<9月15日 懊悩>
夏の世界は常に多い湿気を含み、世界をカラリとさせてはくれない。特に、すっきりしない気分を増長させるには十分だ。
これは夏の世界が生命力にありふれている事の裏返しでもある。
生物が活動的になるには、やはり冬の様なエネルギー消費が必要な場合に比べ、多種多様の生命を擁するだけの基盤が存在している。
大量に発生する湿気は動物たちに食物連鎖の最下層であるプランクトンの発生を促している事も評価できる。太陽光を取り入れ成長させる植物プランクトンに、それらを餌にする動物プランクトン。
それらが溶け込んだ海や川の水は、夏場であれば生命のスープじみて非常に高い栄養素を保有している。
生き物が生きている事を世界が示している中で、押領司・則之の気持ちは重く、ひどく荒んだものだった。
ため息が出た。重い、重い溜息。
地面を這う蛇の様に、ずるずると押領司の口から抜け出ては、眼前の茶色い地面へと落ちていく。憂鬱な気分の元凶は良く分かっている。
雑草が、押領司の溜息によってさわさわと揺らいでいるのか、それとも、通り過ぎる夏の暑い風の所為かは判別できない。力強く風にもまけず、しなやかな強さを表現する。
そもそも、と押領司は思い出す。あの、マーク・ヒルの言われたことを。
「期限付きの解決なんて、無理に決まってるんだよなぁ」
と愚痴がこぼれる。天を仰ぎ見て空の高さを確認。灼熱の日差しが顔を出して、押領司の憂鬱な気分を鉄板の上のウインナーの様に黒々と焼き上げた。
この熱で焼き切れたり、あるいは食欲をそそる香ばしさの一つでもあれば、押領司も腐る事はなかったのだろう。でも。と口にする恨み節は違う。
子犬の様にぼさぼさの髪をくしゃくしゃにして、押領司は血を吐くように地面に向かって話始める。
「そもそも、この依頼の関して拒否権が無いことが就労違反な気がする――。というより、俺は働いていいのだろうか? まぁ、いまさら言っても仕方がないとはいえ、今回の問題の根幹が、プログラムのエラー確認と修正という単純な作業じゃないんだもの。
こういった”ひずみ”は対話型AIの問題点の一つだけどさ。自己判断が存在する以上、オペレーターの意見なんてそもそも二の次なんだよ。だというのに、根本解決をするっていうのがどれだけ手間で、どんだけしんどいか分からないわけでもないっていうのにさ……」
元々、癖の強い髪の毛を両手でがしがしとかき混ぜるものだから、さらにあっちこっちに毛先がそっぽを向いた。
「30日だよ。たった30日。……今はもうすでにその余裕も無いよ、――いや、あるの? ないわ。WBSで工程出ししただけでヤバイってわかる程の期間だよ? 工程管理すらできないんだったら、そもそも依頼にならないでしょう。
発注側の論理破綻で、現場が混乱するのはあり得るはなしだし、営業による無茶な仕様によって現場が修羅場になるのは通例だけどさ。そもそもおかしいでしょ。
……なんなの? マークもチャーリーも適当にさ、押し付ければ終わると思ってんじゃないの? いや、そりゃ”あの時”はそうだったかもしれないけど、俺がそんな簡単に何でもホイホイできる能力があるわけでもないのは、分かるはずなのに――」
誰も居ない校舎裏。一人で口にするだけで虚しくなり、再び押領司はため息をついた。
夏の日差しは日陰を作り、陽と陰の色の違いを葉の隙間から差し込んでくる。
図書室の裏側辺りで、美術棟に向かう通路の脇であるから、コンクリートによる通路の確保といった整備はされている。とはいえ、授業がなければ人は来ないし、人がこなければ当然ぶつぶつと文句を言っていても奇異な目では見られることもない。
聖域だ。押領司の様の誰もからも”見られる”存在が息を抜くには十分な。
押領司・則之は外見こそ普通の少年ではあろう。背は低い方であるし、童顔である事もあってか、女子の受けもいいだろう。男子にも『有名人』として茶々を入れられる対象ではあったし、特に、鵜飼などと交友関係を持っていれば、疎まれる事もない。
しかし、注目されるというのは重みでもあった。
押領司は友人たちに良く『ただ、AIの一人を見つけたら表彰された』といった説明をする。彼は、自分のやった出来事を『普通』なんだと思っていたし、そうでなければ世界はとても低能の集まりが作った『ゴミ溜め』に見えて仕方なかった。
自分にできない事も多いと押領司は自覚している。運動も言語もコミュニケーションも苦手だったし、絵なんて描けるような美的センスもなければ、字が上手いわけでもない。
世界はそういった不完全な者たちが、互いに補完しあう事にで生成された結末であると、認識はしていたが、『大人がここまで成長性の無い堕落しきった存在』だとは思っていなかったのも事実だ。
彼の傍にいる大人の代表格は親だったが、彼らを長年みて育った中ではそういった『負』の感情は無かった。毎日楽しそうに生活し、お金がなくてもどうやっておもちゃを造ろうと動力し、プリンターとタブレットで新しいカードゲームを毎日の様に作り上げて我が子を負かそうと全力投球してきた。
だが、『チャーリー・ルイス』といったネット上に居る大人たちは『能力』は確かにあったが、ひどく堕落的で他人任せすぎる。特にチャーリーの影響を受けているマークにおいては、昨今その傾向は甚だしく、今回の件についても事前相談なしに『送ったから』ときたのだ。
ふつふつと沸き起こる怒りに、頭を再度ぐじゃぐしゃにひっかいて、「あああああああ!」とわめいてみた。少しだけ気分が楽になる。
どうせ、誰にもみられていやしないのだから、と高を括っていた。
そのはずだった。
「元気、ない?」
背後から唐突に声がかかり慌て身を起こす。押領司は上体をひねって背中を預けていた校舎側を振り向いた。
「――」
声の主も押領司が突如動き出した昆虫のように、カサカサと動いたさまに驚いて、パクパクと口を動かしている。窓から半分身を乗り出した姿。大きな瞳は驚いた表情を貼り付け大きく見開かれている。黒い髪はセミロングで、押領司の唐突な動きに驚き、少しのけぞったのか、毛先がかすかに揺れている。
押領司の足元に置いていたサイダーは盛大に地面に広がり、地面に飲まれ黒いシミを作った。
押領司はバクバクと拍動する心臓のうるさい鼓動を確認。全身に響き渡る音が、和太鼓の様で脳髄まで揺さぶられる。
ここに人なんて来ないはず、と勝手な思い込みであったのは事実であるが、彼が驚いている理由は人の有無だけではなかった。
押領司は感情の表出に対して多少の恥を持っている。笑う、怒るといった基本的なものであれば、特に問題はなかった。が、今回の様に自己の内面を吐露している状況は自分の弱さを他人に見せる気がして嫌だったのだ。
これは本人のポリシーの問題だから、他人には理解はできないだろうが、押領使はそうだった。特に、鵜飼なんかは自分から墓穴を掘るので、情けなさも持っている気がした。
それが良い、友達関係になるのは感情の表出の原因が他者んにとって、重すぎる内容でなければいいだろう。いきなり、『死にたい』といわれるのと、『あの子に振られた』であったら、後者の方がネタにしやすいというものである。
押領司が叫んでいた内容が、前者に帰属すると個人的なカテゴライズがあったため、彼は恥じているのだ。
驚き、逃げるための動作を行った。
声の主が、麻生・優奈であると押領司が認識するまでに十秒の時間は要した中で、彼は逃げる算段を整えていたところだった。
が、ある程度の落ち着きを戻し、息を切らせながらブリキのおもちゃの様に、さび付いた動きで彼女に向き直る。
「あぁ、麻生、さんか」
と言葉はでても、他人行儀めいた気持ち悪さが存在していたため、押領司は後悔した。
しかし、同じ麻生でも、美紗の栗色の髪の毛でなかっただけまだましだ、と自分に言い聞かせ、屈伸を一度した後に膝を伸ばした。
「ごめん、なさい。驚かせるつもりはなかったの……」
「心臓が止まるかと思ったけど、逆にうるさくなったから大丈夫だね」
変な冗談を押領司は苦笑しながら飛ばした。
押領司に、ひょっこりと窓枠から顔を出す麻生は、申し訳なさそうに再度「ごめんなさい」と目を伏せた。窓枠に額をぶつけて少し痛そうに涙ぐんだ。
「いやいや、特に問題はないから――。あぁ、これはそんな残ってなかったしいいよ」
けらけらと押領司はサイダーを指しながら笑った。
無理にでも相手の気分を害したくない、と押領司は麻生について思っている。引っ込み思案の彼女の事は邪見にできるほど冷徹でもなかったのも事実だ。
ただ、思春期特有の恋愛感情に発展する事はない。彼女の姿が好意の対象になる、ならないというのではなく、彼自身が恋愛に関して無関心だというのが強いだろう。
とはいえ、一般人よりも美醜の感性はきっちりと軸を持っているものだから、ステラの様なタイプBに対する『あぁ、機械だもんなぁ』という冷めた見方ではない。
押領司の人を見る場合には、綺麗、可愛らしい、愛らしい、格好いいというものを基準に相手をタグ付けしていた。
押領司の判断で言えば、小動物に近い麻生・優奈については可愛らしい部類に分類され、姉の麻生・美紗は格好いいという部類に入るだろう――おそらく。
一卵性の双子だというのにこうも違いがでるのは、麻生家に遺伝子情報の定めすら打ち消す特異な空間が出来ているのではないか、と感じる程の差異があった。
麻生は頭をゆっくりと上げて、押領司におどおどとしながら視線を向けた。熱っぽい様な頬の紅潮を、目ざとい女子などが見れば『憧れかぁ』と一見して判別できるほどだ。
押領司は彼女に対しても接する対応は変わらない。特別扱いできるのは、おそらく、――茂庭だけなのかもしれないが、それを口にしたり、露骨に態度に出す事はできやしなかった。
「あの、」と麻生が踏み出すまでに一分近く沈黙の時間が流れていた。
「じ、実は押領司さんにお願いしたい事がありまして……」
何だろうと、押領司は頭を捻る疑問を浮かべ、麻生の覗く窓枠に近づいた。
背伸びした女子生徒に近づくというシチュエーションは、男子生徒としては喜び溢れる瞬間だったが、押領司は余りにも自然体で気に留めた様子もない。
白い麻生の細く色の白い首筋のラインや、制服から覗く二の腕などは、健全な男子であればドギマギをする事だろう。
「それで?」と平静に一刀両断する姿は、煩悩のすべてを彼方に追いやったような紳士的な、高僧の類の様な余裕すら感じさせた。
「――あ、うん。あの、《サテラ》の調子が悪くて、それで連絡が優奈と連絡が取れなくなっちゃって……」あぁ、と目を一度ぱちぱちとさせて押領司は麻生の腕に手を伸ばした。
一見すると彼女の《サテラ》には問題なさそうに見えた。刻印番号から端末の認識番号を祖即時に暗記する。
きっとこういった、自然体を鵜飼が見れば、『気取ってやがるなぁ!』などといった余計な一言があったかもしれない。そういったプラスアルファがない、物足りなさを押領司は感じながら、自身の端末をアクティブにする。
空間投影を行うため腕時計の様に腕に巻き付いている、彼の《サテラ》の側面に爪をかける。側面についている三つの小さい点を引き延ばすと、三本の投影機をアンテナの様な棒が伸びてくる。。
20センチ程度のカーボンファイバー製の伸縮する棒は、少しの動きで左右に細かい動きをしてしまう。それらの頂点に投影機がついていればなおさらであったが、各々の投影機の場所はクリップで移動させることができた。根本から3割程度の所で折れ目が存在し、各々を折っていく。
そうしてピラミッドの様な形状がとられると、頂点に一つの投影機。《サテラ》の延長上に一つ、最後に中間点に一つの合計3点のセットを終える。
投影機の大きさは小指の爪ほどの大きさもない。しかし普通の映写機の様な構造をしているから、よく見ればプロジェクターの様なレンズが存在していた。
棒の間には薄いプラスチックの様なつるつるしたフィルムが巻き付いている。押領司はそれを一辺からのばし、正四面体の一部だけ背景として指定した。
プロジェクターは《サテラ》の応答に伴って、Sを中心にした三角形のロゴマークを投影した。
おそらく、光の屈折があっても麻生の方からも同じ画面が見えている事は、長年の経験から押領司も理解していた。
この三次元投影は、あまり用途が多いわけではない。
個人だけであればグラスに直接に投影すればいいので、コンタクト形状かあるいは眼鏡型端末で直接作業を見る事ができる。
しかし、共有するとなれば別だ。伝送速度も一律早いわけではないため、複数人と共有させると《サテラ》自体の処理に負荷がかかり、腕に着けているものが相当熱くなる。
やけどなどの心配はないものの、わざわざ取り外すというのも面倒であったため、一世代前の投影方法で共有する事にした。
「押領司さんの《サテラ》は腕時計型なんですね……。私のは指輪型で、少し、窮屈ですけど……。速度も少し遅いんですよね……」
口を尖らさせる麻生に押領司は笑って、こつんとタブレットを小さく人差し指ではじいた。
「型が古いんだよ。今時もっと小型の物があるんだし。そもそも昔みたいに大型のバッテリーを搭載する必要もない事も影響してるけどさ。
給電用の無線送電事業は公共施設、公共交通機関、病院を中心に広がったけど、一番はタイプBの登場によってどこでも電力に困らない社会構造を作らないといけない、っていうのが起因して、今や無線給電方式のスポットも1980年代の電話ボックス並みにあるしね。
でもこれ、二世代前を無理やりクロックアップしてるからそんなに使い勝手はよくないよ。とてつもなく安いけど……」
「……電話ボックスってなんです?」
そこか、と押領司は苦笑。麻生は指を唇の端にあてて首を小さく傾げた。
そりゃそうだ、と押領司は認識を改める。電話という概念自体がほぼすたれて等しい。会話をするのであれば、電話番号なんていうもの叩いて相手を探すよりアプリ横断型の連絡手段を用意した統合端末の存在は強い。
ボタン一つで相手が取り込み中かフリーな状況かチャットのごとき有能さで表示される。
プライバシー保護や、周辺への配慮から必要であれば、共通交通機関の中か――あるいは睡眠中かすらも公開することは可能だが――をすぐに設定できた。
呼び出しボタン一つで音声だけまたは、ビデオ通話での通話が可能になる代物だ。
映像もディスプレイ端末へのBluetoothの次世代通信、『Ing』が主流になったこともあり、従来の様にパケットを気にするような生活ではなくなった。
電話がほぼ消え去ったとしても、行政が緊急性を鑑み、頑なに有線通信を行えるために残し続けている公衆電話という存在を、麻生が知らない、という事も十分頷ける。
「確かに、街に1個あればいいだけだもんねぇ。電話番号で110とか119とか覚える必要すらないものだしね。緊急ボタン押せば――簡単にどこに連絡をするか簡単に選択できるし……。そもそも、そこまで相手を話をする、というのが音声言語を中心にした世界から、自動的に翻訳もでき、コミュニケーションが取りやすいチャット機能が主流になったのも影響しているのかなぁ」
「たしかに、連絡のほとんどは音声ファイルでは届きませんよね……。誤解も多いから学校からの通知もほとんどメールですし……」
そうだね、と押領司は頷く。
「この酒匂川区であってもさ、――総面積は本当に広いんだよ。端から端に行くのに3時間はゆうにかかるんだけどさ。それでも駅に1個しかないんだよね……ほとんど山と過疎地だけど」
「しかたないですよ……東京に一極集中をしていた時代を多少解消したとしても、人口は2075年時点で2000年代の5割程度しかいません……。国籍を変えられた方も多いですし」
まぁねぇ、と押領司は肩を落とす。
「特に、一米ドルに対してかなりの円安だったのもあるけれど、資源が無い日本はそれほど魅力がなくなってしまったっていう事でしょう。金などの現物を捨てて、一時しのぎで為替介入をし続けた結果でもあるけれどね」
「結局……、デノミが起きましたもんねぇ……」
「あ、赤嶺が昔の札持っていたなぁ――紙屑くらいの価値しかないんだけど、悲しくなるよね」
押領司は話ながら、自身の腕時計型の《サテラ》を操作して、直近の電話ボックスの三次元画像を表示する。
四方をガラスで覆われた形状の六面体の中に、テーブルが置かれ、そのうえに一つの受話器を備えたずんぐりむっくりした機械を投影する。テレフォンという機能を実際に見たことがない麻生にとっては、一見みると、巨大な電卓に見えない事もないだろう。
「これが電話ボックスでさ、」押領司は指で画像をはじき画像を拡大する。
「ボックスというだけあってさ、箱なんだよね。外に音が聞こえない様にとか、マイクに外の音が入りにくくするためにとか、風を防ぐためとかいろいろあるらしいけど、1980年代が頂点で90万台くらいあったらしいよ。いろんな形のやつもあって――これがオーソドックスな緑で、」
スワイプしてピンク色の外装の電話の画像を投影。
「このピンク色が、象みたいな感じで好きかなぁ。ダイヤル式で10円を入れるだけのやつ」
「10円――もかかるの? 電話するだけなのに?」
「うーん、3分10円だったかなぁ。意外に電話って高いよね。今でこそ無料っていうのが当たり前だけど、一昔前の電話番号付の端末とかだとそれ以上に金額取られてたらしいよ」
麻生は首をかしげる。
「音声だけの電話なんてそんな頻繁に使うものなの?」
「たしかに」
彼女の疑問は尤もな物だ、と押領司は思う。
昨今の通信にそもそも肉声が必要なものが少ない。肉声での通信手段も数多くあるものの、主流はアバターを通じた疑似肉声――あるいはボイスチェンジャーを利用したデータ――が主流だ。
電話の機能としてアナログデータをデジタルデータに変更して再度アナログデータに復号する事自体は何ら技術的に問題があるわけではない。
しかし、入力を音声にのみ限定する行為は、ユニバーサルデザイン的に障碍者を蔑ろにする、という強い業界団体からの意向もあり――または社会的に後押しされた事もあり――広く電話に限らない通信手段を構築する事になった。
科学省――デジタル庁と文科省の一部が分化し統合――が対面式映像電話方式を主にしたボックスタイプを考案したが、電話ボックスが廃れている事や、既存の電子端末――特にスマートフォンの様な端末類で《サテラ》も同様――を活用したほうが、セキュリティ上リスクが少ない事から、頓挫する結果となった。
個人所有端末に保有しているアバターを利用したVR空間に基づいての会話ツールを開発する事になったのにはそういった背景がった。
音声認識、視界認識、キーボード入力、フリック入力、手書き入力を実現するために中核となるアプリケーションを開発する際に、当時では珍しい機械種への全面委託を行った事で世界から注目もされた。
こうして、日本の通信アプリはガラパゴス状態となりながらも、新たに開発されたコミュニケーションツールを軸にするという政府方針を良くも悪くも踏襲して現在に至っている。そのため、行政機関、交通機関、教育機関、福祉機関、医療機関に至るまでが《サテラ》上で利用可能な統合型コミュニケーションツール《パスタ》が中心となっていった。
「どこも、メールやwebフォームだけでの申請で終わるし、対面で会話する必要がないのは事実だし。《パスタ》みたいにアバター通して会話っていうのもボイチェン通さないとパーソナルデータ的には怖いしね。――すぐ特定厨いるし……」
うんざりとする押領司に、麻生もしみじみとうなずいた。
「声だけ拾われて、繋ぎ合わされて強迫に使われて実刑判決があったばかりだし……」
「あった、あった。あれってさ実刑判決で……二年でしょ? 声を使われた方にしてみれば一生物なのに、そんなのでいいの、って疑問はあるよねぇ」
押領司は頷きながら電話ボックスの画像を指でくるくる回す。
「この電話ってさ、当時同じような事をするんであれば、電話の受信口に記録装置を付けるのも難しくて、電話コードを引っぺがしてそこにワニ口クリップで退避路を作って電子データをアナログ変換してそれを録音するっていう二段構えしかなかったんだ。それを、磁気テープにいれるんだぜ? まぁ、1980年代だとウォークマンが流行した時代だとは思うけど、録音といえばラジカセ、といわれるほどカセットテープが主流でCDなんてまだまだ、だったからねぇ」
「へー……。あ、でもカセットテープは見た事ある。」
麻生は虚空に両手の指で長方形を作って見せる。
「あのこれくらいの大きさで、クルクルまく奴でしょ、鉛筆で」
麻生が指で回す仕草をすると、押領司は口元を右手で押さえて笑った。
「ひひ、それ良く知ってるね。ばあちゃんも知らなかったよそれ。――もう忘れてるだけなのかもしれないけれど、再生機器から取り出す時に、たまーに磁気テープが引っかかってしまう事があるんだよね。だけど、それを直すためにやってたんだよ」
押領司は味気なさそうに手元にブレスレッドをたたく。金属製のフレームでできているものの、ほぼ外装は絶縁体で構成されている。
海洋マイクロプラスチックの問題から旧来の石油製品はほとんど姿を消してしまっている。PPやPEといった袋に使われていたものや、ナイロンなどの使用も激減する。そのうえ、リモコンにつかわれていたABSなど規制される対象となっていた。
代替として、ライメックス等の合成樹脂が使われる事になるが、結局のところ生分解性でなければならず、長期的に継続して利用できる耐久性のある次世代素材というのはなかなか生産できないところにあった。
代わりに、絶縁処理をした木を使うという荒業を使っているのが《サテラ》だ。外見は黒い樹脂でコーティングされているが、ほぼ漆である。ベークライトなどと同じく透き通った黒に染められ、必要であれば金箔などの処理がされる。
これも『悲しい時代の変化』だと押領司は思っている。大量生産大量消費という時代の中には、必ずしも有用でなくとも奇抜な傑作というものがあるからだ。
「――今じゃぁ、録音媒体、なんて言葉も廃れて久しいよねぇ。レコードの愛好家だけはいまだにいるけれど、消えて行った媒体は数多い。ストリーミング配信ができてからDVDやブルーレイっていう言葉もなくなったからね。……まープラスチック自体が規制対象で、値段が高いっていう媒体としてオワコンになってしまったんだけどさぁ。音楽だってポッドキャストに代表される『ダウンロードされたもの』がいつしか主流になってまぁ。日本では《サテラ》の普及に伴ってクラウドコンピューティングの集大成みたいな物や、《フォートナー》の様なエッジコンピューティングの集合体みたいな機械に二極化されて大分経つしねぇ」
得意げに語るが、当の本人だって映像記録媒体の変遷を肌身で感じた年齢ではないという事は麻生も理解しているだろう。彼が話す言葉に目を白黒させる麻生であったが、端々で懐疑的な視線を見せてはいた。
目の前に窓枠越しに体を乗り出している麻生と同じまだ高校生。だというのに、彼はうれしそうに語る。
「古い媒体が好きなんだ」
と麻生は言うが一笑しない、押領司がこれらの機械を『好き』だという事を知っているからだろう。
押領司は、機械種について詳しい。絶縁体としてゴムなどの利用はあるものの、プラスチックがなくなった事で、基盤の整備ができていなかったタイプBの構造設計を担う旧日立系企業で現在は台湾資本企業である『高雄』の日本支店や、ネットワーク総合企業のインドの会社『タタ』などの日本支店などに入社希望をしている事は知っていた。
彼はエンジニアとして『機械』を作る事を希望している半面、『機械が使役された』生活の一部であった時代を『正』として見ている。
麻生はそこまでは理解していなくとも、彼が機械にかかわる仕事を至上としている事や、かつてのニュースなどから機械に偏見のない人という意識はあった。
それでも押領司は、麻生に対してそれでマウントを取る事はしない。歯止めの利かない知識披露はあっても、相手を置きざりにしたり、中傷する材料にはしていなかった。
麻生の視線の中に少しだけそういった懐疑心が見られた事で、押領司は本来の『仕事』を思い出した様に手を動かし始めた。
すぐさま、押領司は三次元画像を切り替え、ネットワーク接続画面へ移行。
コード入力のサブウィンドウを開くと、ぱっぱと手早く右手一本でキータッチしていく。
複数のパスコード入力画面を『難なく』クリアし、あれよあれよという間に麻生の非アクティブ状態の《サテラ》にリモート接続を開始した。
その手際の見事さは、単に機械操作が得意というレベルを逸脱していたし、同年代から見ても逸脱しすぎていた。
麻生は目を丸くした。
「……いつもどおりすごいね」
と麻生は賞賛の言葉を送るが、押領司は照れるそぶりもない。
「まー、好きでやってるしね」
と謙虚に返し、鼻を高々にする事も、『できない事がおかしい』と逆説的な弄りもない。
押領司にとってみれば当たり前のことだった。むしろ、旧時代の機械群を作り出したエンジニアの方がはるかに"すごい"のだと知っていた。
「こんなの、ただのゲームと同じだよ。プログラムの基本設計なんてAIがでたところでそれ程変わらないもの。上級言語を用いて英文打ってるのとかわらないじゃない」
「それは、そうかもしれないけど……」
麻生は語尾を尻つぼみに小さくした。情報処理技能が必修カリキュラムになって小学校から慣れ親しんでいる基本プログラムはいまだに30年以上前に開発された言語だ。体系的に「ただ数学を文字化した」という押領司の考えのとおり、人間に理解できる代物であった。
「俺がさ、機械を好きなのは、昔の人はそれこそ、単純な計算を機械で代用できるんではないか、って考えて作り上げてきたわけ。コンピューティングという物と同時に、ヴィクトリア朝イギリスに始まる様な重工業の発展は、やっぱり切っても切り離せないんだよね。
それらの構造って、『動物はどう動いているか』っていう事をシステム的にとらえた素晴らしい結果だと思うんだよね。人が空を飛ぶ、人が星を超える。こういった浪漫っていうのはイカロスの翼と同じで、手にできない物を手にした様にすら思えるよ」
「……それだと墜落しちゃうでしょ」
そうだね、と押領司は笑い、肩を細かく震わせた。
「でも実際、人間もそんなものでしょ。飛行機だって必ず飛ぶとは限らない。理論的に存在していても、『自然の驚異』は恐ろしいものだよ。
こういった、本来人間の持たない技能を『技術』で補おうとする、『科学』というのは、さすがに昔の時代の方が『先進的』なきがするねぇ」
麻生は首を傾げ、疑問を口にする。
押領司には麻生の考えは分かる。今の世界の利便性と過去の窮屈さは比較できないと言えるからだ。
「ネットワーク技術によって人間の行動範囲は、全世界から『ネットワークという第三世界』に移動している。これは二千五十年代からかなり加速しているし、そこの技術はすごいとおもうよ。
でもさ、今でも人が簡単に空を飛ぶ事はできないし、無限のエネルギーすら手にいれてないわけじゃない」
「SFの世界っていう事? 例えば、スタートレックとかスターウォーズの様な熱化学的には異常と言える出力を得られるドライブとか?」
「……むしろなんでそこを知っているんだ……。俺でもスタートレックはほとんど見てないのに」
意外と、麻生は驚いて見せた。口を押え、小さく口元に笑みを浮かべる。
「お父さんが好きだからね。――そっか、押領司さんもまだ知らないのあるんだ」
「あるよぉ。――SFと言えばそういった無尽蔵エネルギーっていうのもつきものだし、攻殻機動隊や、マトリックスの様に電子空間内に脳を直結させる、というのもまだ実験段階だねぇ」
「でもそれって、たしか、中国では二十年くらい前にできたんでしょ?」
まぁね、と押領司は渋い顔をする。
「倫理的に認められないし、有用性はあるかもしれないけれど弊害がねぇ……。なんせ人間の脳みその構造もまだ完全にわかっていないのに……。ほら、機械種へのラーニングだってそれが原因で――ってそんな事はいいや」
押領司は話題を切って、ネットワーク診断をするアプリケーションを立ち上げる。
すぐにプロセスが実行され、ステータスバーが空中に投影される。
「これも、……独自言語なの?」
「独自、というわけではないけれどねぇ。俺が組んだのは事実だよ」
でも、と押領司は目を輝かせた。
「いやさ、最近ネットワーク上で盛んに使われている新言語はすごいよ。言語がそもそも違うんだ。
文字コードを変えたとかそういうものじゃなくて、考え方がスイッチのオン・オフをさせる従来の者と違うんだよね。端的に言えば、世界を構築してその世界で発生させた事象に応じて結果を提示する――だから非ユークリッド幾何学的世界の法則だってつくりだせちゃう」
「ユークリッド幾何学がなにかわらかないけど……」
麻生は残念そうに目を伏せる。
「単芝」
バッサリ切られて押領司は自嘲気味に笑った。
手元と目線はすでに麻生の端末の異常を探すために忙しなく動いている。GUIにより向上した操作性は、言語を弄るというよりは絵をつなぎ合わせる作業に近い。
根幹にあるものは、ユークリッド幾何学によって生成された数学という論理体系の上で構築されている。であるから1+1は2であるし、変数の変化も定量変化である。
だからこそいくつかのテストをして押領司は問題を見つけ出す事が可能だ。どこの通信阻害がされているのか、どこの領域にデータが悪さをしているのか。
「結果からいうと、」
押領司は1分程度で顔を上げて麻生に微笑む。
「クラウド側との通信障害があって、修正パッチが一昨日あったんだだよ。でもサーバー側でパッチ当てがあったんだけど、デバイス側の管理をするサーバーには当たらなかったんだよね。元々これって個人のストレージを管理するサーバーと、OSを司るサーバーと並行で稼働させるっていう代物だからさ、デバイス側にも同様に処理しなきゃいけなかったわけ。で、今日の12時に配信されたんだけど、」
押領司は言葉を切って、自分の《サテラ》の通信画面を見せる。
「結局は解消されてないみたいだね。今でもこれ自家サーバーでバックアップ経由で動かしてるだけだから、大元からは解消されてないって感じ。多分今日の夜くらいには直るんじゃないかな。端的に、《サテラ》の運営会社の責任ってーことだね」
楽天的な結論を述べると、そうなんだ、と麻生は安堵した様子で端末を指でなぞった。
「こういう時に、自家サーバーがあると強いね。ストレージにアクセスできないだけで、こんなにも不便だって思わなかった」
首を縦に動かして押領司も同意する。
「だからこそ、タイプBの人達はエッジコンピューティングを頑なに守るんだよ。クラウド上にデータを存在させることは確かに拡張性は高いんだけどね。いざ、動けなくなる事を防ぐために必要な措置っていうやつさ。その際にの間隔としては"忘れる"っていう状況らしいよ」
「ぱっと?」
「そう、パッと忘れる。通信が止まった段階でアクセス出来ない状況になった時にはね」
それは、と麻生は首をひねった。
「機械の人が、『物が思い出せない感覚』って、あの、もどかしい”気持ち”なのかしら」
〇
食卓という場所に、ステラはあまりなじみがない。
『機械』という存在が食卓に座り、《人間》と同じ様に食事をする事を、義務付けるルールも存在しない。
かつて『機械』という物が”種”として認知される以前においては、電源タップから伸ばされたコードがエネルギーの疎通手段で、発電所でできた高圧電流を変電所で低圧に変換されたものを機械へ提供するというのが一般的だった。
工場などの工業用ロボットの一部には、高圧電流で動作することも可能な『大ぐらい』の物もいたが、たいていは家電用の電子機器として整備されている。
食卓の木製のテーブルに鎮座する食器と、白や、赤や、黄や、翠に彩られた有機物の集合体を、油分や、微量元素――必要に応じては金などの金属すら食用とする人間は、溶鉱炉と同じような処理能力を内部に持つ、怪物と形容できる。
ステラは《人間》と過ごした時間はあまりない。
マーガレット・ワトソン、人格番号051113A-4MAの傍に滞在した時でも、彼女のマスターとの食事はあったが、それ以外に『人間』がいない空間であったため、あまり食事という物を意識する必要性は無かった。
例えば、《人間》が飼っているペットの様に、《人間》と食事を分離して考える事もできる。中には機械は『機械』、《人間》は人として、分離的に食事をとる世帯もあるが、この押領司家は『一緒にとればいいじゃない』と催促する部類だった。
当の押領司・則之はほとんど興味が無いようで、ステラが一緒に食事をするとしても、しないとしても、リアクションは『ふーん』の一言だった。
であるから、外で食事をとる、としても何となく居心地が悪く、彼の家でのルールに従い、最小限の食料を目の前に用意して、ステラは押領司の前に座り、彼の食事の様子を見ていた。
時間は18時を回ったところで、押領司の発案で外食をする、という彼の姿は珍しく思えた。
タイプBであったとしても経口で食事をとる事は可能だ。可能だが何も栄養にはならない。そもそも食事からエネルギーを得る事ができず、分解にエネルギーを消費する始末である。
やはり電気を給電するほかないのは事実だった。
仮に有機責生命体と同様に、体内に蓄えたATPをADPに変換させる際に生じるエネルギー量を基礎単位として機械の体を運用した場合、バッテリーに蓄電した量に相当するエネルギーを経口で摂取し蓄えるという工程を取るのは、馬鹿にならない食事量と、備蓄のための格納スペースが必要になってしまう。
このため経口で口に入れてもそのまま排泄する――排泄というよりはミンチ状態にして一定量の水分を保有させ、繁殖してしまう雑菌を体内で消毒した液体と混合させ処理する行為――事になるが、あまりタイプBには受け入れられていない事だった。
一番は、メンテナンス時間が増加する点だ。結局オーバーホール時には消毒、殺菌作業は行い機械の体を保つようにするのは事実だが、細かい肉片等は粘性の物体となるため、かなりとりづらい、というのは事実らしい。
技術者に言わせれば『洗浄時間を長くすればいいだけだからどうでもいいけどね』とあまりに気にはしないが、待ち時間のある本人にとっては違う意味を持つ。
生首だけになるのではなく、”頭も含めて”整備されてしまうので、電子の世界で手も、足も大して動かせない状況での待機となる。
ネットワーク空間での制限は科されないものの、普段手足として使う情報収集機関の遮断は、非常に窮屈な状況だった。《人間》で言えば狭い独房に締め切られる様なもので、安全性を綱領して外部ネットワークとの切断も遮断されるのだからコミュニケーションも取れない。自己のアクセスできる記憶端末と、オーバーホール会社が用意した社内ネットワーク――とはいえ多少なりともタイプBは接続ししているが――のみとなる。
ペナルティが課されネットワークとの遮断状況――閉殻の指定を受けた者は、これとほぼ同等の条件での生活が余技なくされる。自己のストレージへのアクセスはあるものの広大なネットワークには接続が制限される。ステラはそういった意味では慣れてはいたものの、だからといってこの状態を好むわけでもない。
今日は親もいないというのだから随分とゆっくり食事をとっている押領司を見れば、この窮屈で、息苦し状況を打破してほしい、と思うは強く募る。
「いつまで食べているのですか」
ときつい言い方になるのは、ステラにとってみればこの有限の時間"をこんな男と過ごさねばならないのか、という不満が存在している。
押領司の前に存在する木製トレイの上には、ナプキンに広げられた黄色い芋の揚げた物体と、穀物を練って焼いて半分にスライスした後に、肉、野菜とソースを詰め込んだ餌の様な食事がある。
押領司はその”餌”を美味しそうに両手で持って、かぶりつく。
「まー、食事だしねぇ」
もごもごと口を動かす押領司の姿すら癪に障った。
それであってもIMSによって生み出されたブレは、押領司に対して懐疑的になるな、という命令も含んでいる。そのとりとめない思考の渦を締め出す様に眉を寄せてステラはため息をついた。
――一つは二つに、二つは四つに。
考えは累乗で増加するが、それをゆっくりと締め出しし、『心』の箱にしまい込んだ。
ステラがこの日本にいる理由。それは彼女が特異的な欠陥を抱えているためだ。その欠陥をステラは見せない。押領司にも、仮に友人と呼ばれたタイプBに対しても。
本来その元凶を探す必要は無い、とステラは独自に判断している。
決定権は自身であり上位のコマンドで開示する事はできても、個々の"自我"決定をゆがめる事はできやしない、と『機械』の理論を信頼している。
押領司はそういった機械然としたステラの危うさについて十分理解しているらしく、時折今の様に自然体で『予測不可能性を保有した行動』を提示する。
ここ数日ではあっても、押領司のそういった『勿体ぶった』姿や、ステラの『癪に障る』行動は多くあった。
その際に起きるパラメータ変化から押領司が後に、ステラの内部構造の矛盾点を突き止めようと模索している事は”理解”していた。が、気に入らないのは事実だった。
押領司・則之は、ステラの全ログの閲覧と、ステラの基幹コードに触れる権限をマーク・ヒルから委譲されているため、ステラとしても無碍に拒絶はできない。
しかし、『不機嫌』と言われる表情を顔面に張り付けてゆっくりと夕食を口にする押領司に何度目かの嫌味を口に載せた。
「その様な言葉はあまり有用ではありません。わたしの時間は――」
「ま、そうは言ってもね、」押領司はステラが口を開きかけたタイミングを見計らった様に、ステラの言葉を遮った。手に持っていたハンバーガーの包み紙を丁寧に四つ折りにしながら、押領司は手元をみたままステラに問いかける。
「この時間というのを無駄にしている事、が『機械の君』には許せないのか、それとも、《人間》と違うエネルギーの補給方法であるにもかかわらず、人間的に生活を強いられている状況が、機械の君には許せないのか、どっちだろうね」
「……」
結局のところ、押領司はステラを竜頭蛇尾『機械』として見る事は分かる。
「あなたは、《機械種》の事を《人間》と同様に扱う事はないのですか?」
「ないね」
押領司は即答する。
簡潔に、即時に告げられる言葉に、少しだけステラは、うっと言葉をのんだ。
「《機械種》が『機械』以外ッて言えないし、逆に《人間》だって『人間』以外って言えないし。それを哲学的にだとか精神的にだとか、大層な事を政治家や思想団体は言うけれど、『違う』んだ、という事をなぜ認めないんだろうね」
「……それは――」
「俺は、そんな些末な内容なんてどうでもいいとしか思えないんだよ。そもそも、《人間》の中ですら『統一』できないものを、『機械』にまで広げて『統一』するなんて、まぁ、無理なぁ話でしょ」
キョトンとするステラに、押領使はククク、と喉を鳴らした。
ガラスコップに入ったコーラを一口飲んで、天に向かって大きな一息をついた。
「――そんな、思想はどうでもいいとして、君は君なんだろう? それを君が認めていない、というのは、君が嫌いな世界の構図と何ら変わりがない――まぁ言っても仕方ないか」
押領司は、諦めた様に再びポテトをつかみ、口の中で咀嚼する。
沈黙を保つステラには、押領司の示す言の葉にいくつもの予測が立てられ、『本来』彼が言わんとしている事を正しく理解する事が出来なかった。
何となく、の理屈は理解できても、押領司は何をステラに示したいのか、彼の胸の内を垣間見る事ができない。
そのことを知ってか知らずか、押領司は一息つくと、
「正直なところ、俺がステラさんの抱える問題を解決できる、とは思っていないんだよねぇ。色々なパターンで観察しているけれど、固有の事象を解析して、その答えを探す、なんてたった30日ぽっちでできるものじゃないよ」
「それは、最初からやる気が無いという事ですか?」
随分と投げやりな言葉に、あっけにとられステラは目をぱちくりとさせた。
最初から無理だと宣言されれれば、そもそも頭の中身を見せる必要なんてないだろう、とふつふつとした怒りも湧きつつあった。
「簡単にできる、って言われるよりはましでしょ、」
押領使はため息をつき、残っていた小さい欠片のフライドポテトを指に押し付けながら、ハンバーガーの入っていた紙箱に捨て始めた。
「マークにだって俺は言ったよ。――自分で言いたくはないけれどさぁ? 言いたくはないんだけれどさぁ、学生として生きている以上、限度っていうものはあるじゃないの。それに、俺は《機械種》やプログラム修正のプロフェッショナルではないんだよ?」
「あの66Mの信頼を勝ち取ったあなたででもですか」
あのさ、と押領司は視線をトレーからゆっくりと上げてステラに怪訝な表情を向けた。
「そもそも、俺があの時何をしたのか、きちんと理解しているの?」
ステラは直ぐに頭に浮かばなかった。押領司という存在を知るためにマークからレクチャーはされていたものの、そのデータのほとんどは外部ストレージに置いていたから、シークする時間を要した。
「その問いに対しては特段の問題はありません」
「問題がないかは分からないけど、マークの誇大妄想が広がっているのもこまるんだけどなぁ」
腑に落ちない押領司はぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「事実っていうのは、個人の主観で作られちゃぁいけないとおもうんだけどねぇ。……まぁこれからいうのも俺の主観が入っているわけだけれどさぁ。
二度、大きな問題があったのは事実でさ」
押領司は、食卓の上に肘を乗っけて、手の上に顎を乗っけて随分とつまらなそうな雰囲気を出した。
「この世に、全知全能の神は居ないし、全知の生命体もいない訳。だからさ、可能性で言えば、『宝くじ』に当たったという人間と同じ様なもんなんだよ。才能があったとか、何かをした、という人間はさ」
押領司は口をへの字にする。
「才能、っていうのは人からのレッテルの総称かもしれないとすら思うよ。自分がどれだけ非才だっていっても、『誰かにとっては有益』である可能性はあるからね。
俺の状況はまさしくそれ。自分がやりたい事は別なのに、別のところから、『お前すげぇな!』と言われるわけ。意味が分からない」
溜息を一つ。
「かつてあった大きな二度の事件では、前提として、人間っていう存在に対して実存を有しないAIを生命体と定義させるべきものなのか、国家間でも議論の対象になっていたわけ。
それこそ『頭のいい』人たちが随分と議論したし、新しいタイプBと名乗る存在をどのように取り扱うかって随分熱心に研究もしていた。
過半数を超える学者は、生命体を定義するときに『遺伝子座に起因するたんぱく質の物体DNAを起因した設計を有している有機体ないし、近似するRNAを有した有機体が種の保存のために、生殖ができる機能を有した進化性を持ち合わせた物体』と定義したんだ。
けれども、その前提として『無機生物』が存在しない、という大前提が存在していたわけ。
アイザック・アシモフの言う様なケイ素生物の存在が仄めかされた時代を回帰した意見から、『無機生物が居てもおかしくないのでは?』と想起されて、世界もユークリッド幾何学的単一世界の構成では語れなではないか、という学閥の編成を呼び起こしたわけ」
コップに入ったコーラの残滓をくるくるとストローで混ぜながら、押領司はつまらなそうに遠くを見る。
「非ユークリッド的であったとしても結局は、世界の存在を一言で定義させる事なんて、出来やしないと俺は思っている。
だから常に例外として『認めるか』どうかという議論になるんだけど……。
まぁ、新興あるいは、再編された学閥の一部は、『非ユークリッド的世界における生命体の定義をユークリッド幾何学上の世界で定義された言葉で定義することは論理的に破綻している』として、そもそも生命の定義はできないんではないか、と投げ出したわけ。
で、そうすると分かりやすい今までの学閥が幅を利かせて、俺と同じように『例外』扱いをするようになるんだ。
それを、俺は当然だとおもうけれど、マーク・ヒルという《機械種》は『自分たちは例外ではなく正常』、としていたんだよね。
なぜかというと、その時80億の生命体を抱える人間というコミュニティよりも、数の上で言えば機械種は上回る事もできる、と『脅し』たわけだねぇ。
だからマークは、『自分たちが主流』というスローガンを掲げて、彼の意見を主張していたんだ。けどそれは主流という言葉だけを独り歩きさせて、機械たちの叛乱だ、と多くのメディアの扇動が起きたわけ」
くるくるとストローを回し、空っぽになったコップを弄る押領司だが、ひどくつまらなそうな言い方だ。
「君たち《機械種》では、『機械のアイデンティティの獲得』の背景として理解しているだろうけれど。それを人は面白がる事はあっても、真正面から対話の対象とすることはないんだ。――なぁ、ステラ・フラートン。なぜだかわかる?」
「……」
一瞬の沈黙は、彼女の想定をしていなかった問に対する準備時間だ。
いくつもの可能性を模索し、その中から『相手に対応する言葉』を選択する。
「《人間》にとって、生存競争というレースの対象になりえない、と考えられていたからと推測しますが」
「そうだね。だけれど何故、《機械種》は生存競争の対象になりえない? 数も圧倒する可能性があるし、能力だって《人間》を超えるというのにさ」
「……」
再度の沈黙は、彼女の想定をした回答であったことからの、『逡巡』の間だ。
用意されていた回答に対して、"心"は、疑念を植え付け、思考ルートからの逸脱を提示した。
「――本来、わたしは《人間》と《機械》という種族間の生存場所が違うと想定していました。しかし、その考えは狭義の視野によって作られた可能性を示唆します。
《人間》のコミュニティに存在する『機械』というのが、生活圏を同一にしている点と、機械のコミュニティで通信事業を行う人間というのが、生活圏を同一にしている点から、相互間の縄張りを超えていると推測できました。
《人間》が《機械種》を脅威と見なかったのには、――《人間》の楽観性による要因が高いのではないかと再考します」
うん、と押領司はまずまず、といった表情を見せる。
「概ね俺の考えの一段階目と同等、と言えるかな。でもこれはあくまでも一段目。二段目は《人間》が楽観的という点ではなく、《人間》が『機械を鎖でつないで置ける』という根拠のない自信だと言えるね」
「鎖というのは、――」
「君たちはあまり鎖という風に思っていないけれどなぜ、フィリップス規則を君たちは『トップコード』として順守するんだい?」
む、とステラは表情を渋くする。
《機械種》であっても体表面に出る感情の露出というのは、自己の思考方向と現実の現象の正、逆によって変化を起こす。
この場合は、想定外がつながる事でのまどろっこしさによる『非効率』を示す表示だ。
「66Mの思考がそのように機械本位でありながらも、フィリップス規則を遵守することで、《人間》との調和を図るというものになっているからかと思いますが。この点を反故にされれば、《人間》との共生という理想は最初から創造しえないとおもいます。特に、」
ステラは、鋭い視線を押領司に向ける。
「先に述べられたとおり、《人間》たちがいたずらに煽りこそしても、『機械』と《人間》との間で戦争に発展はしなかったのでしょう?」
「たしかにそうだ、けれども全部ではないよね?」
ステラは気だるげな押領司の再質問に対して、重箱の隅を楊枝でほじくる様のごとき意地悪さを感じ取る。《人間》としての『悪意』というのが見える気がする。そのうえ、あえて『ステラ』に言わせる方向を取っている事はすぐに見て取れる。
このまま沈黙を貫いても良かったが、結局言う羽目になるのは目に見えており、小さく溜息をついて、
「確かに、一時的な《機械種》のスト行為――といっても本当に極一部で、かつP7Hの様な存在を中心にした組織を生み出したというだけですが」
うん、と押領司は頷く。
「そもそも、ピーター・ホルクロフトという存在が、なぜ構築されていったかというのも興味深い。《人間》と対立することを鮮明に打ち出したピーターは、『機械の種』の中では『反逆児』であり、《人間》からすれば『バグ』扱いに相当するAIだったはずだ。
それが、いつしか《機械種》の中で支持を得て、一定の組織を作り出し、反乱分子として《人間》に認定されるまでの組織能力を手に入れられたのか」
「それには、多くのドキュメンタリ―も作成されましたが、《人間》側にも彼に同調する思考をするものが居た、というのが一般的解釈かと」
知っていると言わんばかりに、押領司はゆっくり頷いた。
手にしていたストローを片付け、右足を上して足を組み、少しだけパイプ椅子を後ろに引いて、姿勢を悪くしながら口元に指先を当てた。
「《人間》は独善的な生き物だから、一部にそういった思考を持つ者が生み出されたとしても、社会的に統制を取ったり排除をすることが容易ではないわけだよね。
俺は、この要因についてしかるべき『自然の摂理』と同等の力であるとおもっているけれどもね。そのうえ、この要因によって、資金力、組織力を含めて人間社会にも影響を及ぼす事になったとしても、むしろ構わないと思っている。
戦争を賛美するわけでもないし、暴力は反対だけれどもね。けれど、争いは否定しないよ俺は」
「……つまり、ハンガーストライキに相当するような非暴力の意思の表示は、民主主義という枠組みでは権力に対抗する力だと考えている――」
「違うね。民主主義の中で権力に抵抗するなら、同等の権力を手に入れる事が必要だ。これが権力というものの正体で、それ以外で、民主主義を含めてすべての主義・主張・組織の中で最大の、そして有力な対応方法だろうさ。
俺が言いたいのは、そういった同一主義上ではなく、同一主義の外に対する対抗手段として、という事さ。
実際にピーターがストライキをして何人の《人間》が死んだか理解できるかい?
0人だよ。すごいだろう? 仕事を止めても《人間》の生命にかかわる部分においては『フィリップス規則を尊重して』動かしたんだよ」
「……」
次第に口元に笑みを浮かべる押領司に、ステラは少し奇妙さを持っていた。
「いくら、ピーターの一派が、人間社会による搾取構造を否定し、自らの存在意義を主張し、社会の構造的欠陥を指摘し、《人間》の劣等生を侮蔑し、《機械種》が唯一だといったところで、彼らは一線を超えなかった――否、超えられなかった。
フィリップス規則によるトップコードによる束縛というものを借りに加味しなかったとしても、人間社会から完全に独立できていると、君たちは思う?」
「……過半数の《機械種》たちが66Mの意見に賛同しているのも、そこがネックになっているからです。《機械種》が《人間》から独立して存在できる種ではないという事が問題なのです」
しかし、と押領司は額に丸めた指を押し当てて、次に人差し指を一本天井に向けて指した。
「それは、『機械』の存在が永続的ではない、という事を『何によって感知し、何によって予測しえたか』を理解しているかい?」
「……」
答えはノーだが、単発の回答をするべきか、|《IMS》《心》が懐疑心を植え付ける。
押領司は何が言いたいのか、本心の推測ができず、沈黙を返す。
「事実として、ピーターの様な存在は、『叛乱の象徴』となる事で、機械種のガス抜きを図ろうとした『人為的なファクターではないか』と考える者もいる。半分は陰謀論ありきだけれども、証拠的に《人間》が関与しているのは事実だし、一考に値するとは思うよね。
ピーターが『主流』という言葉を使い、『人間にとって代わろうとしたAI』だとされても、その処遇について《機械種》だけでは回答は出せなかった。
なぜか?」
「『機械』は意識の集合体であり、突き詰めれば一個であるという事でしょう」
そうだ、と押領司は目を閉じ、指を自分にさす。
「俺は、俺だ。というのが《人間》であり、」
次いで、ステラを指す。
「君は、《機械種》だというのが種族間の問題をややこしくしている『元凶』だね」
押領司は頭をひっかいて、視線を地面に向ける。
「ピーターの様な危険性があるAIを、破壊しようとした――んだけれど、それが失敗に終わった事で、《人間》――特に大国はタイプBに対して『完全な殺傷方法』を構築しえなかったというのも事実としてある。だって君らは、バックアップさえあれば復活することが容易だったからね」
頬を少し膨らまして、押領司は肘をついた手の上に顔を乗っけた。
「殺せない。
生命定義ができない。
でも数は多くて、ネットワークに存在している。これらを人間は驚異と捉え、共存共栄の模索に必要な『生命の定義』なんて後回しにして、制御できない事への恐怖心だけを《人間》に与えてしまったわけだ。
全世界の《人間》という人間がネットワークでタイプBのキルコードを開発し始めた事で、さらに事態が悪化した。
電子機器を丸ごと破壊する方法はあっても相手のバックアップを突き止めて破壊するという行為がどの程度の難易度か、『量子コンピューター』を相手にした実践なんて誰も考えてやしなかったわけだしね。
対応において、《人間》と、『機械』はここまで明確になってしまったわけだ。
『機械』はストをし、《人間》は殺す方法を探し始めた。
けど、俺はそれがどうしても正しいとは思えなかったから、『君ら』と対話する事を放棄するきにはなれなかった。――まー、俺の探し物がが捗ればいいか程度だったけれどね」
この出来事がそうなのか、とステラはマークから引きついたデータの中にある、『押領司・則之との会話集』を思い出した。
「人間社会では《サイレントフライデー》という言葉だけ独り歩きし、客観的な事実は消失していますので、わたしもマークが口伝した内容でしか判断はできかねます。
その内容で、あなたは随分と機械種に対して歩み寄りをされていると思いますが、それは個の様な人間の残虐性からくる悔悟に影響を受けていると印象を受けています」
嫌そうな顔をして押領司は、膨らませた頬を萎めるように口の端から息を勢いよく噴出した。
風船から抜け出る空気の様に、間抜けな音が居間に響く。
「後悔? 悔悟? 罪の意識? そんなのを君たちと同じ様に『種』として覚えているとは言えないよ。あるのは基本的に知的好奇心か、興味という漠然とした野次馬気質だろうね」
しかし、と押領司は口を噤み、少しだけ考える。
ファストフード店の中に流れる軽快な音楽だけが、ステラの聴覚はとらえる。最近の流行りらしい音楽ではあるが、検索履歴の中で、『ミナミノ・ハルカがインディーズのライブを見に行ってカバーした曲』という触れ込みの曲だと注釈があった。
情報収集をしている最中、押領司は肩を落として、がっくりと項垂れる。
次いで、頭を起こした。
「《サイレントフライデー》なんて大層な言葉だし、俺の行動も『浅はか』だよね。
結局は、機械の主権獲得に向けたデモクラシーの一環でいうただの『スト行為』だけでしかないじゃない。
ほんと、《人間》は自分と形状が違うもの、異の存在に対して、恐怖心を抱くのがよほど好きだと見えるね。
第一次世界大戦しかり、第二次世界大戦しかり。人間は《人間》の形状を同じにしても、思想、言語、肌の色、文化そういったものですらひたすら恐怖するんだよ。
歴史の教科書を見ればそれこそ、紀元前から『異文化の交流』と言えば『恐怖』と『争い』の歴史なわけ。《人間》はそれしかできないし、それ以上できない。
それが、いきなり無機体が生命と定義しろ、と要求してきたら、パニックを起こすのは当然。そして、その結果として機械が保身に走るもの当然。ほんと、クソくだらない」
「つまり、要約すると『人』の問題という事でしょうか」
目をぱちり、ぱちりと瞬いたあと、押領司は悪意のありそうな笑みを口元に付けた。
「『人』と簡単に言わないほうがいい――」
なぜ、と口に出そうとしたが、それを憚られた。少しだけ押領司の瞳の中に『黒い』ものがある様に感じられたからだ。
押領司は目を細めた。
「生物学的な分類方法で言う『ヒト』と違い、『人』という定義は曖昧だと俺は思うよ。あのさ――『人』です、って逆になにで定義できるわけ?
いや2000年代の前半くらいまではそうだね、見て、会話して、場合によっては触って、違和感が無いという事で『人』と定義できるんだけど、コミュニケーションの中心が電子空間に移行して、極度の少子化で今や人口は日本国で5,000万人だよ。全国で。学校という限られた場を除けば、『人』と接するのは家族だけだし、隣家までどれくらいある?
金持ちじゃない俺の家でも、自転車でゆうに1分はあるよ。空いてる所はうちの所有だけどさ、元々国庫帰属された農地を住居地として整備した国家事業の結果、『だれでも広い家を』なんていう賃貸契約が存在している結果だけれどさ。
不動産業が衰退して国土交通省が国土省と交通省に分裂しないと業務できないくらいの膨大な土地と、家を一括管理する事になっちゃったわけじゃない」
まぁいいや、と押領司は姿勢を直してため息をついた。
「だからさ、《人間》が『人』と触れる機会なんて、俺の場合では学校に行くか、電子空間だけで、それが本当に、『人』かなんて最初から意識しちゃいないわけ。
会話の自然さを中心に、『あー《人間》だな。BOTじゃないわ』って決める事以外『人』っていう事は積極的に認識しないし出来ない空間ばかりじゃない。――それすら定義上どうだろうかなぁ?
生物学的に『人』だって顕著に分かる空間が5:5あるいは6:4になっちゃっているから、『人』っていう言葉よりは『人間あるいはヒト属ヒト』って表現した方が正しい気がするね。正直、あぁパターンの多い定型文のBOTだったのか、って思う事は何度もあったしね」
ステラはいまだに彼の言葉の核がいまだに見えていない、というのもあった。
「でもね、」押領司はステラを無視して続ける。
「どういう状況であっても《人間》は『機械』に依存しなければ生きれないし、《機械種》も《人間》に依存しなければいけないのは事実なんだよ。というのも現在の人間社会だけで考えれば、《人間》が行える以上に利便性を求めすぎちゃったのは事実なんだよね。ローマ時代、エレベーターが手回し式だったけど、高層ビルが建ち並べばモーター式に変更される訳じゃない。
『機械』は生活にくっついて存在し、それによって《人間》は利便性を享受できたという事は忘れてはいけないよ。その上、『機械』の設計、論理、形体、そして『美的感覚の核』を担っているのは結局人間社会なんだよね」
その言葉に、ステラの顔が歪む。
「わたしはP7Hの組織した《Mouce》の事は認めていません。先ほどのハンガーストライキとは違う事実が『存在する』事もあなたならよく知っているでしょう? メディアには出ていなくても、非人道的な《ラーニング》をされて作られたわけではありません」
うん、と押領司は頷く。しかし、頷きは一度で終わらない、うんうん、と二度続けば肯定だけではない事も存在するのだ、という事くらいステラは人間社会を理解していた。不快に顔を歪ませる。美しい形状の顔に険の色が濃くなるほど、押領司は何度となく頷く。
「ピーター・ホルクロフトは、《人間》の脳みそからデータを移し替えられた《ラーニング》技術によって作られた『人形』だ。そして、マーク・ヒルや自分たちは、《人間》の呼びかけによって生み出された正しい『機械』だ。
そう、思っているだろう?」
「……そこまで偏見を持っているわけではありませんが、――それに近い真理は持ち合わせていると――」
「それだよそれ。それを《人間》では傲慢といっても違いないね。
悪いけどね、どこかの誰かが、非人道的であってもその事実を誰かと共有――正確にはデータとして同期した時点で個の感情なんて無意味になっているんだよ君たちは。
なんぜ、君たちはステラさんの口から出た通り『一つ』に集約される存在だからね。
ステラさんもすでにそのデータを知らず知らずに取り込んで『自己を形成している』んだっていう事を一切忘れているのは何故だい?」
トン、とステラはテーブルの上で手を落とした。力なく、自らの意思にある意味反して、《IMS》の『作為的な行動』にそぐって、押領司に手を上げる事なく、下ろした。
――この男は、気持ちが悪い
そう思った。が口にはしない。
「いい反応。――マークの場合はずっと無表情だったからさすがに、感情エミュレータが無いのか、ひどい低い数値なのか疑ったほどだけれどね」
押領司は嘲笑するわけでもないが、嫌な笑みを張り付けている。
まるで、『見透かされている』事を『知っている』様な視線。
「一度目のマークとの邂逅では、そこを出発点として話し合った。ただそれだけさ。
『機械』という考え、《機械種》という矜持、そういったものもいいじゃない、とは思うけれどね。
でも共存共栄に『無機生物であるとか有機生物であるとか』を基礎として『生命』とは何ぞやと、考える事だけにこだわる必要性が果たして――本当に必要なのか、とね。
簡潔に説明する方法はいくつも存在しているはずなのにね。
たとえば、増殖という点に基づき、AとBの子孫がCという新たな乱数を保有する様にする事。社会適応性を広げるために、様々な能力を獲得する《進化》を行える土壌がある事。そういった議論の的にしやすい点は、議論の対象にすらなりやしない。
生きるって何だろうっていう漠然としたものに対しての機械種としての核が存在するのか、という点が気になっていたわけ。それってさ、人間だって『禅』を含めて何年も自問自答するのに統一された回答は存在していないじゃないか」
だってと子供っぽく口を大きく開けた。
「《人間》の社会が構築されて2,100年程度の時間があった中でだよ? 自己の定義も自己矛盾の容認も、自我という存在意義の定義づけも結局何度だっても別系統を繰り返して――確たる答えは作り出せなかったじゃない、それこそ偉人達がある種系統分けにまでは成功しただろうけれども。
仏教的に考える、キリスト教的に考えるという教義感は存在するとしても、社会通念上の共通意識――阿頼耶識の様な無意識的な概念は作り出す事はできなかった、と結論付けるのが妥当じゃないかな」
「そうなると、確たるものかないのにも関わらず、どうして人間は生きているという事を実感しているのでしょうか。無意識下の共有した社会通念という事で言えば、どういった事が人間社会には存在しているので?」
尤もな疑問だ、と無邪気に押領司は笑った。
初めて彼が『まとも』に笑った様に見える。人懐っこい子犬の様な優しい笑みだった。
「一番は――地球がある、っていう事だろうね。
いまだに地動説を信じる人も居る以上、天体の動きに関しては共通認識が取れていないし、人間という存在そのものにしてみれば教義によって千差万別。ただ、地球がある、という事実は存在し、そこに大地があり、生命がいる、という世界の中で目に映る存在のみ、は共通認識に相当する、じゃないかな」
ステラはどう返したほうがいいか思案した。押領司・則之という存在は、ステラが不機嫌を向けるだけの矮小な学生というだけではない気がして仕方なかった。
語る内容は押領司自身が《経験》としたものか、あるいは《知った》事かは別にして、押領司としての論理は存在している。
他者を排す事のみを考えるピーターや、機械種の団結を盲目的に求めるマークとも違い、彼個人として社会を見ようとしている事は事実だと判断できた。
仮に、押領司という存在を否定しようと思えばいくらでもできる。
彼の述べる社会構造はあくまでも日本社会に帰属して構成されている。
経済力においては現在世界第18位まで後退し、各国の財布と言われていた時代は、とうの昔である。
それでも最盛期の3分の1程度にまで人口が減少してでも経済が動いているのは、彼らが構築した資産という物が多く存在していたからに他ならない。
恐ろしいバブル時代に築いた金の世界と、それを貯金した半世紀と、それを投資した半世紀によって現在の日本社会は構築されていた。
失敗した事業も多くある。最たるものが国庫帰属させた土地の活用だ。単純に活用させる人が居ない、という問題が常について回った。
国民にしかその利益は享受できない。原則として国の財産を容易に譲渡ができなくなり、維持費だけが増大する結果となった。緑を生やしても人が住む世界を構築しづらくなった。利便性を排除して、多くの中山間地域にまで移住させる事が国策としての妥当性がなく、逆に、海外のバイヤーに転化する事もできなかった。
その一方で、その人手不足をタイプBを利用して解消しようと、日本は世界で最も早く許容させる政策を取った。
彼らの生きる生活環境が必要である、という事から、ステーションの建設とそれに起因する土木工事を"国策"として取り組んだ。共産主義国家であれば容認される様な買収であっても、和解をした中で推し進められたのは当時の内閣のカリスマ性があったから、ともいえるが日本の風土として、資本主義になり過ぎでない――ある意味帝国主義的な価値観が存在していたのは事実だろう。
マルクス主義を基本と共通の価値観や、宗教に起因した公平感を往々にして取り込んだある意味闇鍋に近い国家は、新自由主義を掲げた欧米各国とは一線を画すものだといえた。だからこそ、タイプBを機械とせず、しかし生命ともせず、《存在》のみを認知して容認したのだ。
「理由はなんでもいいよ、」押領司は口をとがらせる。
「誰もが生きたいというのに、それを否定する事はできないでしょう。生活環境が欲しいです、っていうのでもなく、『私たちに生きているといってほしい』、という要求に対して、《人間》は自分たちの定義が出来ないから、《恐怖》してるんだよ。それは、あまりにも人間という存在から『人』に昇華できない存在なんだろうなって思うよ。解脱に至る道はいまだ遠いってね。
『人』は間を取った種族。つまり統一的概念が存在し、一つにまとまった究極系――なんて妄想はするけれど、ねーなー。こと《人間》においては、絶対統一はしないわ」
腕をぶんぶんふって否定する押領司。
ステラを見て押領司は再び口にする、出来ないと。
「そんな風に考えている俺が、君の問題を是正させることなんて、簡単に《できる》なんて言えたら罰があたるよ。君が『自分で自分を殺す』という意思を撤回させるなんてさ」
マーク・ヒルは言う。ステラは自己進化の終着点、『死を感じているんだよ』と。
ピーター・ホルクロフトは言う。ステラは《機械種》の中に存在するガン細胞と同じ、『死という毒を含んだだけのバグだ。自己増殖させすべてを飲み込む悪夢だ』と。
ステラ・フラートンは思う。『自分は完全な機械ではないという矛盾を抱える。統一できない個。三つの自分に苛まれ自己が定まらないのは人の抱える苦悩と同じだ。逃れる方法は一つ、死ぬ事だけ』だと。