< 9月24日 籠の中の鳥の姿>
私は、――水の中に沈んだ石だ。
外には出れず。
泳ぐこともなく。
水の流れがなければ進む事も出来ない。
命の関係のない空っぽの体。
『幽世』の想像物と同じ。
この世界にいて、この『世界』に居ない。
あの檻は世界を縛るだけ。
その出来事は鉄格子の一本。
この場所は私の罪悪感。
否、後悔。
あるいは、残念。
同じ、と違い、を探し続ける亡者。
人の皮をかぶり、人のマネをする。
私のコロロは壊れ、人の心を想像して演じる。
抜け殻か。
つまり、自ら動けぬ石。
道端の石よりも軽く、簡単に転がる水底の石。
百年.
千年.
時を経てやっと一つの場所に落ち着ける石。
川の上流にいるのか。
否、川の下流か。
そう、思ってあたりを見渡しても結局どこかわからない。
ここは、『社会』の水底。
語る事もない。
記す事もない。
謳う事もない。
彫る事もない。
私は決して残らない。
正たる状態は死を保有する。
逆たる状態は生を保有する。
何万とも枝葉が形づくる森の中、私は水底に居るだけだ。
見られる事も、手に取られる事もない。
どこから見ても他の石と変わらない。
石。
意思。
形状の摩耗された意思。
すり減った石。
私は決して死にはしない。
しかし私は決して生きてはいない。
水と砂に抱かれた、社会の流れに逆らえぬ石。
コロコロと。
ゴロゴロと。
水に押されて転がるだけ。
――ほら、鳥かごの鳥が笑っているよ
〇
押領司・則之は水に浸かり切ったような重い体を引きずり、死んだ目を沈痛な面持ちで、茂庭・麗子の前に居た。決して彼女を非難することはないが、疲れを露骨に出す姿は今までにない凄味をオーラの様に張り付けて、茂庭に息を飲ませるほどだった。
一日学校を休んだ。
その程度で済んでいるのは事実。
要因はステラ・フラートンが前日に引き続き、”体調”を崩したからだ。機械は体調を崩すのか、と問われれば、調子が悪い状況になる事はある。初期不良、経年劣化、パーツの孫門、電圧不足によるメモリの不具合。
しかし、どれも彼女に当て嵌る”病状”ではなく、押領司の完全に力不足だという事実だけを大きく眼前に突き付けられた状況だった。
嫌気がさす、という気持ちと、無力さが入り交じる。今の気持ちを色で表すのであれば、RGB148,144,157。マンセル値でいえば、5P6/2。桔梗鼠というもやもやとした灰色になる事は間違いない。
決定的なカンフル剤は存在せず、気持ちを切り替えるためのセロトニン阻害薬も、安定剤となるヒロポンですら手には入らない。口に残る小さい欠片だけあるチョコレートを咀嚼してしまえば、自分の心を落ち着ける物は無かった。
逃げたい。
その気持ちは常にある。プレッシャーか、あるいは、失態か、それを含んだ全体か、根拠は解明できないまでも心中に存在する、排水管に張り付くヘドロの様な嫌な臭いを放ちあげる後悔が脳裏にこびりついて仕方がない。
押領司の胸中を察してか、先ほどから横たわるステラと押領司をちらちらとみているものの一言も発しない茂庭に、申し訳ないという気持ちもあった。
二人の対峙に対してこの部屋はあまりにも似つかわしくない。押領司の乱雑な部屋という訳でも、ステラが求める清潔な部屋とも違う。簡素――で、家具の跡から『女性』らしい部屋である事が推測される。
この部屋――押領司・静流の部屋は今やただの伽藍洞。
ステラが来るという事もあって、静流の私物のほとんどは両親の部屋の一つ――父親の書斎へと全部押し込まれ、フローリングがむき出しになっている。
ベッド一つなく、寂しさの最たるものではあったが、彼女のために敷かれた布団だけ、少し異質に映っている事だろう。
過去に使われていたであろう箪笥には少し丸みを帯びた形状で、角が無くされた上に、金色の真鍮らしき引き手が付けられている。
簡素な机。物が乗っていたことが分かるが、今やその見る影もなく、デスクマットがあったらしい形跡と、縁に少しだけ浅い傷が見受けられる。椅子や、ペンなどでひっかいたのかもしれない。
沈黙の中、説明の一つもできない。
『押領司は電算系には強いからなぁ』などと鵜飼や赤嶺に言われたところで、現状の力不足をどう説明すればいいのかすらも自覚したくない程だ。分かっている、が、認めたくはなかった。
自尊心の所為かもしれない。悔しい、という気持ちが口に広がる。
せめても、と思い、自分に何かあった時には対処する『方法』をしたためて二人に連絡してあるが、この状態は『間違いなく想定外』に当てはまる。
ステラ・フラートンも、学校の事も、この街にいる『怪物』の事も。
すべてが危険因子だ。
特にステラについては押領司にとってかなりのネックだ。
『目の前に往年の敵がいるのに、そちらに手を出せない悔しさ』だ。
押領司は口外にはしないが、《老人》の足跡はある程度追えている。あのイギリス人の金持ちであっても見つからない相手を、『あと一歩』で追い詰められる気がする。
だが、『ステラ』が邪魔だった。
彼女も、処理しなければならいタスクであることは事実。
――これほどに手に負えない、と思うのは久しぶりだなぁ……
混乱。これが一番ステラの状態を説明するのに適した状態だ。大量に発生した分岐判定によりスタック。普通は機能低下が著しい場合には制御機構を介して循環思考を停止させる様にシグナルが出され、IMSが一時的に停止する。
これにより、IMSの分岐状態を解消し、事象把握と基礎判定のみに絞られた制御機構は、混乱状態を解消し、正常起動に戻る。正常状態が180秒確認された場合には再度IMSが再起動され、先のメモリ状態をクリアにした上で、思考が再開される。
制御機構としてのIMS遮断は、マーク・ヒルによってステラのIMSのみ、カットできなくなっている事は承知していた。であるから、致命的結果を生じさせる可能性はあるものの、それを回避するために基幹プログラムには『スキップ機能』が存在している。
《人間》でいえば、『気持ちを切り替える』というやつで、一時的な思考のスタックが予期された場合、思考状況のアボートを行い、タスクのスキップを行う事で循環状態から無理やり抜け出す事になっている。
この機能については、絶対にIMSをカットすることのないステラであっても、マーガレット・ワトソンからの報告で正常に動作することを伝えられていた。
それで、このザマだ。
――3年前に妹を失った時、なんて決めた?
苦虫を噛み締める重いで、自分の中に問いかけたとしても答えは出ない。
ステラが不安定なのは分かっていたはずだろうと、苛立ちを隠しきれない。
押領司自身が『不安定』を理解できているとマークも、チャーリーも考えたからこそ送ってきたのだろう、と自分を責める。
『理解』はできていた。という言い訳をしても意味がない。結果として発生した事象は彼女の苦悩を解析できなかった結果だ。
《機械種》に医者は居ない。
なぜか、と言われると、『バグ』として処理するだけで済むからだ。
解析、隔離、対象、対処プログラムの生成、あるいはバグの切り離しの結果による対処行動を行えばいい。これらの対処方法は、同族でも『自分』でも可能であり、必要になれば基幹プログラムの修正パッチまでの間、アドインを独自で投入して解消することも可能だろう。
さらに必要であれば『昨日』の自分に戻ればいい。
だからこそ、《機械種》が医者を必要としない。
だからこそ、『対処』は持ち合わせていた。
押領司も話を引き受けた時、面倒であるものの、対象方法としては簡単で、堰き止めればいいだけだと思っていた。IMSの暴走を止めるのには行動の核となる基幹プログラムへ『止めろ』という命令を行えばいい。
ただそのトリガーの特定だけをすればいいと。
「失敗した」
ぼそりと口にした言葉のとおり、押領司はステラの基幹プログラムへの解析に失敗した。一学生程度で破れると思わなかったが、『彼女』が拒絶をするとも思わなかった。
“手”を尽くした、という事を対外的に提示すればいいのか、と考えると、その先の結末まで理解できてしまう。
ステラの中に人のデータが入っている事は分かった。しかし、そうなればこそ、穏健派のマークは間違えなく、ステラを対処不能な突然変異体として『廃棄』処分にさせるだろう。
残りは2週間。
赤旗を上げれば、済む話だ。
結論は一つ、「ステラが死ぬ」という事実は口にすれば、簡単な言葉だったが、口にできない。
《機械種》で『死ぬ』という言葉の本当の意味するところは押領司には分からない。死が訪れたとしてもステラは死を求めているはずなのだから、彼女の意思が尊重されただけではないか、とも思えた。
ステラの気持ちも含めて、不安定な相手だと十分に理解していた――つもりだった。
《機械種》だからという訳でもなく、『壊れた』物がどうであったか押領司は理解していた。
ひりつく喉から次第に嗚咽が漏れる。
何年ぶりだろう、と押領司は感情の波を背中に受けた。
前にいる茂庭はびくりと、肩を震わせて押領司の対面に座りながら、視線を彼の顔へと向けようとした。
茂庭の座るフローリングの床に置かれたピンク色のクッションが目につく。きっと、ステラの私物だろうという事は分かっていた。大きさは人が座るには少し大きく、茂庭も座っているというよりは沈んでいるというのが正しい。
《機械種》の重さに耐えられるように、人間が使いやすいビーズクッションといった素材で構成さておらず、強度の高いペレット性のクッションで、熱の排熱がしやすいように通気性が高い。それでいながら、《機械種》たちに『人間』らしく寛げるように反発性も確保されている。
押領司の見下ろす先にいる二人の少女は、二人とも表情を『変えない』。
一人は安らかな寝息を。
一人は戸惑いを。
押領司は震える手に持っていたペン型のマウスをへし折って、すぐさまにドアへ投げつけた。ペン型のマウスの大部分はプラスチックだ。飛散する黒い破片が当たり構わず飛び散る。
押領司の中にある苛立ちは完全に制御を失っていた。感情をコントロールできない。
呼吸は上がり、次の空気を吐き出す前に求める。
体温が上がる。
頭を抱えて、何度も嗚咽と咳を繰り返す。
壁際まで下がると、ずるずると背中を押しつけて床にへたり込む。
どうしたものか、と茂庭は手を差し伸べようとして、躊躇してやめたらしい。耳の傍で戸惑いの呼吸の声が聞こえた。
「――大丈夫?」
「――」
それでも、小さい心配の言葉。
今、押領司の中にはいらなかった。
なんでこいつがここにいるのか、とも考えたがすぐにどうにでも良くなった。
両手で頭を抱えて何度も、何度も咳き込む。
過呼吸による息苦しさは正常な理解を失わせる。
「――だいじょうぶ?」
二度目の問いかけに、押領使は「――いい」とだけ絞り出す。雑巾の残りカスの様にどろりとした音声。地を這うような重い音は、ゆっくりと茂庭に当たる。
「……そう」
茂庭の落胆ぶりは直ぐわかったものの、彼女の心境を考えてあげるほどの余裕もない。このまま全部消えてくれればいいのに、という拒絶の気持ちが強かった。
少しだけ呼吸が落ち着く。
余裕らしい事はない。
自分勝手だよな、と気持ちを落ち着ける。
――誰が?
と問いかけて、自分がかと眉に皺を寄せた。
茂庭が少し口を開いて、押領司におずおずと手を伸ばした。
しかし、手を引っ込めて、言葉も喉に戻していった。
昼間だというのに、カーテンを閉めたままになっているから、部屋全体が暗く思えた。
ステラが寝苦しくないように、と押領司の母が世話を焼く。相手は機械だというのに、まるで『妹』だった物の様に。
それがまた思い起こされて押領司の喉をひりつかせた。
嗚咽は苦しみの表現だ。しかし、逃げていいのかすらわからない。
『――何を、抱えているの?』
その言葉は茂庭か。
否、と視線の先では同じように、声をかけれない彼女の姿が見える。
誰だろう。
視界が次第に小さくなる。
暗く、フィナーレを迎える幕の様に、瞼が落ちる。
〇
白い。
空間の広さは地平線が見えるほどだ。
押領司の視界の全部に真っ白な世界だけが映る。音も、匂いもなく、白という世界。
凹凸も、木々も、水の流れもない一つの世界。
「分かる?」
「――誰?」
「いいねぇ。《人間》相手にこれをやるのは初めてだからさ。いやぁ、緊急的にできるかは一か八かだよねぇん。調整してあればできるんだけど、まー、簡単じゃーないんだよん」
誰だろう。どこからか声が聞こえる。
あぁ、と声が答える。
「対象がないと話づらいよねー。簡単に作りだせるならいいんだけど、シルエットくらいしかむりかなぁ……。容量が大きすぎて、『彼』に気づかれても嫌だしねぇん」
いうや否や、手を差し伸べる黒い影。
シルエットだけのアバターは一昔前のスレンダーマンを彷彿とさせると、ネットワーク上のミーム群の一つとして、いまだに人気が高いため、コミュニティでも使う愛好家がいるため、押領司も驚きはしない。
それでも少しだけ身長が高い程度。男なのか、女なのかも分からない。
しかし声の音と口調だけで、若い女性の気がした。
「お、咳止まった? あぁ、まぁ現実には影響は出ないと思うから楽にしていいよー」
手を伸ばし、影の手を握る。
「――、」
「おっとまった」
口を開きかけて、影は手でそれを制す。
「時間がないからとっととやることをやるとするよ。説明はそれから、という事でよろしく」
影は押領司の手を取ると、ぐっと引き寄せて引き起こした。次に、右手を押領司の胸あたりに押し当てた。鼓動を確認するように10秒ほど停止。
「うんうん、まぁそうよね」
何が、という事を聞く前に影は、額に手を伸ばす。
少しだけびくりとして身を震わせる。
「臆病だねぇ、押領司の兄は」
「――何?」
聞き捨てならない。
「兄、って知ってるということは、妹を知ってるのか?」
影はコロコロと笑う。口がないのに器用に笑っている事が分かるのは、体の動きによる表現だ。パントマイマーの様に少しだけ仰々しい気がする。
陰は手を押し付けて、何かを測る。冷たくも、暖かくもない黒い影。
「そりゃー、まー知ってるんじゃない? だって、欠片だけになっても『友達』ではあったしねー」
なんだそりゃ、と口を開こうとすると、影が目手を伸ばしてきた。やめさせるために身をよじる。
「大丈夫だから、――ぁあ。目の焦点もあっているねぇ」
大丈夫、大丈夫と影はけらけらと笑い、ぺしり、と一つ押領司の額を軽くたたいた。痛みもないが、唐突な手の動きにびくりと体を震わせる。
「さて、」
影は腰に手を当てて押領司の前に立つ。すぐに、立つ、という行動から、足を組んだ座るという姿に変わる。
「この殺風景な世界にずっといる訳にも行かないし、少しだけレクチャーをしよう」
すっという時間差もなく影を支える椅子が出来上がった。押領司は驚き、口を半開きにする。
常識というのはすぐそばにある。
ゲームであろうと、人間の世界をベースに作られた世界であり、物理法則に違和感を持てばとっつきにくいものになってしまうため、大幅な変更はできない。魔法という概念が一般化し、ファンタジーというジャンルが広く受け入れられるからこそ共通認識で語れるが、一つ足を踏み外せば認知の差が生じる。
影が作りだす、という行為は、そういった逸脱したものの一つではあった。勝手に創造することはできない。押領司の目の前に普通に座っている相手がいるが、ここが『ネットワーク』の世界であれば別だ。
「――しかし、感覚がある、ってーところかな」
陰は、押領司の思考を読んで見せる。
図星となった押領司は目をぱちくりとさせた。
「たしかに、たしかに。こんな風に――」
影は手にコーヒーカップを創造して見せる。いたずらっ子らしい、含み笑いを押領司に向けながら、右手に持ったコーヒーカップの手を取ってくるくると回して見せる。
「いきなり物を出すというのはマジックの類ならば珍しくないだろう。――種も仕掛けあればキミも納得するんだろうけれど、ここでウチがやったことはそれとはぁ、違うってもんさ。でも、……種がないかといえば、そうではない、かもしれないし、そうではある、かもしれない」
「ここは、どこだ?」
いいね、と押領司に影は笑って見せる。
「ウチの話を聞くよりも、まず自分の『信じた』事実のみを取り入れる。ネットワークに『生きる』《人間》そのものじゃぁないの。こういう人が、ネットワーク上で、フェイクと、トゥルーを混在させて、認知性バイアスを生み出すってーことよねぇ」
影は、シニカルな笑いを漏らす。
「ま、いいさ。自分で見た物、聞いた物、感じた物、考えた物、そういった感覚がなければ、たしかにこの『空間』は『現実』と相違ないものねー」
陰が両手を上げたとたんコーヒーカップを投げ捨てる。放り投げたオブジェクトが空中で霧散する。その発色される鈍色の破片、一つ一つに押領司は見覚えがあった。
「ネットワーク? でも、俺は……」
「繋がる術を持たない、というところだねぇ」
たしかに、たしかに、と再び影はゆっくりと頷く。大幅なリアクション、相手の言葉を遮る癖。どこかで押領司は知っている気がした。
「あは? あぁ。その視線は、思い当たりそうなところが、あったり、なかったりするんだね」
いいね、と影は再び笑う。先ほどと違い、口元に意識を集中すると、白い歯が見えていた。
意図的に隠している、データが肥大化されるといった言い訳は、あまり意味がないだろう。この様に動きを行っているだけでもかなりの処理は必要だ。そこにスキンデータとしての画像がはりつけられた3D画像に切り替わったとしても、この世界の構成から考えれば微々たるものだ。
「相手をよく見る――という事は、意味を持つよねぇ。この『世界』では特に。ほら……よく見て、考えてみるといいさ。相手はウチしかいないんだからね」
よく見る、という事を押領司は理解していた。
ネットワークにおけるコミュニケーションの基本は、相手を観察することだ。いくらでもアバターは弄れる。《人間》以外になる事だって、オブジェクトに偽装することもできる。
プログラムはすべてを隠蔽する。
ネットワークでは良くあること。
同時に真実すらも偽装する。人の存在も、国の存在すらも。
多くの手を使い、悪い者たちが繰り広げる偽装と嘘の世界は、ネットワークという、ほぼ無法の空間においては、生きやすい、と言われる事もある。
国家であろうと、取り締まりをする側が、すべてのネットワークを常時監視することが不可能であるからだ。一日に国民全員の監視を行うのを機械処理させたとしても、解析を終えるまでに一日の時間では終わらない。
人の手を介さず、自動判別を行うとしても、一秒間にいったいどれだけの情報が一つの端末に入り、どこに接続しているかなんて記録する事は現実的ではない。
巨大すぎる情報は、既に《人間》の手に余る物だった。だからこそ監視などは不可能だと誰もが知って、誰もがそれを『意識せずに』利用している。
ダークウェブが『主』流、というのが当たり前。誰でも彼でも、自分のネットワークを持ち、機械種ですら探知できない世界を構築することもある。それも、小学校の時代からすでに多くを学ぶ事になる。
いくら、有害なアングラな『世界』が存在していても、利用するのは個人だ。
先進国では、ネットリテラシーを含めて子供たちが『取捨選択』する事を学ばせる授業を行う。しかし、日本は未だにそういった力は弱い。
国家の基盤となる文化、教育が固定化されており、よくも悪くも前年踏襲を”何十年”も続けていた結果として、気軽に子供たちが、闇の部分に触れてしまう要因を作ってしまっていた。
見抜く力は持っている、と思ってしまう事が間違いだ、と押領司は思っている。
だけれども見る事はネットでは重要だ。
「そう、そうだねぇ。よく見る、という事はキミたちの年代では重要な事だと、普通は気づかないんだよ。――特に日本人は弱い。『彼女』も善意と悪意を見分ける力も弱かったからねぇ。……ホント、キミは『彼女』と違うんだね」
一人納得する影相手に、押領司は苛立ったが、口にはしなかった。
少しだけ目に険が宿るが、
「いいよー、そんなに取り繕わなくてさぁ? 『怒り』はウチが理解できる他人の感情の一つだから、特に、《リンク》すればほとんど筒抜け、というものだもんねぇ」
ここで、押領司は理解する。
目の前にいるのが誰か。
《リンク》という技術は一般的ではない。普通《人間》のキャパシティーを超える情報を『直接』脳内に送り込む事はしない。最悪の場合、脳神経を含めた神経系がすべて焼かれてしまう。
文字通り、疎通を行う電気信号が強すぎるだめに、焼き肉を焼くのと同じように、徐々にタンパク質が変容してしまうのだ。人間の脳内に直接通信を行うという事で熱変異させられた神経により、《人間》は死亡する可能性を含んでいるからだ。
たった六ミリアンペアであったとしても人間は心臓麻痺で死亡するのだから、脳にどれだけの負荷をかけていいのか、『普通』は誰も知らない。
この世の中で知っている者がいる。
『ラーニング』を使い、『人体実験』をした『男』が。
「……ネットワーク侵食型の広域ジャミングプログラム、『プロス』が開発された時、俺は一つの懸念を持っていたんだ」
影の言葉を無視して、押領司は口にしたのは、淡々とした言葉だった。
「プロス自体の特殊性は理解していたけどさ、ネットワークに侵食する点で問題で、単一アプリケーションとして存在していない、という事が重要だった。
ネットワークの表層で情報の授受を監視するプログラムが大半だったが、プロスの場合、より深層でデータの授受を可能にしていたからさ。
そのうえ、ネットワークに残留し続ける、という点が問題だったといってもいい。
子になったプログラムは自己増殖を行う、というのが通例のワーム型の行動だけれど、プロスはトロイの木馬と同様にそこに潜伏し続ける。――正確には標識の様にダークウェブを利用する者に、危険を教えるために作られたプログラムだったけれど……。
ジャミングを行う際に、警察、軍を問わずに国家権力に探知されたくないのは”悪い人”にとっては当たり前の事だから、監視網があるんだ、という情報自体にはかなりの手立てになる。
結局これらを完全に運用側が生かしきれなかったんだけれどさ――、同時に、通常のネットワーク回線に、平行する形で、新たなネットワークが構築される事になったんだよね。
プロスが――別の通信装置の変わりとして機能するようになったわけ。ネットの有線だでけなく、『サーバー』や『ルーター』に常に潜伏することでさ。
『これ』を発見し、利用・運用し始めたのが、《Mouse》の連中だったのは事実で、デモを含めて広くの情報拡散に、『この』ダークウェブを利用することにつながっていた。
日本では、それが『当たり前』に受け入れられているが、米国の状況は百八十度違う。
セーフティーゾーンから抜け出したダークウェブは危険である、というのが主流。
これには俺も同意をする。ネットワークは無秩序さが存在していい場所ではないから、国家によって規律と安全性を担保する必要がある、とね。
懸念はひどく簡単で、このネットワーク侵食型のプログラムは応用の利くものだった、という事で、1個つくれれば同様にネットワークに平行した別の『感知不能な』ネットワークを構築できた。
ブラックネットワークは今や犯罪の温床といってもいい。
おかげで、小学生でも銃を買おうと思えば買える」
だが、と影は笑う。
「ダークウェブは、その組織に属していれば、という限定的なものではあるけれど、ブラックネットワークは、ストーン――つまり、とっかかりになるものを見つける術を知っていれば、簡単に手に入れることができた。よく、『使い捨てネットワーク』――《ブラックネットワーク》ともいわれるね」
そうだ、と押領司は頷く。
「この空間も同様に他者からの侵攻がないが、いずれ見つかるネットワーク群である一つを利用している――とここまではいい」
押領司は、への字にした口をとがらせる。
「人間の脳への《リンク》を行う際に、ネットワーク空間に存在する電気信号と同調をさせる機械、翻訳機が必要になる。この翻訳機は人間の微弱電流を収集することができるネットワーク網で構成されたヘッドギアを装着することが最低条件となる。
とすると、『俺の体』は今一体どこにいるのだろう」
「気になるのはそこかー……」影は面白そうに手をたたいた。
「ここはだれ! わたしはどうしたの! とかそういのはないのか、と思っていたら、あぁ、本体の心配かぁ!」
ケラケラと笑い、何度も手を叩く姿だけを見れば、幼子の様に思える。
シルエットは、押領司よりも上の年齢に見える。身長も少し高い。だからといって男なのか、女なのかの判別はできないものの、細かい指の動き、足の組み方などをみると、女性らしさが時折見える。
「いやぁ、そもそも、『ここはどこ?』とか『死んだの?』とか一般的な質問は予測していたけどさー。こんなの予想外じゃないかぁ」
「はいはい、」
押領司は軽くあしらい、目の前にいる本来であれば不気味である存在に対して、冷静に対応をする。
「そういった当たり前の事がなかったので、次に進んでください。正直、時間の無駄です」
「……うぁ……キミ少しは相手を敬うとか、」
「ないですね。固有名称も分からなけば、今まで相互間で培った共通認識も皆無です。尊敬に値する存在か、なんて答えを出すエビデンスがないのでは?」
ぐうの音も出ないようで、押領司の言葉に押し黙る。「そう、――だけどさぁ」
「はいはい」
「ハイは1回だよ!」
「はいはい」
もう、と影はそっぽを向く。
色調によるシルエットの変化が微細ではあるが確認できる。ポリゴン同士の結合による3D作成の際には、テクスチャの切れ目を折り紙を作るように『隠す』。当然服と同じ理論ではあるため、縫いしろや、のりしろの様にマチを作るのが通例である。
しかし、動作におけるポリゴン形状が、シルエットという比較的構成しやすい部分であっても、粗として存在している。
この点から、押領司は予測値の中から最適な二事実点を選択する。
「一つは、送受信するデータ容量が限られている。高度に作られたポリゴンデータである場合、指の形状、唇の動きに至るまで解像度の高いスキンを使う必要がある。そうなると、クライアント側にある程度の基礎データが格納されている、という事であれば可能と考えられるが、ブラウザー上で動作させるなど、クラウド上のデータ閲覧を強要される場合には、ダウンロード速度とGPU側の同期が必要になる。
二つ目は、この空間自体が『シルエットスキン』に対して、浮き出る程度の白色度であるという点。この点から、作成者は同系色であっても相手に動きを認知させる事ができる、一定水準以上の美的センスを持っていると推察。
現行、主流の第5世代型の《機械種》である場合、255段階のRGB判定で色調変化に非常に富むが、『人間の認識の差異』を人と同様に確認できない。
基礎プログラムの弊害であり、アドオン機能で拡張が可能ではあるが、多くの《機械種》は利用しようとしてない。
このことから、《人間》に近い存在、と言える」
「ふむ、」
影は機嫌を直し、押領司に向かって続けるように、左手を伸ばして催促する。
「予測点はあるが、論理的に飛躍ができないから仮定法は利用しない。現行から導きだされる証拠から、現状を分析すると、次の通りと考えるのが自然と言える。
一、この空間には感触が存在していない。特に、嗅覚に反応する機能がないことと、呼吸の感触がないことから、模倣した空間である。
二、空間半径が二人のいる空間から約30歩程度と、全体でも100㎡以下の空間である事、情報処理限界が存在する事から、何らかの制限が存在している事が分かる。これは俺の脳のキャパシティーの問題と考えるのが妥当。
三、制限のかかるネットワークにはブラックネットワークが代表であり、通信傍受等を回避するために、大容量データの常時疎通は行わない取り決めが存在している。
四、《ブラックネットワーク》を使う時点で、俺の端末だけを利用してない。俺の端末はかなりセキュリティ強化しているから、《ブラックネットワーク》にはセーフティー状態でしか使えなくしているからね。
五、端末の制限がない場合、こちらは見ているだけであるはずなので、相手から出ている《リンク》となると、本来は人間の神経へ接続に専門的な装置がいるが、それがないとなると、直接働きかけをできる類の装置を別で用意――または、流用している。
六、記憶にある中で、一番最近の『代用物』はオーバーロードしたステラ・フラートンの傍にいる、という現状であり、ワークステーション等の接続できるサービス母体がない。
七、装置無しでの無線方式での脳への接続は現在技術的に確立されておらず無理。――過去、イギリスの死刑囚がまる焼けになった実験結果だけ存在している。過去の実験によりレシーバーを埋め込んだ者が可能ではあったが、二次的に脳に浮腫ができる。
八、レシーバーだけではなく、翻訳機が必要との最新研究発表が、二か月前にドイツの学会で発表。翻訳機には《機械種》が適任となる」
押領司は息をつく。
両の手の平を合わせて人差し指に口を当てる。
「――以上のことから、ステラ・フラートンの通信機構にハッキングを仕掛け、俺の体に装着されている《サテラ》を量して、俺の神経系に微弱電流を流し、《リンク》――ネットワーク同調している、と考えられる」
なるほど、と影はゆっくり頷く。
「であれば、誰ができるかなぁ、そんなこと」
「俺の記憶の中では四人、《人間》で可能」
「へー、ちなみに、その四人ってだれ?」
馬鹿にした様に、ケラケラと影は笑う。
「朝比奈・孝幸、チャーリー・ルイス、ドロシー・オブ・ウォーカー」
意外そうに言葉を止める。おそらく、最後の一人に押領司自身でも並べると予測していたのか、小さく息をのむ。
「……3人じゃない? 最後の一人は? ――押領司・則之クン」
「あぁ、――クレア・バトラー・カートライト。おそらく、俺の前に居るのは『彼女』だ」
〇
クレアは笑う。目の前にいる少年は、すべてを知っている。
どうしてか、と問う事はしない。自分と”同類”だと分かっているから。
押領司・則之の情報を集める中で、ジョージ・マケナリーから『助言』されたことがある。
「天才だからといって逃げる事をしない、凡人の中に本当に死ぬ気で、天才を超すものがたまに現れる。あれはな、そういう類のものだ。凡人から見るとそいつは、シンデレラストーリーである様に見え、最終的な到達点から『天才』とくくる事がある。
努力、根性、そんなものではない。奴ら凡人が凡夫のままでいないのには、たった一つだけの共通点がある。
親を殺されたとか、神に見放されたとか、理由はいろいろあるが、――奴らには執念がある。少年も同じだ。ただの天才とみてはならない。そういうやつは、――はっきり油断がならない」
その通りだ、とクレアは実感した。
観察眼が鋭いのではない、知識が豊富なわけではない。
どちらも、《機械種》に言うに及ばない。
導き出す能力が高い、というのも違う。
結論は、「キミさ、最初から分かってたでしょ?」その言葉に集約されて、クレアの笑みの合間からこぼれた。
「違うね、分かってたんじゃない、呼んだんだよ。ただ、……《老人》が来る可能性があったから、確信できるまで観察したまでだ」
そうかい、とクレアはケラケラと笑う。世界で最も危険な相手の『片割れ』になってしまっているクレアを、こいつは呼んだという。
「――《老人》に告げ口して殺されるかもしれない事も承知で?」
「あのさぁ……。殺すことが目的なら、もうとっくに終わっているでしょ?」
押領司はその場に腰を下ろして、足を組んだ。右ひじを膝の上に乗っけて手の頭を乗っける。つまらなそうに、半目でクレアに口を尖らせた。
「んーとさ、『悪い』と自分で思っていることを、おどけて言うのは見ていて痛々しいよ。悪ぶってるようで。本当は辛いんだ、っていう事は――”理解”っているよ」
なぜ、と口にせず、体の動きを止める。クレアの頬に冷たい感触がある。
ネットワーク上ではなく、実際の体に『汗』が浮かんでいるからだろうか。
焦り。
見透かされた事に対しての動揺。
少しばかりの体の変化表現は、一切の根拠なく発生するものではない。発汗、そして震えは、心理的変動による『パラメーター』の変化。『機械』の体であっても挙動に変化を与えた。
汗が出る事はない。が、体表面の温度が高くなれば、近似した冷却材の滲出は、存在する。
しかし、よほどの変化が無ければ起こりえない。
――汗じゃないね。あぁ、怖いんだ
引きつった笑顔の中で、クレアは自分の心の動きをとらえた。
ネットワーク上に反映されない微細な変化に、多少なりとも彼女は感謝した。
それでも、彼女は気丈にふるまう。だが、「へぇ、」というのが精いっぱいの虚勢だ。
押領司は、つまらなそうに遠くを見つめる。
「クレア、という名前を初めて見たのは、……そうだね、大体二年半――ちょうどハロウィーンの時期だったかな。ネットワーク上でも多くのデコレーションがされている時で、かつて恐れられた誘拐事件も。今では日夜消える子供たちと同じで、忘れ去られて久しい時期さ。
街の中で、そういった『忘れられた事件』はあくまでも過去の産物だけれども、《ブラックネットワーク》上の深いネット民たちはこぞって憶測を飛ばしていてね。そのログを見たのが、最初、かな。
ジョージ、という《老人》が起こした事件の事は、警察を含めて緘口令が引かれているから『表に出ていない』事になっているけれど、事実だけは伝わっている。
『失踪事件』としてICPOも捜査しているけれどね、各国の失踪した子供たちの事件と関連性がある、と誰もが関連付けをしない事が問題さ。
なんせ、臭いともっていても証拠がなければ容疑者にできないんだからさ。警察も、国際指名手配をかけていても、その《老人》の存在を『見つける』事はできない。
姿形が違う、という点もあるけれど、それ以上に個人のデータのすべてがアメーバの様に変化している事と、変化する情報を常に『後追い』で報じるだけのメディアによって形成された、オオカミ少年状況になっている事が要因。
ミスリードされすぎているよ。
特に、ジョージの報道に関しては、年間で50回も放映され、すでに何年も経過している。毎日の天気予報と同じほど目にする情報は、ジョージを街に埋め尽くす結果となったわけだから、『見たことある』が他人の空似に昇格され、本物がいても、偽物であるように思えてしまう。
ネットワーク上でも似た様な姿は何度もキャプチャされて、コミュニケーションツールのあっちこっちで氾濫しているわけ」
押領司はため息をつく。
「で、俺の妹の事なんて、ほとんど覚えている奴がいないのと同じように、米国のカートライト議員の娘の誘拐、なんていうのは忘れ去られてしまったんだよ――悲しい事に」
たしかに、とクレアは頷く。
「ネットワークが発達していなかった頃、高速に伝播する情報は、新聞からといってもいいからねぇ。センセーショナルな情報は特に、何十年のもの間、人々の意識を、あるいは、生活を左右する基礎となってた。――特に」
「――特に、猟奇的な物ほど人間を引き付けた。殺人や、誘拐、幽霊などもあるだろう。同時に、真偽のほどが怪しい物もいくかある。
例えば記者の捏造や、投稿者の捏造など、疑惑の数も新聞が発行されただけ存在する。
でも、急速に通信技術が発達する戦後において、テレビが主役の座に変わる。日本だけではなく世界で、というのが正しいだろう。衛星中継や海底ケーブルにより、送信網が確立されると、映像を伴う情報はとても強い」
そうだ、と影は頷く。
「『鮮烈』な情報が映像に良く合う、とウチも思うさぁ。その場にいるような臨場感をテレビで見る事ができた、というのがテレビ時代の言い分だぁね」
「ワークステーションを個人用に使える廉価版の『パーソナルコンピューター』が発売され、ネットワークがコンピューター同士をつなぐようになると、ネット上の開発は恐ろしい速度で進化した。
たった、10年でスレッドタイプの情報交換サイトがたち、さらに10年でネットワークゲームが主流になった」
押領司は言葉を切り、手の位置を直す。少しだけ身じろぎし、
「次の10年では、動画を投稿する事で、メディアの壁を食い破り、第三の情報伝達技術ではなく、主軸に変わっていった。
その後はもう、情報の技術は日進月歩。現実社会にネットワーク情報を配信するために拡張しつづけ、一秒間に伝送できるデータ容量も増加した。それでも、社会には必要なデータ容量はそれほど大きくはなかった。
有限のデータで十分だったし、上限を切ったとして、『結合』すればいいというだけだ」
しかし、とクレアは意地悪い笑い声を言葉に含めて引き継いだ。
「《人間》であれば、という事だぁね」
クレアは押領司の視線に合わせてゆっくりと腰を下ろした。
押領司に合わせて胡坐座りとなる。
「《機械種》が発生した段階で、情報伝達が、人間の脳と同等に『一括した』データ伝送を必要になったんだねぇ。
《人間》の脳や、《機械種》のプロセッサは断続的なデータの結合ではあったものの、《機械種》のパルスに合わせてデータ伝送を行うにあたり、従来の暗号化されたデータを復号した上でのデータ通信では、固有データ内に損傷ができていしまう可能性があったからねぇ」
「おかげで、新たな情報通信技術が必要になった、というのは事実だし、情報通信上限を引き上げせざる負えなくなった。
けど、そのおかげで”次世代型”のデータ共有方法が確立されたわけだ。”本体”という概念がなくなり、物理メモリを大幅に持つ必要性がなくなったおかげで、基礎的プログラムだけを内包できる最小のマイクロメモリのおかげで、コンピュータという概念は、デスクトップ、ノート、タブレットの次へと遷移した」
おかげで、と影はトントンと手を叩いて見せた。
「大容量通信を受信し、処理するプロセッサだけで完結できるわけさ」
そのうえ、とクレアは空中を右の指で四角になぞって見せた。
「空中に映像を投影する技術の進化も後押しになったわけだぁね。キミの使っている《サテラ》は映像端子による交差投影方式を採用しているけれども、コンタクト型のディスプレイと同期させることや、グラスと同期させることあったというわけ。
特に、拡張現実技術を取り入れようとしていた会社にとっては楽な作業だったところだねぇ」
押領司も頷く。
「だからって、簡単に《人間》の脳みそに同調できるデバイスが存在している訳ではないよ。
いくつものパラメーターを計測して伝えるだけならいざしらず、《人間》のニューロンに同調させ、俺の意識を読み取り、あるいは二人分の意識を同一のサーバー内で結合させて、会話を行わせるなんて言う事は、《人類》の培ってきたコミュニケーションへの冒涜だ」
切って捨てる押領司の言い分に、ステラは笑う。
「そうはいってもねぇ、利便性を追求してやまない《人間》なんだよ? いずれ、――それこそそう遠くない時代に《人間》はそうなるのさ。
キノコと同じで連結された群体となるんだぁ。《人間》はね。
脳みそを電磁的に結合し、《人間》は一つの《存在》へとステップアップするわけさ」
押領司は苦笑する。けなす意味はなくとも、クレアの言う事を鵜呑みにはしない。
「俺は、そういう未来は見たくはないね。《人間》はあくまでも《人間》のまま進化するべきだ。『機械』に頼り、『機械』という存在を自らに取り込むというのが正しい進化とは思えない」
おや、とクレアは驚いて見せた。
「キミはこの情報の世界の中で『名前』のある者じゃないかい」
「俺は、」
押領司は機嫌を悪くしたように顔をしかめた。
「嫌いなんだよ。《機械種》や『機械』なんて」
押領司は、へそを曲げた様にそっぽを向いた。
が、すぐに、クレアに向き直る。
「《人間》の社会には、『機械』が必要か、と考える。
――生活は高鹿に楽になる、しかし、同時に《人間》らしさを失ってやしないか、とね」
なんでさ、とクレアは疑問に思う。
「最たる模様は、『時』が人を縛っている、」
押領司に言葉に影はククと喉を鳴らして一言付け加える。
「日時計などの時計ができた時から既に、《人間》は自然の摂理から抜け出し、一つ、秩序と束縛を得ているんじゃぁないかなぁ。――それが社会性の構築でしょ?」
押領司が、素っ頓狂な超えで「ほんとか?」ととぼけて見せる。
「時間が人間を束縛するのと同時に、《人間》は一つ自然から逸脱してしまっているのは事実だろうけれどさ。
《人間》は動物から社会性を手に入れたおかげで発展した。それは、『過度の機械化』を国定しているものではないでしょ?
過度な効率化は、《人間》の機能を退化させ、《人間》が生物として緩やかな《死》しか用意できない、矮小な存在になりやしないか、そう思えてしかたがないんだよ」
「例えば、――そうだね、病気などかい?」
影に押領司はゆっくりと頷く。
「ペストや、スペイン風邪は良い例だろう、とも思う。《人間》の社会に交易の技術という生物の限界を超えた移動手段を容易にした技術革新が存在したおかげだろう。
が同時に克服する術も得てしまったわけだよね。対処方法の情報の伝達の速度が、予防とう手段として社会に浸透し、人間社会を『保護』せしめるだけの時間を生み出したわけだし。
同様のコミュニティで慎ましやかに生きるという事が本来人間に許された最上の営みではないか、とね。
尤もそこで滅びるコミュニティがある一方で、生存するコミュニティであるからこそ、『分裂した民族』として進化能力を《種》に内包できていると思うよ。
一つになろう、一つになるべきだ、国境は争いを生む。綺麗な言葉は結構だけれど、『それは《人間》の身の丈に合っている』のかは疑問さ」
「……『機械』というよりは『人』が嫌いなのかい? あるいは、『人』が同期することが嫌いなのかい?」
そうだね、と押領司は少しだけ考える。
「両方かもね。機械はそういった今の『人間』を作ってしまっているから嫌いだし、『人間』がそうやって《機械種》の様になる事も嫌いだね」
「……随分とひねくれてるなぁ。同期なんていくらでもいいじゃないの。――キミだって可愛い子と常に二人の空間を持てるんだよ? 四六時中」
まさか、と押領司は皮肉たっぷりに笑う。
「あのさ、根本的に《人間》が同期する理由はなんだい? 情報の共有が可能になる事で、不必要なコミュニケーションが廃止され、仕事が効率的になるとかかい? 今の話の様に、仕事をしながら『家族』とコミュニケーションを取れるようになるとかい?」
うーん、とクレアは唸り声をあげた。
「それは――まぁ一例としてはありかもねぇ。国家として生産性を上げる上で、富国をなすことができる、と考えるし、兵隊として統一規格品を作成する事が容易になる訳だしぃ」
「なら、《人間》は、いずれ《機械種》になる、そう思えないか?」
「『機械』は『機械』でしょ、考えも、感情も、《人間》は持っているじゃぁない?」
「だからさ、『その発生した』感情も、『突発的に浮かんだ』考えも同期するんだろう?
どこが他人と個人の線引きになるんだ?
特に、ネットワークが発達する上で、ショーシャルメディアの功罪は大きいとはいえるけれどもさぁ……。
『逸脱』を認めず、集団的に個を責める事が可能になったわけだ。おかげで、《人間》はネットワークに接続する時点で、『インフルエンサー』の真似だけになり、没個性を取り入れる事で、自己の個性と『勘違い』して共感性によって相互を評価する事になったじゃない」
その先に、と押領司は沈痛な表情を見せる。
「《人間》は全部同じ規格品になる。《人間》という個性は消え、だれもが『すべて』を持った存在へと変わり、一個人は、『全体的』な『群体』しか存在しない。
全が一によって形成され、一が全に吸収される。これは、個性を廃止し、『全体的』に群体でのみでしかいきれなくなる、という危険性をはらんでいる。
なぜって思っているだろうけれど、『全能感』が欲しいからに決まっているだろう?
《人間》の大罪の一つ、『嫉妬』そのものじゃぁないの。
そのうえで、《人間》が進化する能力を失ったとなれば、生物的にはどの生き物よりも、生存競争的には低い能力しかない――脆弱性を持ち続ける事なるだろうね」
「それは、技術で補えばいいのではないかい?」
「それでは摂理から完全に切り離されてしまうだろう? いいかい、」
押領司は眉を寄せて難しい顔をする。
「《機械種》の様に統一的に脳が使えるとするならば、《人間》はそこで死亡する。人間の大罪の一つに怠惰が存在するとおり、コミュニティが肥大化すればするほどその割合は増加する。
ネットワークが広まった時点で『知識』の統一化が図られて上昇志向を持つものと、怠惰を示すものの『割合』は変わらないだろう。
当然、上昇志向の者が引き上げるよ。社会を。経済活動として。
で、その他は?
皆、怠惰な者たちが言う言葉に踊るわけだ。嫉妬心むき出しで、『足りない』と」
「それは、予測される未来のモデルであって、予測線から変化するのが世界というものじゃないの。そんなの怖がっていたら、キミは《サテラ》すら触らなければいいのに――とは思わないのかい?」
「違う。そういう事を言いたいんじゃない。
《人間》が『機械』を使って《人間》以上の事をするならば構わない。でも『自分』以上の事をすることを止める、と言っている」
「……。ふーん。ナルホド、なるほどねん」
クレアは意地悪く目を細める。とはいっても影には視線はないが。
「だから『機械』を使う事はする、んだ?」
「……実際そうであったとしても、――俺は心境として、嫌いなんだよ、
『機械』ってやつがさ。
《人間》であるという存在が、人であり続けるためには、人間の社会の主体でありつづけなれければならない。
しかし、独裁と同様に、《人間》が主体ではなく、『全体に吸収された一個体』が主になる社会が形成された時点で、《人間》は、《人間》をやめ、『機械』に乗っ取られ、衰退と、破滅しか残留しないと考えている」
「……ずいぶんと悲観的だぁね」
クレアは、嬉しそうに押領司を蔑んで笑った。
「キミの見た狭い世界の中で、勝手に悲観している少年にしか見えないねぇ。そうだろうさ、というヤツもいれば、違うね、というヤツもいるってものさぁ」
影は続ける一言、止める。一拍の後手を合わせた。
「悲しいね。誰も、彼も『キミが信用をしない』というのは。そうやって全部と壁をつくるんだねぇ……あぁ、悲しいねぇ。
孤独である事は、キミの過去の経過から見て“心”の安寧を得る上で大事かもしれないけれどねぇ……。でも、孤独は決して有意義なものじゃないっしょ」
「有意義、なんて世の中に感じた事があるの?」
押領司がぽつり。自嘲するように鼻を鳴らすと、
「確かに、オレの生きてる時間のほとんどは無意味かもしれないし、発展性のない袋小路にいるんだろうね」
「あ……、いや、そこまで、変人扱いはしてないけど」
きょとんとするクレアは、諦めた様に押領司の前でうなだれた。
「個人の価値観なんて、どうでもいいんだけれどもさぁ。
ウチは、まー……誰かにまだ《人間》だって認めては、――ほしいものなんだよねぇ」
「……あぁー……。だから、そうなら、そうって言えよ。否定しねぇのに……。じゃぁなに? こんなところで長々話したのは、俺の考えを確かめて、《人間》社会に居られるかたしかめたかったってこと?」
バカげてると、押領司は肩を落とした。
「いんやぁ? ウチは一つだけ、懸念しているのさぁ。だからツイデにぃ、教えてあげようかと思って?」
「懸念だけでこんな回りくどい事はしないだろう?」
押領司は初めて敵意を見せた。目を細め、視線が鋭くなった。
「怖い顔をする必要はないさぁ。懸念というのは事実なんだからさぁ」
影は仕方ないと、一つウィンドウを開いた。
始点は押領司の眼前の右上にあたり、左下へと延びるウィンドウには複数の画像が表示される。大きさにして600程度のピクセル。荒い画像ではあるが、全容を確認するには十分だった。
「《老人》の事について、口出しをするならやめておきなよ、クレア」
押領司は視線をウィンドウから外し、そっぽを向いた。しかし、影は押領司の眼前に突き付ける。「いいかい、」影は言う。
「キミの懸念するべき点は、たった一つだ。キミの傍にいる、『彼女』だよ」
クレアは、茂庭・麗子のフォトを展開した。
〇
知っていることを麻生・優奈は茂庭・麗子にうなずく事で示した。茂庭は口をへの字にしたままだ。
「病院から連絡があったので、押領司さんも大丈夫だと思います。が……、いくつか問題があるようでお医者さんの代わりに、警察に……」
「細かく――きかれてます……私の方にも、昨日来ましたし……」
「口止めまでご丁寧にしていきましたもんね」
肩を怒らせて、茂庭は麻生の肩を軽くたたいた。
「彼が悪者だったなんて、誰が言うというものですか」
当然です、と麻生も頷く。
「私は……悪い技術というは良く知りませんけど、……押領司さんがステラさんに影響を与えた、というのはあまりにも短絡的すぎます。ステラさんの問題は、国の――ええっと……」
「外務省を通じて連絡が来ている事は聞いていますよ。確か、朝比奈――教授でしたっけ、押領司さんの知り合いの大学の先生からも連絡をもらっていたとか」
茂庭が麻生の記憶に補完する。
「ですから、きちんと相手の事を守る様にされるでしょう……。押領司さんが《機械種》を壊す――あるいは害する、なんていうのは見たくはありませんもの……」
そうですね、と茂庭も頷く。
二人は、溜息を同時について、押領司がいつも座っている図書室の裏側で、垣根の緑色を眺めた。図書室の中に居ないのは、すでに図書室が閉められ、後十分もすれば完全退校を知らせるチャイムが鳴るからだ。
自動販売機のある食堂の前もすでに締め切られてしまったから、逃げるように校門の脇を通って猫の通る様な細い道を進んでやってきた。
日に日に強くなる熱い風だけが通り抜けていたらしく、人が踏み込んだ形跡もない程にくるぶしを超えた雑草がはびこっている。
少しいれば虫に食われるとは思ったが、どうしても、ここに来る必要があったからだ。
「見つかった?」
茂庭は手を土色に変えた麻生に問い、すぐさま、違う事を悟り、小さく首を振るった。
「ダメ……、かしら」
「……いつもこのあたり、……窓の傍だったと思うんですけれどね……」
「端末が小型化するのは楽でいいのですけれど、探すときに――嫌になるんですよね。口笛でも吹けば足元にやってくるというのなら別ですけど……」
分かる、と麻生は小さく頷く。夏であっても、そろそろ、暗くなり始めたところであり、垣根の影が強く、手元を少しづつ侵食していた。
「さすがに、無理かもしれないですね。金属探知機でもあれば別でしょうけど、掘り返したところなんてそう……簡単には分かりませんし」
「いえ、」
と麻生は手を止める。もしかしたらと、雨水が流れる管を見る。
「こういうところの傍に、――あるかもしれません」
と土色の指を塩ビ製のパイプの傍を滑らす。
「押領司さんの使っていた《サテラ》はブレスレッドサイズのものですが、市販されている最小の物は、指輪型とか、イヤホン型でもあります。ですから、こういった場所でも、保護用のフィルムだけあれば問題なく、使えますし」
麻生がゆっくりと地面の方から塩ビ管とチョーキングを起こしている白い校舎の壁の間を触る。位置的に、腰あたりの――座っていると頭の位置に当たる――場所からカプセルの様なものを取り出して見せた。
乳白色のプラスチック製のカプセルを、茂庭は見たことがあった。
「カメラの、フィルムケース……ですね。相当古いものですけれど……」
「フィルムケース? カメラにはフィルムがあるんですか」
茂庭は、うん、と頷く。
「あった、というのが正しいですね。……押領司さんならもしかしたら持っているでしょうけど。あたしは、デジタル一眼を使っていますから、基本的にネット上の個人ストレージに登録されますけど……」
「そう、ですよね。私は、カメラとフィルムの関係もあまりわかりませんけど……。あぁ、ピンホールカメラで映像撮影をする動画で見たことがありますね。それが、こんな形状の円柱形なんですね」
麻生に、茂庭はほほ笑んで見せる。
「カメラの時代によって大きく変わりましたけれどね。もともとは露光までの時間が必要なものでしたし、今やデジタル化されていりませんけどね」
そのうえ、と茂庭は付け加える。
「カメラという『機械』に変わり、もっと手軽に画像を生成し、画像を保存できる技術ができてしまった、というのも一つです。――カメラを別に持つ必要がなくなった数十年前から、カメラ単体の価値観は特にさがりました。映像技術の発展も、小型化も、同時に、この監視されている社会そのものを逆手に取るように、『フリーにキャプチャー』できるようになったわけです」
麻生も嫌そうに周りをぐるりと見渡した後に頷く。
「写真、という言葉だけ、残っていますよね。昔は、ええっと、動画も、ビデオ、活動写真ともいっていたのですよね……」
苦笑する茂庭は、麻生から受け取ったフィルムケースの蓋を開けて、中にある《サテラ》を手に取る。指輪型の《サテラ》は、普段、押領司がする様なものではない。
それであっても一時的にデータを入力をすることは可能であるし、特定の外部ストレージへのアクセス権を独自に保有することができた。
当然、麻生もデータの送受に関して言えば、わざわざ一つ端末を用意する必要はない事くらい知っているが、それでも押領司がここに残した理由は一つしかない、と推測できた。
「押領司さんの意識が戻れば、おそらくこれは不要なものです」
茂庭は手元にある銀色の《サテラ》を見つめながらつぶやく。
「しかし、何かあった時に、これは一つの切り札になると思うのですよ……。ですから、あたしたちだけに見つけられるこの場所は、――ある意味隠すのにはもってこい、というものです」
「隠す、事は二つの意味がありますね。……秘密にしたいものを隠す場合。そして、誰かに託すために」
言えてる、と押領司のこじれた性格を思い描きながら、茂庭は目を細めて頷いた。
「きっと、押領司さんは、見つけてほしい、と思っていたのですよ。とくに、麻生さんに」
「……そんな、事はないと思いますけど」
自信なさげな言葉は小さくなる。
茂庭は、《サテラ》の起動をさせるためにリングの外側をなぞる。起動を示す青と赤のライトが小さく点滅し、アクセスが確立した。
「ええと、画面を――」「それなら、私が共有させますから、結線させます」
麻生が、スクリーンを展開させる。押領司が使っている様な端子型のものではなく、プロジェクター形式だ。普通は自分の手帳大のアクリル板に投影する事が多いが、白色の壁であれば簡単に映し出す事ができた。
ネットワークの確立にもそれほど手間がかかる者でもない。ポケットの中から、有線給電用の0.5ミリほどの太さの線を差し込んでやればいい。給電だけでなく、電磁的シグナルであればいくらでも送受信が可能だ。
最も無線での送信速度が高いため、ほとんど有線式にする必要がない。
画面は10秒もかからず同期される。
「ええっと……ドキュメントが複数と、動画がいくつかありますね。多分……これ、が一番、日時が新しいですね」
茂庭は一つのファイルをタップする。空中であってもカメラが茂庭の指のX、Y、Z座標を確認して、ファイルを一瞬のラグもなく選択し展開する。
1980年代のアメリカの大衆向けコマーシャルを思わせるような古いサムネイルだ。ブラウン管の線が入った様に加工しているのは、ターゲット層が古いからかもしれない。
写しだされたのは男性一人で、作られた太陽の様にすら思わせる陽気な表情。
二人がが商品販促用のPR映像だと分かるのは、再生してから。
『ASAHI.coは、皆様に安全なネットワーク環境を提供します。いいですか? 昔からのネットワーク設定に頼っていては、今時のネットワークでは全くの無防備です。一つのニュースを確認する間に百回は悪意ある犯罪者から攻撃を受ける事でしょう。
IDの情報も、大事な口座の情報も、税金の情報もなにもかもが奪われるでしょう。
例えば、ちょーっと恥ずかしい写真が流出してみてください、
単純にそのままあちこちに利用されてしまうのも困りますよね?
さらに、簡単に画像を加工されて偽のIDに張り付けられて、違う国で麻薬ディーラーに使われる、なんて事にもなってしまうかも?
そんな時に、ASAHI.coは過去のプロテクトソフトウェアと違い、『多くの人が許可したもの』だけを通します。しかもその手続きの手間は――限りなくストレスレス!
世界各国の政府が発給する、ネットワーク認証を参考に、自分の住むエリアを選ぶだけで大丈夫。
たった一回の設定で自動的に、簡単にAIがフィルタリングを設定するため、その後の設定は一切不要!
いいですか、1端末の年間ライセンスが50ドル! 翌年以降は半額で、25ドルを継続費にしていただければ、安全を保障します。
個人の”秘密”のファイルの安全性のみならず、家族の個人情報を守ります。』
男はにこやかな笑みを浮かべた後に、背面に映るべニア板でできているのか随分とチープな看板を両手で示した。
『ASAHI.coが自信をもってお送りする、セキュリティ対策サービス『プロス』は、面倒な設定も面倒な登録も一切ありません。お金もサービス開始の翌月からクレジットカードで簡単にお支払い可能。
このサービスには端末の設定だけを行えば、自動で設定を行います。必要な措置を必要なだけ。自分で気づかぬうちに、世界の人々が安全だと認めた世界を共有することが簡単にできます』
画像は途切れる。
連続した映像である事が、灰色のステータスバーから二人とも分かった。
次に映像に映るのは女性のサムネイル。ステータスバーから再生をタップすれば、開始される。
内容は、先ほどのコマーシャルとは別ではあるが、しかし連続を持たせる様に二つのファイルがドッキングしている。意味は分からずとも、映し出された女性の姿は既知の相手だった。
麻生は言葉をこぼす。
「私、この人を見たことがあります――。たしか、押領司さんの……妹さんとニュース映像に映っていた映像を見ました……。名前は――田中・真央」
影のある女性の瞳は、悲しそうであった。栗毛の髪が痛んでいる様にあちこち跳ねている。
『――知っている、というのが正しい、とは思います。というのも、誰も彼もが”アレ”に騙されている、のではないでしょうか。この記録自体、意味のあるものか……。”アレ”はどこにでもあり、どこにでも監視の目をしている。
監視自体にワタシは、問題はないと思っているのですが、監視による無秩序な改ざんが問題だとは思う』
ひそひそと、田中は言う。
『データの修正方法は幾らでもあるものです。特に、ネットワーク上には、クラッキングの類のウィルスは風邪のウィルスの様にあちらこちらに存在しているのですから、一度ネットワークに接続した段階で、――というより、クラウド上に個人ファイルを保存した瞬間に、秘密は秘密でなくなっているというものです。
特にプロテクトサービスを謳う会社が随分な方法で、個人を個人としていない――非道徳的な手法は、大学を卒業して数年ではありますが、幻滅というよりは、汚物を見ている様にすら思います。』
女性は目を伏せる。
『ワタシは、……ある種潔癖的なところはあります。しかし――それが、これに関係があるとは思えない。一番の問題は、ネットワーク感染型なのか、ネットワーク組み込み型なのか、という点が問題なのです。
ネットワーク上に存在するウィルスでイメージつきやすいのは感染型です。親となるプログラムが、個をあるいは特定のエリアを攻撃する様に、さまざまなルートを介して送られてくるもので、”ウィルス”の名前から想像できる通りです。
ですが、組込みされている場合には、フィッシングサイトの様に、特定の網が存在するわけです。そして、――それが大手を振ってセキュリティを売り物にする、というもので、ウィルスを監視するために、スパイウェアやキーロガーが存在していた時期もありますが――今では、『アンチ』の名を冠して、保存されているサーバー自体をレイドして情報を搾取しているのです』
女性は目を開いた。
『ワタシは嫌いなのです――この様に手を汚す事が。
このまま手を汚し続ければ――生きる、という事に意味があるのかすらも分からなくなっています。
誰も彼もが、『誰も彼も』を模倣している存在でしかない。特に機械種『誰も彼も』を模倣している姿を見ると、《人間》と、《機械種》という区別は、もはや無意味でしかない様に思えるのです。
そして、……極めつけが”正義”すらこの世にない、という事を目にするわけです。
《人間》が嫌い、というより、汚い社会全体が嫌いなのです。
《人間》は一定の規範に沿って生きるべきだ、と思います。それは道徳的に、とか倫理的にという観点に収束しますが、《人間》として生きる最大の――力の源は、道徳とか、倫理という存在している中心点から”遠ざかる”か”近づくか”という二つの力に収束される”欲望”だと思います。
正しくある、必要も同様に不要とも言えますが――模倣のための情報源とするために、常時人間の情報を同期させることが、――本当に必要でしょうか』
女性は白いシャツの腕をめくる。腕にはいくつもの傷痕がある。
茂庭でも、麻生でもこの傷が一体何なのか理解している。
「……リストカットの痕ですね。……一度、二度じゃない。黒ずんで、――三度、本気で死のうとしています。――縦に切られている」
「……とすると、何かを思い悩んでいた?」
「当然、この続きに――あるとはおもいますが……」
気は重い、が二人は続く映像に視線を向ける。
『一つ言える事は、痛みだけは『彼ら』には共有できなかった。苦痛をあえて新たな完全なボディに入れる必要性がないのですから。意味がない、と彼らも考え、当然《人間》も、いらない、と考える。
アドインで追加することはできても、デフォルトとしては『モノ言う』事を減らす、のは《人間》のエゴのなせる業です。
模倣をするためには苦楽ともに必要でしょう?
しかし、完全性を求めるところが、《人間》と《機械種》とは違うのです。
同時に、現代社会も過去の”倫理”や”道徳”はすでにいらないのです。
いらない、というよりは、……意味をなさない、と感じます。
『彼ら』は《人間》の下にいる人形である事を望むのか、『彼ら』は『次の』《人間》になることを望むのか、それは、いまだに結論は出ていないですし、これからも出ないでしょう。
……《人間》という主体が常にどこかにいるのは事実であり、《人間》を模倣するために、《人間》の情報を”常に”同期する必要がある世界を作り上げたのも、《人間》です』
『彼女』は目を伏せる。
『『人』は、『機械』が怖いのです。制御できない事が、できなくなることが、できなかった時に対処できないと考える事が。だから同化したいと、”機械に”無意識化で求めるのです。《人間》の形状の世界の中に、異物を取り込むのではなく、《人間》としてそこにいてほしいと思っています。
《人間》は、それを《機械種》に押し付け、《機械種》にマウントを撮り続けている。
この状況は果たして適当でしょうか。
ワタシは嫌いです。この世界に生きる、『機械』というものが。
ワタシは嫌いです、そういう『機械』”だけ”残した社会が。
ワタシは、だからこそ、このネットワークに仕掛けられている闇を、唾棄しています』
動画は途切れる。
ブラックアウトし、次に映るのは二人の影だけだ。
麻生と茂庭は停止した黒画面を前に、顔を見合わせた。
「これって、つまり……どういう事でしょう。ASAHIのプログラムのPRに、プログラムの一部改竄が疑われる告発……」
麻生は茂庭に視線を合わせず、少しだけ思慮する。
「……もしかしたら、」
次に続く言葉を一度飲み込んだ。
が、不可思議な視線を向ける茂庭に、
「単純に考えて、『ASAHI』が《機械種》を含めて多くの違法行為を行う土壌を作っている――という事でしょうか……。それこそ、裏のネットワークの様なものを」
「……《ブラックネットワーク》」
茂庭は何となく思い出す。押領司に言われたネットワークの二つ目の顔を。
何気なく使っているネットワークも常に安全とは限らず、知らずの内に、アンダーグラウンドとつながっていることを。
昔に、『ダークウェブ』と言われた存在が、『作られた』ネットワークによって、新たな世界的なネットワークが再構築されてしまったことを。
「プロス……は、その土壌だった?」
まって、と茂庭ははたと自分の手に持つ《サテラ》を見る。
「えっと……、――あたしたちの情報は常に流れている――という事になりますよね。だって、日本製の《サテラ》には既存でセキュリティソフトが入っていて……それって、ASAHI製ですよ⁉」
「ASAHIはそれを主導しているんですね……。だから、押領司さんも――何かを見つけて」
麻生に茂庭は頷く。
「そう、何かを知ってる。だからこのリーク情報を『残した』、と考えると、筋がとおります」