている。
廃工場とはいえ20haにも及ぶこんな郊外の片田舎にある、集配センターに顔を突き合わせて、こそこそ隠れて話しをしなければならなくなるのは、以前に盛大に逃走劇をやらかしからに決まっているだろう、と言いたくなった。
もう少し段取りというのが出来ていれば、空港からほど近い海上公園の並びにある大きなホテルの一室を押さえる事だってできたはずだというのに。
「そっちの小言の事はどうでもいい。正直こっちとしては、きちんと処理してくれるかどうか、という点だ。そもそもそれを込みでそちらは《Mouse》の一員としていままで働いていたのだろう?」
ジョージに対して、星越は口をへの字のまま嫌そうに腕を組んだ。
「そりゃそうだけどさ……」
まったく内心を理解していないジョージに苛立ちを感じながら、星越はため息を一ついた。
星越は口の端に噛んでいた電子タバコを手に持つ本体に差し込んでのスイッチをいれた。
右手で遊ぶ中で、少しだけジョージに沈黙を並べる。
観察するという訳ではないが、星越はジョージという男が好きではない。
三年前だったとしても、今だったとしても、厄介な相手である事は事実で、彼の所属する《Mouse》であったも扱いに苦慮しているのが事実だ。
生粋の『独善者』というチャーリーの評価が妥当だ、と星越も内心頷く。
「……しゃあねぇなぁ……」
しぶしぶと星越は煙草を一口。
「今回の依頼のあった対象者の行動確認については既に済だ。――とはいえ依頼から日数が無かったこと、オレ以外のやつがやったから穴があるかもしらねぇが……。ホシの二人分だけで、あとはたいした情報は集めらんねぇ」
「それでいい。どうせIDがわかればこちらから映像確認を『彼女』にやらせる」
「……さようで。まー、最新の画像ではそんなネェな。半年くらい前のものがいくつかっつーところだけどまぁ問題ねぇだろ」
「あぁ、その辺りの手際は評価している」
ジョージは加えて評価を上積みする。
「正直、私がこの地にずっと根を張っているわけではないから、前回の事も含めて逃走経路については非常に助かるというものだ。――さすがは元警察といったところか。今回もその手腕については期待しているというところだ」
「……、警察だったから評価している訳だっていうのは重々理解してるってーもんさ。だからって、そればっかり頼られるのも違うっしょ」
憮然として、加熱された電子タバコに口を付けた。
少し熱しすぎた煙の熱を感じながら、肺に煙をためる。
すーっと、イライラした気分が中和されるのがわかる。
「頼るなら、そもそも今の警察のやつらに頼んだらいいだろうしよぅ? そっちなら、簡単に弱みの一つや二つなんて取れるじゃねーの?」
ククッとジョージは喉を鳴らし、両手をワキワキとさせた。
廃工場の影の影響でそれほど気にはならなかったが、普通の色とは違い手だと認識する。
金属製の手袋、というのが正しい表現だが、実際これは端末操作用の一つの外部ツールである。空間上で任意のポイントでキー操作を可能にする現行の《サテラ》の様な端末の二世代前のアクセサリだ。
星越が懐疑的な視線になる。というのもいまだにキー入力を行う利点が少ないというのが一番で、視線入力や、音声認識などを考えれば、速度も正確性においても、はっきりいって打ち込みを継続する利点がない。
ジョージの使う手袋、《フリップ》は任意の空間内で操作が可能になる特殊な手袋だ。手の骨に沿って大きく5本の金属線が走り、間接に相当する部分に小さい接続部が存在している。カーボン製らしく黒く、よく使いこまれているのか小さい傷が見える。
プログラマーといわれる職業は、今や過去の遺物である。
半世紀もたたない間に別の形状に変化され、旧来のコード記載を行うようなプログラマーは完全に死に絶えているといってもいい。
もそもプログラミングをする行為がほとんど不要だからだ、と言ってしまえばそれもそうで、上級言語に彩られた世界に中で、AIによる補正機能は完全に人知の及ばない軽易な内容を端的に、わかりやすく、そして気づかれずに修正することができた。
今や子供でも老人でも積み木を組み立てるようにライブラリから何をしたいか、を引っ張ってきさえすれば、繋げて一つのアプリケーションを作り上げることも簡単だった。
であるから、随分昔の”プログラマー”が使っていた代物を大事そうに手に付けているジョージを見ると、星越としては遺跡でも見る気分であり、ジョージ・マケナリーが化石だと錯覚するほどだった。
それでもこの男が危険人物であるということを知っている。
現代の誰もが忘れてしまった技術というもの――正確にはごく一部では残存しており、押領司なども使うことがあるが――を使って一体何をしているのかをよく知っていた。
「ま、簡単に手に入れることはできてもだ。私の手駒として優秀な成績を残すものは少ないというのも事実なんだ」
ジョージは愉快そうに指を滑らす。星越からは何が起きているのかはわらない。当然、相手のデバイス上の操作はきちんとしたセキュリティ上保護されており、AR空間であろうとのぞき見することはできない。
「現在試験的に可能になったフルダイブ技術というのがある。すべての感覚を『移行』するという技術は、そもそもの考え方がVRに直結している。
簡単に言ってしまえば五感を”機械によって刺激”し、その情報を与えるということを突き詰めた結果だろう。
対し、私の好むのはARだ。拡張現実というのは、《人間》に機械を使役するということをきちんとできている結果、だと私は思う。
制御の利かないフルダイブは今や麻薬と同等で、現実との乖離を引き起こすとして規制の対象。技術はあるがうまく使えないというのが実際のところだ」
「そうであっても、そっちがやっていることは御託を並べても、ただの情報窃盗でしかないっしょ?」
と鼻で星越は笑う。嘲笑に対してジョージは気を悪くした様子もなく、
「まぁ、間違いはないがな」
にやりを口をゆがませる。
「いかに装置が優れようとも、《人間》の本質には恥部を隠す、という習性があるのは事実だ。だからこそ、ゴシップというものはSNSの台頭に伴い”作為的に形成された”ゴシップとして娯楽化されたわけだが……、私がやっていることはそういった低俗行為とは違い、ジャーナリズムに近い事実を列挙するための手段として機械を使っているに過ぎない」
はは、と星越は声を上げて笑う。
「よく回る口だこと」
星越はたばこの煙を吐き出した。
「どういってもいい。正直オレに金が入る仕事ある、という事実だけあればさ。――でも今回のヤマはリスクがでけーってこと。それも三年前に比べてリスクはダンチだろ?
その辺、頭使ってもうちょっと考えてくんねーか? 一等最初に捕まる可能性高いのは処理屋のオレらだぞ」
「ふむ、」ジョージは空中に滑らせていた指を止めて、視線を向ける。黒い手袋の指があまりに不気味で、一瞬星越は拳銃を突き付けられているような気持ちになる。この眼前の男が羽虫のようにただのチンピラである星越を殺すことは造作もないだろうということはわかっていた。だからこそ、星越は虚勢を張って相手と対等だと続けようと口を開いた。
黒い手が制す。
「結構だ。あんたが私と対等、というのは事実でありそれを口にする必要はない。ビジネスとは常にギブ・アンド・テイクで形成される取引だ。それをこちらが容易に値切ることはできないし、今回の事情を考え、危険手当を要求することも理解できる」
しかし、とジョージは難しい顔をした。
普段、表情を険にすることがないとされる”老人”の負の表情への変化に星越は面食らった。
「簡単に要求通りにこちらも払えない事情もある。なに、非常にわかりやすいことでね。仕事が終わらないとお金が払われないのはこちらも同じなんだよ。一人頭そうだね……たったこれっぽっちでで引き受けているところだからさ」
そういって、ジョージは指を一本立てて見せる。
――それでもオレの十倍じゃねぇの
とムスッとした星越。
「すでに、交渉は決定している。――まぁそっちの事だから、口座に入金済みだろう? まー……やるはやるよ」
諦めた表情で星越は煙草の煙を吐いた。吐いたついでに苦言の一言も丁寧に添える。
「でも、次からはちゃんと段取りをしてくれ。じゃければ”次”は協力できねぇ、ってことだ。争いには必ず準備がいるんだよ。準備を軽んじるっつーのは死に急ぎ野郎しかいねぇ」
「ハハハ」ジョージは愉快に手をたたいた。
こういった陽気な姿の方が”老人”らしいと星越は思った。
「その通りだよ。あんたはおもいの他、思慮深いのかもしれない。とはいえ友達になる気はないが」
「そりゃこっちもねぇよ! オレは好き好んで処理屋をやってるがな、それは一番安全だからなんだよ。そっちの都合ばかりで振り出しになるわけじゃねぇからな。――しかたねぇから、今回は豚屋に頼むことにするが、ほんと、まじ、次からは――」
分かった分かった、と苦笑しながらジョージは手を振る。
「処理をおろそかにすれば、こっちも危うい。私は世界から狙われているからね」
「……だったら自重という言葉を覚えたほうがいいぜ?」
「自重?」
ジョージが真剣な星越の言葉を鼻で笑って一蹴した。
「自重なんてして何になる? 世界の求める生きつく先を見れなければ、やらないことと同じでしかない。一度やったら、二度も、三度も、百も、千も、万だろうが変わりやしない」
ジョージは再びゆっくりと指を虚空に滑らしながら、首をあちこちに向けだした。「やる、と決めたときに、最後までやれないというのは才能や、努力や、気分の一つという要因によってたった一つの重要なことがゆがんでしまっているからだ。私は、そんな軟なことはない」
「――ちなみによ、」星越は目を丸くしたまま問いかける。「その一つの重要なことってなにさ。機械の奴らはそういったものを一切排除してコンベアーに乗っかってきた仕事をこなすっつーのにさ。《人間》だけはどうしてそこが壊れちまうんだ?」
ジョージは皮肉な笑みを浮かべた。「信念」
「あ?」
「だからさ、信念だよ。その者が最後の最後までやり通すのは。《人間》はとても、とても、気分屋なんだから、信念なんていう、数値化できないものに左右されてしまうのさ」
――あぁだからこんなにもコイツは『独善』なんだ。信念なんて最初っからねぇ……