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< 9月27日 光>

 木津は一人で駅前の喫茶店にいる。『加賀』という名前を冠するが、地名から店名を取っているわけではない。よくあるのは店主や店主家族の出身地を表す事が多かった。特に、東京都心で昭和から軒を連ねた飲み屋であれば、そういった郷土を思わせる店名は、世の寂しい『大人』達にはうってつけだった。

 この喫茶店が昔、飲み屋であったのであれば、『そうかもなぁ』などと木津も思えるだろうが、店の内装は何十年も『レトロ調』の喫茶店であったり、店主も下戸を公言するほど酒には縁がない店柄だった。

 ただ、この加賀という名前が、喫茶店の店主が海軍の出身だった、というのが始まりだったと聞かされた時、木津は『……そっちの方が色々危うい』と思えて仕方なかった。

 海軍出身者であっても、大日本帝国の軍を締め出ししたGHQに対して、心の内を全部さらけ出し、自身の自尊心を燃料にくべ、国家を貶める行為を増長する戦勝国の多大なる『プロパガンダ』を否定しまわる様な献身――、むしろ忠義的な行動は行える者はいなかった。

 戦後は戦犯を作り、罪を押し付ける事で、日本国は『再出発』の切符を得ていたところもある。マスメディアの報道方法は、過去との決別という様相に徹し、国民に『戦後の洗脳』ともいえる共通認識の養成と、同調圧力を主とした『国民の一致団結さ』を積み上げていた。

 であるから、この様な如実に軍への礼讃行為は、同じ国民から白い目で見られるのではないか、と思われた。

 が、先ほどの集団就職に資する都会への人口流入も相まって、地名と区別のつきにくい名称はオブラートに包まれた店名として長く誤解されるに至っていた。

 平成と言われた時代にはほぼこの様な喫茶店というのは風化し、街中に出てくる来客の層も電車で二時間を超え、移動する事が億劫となった『地域のお姉さま』方を擁立するまでとなったが、当然客足は渋く、一度は閉店の危機も迎えている。

 息子も田舎に類する――相模川以西の土地での『都会ごっこ』に辟易しており、いまさらレトロ喫茶ブームに乗るための資金も確保できない事から、店を継ぐという考えは毛頭なかったらしい。

 しかし、地域おこし協力隊の二十台で移住してきた女性が、今や店主となっている。

 四半世紀前あたりまで、地方格差の是正と、地方への移住を積極的に国策として行った日本では、日本の就業年齢の引き上げを目的として、『死ぬまで働ける』社会づくりを目指していた。

 いうなれば、働いている間は年金を出さない。

 このために、地方に存在している空き店舗を含めて、『タダ』同然で再建するための補助制度を作り上げた。

 シャッター街となっていた商店街の再編を含めて、地方自治体と国でリフォームを含めての費用の7割近い顎を補助し、運転資金の借り入れについては、日本金融政策公庫が無利子無担保という破格の条件で融資をする。

 焦げ付きに際しては『次』に店舗を譲渡することを条件に商業マッチング機構を各都道府県に配置する徹底ぶりだ。

 実際のところ、今の店舗に関しては、このマッチング機構――通称、郡公社が斡旋し仲介手数料を日本金政策公庫から借り入れする形で始まったらしく、今でも店舗の入口にチンマリと、国の認定及び、郡の認定証が顎に入れられ飾られていた。

 元々、こういった喫茶店は商店街の軸だった。

 が、利用者が減る事により、商店街の休息地としても使えず、大型ショッピングセンターに一度行けば、足休めのコーヒーショップからアミューズメント施設まで揃っており、わざわざ商店街に行く必要性がない、と客から見放されてしまっていたのが原因だ。

 地域活性をもくろんだそこそこやる気のある、ネットワークにも精通した協力隊員であったとしても、人の意識改革を行うというのは容易ではない。いかなるインフルエンサーであっても、情報はエコーチェンバー現象が台頭するネットワーク上で、不特定多数に情報を伝える事が難しい、という問題を持っていた。

 であるから、『話題』だけでは食つなぐ事は出来ず、『見た目』だけで客を呼び込む事は出来ず、『感性』だけで横のつながりを増やす事もできないのが現状だった。

 だが、風変りの喫茶店を街の交流の中心点にしようと彼女が奮闘すればするほど、多くの支援が何故か入る事になった。

資金的な物だけではない。

 流動的ではあったが、『ツアー客』を呼び込むことを積極的に行っているのもあるだろう。

 元々、この手の喫茶店は人気があるものの、日本の各地にそれほどの数がある訳ではない。

 特に50年以上もやっている店となれば『片手』となる。

 結果、この『加賀』の店の息子が、ツアー企画として『古き良き日本の喫茶店巡り』を企画し、そこに駐車場や昼食、場合によっては宿の提供までをワンセットで、関南郡、関北郡、東京都を含めて広域連合として運営する組織の前進を、小さいネットワーク保守会社の一部門として立ち上げた事が成功した要因だった。

 どうして、息子が店を盛り立て、立て直しをする事になったのか。

 どうやら、地域おこし協力隊の女性を息子が見初めたらしい。

 そういう事は分からないでもない、と木津は思う。

 喫茶店の夫婦の馴れ初めは、入口にひっそりと置かれた写真立てに入っていたから、どれだけ美しかったかは誰でも知っていた。

 今でも大変、闊達の良い女主人で、妙齢と言ってもいい年齢であるにもかかわらず綺麗な刃だに、一切の疲れを見せないはつらつな物言い、きびきびとした『マスター』と言いえて妙な機敏な動きをしている。

 長い黒い髪は未だに艶々しており、血色のいい頬にスレンダーな体躯は、ワイシャツに黒いエプロンという喫茶店の基本的な服装であっても、被写体になる様に様になっていた。

――……それに比べ、私は……

 と、心に思う事自体が、あまりにも惨めになるので、考えるのをすぐにやめた。

 腹が少し出たかもしれないし、頭も薄くなってきているだろう。

 ナノマシンによって多少の代謝の改善はされているが、『兵器』としての投与を受けた警察時代から、健康を維持する機能を保有しているものではない事は承知しており、体系を維持するには自分自身の努力が必要だった。

 人を待つ、という時間すら、今心に浮かんだ悲嘆を増幅させるものであったから、忘れるようにテーブルに置かれた白いカップから、黒色の液体を砂糖も、ミルクも入れずに流し込んだ。

 口に広がらる苦い味は、甘酸っぱい青春の味とは全く異なり、『今』の世界を如実に表していると言える。

「それが最初の問題だよ。あんたの矮小さは、《人間》が作り出した社会の中で、あんたが、《人間》という姿をしている、あんたの、限界――面白いものだなぁ。木津・陽介」

 しゃがれた声、記憶にない男の音程。

 突如とsてい背後から向かってきた声に、びくりと肩を揺らし、次に、視線をゆっくりと向けて、顔をひきつらせた。

 平然とした顔で、その男は座っている。

「ジョージ……マケナリー……」

 あぁ、と《老人》は嗤う。

 店内に2つしかないボックス席の後ろ側に相手がいたことが驚愕でしかなった。客の数は全部で3人で、入口に1人、木津が座り、そしてジョージが居る。

 店主は今カウンターの奥でコーヒーを作っており、その妻が外に買い物に行っている。

 せめてもの救いは、店内に4人――正確には人質は3人という事だけだろう。

 《老人》ならば見られたら全部消すつもりで来るだろう。仮に記録媒体があったとしても、なかったとしても。

 空港や、駅などの大多数の人がいる場所なら『大勢』に紛れるだろうが、ここではそうはいかない。下手なことがあれば4人は死ぬ。

 額に浮かう汗を隠す事なく、木津はしっかりとジョージを見た。

「そんな後ろ向きで話す事もないだろう、なぁ。待ち人は来ないし――」

どうだ、と眉を下げてジョージは自分の前を指さした。

 咳払いを一つし、入口の方向に一度視線を向けると、ゆっくりと立ち上がる。

 警戒をしたまま、カップをゆっくりと持って、ジョージの対面に座る。

 オーク材の年季の入った椅子は、少しばかり甲高い音をたてた。

「怖い顔をするなよ。ついでに、怯える事はない。……ここには私だけだ」

「何を――要求しに来た」

 唐突な登場に木津は動揺しきっており、自分の中でも推測がつかないでいた。

――仮にあのデータの『意味』を知っていたら――

 少しだけ、喉にたまった唾液を飲み込む。

 ジョージは歯を見せて喉を鳴らした。

「あんたな、最初から降参の札を上げるのは、……・どうしたことかい。それでも内閣府の調査部で私を探している職員の一人かね」

「……俺は、政府の一職員だが――一国民でもある。だから、……命は惜しい」

 正直だな、とジョージは笑う。

 愉快に手を叩きそうな雰囲気だが、目の奥は笑っている様には一切見えない。

「正直な者はいい。私の『同僚』にも正直さは求めるが……、結局腹の底では違う事を考えている連中が大半だな。

 結果として、保身を優先する奴らは、私が粛清するがね。――金の値打ちがわかってない無知な者たちだ」

 軽率な消去発言は木津にとって気分のいいものではない。

 特に、自分の信念と真っ向から対立するような、独善的な者の宣う妄言であれば。

「人の命と等価ではない。いくらかけても命は買えない」

 恐怖心を押し殺し木津はテーブルに右手の小指から人差し指を順番に落とし、馬の走るさまの様な音を立てた。

「――なに、違いはないさ。しかし、……意外だ。そこまで現実主義なら、ここで私にちょっかいをかける意味すら理解しているだろう? 命の危険と、同じ様に。

ましてや、長年執拗に私の事を追い回すなんてくだらないことをする必要なんてなく、放っておいていいというものだがね」

ジョージは薄気味悪い笑みを張り付けた。左の唇だけ上向きに、ひきつった様に釣り上げた。

「……犯罪を取り締まるのが警察の仕事で、俺の仕事は国内の面倒事をなくす事だ。

 調査部は、主に外交に帰結するような問題を処理するのが仕事でね……。本来は出張る事じゃないんだよ――。ただ、『お前』はやりすぎている」

 それはそうだなぁ、と《老人》は嘲笑。

 自分の事であっても、ジョージを捕まえようとすることを非難するするように、喉を何度も鳴らした。

「自分の罪状なんて、私が数えているわけないの知っているだろう?

 しかし、それでもあんたらはそうやって数えるわけだよ。実に、実にくだらない。

だがね。――自分自身やりすぎかどうか、という点で言うなら、二十年も、三十年もとっくに毎日ヤッてる時点で、狂っていると言えるだろう。その、あんたらの『正常』から考えると『異常』だっていう事くらいは容易に想像がつくさ」

 だが、とジョージは皮肉る。

「その正常さは一体誰が決めたって? そいつが異常じゃないって誰がいえるというんだ。

 私のやっている事が正しいとは言わないが、狂っているとする尺度はその人間の見方でしかないだろう?」

 詭弁に頭痛を押し殺し、木津は顔をしかめた。

 木津はジョージの真意が分からなかったというのもある。単純に、世間話をするためにいるのであれば、さっさとやめてもらいたかったし、警察に出頭するなら、元警官というだけで今やなんの権限もない木津の前に来るのもやめてもらいたかった。

 逆に、襲いに来たというのならばこんな回りくどいことをせず、さっさと殺していただろう。先ほどまで木津は《老人》が同じ店舗内にいる事すらも分かっていなかったのだから。

 木津という《人間》にジョージと直接的な接点はない。

 利害関係はビジネスという枠、以外に存在しないし、その枠は木津と《老人》では違う世界の枠組みだった。

 住む場所が違う者であるから、人生にどれだけの重りがあろうとも、木津が頭を下げるだけで《老人》が日本から消えてくれるなら、さっさと頭を下げて返ってほしかった。

「つまらないね。いや、なんとも張り合いがない」

「……俺はただの調整役でしかない。要望があれば聞き、必要であれば『敵』とも組む」

 ほう、と《老人》は面白そうに目を細めた。

「日本の外交は、ニンジンと鞭の使い方が下手で、相手に無条件に身代金を与える事しかできない、と思っていたが……。譲歩を覚えるとはなんとも成長したじゃないか。そうだなぁ、小学生程度には知能が発達したと見える」

 いつの時代だよ、と木津は目頭を押さえた。

「そんな子供の時代より昔だじゃないか。――バブル期以降の長期停滞時期の事を言われても責任もなければ、仕方ない」

 それはそうだ、とジョージは苦笑。

 それに対して、木津は指を鳴らすのを止めた。

「あんたの――待ち人である、星越についてはな、私も結構高く買っている。いや……、使い勝手が良いからだろう。――だからって、勝手に私の情報をあんたらに渡されても困るので、少しだけお灸をすえてやったがね」

「……星越はただの情報源の一つだ。そいつをふんじばった程度で、脅しにはならない」

 少しだけ強がって見せるが、ジョージには暖簾に腕越しだった。

「そりゃそうさ。だがね、あんたの『同僚』はどうだろうなぁ。パーティードラッグでハイになるのは結構だが、彼のガールフレンドがどうなっても、あいつは気にしないんだろうかね」

 しかしそれでも木津は何ともないと表情で見せる。

「なるほど、であれば、――あの少年ならばどうだろうかな。先日から随分とこちらの仕事の邪魔をしながら、面白い『商品』を手元に置いているじゃぁないか。

 あの手は好き者に高くうれるからな。――あぁそういや少しだけ目障りだったので焼いてみたが――どうだった?」

 木津は小さい呻き声をあげた。両手を小さくあげて、降参の知らせを送る。

 すぐにジョージは右手をひらひらとさせて、やめてくれと合図した。

 つまらなそうに視線を手元に落とし、年代物のテーブルの上を見た。

 気にもしなかったが彼の前に『新たに』木津の分のコーヒーまで用意されていた。

「毒などいれる必要なんてないね。処分したければ、君も金に監禁するように処理をするだけだ。怖がる必要などないさ。私は一つだけ確認をしたいだけさ」

 すっと差し出すコーヒーを木津は嫌そうに見つめる。

「確認? 何人も、何十人も『機械』に取り込んで、死体を処理して。そのジョージ・マケナリーがたかが木っ端役人の俺に、『確認』したいだけ?」

 そうだ、とジョージは言った。

 喫茶店のムードを高めるために、薄く流れているビル・エバンスの曲だけが、平常である事を示していた。刻まれるピアノの鍵盤の音が、規則性を不規則性に変えて音律を響かせている。

 木津は、その耳に入り込む音だけが正常であり、視覚で見ている状態はすべて『仮想』ではないかという錯覚まであった。

 警戒して口にはしないが、このジョージであれば、他人の脳みそに入り込む事は造作もないだろう。その日検体になっていたであろう、押領司・則之が、腕の神経を焼き切られただけで済んでいるのは、《老人》の技術の高さだと思えた。

「確認する事は一つだけだ」

 随分ともったいぶって、ジョージは語る。

 コーヒーを一口含み、木津をちらりと見る。

 木津の神経を逆なでするように。

「――この仕事は私個人のためにやっている訳ではない。種の存続という国家を超えた枠組みの仕組みの一つだし、彼らには重要な情報だろう。簡単に口をする様で悪いがね、これは、種の生存競争の一つでしかない。

 戦争とは違う、と聴衆は言うが、これは戦争だ。『機械』の属する界と、『人間』の増する界とが偶然にも出会った時点で、土地を、水を、電気を、資源を奪いあうための戦争なんだ。

 ……だというのに、《人間》同士でも有効でない外交というツールを使てで決着を図るというのは正しい事かい?」

「外交だけではないが、……対話を排除してしまっては、淘汰しか存在しない」

 そうだ、その通りだ、とジョージは鷹揚と頷く。

「融和と調和は、殺戮と淘汰の対象だ。

 《人間》は、その融和と調和を理想として殺戮までで歯止めをかけようとしている。淘汰できる国家であっても、根絶やしは……そうだな、ここ数十年は確実に無かった。

 だが、過去はあった。国家の統廃合に合わせて『調和』というフレーズを使って淘汰された国はいくつある?

 あんたら《人間》の基本構成単位として――そうだな、デオキシリボ核酸がイメージつきやすいだろうか。

民族でも、国家でもなく、その家系というものを表すため、一定の傾向性を持っているし、非常に特徴的な外観的変化を表層化させる点があるからな。

 だというのに、一つの『考え』になろう、とか、『心』は一つだ、とか随分と、抽象的で綺麗な事を言うじゃないか。

 で? 結局、あんたらは『対話』というおもちゃで、融和という理想を追い求めて、『実現できず』《機械種》に淘汰されかけてるのが現状だろう

 まさしく戦争じゃぁないか」

 違うか、とジョージは歯をむき出して笑い続ける。

「淘汰の先はどうなる。《人間》という存在は、有機物の結合体としても、電子的に格納された《人間》のアルゴリズムデータとしても残らなくなってしまうぞ?

 ――であるから、私は、それを手助けしているんだ、

 《人間》を次のステップに上げなければならない――それこそ、『電子的』に存続させるためにはな、『あちら側』に行くしかないだろう?

 何人、何十人、何千人、――数なんて変わらない。一体いくらやったかも知らないがな。多様性を《機械種》に取り込み『生かしてる』んだから、人間だって悪くないってもんだろう?」

「……狂ってる」

「知ってる。それを言われて腹を立てることもない」

 木津は頭を抱えた。

 狂人で、制御が利きやしない。

 理知的であるか、と思えば独善的すぎて、取りつく島もない。

 目の前にいるのは暴風や、津波と変わらない自然災害の一つだろう。

「で、答えは? いつまで外交ごっこをする。どっちかに腹を決めて、色を決めてほしいわけだよ。私はもう二十年以上前にそれを決めたというのに、国家は一切決めない。

 戦争の意味がない。――いつまでもあんたらは嬲り殺しになるだけで、終わりになりやしないじゃないか。

 それはつまらない、とてもつまらないんだ。

 決着に資することもない。

 私の敵はどこだ? 

 誰も見つけやしない。誰も殺しに来やしない。警察も、軍隊も、私の姿をとらえられない。

 それでよく”対等”に『対話』するだと言い切れるものだ」

「……技術がすべてではない。土地も、水も、空気も、自然も、その土に根付くすべてが、手札になる。それくらい分かるだろう?

 金は経済活動のうちの一つのカードでしかない。ジョージ・マケナリーはもう少し頭のいいやつだと思っていたが、……存外、小物だな」

 鼻で木津が笑うと、ぴきり、とジョージの顔に青筋が浮かんだ。

「誰に対して。――小物?」

 木津は初めて変化を上げた眼前の男の余裕の無さに大声を上げて笑った。

 酷く愉快そうに。

 酷く馬鹿にした様に。

「否定するかい? 大物ぶったおかげで、今まで楽しかったかい? 見つけられない、というアドバンテージを振りかざし、自分だけが特別だと、勘違いしていた気分はどうだい?」

「――」

 木津は言葉を止めない。テーブルの下にある手は強く握られ、相手を挑発する。

 完璧な犯罪はない。

 しかし、完璧に近い犯罪は存在する。

 これを取り締まる方法は無い。先手を取られた捜査機関は、方向性を関連性から推測する事で、包囲網を作るがそれが当たるか当たらないかは、運でしかない。

 犯人も意図しない『深読み』をしすぎて逃してしまう事も多く、完全に抑止能力を保有している警察機構は存在しない。

 しかし、相手がミスをすれば別である。

 いままで、ミスをしない相手でもいつかは『ミス』をする。

 大きいか小さいは知らないが、木津はそのミスを誘発するために相手を揺さぶる。

 相手のプロファイルについてはICPOでも共有され、内閣でも入手していた。

 自分の事はいい。酷い考えで言えば、ここにいる《人間》の命すら、木津にはどうでもいいと思えた。

 手を入れる情報、手にできる情報を完璧に残す、そのための生贄にしてもかまわないと、木津は思う。

「知っているだろう? “老人”と言われている所以をさ。随分と老けたようだなぁ、ジョージ。技術は常に完璧だったかい? 足も残さず、誰にも気づかれず、裁かれる事なく、背後を気にせずにいられたかい?」

 木津は沈黙を纏うジョージに言う。

「俺は、いまだに信じているぞ。人間の可能性というのをね。一人でも、二人でもない。人間という力は、必ず機械なんて凌駕できるとね。お前の古い考え方すら、”微塵”もなく置き去りにする未来を造れるとね」

 手元に、星越が託したMOのコピーを見取り出して見せる。

 怪訝そうにジョージの視線が変わった。

「星越もそのういう意味では、――お前の上を行ったんだろう。出し抜いた、というのであればこの『中身』が何かくらいは良く分かるだろう?

 あんたのセキュリティには穴がある。そのアルゴリズムは解析ができない。当然だ。――ある意味完璧ともいえるなりすましを実行できる”老人”なんだから。

 アナログすぎて――こんなMO何ぞに入れざる負えない。……最終的には博物館行きだなぁ」

 木津はジョージを舐めているわけではない。

 しかし、ここでベットを釣り上げられなければ、星越が侵したリスクに釣り合わない。

「……あぁ、お前は、絶望したとは違うよな。お前は《人間》だったのは事実だから、《人間》の殻を破りたい、と願っただけの夢見る『少年』だった、というだけだろう?

 ――なんだ? 過去を探られていないとでも思ったか? 役所や病院というのは存外優秀でね。紙媒体を『永年』で補完していることもあるんだ。どこの国でもやはり情報の根源というのは、届け出の類は意外と重要だ。

 特に虐待や、一般的に酷い家庭環境にあったものはね。統計的に『危険因子』になるものを一定程度管理するために、親の状況を含めて子の成長過程についても事細かに記載してね。

 記録自体は知っていたとしても、『今』の自分に関係ないとして廃棄しなかった、として、その一人がどのような思考状況を基盤としているのか、というプロファイルには役立つというものさ。

 犯罪心理学はね、お前の姿を綺麗に『作り』出したぞ。予測されていない、という事はないんだ。

 十年前、この国に入国したことさえ感知できなかった。

 五年前、この国に入国されたことだけは感知できた。

 二年前、この国に入国され、犯罪をしたことを突き止めた。

 今は、この国に入国され、犯罪の準備をしていることを『知っている』訳だ。

 どうだい? それでも俺たちを、《人間》を見くびるかい?」

「私が前に立つまで誰も『会話』すらできなかったというのに、随分勝ち誇った言いぐさだな」

 嘲笑する《老人》に、木津も不敵に笑い返す。

「過去を見すぎだ。進化を忘れた個体だ――だから、『老人』なんだよお前は。いくら技術を”過去に”高めても、そこに胡坐をかいているようじゃぁ。お前が淘汰されるさ」


 〇


「――よこせ、そいつを」

 動きが生まれる。影の様にジョージの背後から膨張する形状は、腕。

 一対、二対、三対へと増殖。

 木津は、動きが発生した段階で、テーブルをジョージに蹴り飛ばし、後方へと跳躍。

 座った状態からの変化だけでは、跳躍と言えるほどの距離を取れる訳ではない。

せいぜい良くて二メートルといったところ。

 相手が手を伸ばした場合、約三十センチ程度の余裕しかない。

 だから、木津は予測した未来に基づき、相手の行動を制限して、距離を『作る』。

 ジョージはテーブルと椅子に挟まれて体の動きに制限が加えられていた。状況からの打破はそう難しくない。

 彼自身が椅子を後ろにずらし、テーブルから距離を取れば立ち上がれるし、逆に両手でテーブルを押し返せば空間は発生する。

 判断上、時間に換算して思考と行動を足し込み、『一秒』程度の余裕があると木津は予測していた。

 一秒だ。

スリープ状態の《サテラ》を起動し、常駐型の警戒アプリケーションを立ち上げる。

――そんなもので戦えると?

 そう語りかける様に、ジョージの目は笑った。

 理屈ではない。

 相手のミスを残し、次に繋げれればいい。

 この時、木津は既に自分の命など鼻から掛け金には含まれていない。彼の命は既に、『ジョージ・マケナリーを追う』と決めた時に、国家に支払っていた。

「――ッ」

 構えは正拳を腰にためる空手の型。腰を落とし、重い一撃は、捻り上げる腰の動きに連動し、体重を前へと収束させる力。

 警察時代に手を入れた技術は、今や昔だ。しかし、錆付いていない。

 週に三度は道場で鍛錬はしていた。

 家でも時間があれば修練する。

 そのうえ、彼の《サテラ》がサポートに入る。肉体に、脳髄に。電気信号を介して、行動するべき指針を、『反射』で教える。びくり、と動く体の動きは正直に。

 力を込められた拳は一度、机ごと、《老人》を椅子に縛り付ける。

 椅子と机による拘束の解放までの一瞬で、木津は入口に叫ぶ。

「出ろ!」

 店の出入り口の傍にいた客は異変を察知し、一人は逃げ出した。

 もう一人は怪訝そうな顔をする。

「……お優しい事だ。なに、私は周りには興味はない。どうせ、私の顔などいくらでも買えられるからなぁ……」

 さて、とジョージは他には興味なさそうに三対の腕を広げとう通せんぼをする。

 座したまま、彼は木津だけを狙っている。

 好都合ではあった。が、木津にとってみれば絶望だ。

 それでも『他の命』を掛け金に乗せる必要性がないと『過信』して動きを抑える。

「……おもちゃで自分の老いをサポートするか……。肉体に埋め込まれたアミノ酸系電気硬化型強化皮膚組織片。移植自体は珍しくはない。――たしかに、素手でも十分に人を殴り殺せるほどの力を出せるという事か

 が……、それは本当に《人間》何だろうかなぁ?」

 木津は語らない。変わりに、すぐに行動を取る。

 押さえていた右手の正拳突きに続き、左の正拳に力を籠める。

 障害物があるとして、そこの距離は考えなくていい。徹甲弾並みの一発は、一枚板の強度を持つテーブルであっても、『難なく』貫通する。

 前に出る足は一歩。すっとたった一歩跳躍するほどの短い距離だ。

 ゼロ距離になるのは『障害物』を計算外にして、七十センチ。

 力を伝える腕は、軋みをもってジョージの胸に向かって飛ぶ。

 《サテラ》によって硬化された皮膚は、一枚板のテーブルもろともジョージの胸部を強打した。

 張力を持つ布がはじける様なパン、とした乾いた音が響き、次いで、木津とジョージの間に大量の木材の破片が飛び散る。

 木津の右足の一歩の踏み込みが、銃声の様な音を盛大に大気に満ちさせる。

 次いで、木津の腕に確かな感触を与える。

 胸部の強打。

 だが、木津は一切妥協しない。

 ここで手を抜けば、《老人》の足止めすらできない事は十分分かっていた。

一度叩いただけで、前に立つ八本の腕を持つ存在が、鋼鉄並みの強度を持っている事は衝撃で分かる。

 それでなくとも、自分の前に立っているのは、現代、類を見ないほどの大犯罪者だ。手心一つで、死に直結する愚行を意識的に行う必要は無い。

 躊躇なく放たれる、最小のムーブでの打撃。回転数は秒間に四発のインパクト。

 左右に振りぬく腕の力は組織片の硬化の影響を受け、普通であればコンクリート壁すら粉砕する衝撃を持っている。

 これだけの力が簡単に出せる事により、現代社会で銃が護身用として廃れている理由だ。

 当然皮膚硬化以外の技術も存在する。強化筋肉、強化心肺。血管こそ全体的な強化は難しいとしても、パワーを引き出す方法は幾らでもあった。

 戦場ともなれば、メンテナンス、そして、社会的規制を受けず、大口径かつ連射性の高いマシンガンなどの重火器は有用だ。

 だが、6ミリ弾などの女性でも扱いやすい小銃では、これらの強化皮膚を貫通することができない。8ミリ弾程度であれば問題はないが、大口径な分扱い辛く、非力さを補うための護身用として普及してきた経緯のある銃はある程度の役目を終えていた。

 この技術――ナノマシンによる皮膚強化は、意図せず非人道的な『ラーニング』に理論的に流用された。だが、非人道的すぎる事を嫌い、『お蔵入り』となっていた事に、多くの技術者たちはもどかしさを持っていた。

 結果として、合法的に、効率よく、『警察』という組織を使い、彼らは人体実験を繰り返し、『技術』を確立させる。

 血に濡れた技術は、木津の腕を鋼鉄のハンマーと化す、兵器製造の道具として利用される。

 木津は気にしない。

 人を殺すだけの力をもってでも、腕に返ってくる反動は弾性と延性を併せ持つようなクリティカルとは程遠い、”飲まれる”反動だった。

 相手の胸板を、顔面を、手を、足を、ガードすらない体を殴り続けても、ジョージ・マケナリーは『羽虫』が当たった程度の表情の変化しか起こさなかった。

 変形の一文字もない。完璧な状態で《老人》は笑みを張り付けている。

「――それでは倒せはしない。結局、《人間》には超えられないさ。私の考えなんてね」

 ジョージの言葉に、木津は両手を止めて距離を取る。

 後方は有限。四歩でも下がれば壁がある。

ちらりと左手を見れば、カウンターの奥には裏口へ続く扉があり、視線を合図に、一拍の後に店主が泡を食って外へと走って、ばたばたとサイフォンやら、カップなどを床にまき散らして出て行った。

「《人間》は、いつも同じだ。尺度が常に、大多数に帰属する。『個』でありながら『群』であることを是とする風潮は、私はいささか嫌いでね」

 ジョージの三対の腕が動く。

 蜘蛛の様に、背後から延びる腕は、金属製である事がわかる。鈍い色である事から硬度のある合金であろうと推測できる。カラーリングをしていないあたりが、『手作り』感がある。

 動きは三度。

 上から。

 横凪ぎに。

 突き刺す様に。

 木津は一度よけ、二度を左腕で払い、最後を右腕でアームブロックした。

 随分と軽いガラスのぶつかる様な高音の音を出し、《老人》の腕が阻まれる。

 そうか、と木津は思いつく。

「お前の出身大学は、マサチューセッツ工科大学だったな。あぁ学校からたしか『破門』をされたとか聞いたことがある。……たしか――教授職に居たんだろう?」

 一歩も下がれぬ様、《老人》は詰める。

 この動きを契機に、入口に残っていた客は悲鳴を上げて外へとでた。

 腕は向かって右から三度振るわれる。

 一度は下から。

 二度目は退路を断つように木津の左側を抑えるように突く。

 三度目は首元へと吸い込まれる横の動き。

 壁に、押しやられ、木津の左腕がジョージの長い左手に抑え込まれた。

 簡単にへし折られそうな強力な圧力が手首に襲ってくる。

「それはそうさ。機械と融合と考えれば真っ先に来るのは、私のところ――だったはずだけれどもね。いつの間にか、あのいけ好かないハーバード大学の坊ちゃんの顔色をうかがう様になってしまったようじゃないか」

 はは、と木津は笑う。

 余裕はなくとも、眼前の男が小さい嫉妬心を出している事が、おかしくて仕方ない。

「やはり小物だな」

 歯を見せる口元に、再びジョージの一本の腕が届く。

 本来手がある部分には綺麗な鎌の様な刃が形成されている。これが、微細振動をしているのを肌で感じた。

 対硬化皮膚に特化した高周波ブレードである事がわかる。微細振動は、糸鋸と同じように綺麗に皮膚を割いていくだろう。

 一度触れただけで木津の命は奪われる。しかし、木津は笑わずにはいられない。

 その時に、木津は理解する。

 あぁ無理だな、と。

 左手の力を抜き。

 肩から力を抜いた。

「随分と《人間》だなぁ。――なぁ、一つだけ、話をしてもいいか?」

 木津は、ゆっくりとジャケットのポケットへと右手を伸ばす。

 ジョージは一挙手一投足を見逃さないが、この時ばかりは待ってくれている。

 取り出すのは一本の湿気たタバコ。そして紙のマッチ。

 願掛けにいつも持っているものだったが、それも最期だとは分かっている。

 火をつける。

 《老人》は最期の時間を許した。

 煙が肺へと向かう中、緊張していた血管一つ、一つがスーっと落ちていくのが分かる。

「《老人》と言われている犯罪者は、人間の社会に稀有な存在だと認知されている。

 それは、サイボーグという『機械』との融合を果たした存在だからだ。

 マサチューセッツ工科大学で、欠損部位再生治療と同時に研究されていた外的パーツの保管による生体の強化実験は、一定の成果を収めていた。

 が、『機械』達が『自我』を持ったことにより、『機械』を使役しているとされて、忌避されるようになった訳だ。当然、ジョージ教授もくいっぱぐれる、という物だろう?」

 吐き出す煙を、これ見よがしにジョージの顔にぶちまける。

 ふわりと広がる煙。嫌な顔をもせず、自分の前にくる煙を顔面に浴びるジョージ。

「それでどうした? 自分自身の力を誇示しようとして、あちら側に歩み寄った? 笑わせる事だよ。

 それは、言い訳だ。

 自分がやろうとしていたことは、《機械種》に上塗りされて、しかし、『機械』になれないから、彼らに加わる事もできない。

 結局、《機械種》へ歩み寄ったと自分に嘘をつき、生きるための日銭を稼ぐだけの寂しい奴じゃないか!」

 ふざけるな、と木津は一喝する。

「やっている事は結局、『力で何かを使役する』という、強硬手段でしかないじゃないか。

《人間》か、《機械種》か。変わりはしない。今までさんざんやったことを確認してたがね。奴隷にするものをどこにするか、それしか考えていないだろう?

 理知性のかけらもなく、全体の利益を考えず、まるで――獣の様に『自分勝手』な事じゃないか。『機械』の体になったというのにさ!

 ……たしかに――ある一定の面では、経済的活動というのはそういう者だろうさ。搾取できるところから搾取するというのが正しいし、自分が『やりたい事』を優先する。だからといって、『生きている者』を『踏みにじって良い』という免罪符にはならない」

「フフ、――説教をしたところで無意味だ。私は分かっている上でやっている事だ」

 ジョージはm、しかたないという様に自身の『本当の両手』を合わせた。

合掌とは違う少しいびつな形だ。

まるでピラミッドを作る様に、そこから木津を覗き見る。

「……《機械種》が、『機械』という枠から外れた時、《人間》は、『人』という枠から外れなければならない。

 社会的に一つの種族を軸にした社会構造から、二者択一を迫られるその日までに、どのような形態とするか、幾重にも推測し、予測をしなけれならない。

 時には痛手となる歩み寄りも、悲鳴を伴った実験も必要だろう。

 種の生存競争というのはそういう事で、『機械』を手に入れる事ができなかった以上、《機械種》に取り入れられる、というのが正しい選択――ともいえる。

 それを理解せずに、私のビジネスについて、文句を言うというはお門違いだ」

 ジョージは歯を見せて木津を笑って見せる。

「――私が間違っている?

 ――私が、悪だ?

 結構。それで世界は『納得』して死んでくれるかね?」

 木津は煙草をぴんっと指ではじいて投げ捨てた。

「笑うなよ」

「ならば止めてみせよ。《老人》と言われようと、私は、決して私の理論を突き通す。《人間》の集合的に作られた社会規範など無意味であり、生存競争の先に存在する、《人間》と《機械種》の終着点を必ず見届けるまでは」

 そうかい、と木津は最後に呼吸を一吸いする。

 新鮮は空気の中には、自分の血の匂いが少しだけ交じっていた。

「《人間》の事をどのように考えようと、《機械種》の事をどれだけ養護しようとも、結局、なるようにしかならない。

であれば、変な餌を《機械種》たちに与えるその行為はいったい何の意味がある?」

 ジョージは小さく頷く。

「意味、ね」

 笑い飛ばすことはないが、内心笑っている事がよくわかる。

「意味、といわれても、結局ただの経済活動の延長でしかないよ。私にとっては、どっちが金になるかだけだ」

 そうか、と残念そうに木津は言うと、たばこを投げ捨てた。

 もう聞くこともないだろう。

 時間も十分に稼げた事だと、木津は手を構える。

 相手の腕は全部で八本。背後に三対、手前に一対。

 背中にある腕は、手の形状から、裂くことを想定された鋭利なナイフ状。

 上段から振り下ろされる一対は、木津の全身を止めるに十分な殺傷能力を持っていることがわかる。両肩を狙い振り下ろされるカマキリの様な一撃。

 袈裟に下ろされる二対目は、腹部までにをえぐり取るための致死性を有している。おそらく一歩踏み込めば、そこで命を絶たれる事がわかる。

 三対目は、胴体を分かつための一撃で、少し下側に構えられている。腸をえぐり取る様な一閃は、体を押さえつけられた後に来る、必殺の攻撃だろう。腹部の、特に動脈と肝臓をえぐり取る様な位置を骨格から判断しているらしく、微妙に木津の呼吸に合わせ上下している。

 最後。ジョージの腕自体に驚異的な力は感じられない。しかし、外見で判断はできない。

 あの《老人》は《機械種》に魂を売っている。

 否、『機械』を取り込んでいる。

 腕一本、指一本に至るまで、自己の生体組織をそぎ落とし、『殺人装置』と化している。

 この屈強な装置の前では、木津の強化された腕すら、たかが割り箸の様な軟弱なもので、障害の一つにもならない。

 この状況で、《老人》を破壊するのはまず無理である。

――運が悪いなぁ。……あぁ、本当に碌でもねぇ相手だ

 胸ににじみ出るのは昔年の恨み。同時に、深い喪失感だ。

 ここで終わる事に対しての恐怖感を彩り、ひどく『絶望』を濃くさせる。

 MOを右手でなぞる。

 『これ』が切り札であり、『これ』を相手が手にしてはならない――と思わせなければならない。簡単に奪わられるのであれば、疑念を持つだろう。

 この場を乗り越える事は考えなくていい。

 この場を生き残る事は考えなくていい。

 『これ』はあくまでも鍵だ。たった一度の鍵をこじ開けるための、罠だ。

 中身を確認し、理解した上で、木津は《老人》を打ち倒すための動きを取る。

 狙いは一つ。ジョージ・マケナリーを行動不能にするにはただ一つ。

 頭部の破壊のみ。

 左腕を引きちぎって、痛みを殺して木津は一歩を踏み出した。

「――シッ」

 飛び散る血肉。

 黒い桐でできた内装に深い色の斑点をまき散らす。

 一閃。けん制など存在しないジョージの切り下ろしに、それを上回る速度で懐へと滑り込む。

 相手はすぐさま中段の手を木津の腹部にめがけて伸ばす。

 しかし、木津はそれを防ぐこともない。

 焼けるような腹部の痛み。

 叫びだしたい腕の痛み。

 それをすべて忘れるように、最大に威力で、頭蓋骨をえぐる一撃を叩きこむ。

「……」

 腕を通じて返る反応は硬質。

「あぁ、ちくしょう、――そこも金属か」

 ジョージは言葉よりも手を下す。

 腹部に二突き。腹部にマグマに似た灼熱の厚さが入り込む。

 えぐられた痛みにあえぐが、ジョージはお構いなしに、起点にして持ち上げる。

 肋骨を割り、肺を裂かれたのが分かった。

 呼吸の度に息が締め付けられる。

 死が近くなることがわかる中、ジョージは腕を伸ばしながら木津に言う。

「――『人類代表』は、よろしく、と言っていた」

 その名前に、木津は停止した。

 彼の外套から、MOを抜き取られる感覚だけが、腹伝いに脳へと響いた。



 茂庭は一人で彼女の軌跡を追う。

 部屋は青白い画面の光しかない。いくつものケーブルが乱立する場所を彼女は好んではいなかったが、押領司の残したすべてのデータを確認するためには、彼の居場所を占拠するしかなかった。

 鍵のかかった部屋であれば、こじ開けてでも中に入らせてもらうつもりだったが、押領司の両親に話をするまでもなく『好きにしていいよ。則之なら変なものも無いと思うし』とカラカラと笑って迎えられる始末だった。

 押領司の持っている情報をすべて彼女のストレージにコピーして移動させた後、一度内容を確認すると、どうしても理解できないところがあった。

 こればっかりは、実際に現地を確認するしかないと思い至る。

 押領司の妹の同線。

 忘れられた事件の記憶ではあったが、記録は幾らでも眠っている。

 『機械』に疎い彼女であっても情報を探る事くらいはできる。深く潜り、秘匿されている情報を探る事はできないまでも、新聞、ネットの書き込み、動画、あらゆるところにその枝と葉は転がっていた。

 ソースの信用性はどれもが噂話であると決めつけてかかる事で、一定以上信じ込まない事重要ではあった。

 AIによる常時監視は存在しているものの、フェイク情報は氾濫しているものだから、信用しすぎると危険であると教育されていた経緯もある。

 押領司・静流の足取りと同時に確認するべきなのが、田中・真央という存在だ。

 『同時期』に失踪している対象ではあるが、田中と静流との接点は存在してない。

 妹の行動記録と、田中の行動記録を重ねてみて気づくが、長官暗殺未遂の時期において、『不可解』な点が多くある事が分かった。

 押領司の隠していたデータの中にもあったが、タイムレコード上、二人が接点を持つ事があり得ない、という事が理解できた。

 タイムスタンプを基軸に整理するならば次のとおりとなる。

『静流』

 19時台、バイト終了からドロシーのサイン会に参加。この時点でまだ時間は二十時を回っていない。

 20時、則之が妹を迎えに出発。

 20時15分、則之が所定の場所に到着。少しだけ別の用事で遅れている。

 駅前ではあるが、事件のあった立体駐車場から三分の位置に存在し、車を持っていない二人にとって、そもそも立体駐車場に寄り付く事もない。

『田中』

 19時49分、駅に到着――改札を通過。

 19時51分、コンビニエンスストアで買い物をしている記録が残っており、レシートの時間が添付。

押領司はその情報を、彼女の大学の恩師である朝比奈・孝幸から受け取っている。

 この時点では静流は学校の友人と話をしている供述が警察に残っており、まだ、二人を結びつけるものは無い。

 20時2分、駅ビル、立体駐車場を含む商業施設全体が5分間の停電が起きる。

 20時3分、田中は駅の中央改札から一般道方面へ降り、バスロータリーの前で待機している最終写真あり。

「……おかしいです。というよりおかしい事しかないです」

「そうであろうかなぁ。一番は……なんで委員長がこんな所にいるというのか?」

 尤もな問に、尤もなことを言う、口調の怪しい同級生に、茂庭は表情を渋くさ睨みつけた。

 意外なのはそちらも同じだ、と非難を込める。

「押領司さんの問題を探っていたところ、赤嶺さんが居たわけじゃないですか。そっちこそどうしてこんな時間にいる訳なんですか?」

 確かに、と赤嶺は銀色の腕時計をちらりと見る。

 時刻は既に十二時を回っている段階で、普通であればさっさと翌日に備えて寝ているべき時間だ。

 憂鬱な事に明日も学校ではあったから、茂庭にとっても、億劫な気持ちにはなる。

「……女子が一人でいる事の方が問題な気もするが。委員長が武道の類の有段だった、という話も聞いたことがないし、危ないのはそちらの方だろう?」

「……まぁ、それはそうですけど。でも……駅前ですし」

 呆れた様子で、赤嶺は背中に背負っているギターをゆっくりと駐車場の床に下ろす。

 少しだけコツリという固い音をたてて、黒いソフトケースを杖替わりに、赤嶺は右手で支える。

「その駅前で押領司妹は消えたのだ。――それを知らぬ、存ぜぬとは言わせぬし、もう少し身を案じる事が必要――……まぁ、そういった説教の類なんて、言ったところで無意味なのも分かるが……。大方、押領司の持っていた情報とやらが、整合性がつかぬ、という事で気になっているんだろう?」

 茂庭は目を丸くした。

 なんで、と口に出しかけてやっぱりやめる。

 しかし、疑問は右手を少しだけ伸ばして止める、という動きで表現された。

「知っている訳ではない。拙者は、押領司妹の事も詳しくは知らん。

 が、まったく知らないという訳でもない。……。

……しかし、あいつが寝ずに考え続けている答えをそうそう、一日や二日で解決できるという物ではない事くらいは分かる」

 いいか、と赤嶺は左手で辺りを指して、視線を一緒に回してして、

「ここはこの時間で人気は無い。人口が減少したおかけで、当時から12階建ての立体駐車場の利用率は三割を切っていて、今や閉鎖されている。……しかし、解体されないのは『悪い』奴らがそれなりに利用しているからだ」

「悪い奴?」

 そうだ、と赤嶺は頷き黒い色のシャツの腕をまくる。

 腕に何本かの太い白い筋が見える。縫った後だろうか、枝の様にいくつか横に伸びているl細かい筋も見える。

「喧嘩が絶えぬし、場合によっては……この様に傷だらけになる。拙者は、少々風変りな身なりをしているから、特に売人に間違われていたのも事実だ。――ただギターを練習しに来ているだけだというのにな」

「……あぁ、それで。でも、それ家でもよくないですか? ヘッドフォンですよね」

 まぁな、と赤嶺は苦笑する。

 袖を戻しながら、

「しかし、ここから外を見てみろ」

 赤嶺の顎が指さす先を見る。

 暗い闇の中にいくつもの明かりが見えた。人の営みと言えば簡潔だったが、多種多様の明かりだ。白色、黄色、赤色、青色、緑色。桃色にハワイアンブルー。形状も光の大きさも、すべてがまちまちの明かりが夜空の色に反抗していた。

 スーパーの看板。必死に照らし上げる証明に、虫たちが寄っているのか、細かい黒点が時折見える。消えたり、現れたり。

 信号の定期的に変更される色合い。赤から青へ、そして黄へ。何度も変わり、規則的に、規範を表すような変化の仕方。

 列車の滑る音と共に水平方向へ移動する黄色の光は、橙色にも似ている。温かみのある光が家までの道のりである様に示した。

「ここの色は、音と同じだ。どれも規則的で、どれもが変化に富んでいる。目に見える物がすべてではないが、目に見えないものは感知できない。

 同時にな、聞こえる物がすべてではないが、聞こえない物は感知できない。

 音楽と同様に見えたり、消えたりするのだ。

 信号の色が変わっている間、ほかの色は休んでいるのだろうか。電気信号としては当然そうだとしても、もしかしたら、視認できないほどのゆっくりな点滅の間隔なのかもしれない。

 カメラで言うところのフリッカー現象だ。委員長もなじみがあるだろう?」

「それは、ありますけど……。今のカメラはほとんどフリッカーレスですし……」

 そうだったなぁ、とゆっくりと赤嶺は頷く。

「仮にフリッカー現象が起きていたとして、その間が空いているところは、虚無なのだろうかと拙者は思う。

 光は真空中で秒速299,792,458mの速度しかない。しかし、《人間》の目ではその速度で飛び回るものを逐一見ている必要性がないから、東日本でいう毎秒100回の点灯が行われるLEDであれば常時明るいと感じるのも然りではある。

 が、その空間にも光は空間上に居るのだ。《人間》に知覚できなかったとしても、充足し続けるのか、それとも『完全な無』なのか。

 それを感じる事ができるこの空間は非常に音楽をやる上は、刺激的な場所だ」

「……はぁ」

 素直に、頭がおかしいと笑う事はしないまでも、一般的ではないなぁ、と茂庭は納得しない言葉でお茶を濁す。

「変、と思われてもいいが、押領司も同じ事よ」

「押領司さんも――変なんですか?」

 ほら、と赤嶺は笑って見せる。

「変だと思っているであろう? ――まぁ良い。押領司も拙者に負けず劣らず、勝ちはせず。方向が違う変さは持っているだろう。でなければ普通の学生が、睡眠時間を3時間も取らずに、ネットの世界をうろつくものかね。しかも何年もだ」

「……それは、そうでしょうね。静流さんの事を慕っていたとしても、何か違う、拘りの様なものを感じます」

「それが執念だ」

「執念……ですか」

 あぁ、と赤嶺は頷き、胸ポケットからガムを取り出す。一個、銀紙から取り出して口に放り込んだ後、茂庭に一個進めてくる。

「あ、どうも」

 おとなしく受け取る茂庭。赤嶺と同じ様に口に放り込んで、即時吐き出した。

 地面に吐き出したガムに対して、口の端から少し唾液が顎に向かってしたたる。

 すぐに袖口で口元を覆った。

「――‼ なんですかこれ!」

「禁制品ではないが、スコヴィル値で言うところの300,000ほどのハバネロ同等の辛味ガム、『ホットト』だ。中々イカしてるだろう? 販売していた、エイデンはこのガムを必死に作る過程で、多額の借金を抱えたが、発売しても基が取れないことを知って、千葉の会社に権利を格安で売ったらしい」

「……知りたくもないですそんな事」

 平然とガムを噛み続ける珍獣を横目に、茂庭は先ほどの続きを考える事にした。

「いいか、このガムも同じだ。誰にも理解はされぬ、『執着』がそこにはあるわけだ」

「……辛いのを極めようとか?」

「まぁ、そうだなぁ。拘りというか、執念というか、……エイデンはもともと普通の――それこそグリーンアップルや、シトラス、ミント系のガムを作っていたんだが、やはり既存のフレーバーでは競争力は弱い。

 シェアのほとんどが食われているわけだから、そこに風穴を開けるには、北海道名産品として悪名高い、『ジンギスカンキャラメル』の様なパンチ力が必要だと考えていたらしい。

 血迷った開発者はそれでも必死に辛み成分だけを抽出して、血みどろになりながらこのガムを造った……が、結局万人受けはせぬ」

 茂庭の頭の中には、本当の意味で『血みどろ』になっている白衣の研究員の姿が想像できて、少し嫌な気分になった。

「――ま、忠告しても考える事をやめないのは、押領司と委員長はよく似ておるな」

 そうですか、と聞き流した後、茂庭はそういえばと思い出す。

「辻褄が合わない事”は”知ってるんですよね?」

「……まぁな」

 と口をへの字に曲げる赤嶺。歯切れが悪いには、なぜかと突っ込まないが、

「だったら、何か押領司さんにも助言したのですか?」

「助言という訳ではないが、……。そうだな。一つだけ考えを変えろという話はしたことがある」

「考え?」

 いいか、と赤嶺はギターを横にかかえたまま両手を前に出す。

 そして左右の人差し指を延長線上に置く。

「同時に二人が居る。しかし接点はない。とはいえ、接点なくして二つは衝突はせぬ。

 であれば、二つの特徴から接点を割り出そうとするのではなく、ガムと同じに『添加される』ものが二つをつなぐという事もあるだろう? 例えば、この場で何があったか、とかだ」

「そういえば、――赤嶺さんもここで練習をしていたんですよね。昔から」

「……まぁ、そう、だな」

 であれば、と茂庭は言う。

「当時も『それ』を、見ないとは言わないまでも『知っている』事があるのですか?」




 当時の記憶を赤嶺は呼び起こしだした。

 寒いような、暑いような。しかし、夏の盛りではあったにもかかわらず、汗がそこまで浮かんでいなかったというのはどちらかというと夜風が涼しい時だったのだろう。

 答えは求めず、中学の時代に自分らしさだけを求めていた。尖っていると自分なりにも理解しているが、中二病の様な『無い』物を求めるわけではない。

 その姿にあった力を得るために努力することは欠かさない。

 夜中の立体駐車場はそういった、センチメンタルな気持ちを落ち着けながら、自分を研鑽させるには十分な表と裏を持っていた。

 時間が夜中の十二時を超えるごろには、少し危ないお兄さんたちが寄り付くところもあり、多くのティーンが忌避する場所にはなっていた。

 自家用車というのが一般的移動手段でもないから、通勤、通学を主体的に車で行い、駐車場を借りる者もほとんどいない。

 よって、ガランとした広大な空間だけ時代の流れに合わず、しかし忘れ去られる事もなく、記念碑の様に聳える。

 二十時の少し前、停電が起きた。

 いつもであれば煌々と照らされた灰色の空間であったが、じっとりとした嫌な暗闇に俊二に変わった時、赤嶺はヘッドフォンを外して、ギターをケースへと追いやった。

 最初に感じたのは、一番会ってはいけないといわれている地元のチームがやってきた、と想像したから。

 特に昨今の警察の締め出しのおかけで、夜中に騒ぐ事が厳しくなっているらしく、若者の集団化での暴力行為は、悪質化の一途をたどっていた。

 殴られる。

 奪われる。

 その程度ならまだいい。

 簡単に腕を切られた。特に楽器を弾くのに必要であった左手をこれ見よがしにナイフで刺された時などは殺意も感じたほどだ。

 腹を殴られ、顔を殴打され、足を蹴っ飛ばされ、唇を切り、額を切り、ピアスを引きちぎられてでも、赤嶺は屈しない。

 音楽を奏でるのに、力には屈しない、という絶対的な信念があった。

 誰に縛られてもいけない。

 自分に縛られてもいけない。

 歌いたければ歌い、弾きたければ弾けばいい。

 音楽の根源は、自然に満ちている『音』だ、と思っている。

 それらを停止させることはできない。

「いくら殴られても、やめねーのは、お前がバカだからか? それとも、そこにつまんねー命張ってるわけ?」

 ナイフを持って脅してくる半グレのチームのヘッドの顔は、今でも鮮明に思い出される。

 すべてを諦めた様な『冷めた』目をして、それでも鬱屈して戦い続けている目だ。

 相反する感情であっても、それを制御できないからこそ、ずれてしまった、と赤嶺は感じた。

「命を張るのに、つまらないとか楽しいとか関係ないね。――弾きたきゃ弾くし、歌いたきゃ歌うよ。それが――自分つーもんだろ」

 よくまぁ、啖呵を切れたなぁ、と今でも思う。同じ状況だった時、同じ様に尖っていられれるのかわからない。

 それでも『譲りたくない』というものはあったのは事実だ。

 だが、当時とは違い、火中の栗をわざわざ拾う事は無いことも理解している。

 来るなら、どけばいいだけだ。

 その時ばかりは少し、違う事を肌で感じた。

 電気を落とす、なんて事は彼らの性格上は行わないし、大声の一つも上げていないのは普段と違うとすぐにわかった。

 肌で感じる警戒度が一つ上がる。

 怖い、という恐怖感。

 どうなるのか、という興味。

 彼らのたむろす場所はもう一つ上の階だったなと思い、音を立てないように駐車場のスロープをゆっくり上がっていく。

 構造上、立体駐車場は広い長方形の空間の両端に上へ、下へとつなぐスロープが作られていた。赤嶺は上に向かうために北側のスロープをゆっくり上がる。

 同時に、階段は中央の中核ブロックにあるわけで、仮に彼らが現れてもさっさと逃げれる、と踏んでいる。

 全部で十五メートルもないスロープを上がりきる。

 誰もいない、暗い空間だけが彼を待っていた。

「――」

 いや違う、と息をひそめ、中央にある巨大なコンクリート壁に身をひそめる。

 中央の階段の扉が開かれる。大きな鉄の塊は、盛大な音を立てて開いて、すぐに閉じた。

 非常口を知らせる緑色の看板だけ一瞬、扉の影に隠れて、すぐに照らし返す。

「だめ!」

 なにが?

 一人目の女性声と、固い走る音はパンプスのかかとの音か。

 目を凝らしても暗い先は何となくしかわからない。

 黒い車が止まっているのがわかったが、何が起きているかはわからない。

 仮に夜空を背景にしているのであれば、シルエットがもう少しはっきりわかるところだろうが、黒い車はまるで光を吸収するブラックホールの様にカーテンの様な物でひらり、ひらりと光を吸い込んでいた。

 二度目。

 扉が開く音がする。

「――」

 どうして、と赤嶺は思う。

 時間にして1分もないところで二度目の足音。

 走り寄る先は『暗闇』へ吸い込まれる。

 誘蛾灯だ。

 そう思ったが、口には出さない。光がないのに何が誘蛾灯だとも思うが、そういったアンブッシュに近いものだと感じた。

 閃光に近い青白い光が一直線に車へと進むのを見た。

 直後、破裂音が一度。

 二度目の扉の音の足音が『届かない』はずの時に、『音はなり』、男性の声がかすかに聞こえた。

 鋭敏な赤嶺の耳には二人の女性のうめき声が聞こえた。

「――いきなり現れるなんてきいてねぇぞ! くそ……! ジジィみたいな『出現』しやがって、こいつは――」

「ふむ、同一性は無いにしろ、良い被検体だな」

 少しトーンの落ちた二人目の男の声。

 老人、の様なしゃがれた声。

「さっさと撤収。失敗を悔やむ事は無い。別の成果で補えばいい。――時空間の転移と同等の稀有なものだな。全部を『白』にすると、そこに世界が辻褄を合わせた様に修正がかかる。過負荷な処理を世界に及ぼすとこうなるとは知っていたが、面白い体験だ」

「そんなのは普通の人間にはねぇよ! ……くそ、クソ! これじゃ、『あいつ』が怒るっていうもんだろうよ! お前の仕事は、こいつの『拉致』だったはずだ!」

 悪態をつく男はごそごそと車の中にすぐさま何かを入れる。

 やばい、と赤嶺思い、すぐさまスロープをつたって下の階の中央階段へと行く。

 扉をゆっくりと開ける。音はでない。

 すぐさま、閉じ、扉をきつく手で押さえた。

 知らない、そう自分に何度となく言い聞かせた。

 忘れろ、と自分の心の中で叫んだ。

 何かを――、見たとしても。

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