<9月23日 後 レーベンストリープ>
不明からポストされたデータが規定のルートを通らず、四散する。電子データの損失を感知してから1ミリ秒程度でネットワーク管理者にポップアップがされた。
管理者の画面はヘルメット用に付けられたバイザーを通して三次元的に表示される。
バイザーを止める側面部の金属部品を叩くと、指によって電気信号が伝わり、『警告』を周囲で作業している作業者に通知する。形状がボタンに近似しているものの、スイッチングとしてはタップ程度の圧力で動作する。
画面は三次元的にバイザーを通して閲覧できるため、彼の省スペースに巨大なモニターは必要がない。が、操作用の手元にあるトラックボールを介してエラーのポップアップにカーソルを合わせると、すぐに重度の危険性をプログラムが探知し通知した。
「レベル1防壁に侵入感知。該当130.11∴12.1.30^ii2~2.21を中心に現在16回線――修正、18回線からの同時的な大容量データを確認」
管理者はインカムを通してコールする。落ち着いた対応なのは、重度の危険性とはいえ、この手の攻撃は日常茶飯事である事の裏返しだ。
ネットワークの高速化・大容量化に伴い、データセンターに会社の基幹プログラムを含むすべてのデータを保管する事は普通の事で、自社にわざわざデータベースを完備するという考えの企業体は、『どこでも仕事ができる』という新入社員獲得のための必須の謳い文句をプロッキーか、マッキーで塗りつぶす様なアナログな会社、とみられたも仕方なかった。
であるから、混在するサーバー群を管理する、データ管理会社の『アクシオ』にでは、常に接続の管理と、決められたプロセス以外の侵入を排除する様に、多くのオペレーターを用意している。
レベル1に相当する最も外部からの影響をうけるサーバーには、常時30人程度のオペレーターが配備され、うち7割がタイプBだった。
現在、《人間》であるオペレーターは3名。それ以外はすべてタイプBで構成され、ネットワークと直結されている。
機械的な酷く平坦な物言いで、管理者から指示が飛ぶ。その指示も言語音声を介して文字へと変更され、オペレーター毎のヘッドマウントディスプレイまたは、個人空間上に三次元的に添付される。
識字した方が言語でのニュアンスによる誤解を生みにくい、とタイプBたちが考えていた。
事実、口頭での多く使われるthisやthatといった指示代名詞を多用する口語は、余りにも抽象的すぎる傾向があったため、アクシオでも指示のほとんどが電掲される仕組みになっていた。
『ストレージ内に展開された侵食部位を隔離。――。一部のみ隔離不能。分離データ数は1,224KB』→『ネットワーク上に再分布は確認されない。振舞いとしても検知できない微細なゴミがネットワークに複数存在』→『管理区域内に分割式ウィルスの感知あり』→『レベル1からレベル2防壁に、網を構築――完了』
一次防壁に駆逐された事によってデータデブリとして破裂、分裂されたウィルスの断片が、再度結合を行おうとする振る舞い傾向をアプリケーションが感知し、オペレーターは通常の手順を変更する。
コンパイルされ、一つのアプリケーションとして、プログラム化されたウィルスプログラムが、攻撃を受ける際に自己保存のためにカニやトカゲの様な自切行為を行い、断片を分離の実行をし、断片化された個別プログラム同士が融点に達した金属の様に再度結合し、新たな攻撃プログラムに変化する事は、プログラムのサイズを小さくし、攻撃に特化した状態――たかが1,024KB程度で成立するのか、管理者は懐疑的だった。
しかし、アプリケーションの警告は高い精度の未来予測から導き出された事象であるから、それに対して手を打っておかないのは、慢心に他ならない。
管理者は即時、感染プログラムが過去の攻撃の状況を鑑み、広域展開されているであろうと判断し、指示を変更する。
「レベル2、3セキュリティの保護を最優先。特に、外部記憶系の領域内に『特異体』のプログラムは存在するか、すぐにサーチを実行」
秒数にして数秒の沈黙の後、電掲に回答が寄せられる。
『no』→『non』→『リスト上の問題もない』
つづけさまに管理者は現在の状況把握を優先する。
「アップデートされたリストは。一体いつ時点に作成されたものか不明か……。最新と1か月前とリストの変更はあるか?」
問いかけに即時にタイプBは反応する。
『ヴァージョンアップ時に管理者3名での確認を行っている。適当であると考えられる』→『リスト変更は17日前に行われている。定期更新のタイミングであり、疑義は生じない』→『PPPoAの旧式による通信制限を制御するために、リストを更新されている』→『保護プログラムのヴァージョンアップは3.33.012となっている。タイムレコーダーは正常』→『メインフレーム上にも不可思議な振舞いをするアプリケーションは確認できない。引き続き監視を続行』
管理者が上位レベルとの疎通を確認する。
「レベル3との疎通状況は?」
『レベル1への疎通はなし』→『セキュリティ上、上位から下位への通信制限のみとされている』→『アプリケーションエラー。311、状態グリーン。双方向通信となっている』→『グリーンは異常検知されない?』→『通常される。Root権限で変更されているログを確認――日時は17日前の定期更新』
異常値扱いにするべきか、締め出しをするのは簡単だが、プログラム上の影響を考慮する。
管理者としては、レベル3の防壁を破られ、システムに侵入されることの方が問題だった。データベース保護に際して、最悪外部との接続を停止し、アタックの回避を行うために、ネットワークシステムを再起動し、『鍵』を作りなおす事も念頭に入れる。
「登録データベースへ接続。アプリケーションnncy/posの双方向通信は異常となるか検索」
秒の時間をかけずに検索が終了。
画面に映る白いタイマーが一周する前にウィンドウが開きデータベース上の製品情報、仕様書、マニュアルが提示される。
『異常行動ではないと判断。双方向通信の理由としてログのポストを行っている』→『データ容量は適正か?』→『3から5KB程度であり、フォントデータ等の関係もあり多少ログとしては重いものの気にするレベルではない』→『タイマーログを表示』
オペレーターからのデータが管理者の電掲に張り出しされる。
通信状況を確認すると一定の間隔でアクセスを確認する。データ同期等を行うためには必要な措置、という事もあるが、あまりにも『微弱』に思える。
「――双方向通信は常時必要なものか? 毎分33の通信回数が確認されるが?」
管理者の呼びかけにオペレーターの一人は過去3時間程度を一気に確認した。
『――この程度の回数的には異常とは言えない。特にアタックが始まってから、ウィルスの解析状況等をレベル3に与え、ワクチンサーバーの参照とする様に同期を図るものだと推測』→『いいえ、これは正常とは言えず、多い。本来の想定では毎分1回に集約される予定』→『判定不能』『仕様が存在しない』→『いいや、仕様はある。が規定値程度と推測。アタック回数が分散化されている』
――まて
管理者は考える。流れる数値は時計の針の様に正確だった。
「集約ツールの動きはどうか?」
『感知不能』→『感知不能』→『感知不能』→『レベル6の領域内に4.12verの集約ツールの異常を検知』
――そこか。
管理者は焦りと共に呻く。レベル6域に既に到達しているのか、と。
外部通信の防壁は何重にも存在しているが、一般的なハッカーであればレベル3まで破れやしない。それをいとも簡単に監視を潜り抜け、本丸への攻撃を仕掛けていることが予測された。
「アトリビュートの変更履歴は存在するか? 特にデータベース上に?」
『一ヶ月間でレベル1では属性変更はされていない』→『レベル2記憶領域にアプリケーションのアトリビュート変更を確認。18日前になる』→『レベル3のメインメモリ内にnncyの属性変更を確認。元々txt。17日前に変更。権限者名Root』→『Root権限でレベル6領域にnncy基幹プログラムnnncreaの影響ログを確認。――18日前1:30から1:55にあたり分散的に操作あり』→『保守作業依頼の時間と符合。不明な操作は行われている『記録なし』として上書きがされている』
保護プログラムnnncreaはnncyを子とする親プログラムだ。
『ASAHI』という総合電子メーカーが作っていたと管理者は記憶している。
データベースの詳細欄を見れば詳細は分かるが、管理者の記憶の中でも、『アクシオ』のサーバーのセキュリティは、日本製という『凝り固まった』国産思想に基づく、ASAHI製のソフトウェアが管理している事は知っていた。
ただ単純に、国産だから使うという一辺倒の考え方ではなく、一応、他のセキュリティプログラムとの競合が少ないため、補助的に使われるソフトで、ネットワーク上のワクチン構成と、別シールドへのワクチン配布を行うためのブリッジだ。
『集約ツールに不正な振舞い検知』→『隔離実行』→『レベル1、隔離不能。侵食率が増大しており全体的に機能低下。負荷が大きい』
「他レベルは侵食されているか?」
『検知不能、現行のトレース状態では、侵食は『無し』』→『――集約プログラムが本日17:11:00に変更。外部からの変更依頼は確認できない』→『自己進化と推測』→『否定、進化などあり得ない』→『プログラムの変更はあくまでも『変更』。バイナリーデータの変更自体をされている。再度コンパイルされなければただのtxtだが』→『コンパイラーはインストールされていないため、再コンパイルは不能、これは結合による発動と推測』
――違う
管理者は急ぎ操作する。投影されたキーボードを操作し隔離されたnncyの一つを確認。
バイナリーデータからエディタ上で確認を行うと、2000行程度あるコードが表示される。隔離状態のプログラムコードを解析ツールに突っ込む。
『近似値でコンパイラーのプログラムコードを確認』→『分散型プログラム? 近年は下火だったのに』→『PPPoA経由で送信ログを確認。発信元の逆探の結果、2次サーバーまでは特定。国コード0886台湾を経由。これ以上は追跡は不可』→『令状発行による開示請求プロセスを実行:別口で対応するため管理部門へポスト』→『実行』
管理者は現行の把握ができたものの、拡大する被害を止める事が出来ていない。
分散型プログラムの中に自前のコンパイラーを保有し、再結合により、『自分でプログラムを作成する』といういじわるな仕様だ。とはいえ、一昔前の流行であり、現在主流は、大容量データによるシステム破壊する事が多い。
データの損失にかかわる信頼性の確保のため、度重なるクラックは会社の威信にかけて『早期』の解決に乗り出す。この際に、会社周辺では、従来の強固にブロックされたネットワーク以外を利用し、システム再復旧をせがまれる事になる。
この一瞬をゼロデイ攻撃する方が無難と言える。
システムのセキュリティホールは常に更新をかけるが、バックアップからリードされた場合、『バックアップ時のセキュリティ』にロールバックされてしまうため、一か月程度前の攻撃で侵入が確実となる。
となると、今回の様に攻城戦さながらに真正面からの勝負をすることは相応の力量が必要になる。
今管理者が請求した、令状により、サーバーの接続先を突き止められれば、カウンタークラックを食らう可能性が高い。
管理者は姿の見えない相手に焦りを感じながらも、散布されているnncyの個別隔離を指示する電掲をオペレーターに送った。
『マッピング作成、――完了』→『現行のアタックと別にnncyの隔離を実行――亜種確認nncy隔離時に、nncy-rtyが分離』→『分散から分離に変更、分離率は50%コードに集約――指数関数的に対象が増加』→『否、コピーが発生。……ワーム系と同様の振る舞い。圧迫攻撃に変更された模様』→『食いつぶされる前に駆除しないと、ダウンされる』→/『侵食速度が速すぎる。サーバー内部の汚染率は1割を経過――サーバーの切り替えを?』
オペレーターのリクエストに対して管理者は一瞬躊躇した。
サーバー切り替えを行い、レベル6以下のルートを変更する事はできる。
防壁の再構築をするよりも早い復旧は可能である。
しかし、切り替えに伴うリスクが存在する。ロールバック状態となるため、攻撃に対する防壁構成がされていないゼロデイ状況で、リスタートする事になる。
時間的余裕は生まれるものの、相手を取り逃がす事も想定される。
『レベル6域からレベル1までのnncy及びnnncrea関連プログラムのキルを指定』→『バックアッププログラムにscneをロード。構成を分散型特化で対応を』→『scneは監視プログラムflash-catに競合の危険性あり』→『競合の危険性よりも防壁維持を優先』→『レベル2防壁に一部欠損。同時に、100.120.11から24まで回線がブラックアウト。状況不明』
穴が開いた事を確認した段階で管理者は管理部全体の電掲に下位域の突破を報告がされる。
すぐさまスーパーバイザーからレベル3までの隔離と、一時的サーバーの閉鎖のプロセス実行に移行する旨の指示があった。
所要時間は1,800秒であるから、その間に侵食を出来るだけ遅延させなければならない。
「プロセス実行確認。レベル7の維持が最優先。強制隔離を開始」
指示によりオペレーターは遅延行動を開始する。
『レベル1の接続切断――確認。演算の割り当てをレベル3、4に集中』→『通信制限開始。プロセスに合わせて公開を会員に限定。――成功』→『nnncreaのクリア完了。――残滓計測開始』→『scneスタート……』→『……』→『――』
ログが消失する。電掲に存在していた過去のデータも、音声記録をのこしているバックアップも、チャットラインも、瞬断の後に停止した。
「どうした?」
オペレーターの《機械種》のほぼ全体が停止している。3名の人間のオペレーターだけが異常を察知して、緊急リブートを操作しだした。
疎通が取れない段階で、眼前の画面に展開されていた多くのプログラムが強制的に、一つずつスイッチを切る様に消えていく。
だが、管理者はこの状況でも相手の不正アクセスは進行中である事を計算する。
いつまでもつか、あるいは、もう持たないか。
『緊急回線の1回線のみ残し、信号も微弱です』
――あぁ、特定したな
管理者は理解した。
アタッカーは最後の一本を引き入れるために、すべてを順番につぶす事に成功した。
防壁である、レベル1からレベル6の基本的なプログラムを突破。
人的操作による防御である、回線を特定するために、同時進行で、『回線』を締め出し。
《機械種》の演算を嫌い、彼らに『即効性』のショートプログラムで、再起動を促す。
全部の歯車が外れ、これから《機械種》が再起動するまでの約10分間は、完全に、《人間》以外の操作がなくなる。
こうなれば、演算速度が勝っている相手の勝利は確実だろう。
「――上位と完全に隔離」
管理者は即時に判定。
「コンソールを使うな。強制シャットダウンと同時に物理切断――回線引き抜き」
「――っ、復唱、物理切断。了解。プロセス実行」
声のかかったオペレーターは慌てて復唱する。ばたばたと足音をたてて、壁際にある強制終了の『緊急停止ボタン』を押しに走る。
管理者はもう一人のオペレーターにも口頭で指示をする。
「電源をシャットダウン。強制的に全システムを停止させろ」
「復唱、電源のシャットダウン。了解」
落ちついているオペレーターは大きく頷き、配電室へとつながる出口へと向かった。
最後の一人に指示をする。
「電源停止までに集められるだけ隔離データを抽出。スタンドアローンに保管――解析しろ」
「解析。了解」
《機械種》の再起動を補助していたオペレーターは、コクコクと頷き手元にあるスタンドアローンの端末に隔離データをコピーを始める。
さて、と管理者はブラックアウトしていく世界の中で考える。
チカ
チカ
廊下から、管理室に向かう電気が一つづつ落ちていく。
――まったく
心中で毒つく管理者は重い溜息をついた。血を含むような胃の痛みを押し殺し、肩からゆっくりと力を抜いていく。あと1分もすれば全部のシステムが停止する。
損害はどの程度か、と頭痛がするがそれ以上にシステムの復旧に要するであろう時間外の処理を考えると、部下に申し訳なく思えてしまう。
「この――『攻撃者』は一体誰だ?」
○
カウンター攻撃の危険域を脱した事を確認し、クレアはコンソール上から手を下ろした。
安堵のため息を一つだけつき、乱雑な作業室の天井を見上げた。
首に係る負荷と同時に、眼球の痛みを感じ、クレアは青色の瞳をギューッと閉じて、目頭を右手で押さえた。チカチカとする星々が、瞼の裏に張り付いて、次第にゆっくりと消えて行った。
建築資材の足場で組まれたような天井にはいくつもの機材が並んでいる。
年代物の黄色みがかったキーボード。20年前に主流だった小型のタッチパネル式端末。黒い筐体をしたゲーム用のコントローラー。ディスプレイは床に乱雑に置かれている。金属むき出しのストレージや、緑の基盤が確認できるメモリーすら壁から生えている。
これら乱雑に存在するもの達を誘導する様に15センチ程度のライトがラックに括りつけられている。元々は手持ち用の物だろう。電池式を無理やりコードに直結するという荒業で作られたランプが、全部で6個。クレアの前、上、下にそれぞれ2個づつ配置されていた。
コンセントの類は今では見る事が少ない。無線送電の普及により電気料金は税金に変わる新しい仕組みとなり、誰でも簡単に使える代わりに、人として登録されている以上決して逃れられない料金徴収方法を確立させるに至った。
一部に、大容量電力を必要とするタイプBといった《機械種》であれば、電源タップを用いての電力を必要とするだろう。しかし、一般家庭には無縁の話だ。
そもそも使えるなら使えばいいという風潮が高いから、わざわざ無線送電網以外から電気を取ろうとするものも少ない。
住宅地にはワンブロックごとに集中施設が置かれ、各家庭にハブ分けする事で個々の住宅の電力を供給する。一方で、集中施設には電気発生装置として、往々にして風力ないしはソーラー、または振動発電装置を内包し、電力供給がストップした場合のバックアップとして2日程度の電力供給を可能にするバッテリーが存在していた。
発火リスクのある様なリチウムイオンバッテリーをどのように安定的に、より次代につなげていくか、さまざまな素材変更や構造計算を経て模索がされていた。全固定のリチウムイオンバッテリーも同様であったし、有機バッテリーも同様に多くの試作、テストを繰り返していた。
現在主流になっているのは、ほとんどが資源不足に対抗するため、インディゴ系有機バッテリーで、『藍染めバッテリー』と呼ばれるものだ。サイクル自体はいいものの、やはり大容量には何があったためか、並列化で補うほかに手立てが見いだせていたない。
しかし、こういった電気をライフラインとして日本では、東京電力の完全国有化を受けて、通産省内に電気保安局が設置され、インフラ整備としての電気事業は国が、電気を生産、売る事に関しては民間が行うと、電気事業法の保管法として通称、電保法――電気利用の生活保安にかかわる法律――が作られた事により定められていた。
この法律も時限立法ではあったが、時限措置にかかわる『目標』の達成が未達として毎年更新をされる事態とはなっていた。
結局国が介入して整備を行ったおかげもあり、電気は何処にいても手に入る、というのが当たり前となった。
だからこそ、大量のケーブルは不要となり、カラフルなケーブルの束を使うなんて言うのは、『化石だけ』だった。
「化石ね――。ほんと、化石ね」
誰ともなく弾きだされた言葉に返ってくる言葉も期待しない。いつも一人。
そう20年も一人だったんだから、とクレアは疲弊した心に奮起をさせるため顔を小さくぺちぺちと両手で挟んだ。
顔を通じて脳内にいくつもの数字の羅列が送られる。今ではなんとなく理解はできるものの、感覚とは違うデータの提示方法に当初は戸惑いを覚えた。手に、足に、顔に、耳に、匂いに、何をしても、何を触っても――泥の様な間隔で全身麻痺したような、あるいは、麻酔状況でふやふやとした状況のままに感じ、世界が遠くに思えていた。
クレアは元々は人間だ。
花の香りも、アイスキャンディ―の冷たさだって良く分かった。華やいだ香り、土の煙たい匂いだって感じた。熱いシャワーの温度に顔を顰める事もあれば、うだる様な暑さの中で冷たいタオルで顔を拭いた爽快感だってあった。
しかし、今では何も感じ無い。
視覚と聴力は前と変わらない感覚として存在しているが、厳密に言えば現在視認している世界を仲介する『目』だってクレア個人の生体パーツではない。
拒絶反応を徹底的に抑えるため、一日に投与される薬の量は、意識を時折ふっと止める程強烈で、直接延髄にある挿入口から太い針で流れ込まれる。この際には、脳味噌だけが延髄から頭頂に向かってひんやりとしていく状況を理解できた。
「まだ、外には出れないもの」
舌足らずな口調。口は重く疎ましい。キーを打ち込む方がまだ会話という点では楽だった。タイプBになればネットワークに直接接続できるのだから、いっそのこと殺してくれればよかったのに、とは思えた。
クレアの生殺与奪権を持っているのは、ジョージ・A・マケナリーだというのに、一切その傾向はない。
《老人》の事は良く分からない。
分からないというのは、クレアが分かりたいとは思えないからという気持ちの部分が強い。ティーンの年齢だというのに、いきなり拉致をされ、目の前で何人もの人間が廃人になり、処理をされるのを目の当たりにすれば、恐怖しか彼女の中に存在してはいなかった。
次は自分だろう、という恐れの次には、次は自分ではなかった、という得も言われぬ安堵感。気持ち悪い目で死んでいく者たちは、なぜか別に椅子に縛られたクレアを見つめるだけだった。
知識の上では、ジョージの事は良く分かっている。彼が口にする譫言も、クレアを組み伏せ床の上でぶつけられる劣情の要因も。
しかし、クレアにとってはそれら個としての《老人》なんてどうでも良くて、知りたくもない事だった。
ジョージが仮に、クレアにとって近親に当たる者であれば、話は多少聞くこともしたであろう。元々利発で、闊達な物言いをする方ではあったから、相手にしてきちんと議論になる様にと、要点をまとめ頭の中で相手の言いたい事を推測しながら、クレア自身の言い分をまとめるなどの思考は働く。
近親でクレアの美貌に対して劣情を催し、彼女を監禁し手籠めにしよう、とするのであればまだ気持ちは分からなくもない。
見も知らずの赤の他人を『たまたま誘拐』してそこに自分の思想を押し付ける行為は、一切の共感性も、一切の譲歩も、一切の慈悲もクレアの心には発生しなかった。
ただたが、『気持ちの悪い』存在である、というのが彼女が《老人》に抱く根幹。
《老人》の言う言葉や、行動の趣旨について、『社会的な不満』であるとか、『格差社会における救世主的行為』といった、などと妄言から根ざしている彼の思想を垣間見る事はできた。
しかし、それは憎悪と嫌悪感を一緒くたに口の中に入れ込む様なものであり、クレアの思想と共通性を見出す事は出来ない妄想だった。であるから、
「うざったい――のよねー……」
口をとがらせて、嫌気を吐き出す。
幾ら身体を弄繰り回され、毛細血管の一本にいたるまで機械にされて、それでも精神的に――あるいは肉体的――蹂躙されたとしても。彼女の尊厳を一切無視した卑劣な行為であると同時に、彼女のキャパシティを超えた屈辱であったのは事実だったとしても、クレアは負けていない。
この二十年近い中で、クレアは世界を恨む事はしなかった。
相手は不条理な暴力を振舞う暴風だ、と思っていたからだ。ハリケーンを恐怖はするが、ハリケーンの去った街で、『あぁ、あのハリケーンは死んでほしい』などと日本人的な比喩表現で罵る事はないのと同じだ。嫌だ、とは思いながらも、それはそれ、である。
クレアの小さい体は椅子に縛られたままだ。機械の手足であれば簡単に金属製の10ミリメートル程度の鎖であれば簡単に破壊できてしまう。
このため、物理的に拘束をされているのではない。椅子から半径20メートル以内の空間に――正確には椅子にも床面との相対位置補正がかかるが――ジョージの制御がかかり、20メートルを超えると手足のアクチュエーターが停止する。簡単なしかけな分、強力に、強固に制限が設けられていた。
その結果として、常に有線で監視される事になるため、クレアの活動範囲は極度に低い。老廃物の排出に係る排便はなく、老廃物の処理もほぼ機械の中で完結。食事も脳髄への栄養補給としての点滴――正確にはエネルギーパックの様な液体の補充――だけで賄われる。
噛む事をしていないので、脳の活性がいまいちで、常にぼんやりとしてしまうのは思考能力の衰えだと実感していた。
――あぁ、ガムでも食いたいなぁ
味の無いものでもいいから、噛んでいたいと思えてしまう。
喉のひりつきを覚えても、昔感じた様に水を飲む事もできやしない。
二十年間ほぼ毎日、あの《老人》が外に出るたびにそうなる。今は彼女自身、日本に居るのも知っていた。
いつも、彼の荷物としてトランクに詰め込まれて飛行機で移動。気づくと今回の様な作業場に括りつけられている、というのが日常化すれば、思考能力を使う先もほぼなくなるというものだった。
早く、この場から逃げたい、とは思うが、そう簡単に何もできない、無力感だけが彼女の中にあった。
今日は、彼女は先ほどの結果を少しだけ嬉しそうに目を細めて、口元に小さい笑みを浮かべた。
接続を行ったアクシオには、大きく二つのデータが存在する。
一つは、《機械種》のパーソナルデータベース。
一つは、個人の外部記憶装置。
クレアが攻撃を仕掛け入手したデータは後者であり、ジョージの個人所有サーバーが目的の城本となる。
データのほとんどは暗号化されており復号キーがないと読み取る事ができなかったが、それでもこの中にクレアの求める答えがあるのだ、と思えば、多少なりとも気が楽になるというものだった。
クレアは元々この手の技術に秀でてはいない。何年もの間、彼女なりにネットワークを回遊し――ジョージに監視されている事も承知の上で――どの様に戦うべきかという模索を行っていた。
唯一彼女は、彼女の脳がオリジナルであるために、彼女の視覚情報を含めた感覚器官だけは、監視されていない事を発見した。
最初は、全部が《老人》の制御化、だと思えて仕方なかった。
5度、彼女は警察へのタレコミを行い、逃げるためのコールをした事がある。直接的に、あるいは間接的に。
その情報は、どこをどう流れたのか結局はジョージの耳に"数分後"には入り、彼女と共に拠点を変更する事になった。その度にジョージはクレアを『教育』した。
痛み、という感覚だけは確実に残るというもので、普段は薬剤の影響で麻痺しているが、電気ショックによって一時的に回復してしまう。全身の神経は機械の手足に直結させるため、コードと癒着させる様にタンパク質と磁気を帯びた金属体――人体に影響の少ない銅などで構成される事が多く、癒着後は酸化防止としてたんぱく壁を構成して外気と遮断させる、利用されるのはナノマシンによる凝固だったが――を利用している。
そもそもエネルギーの高い金属を使わず、炭素やケイ素だけで構成する事もできるが、自己増殖バグによる増大の危険性を回避するため、人体内で生成できない物を利用する事が多い。結果として、通電性が高く、痛みとしては直結して脳に響く事になる。
簡易的な電気の流れ――例えば電池等における通電――であれば、絶縁体である皮膚の代わりのシリコーンによって内部まで響く事はないが、教育として施される電気ショックは延髄近くにある薬剤投入口から行われる。電気ショックの度合いは、彼女のプログラムを一時的にシャットダウンする程の力があるため、呼吸は止まり、心臓も一時的に停止する。
痛みというのは、1340ccの空間の脳全体を圧迫し、苦しみで充満させられた。
恐怖が強く、恨みは覚えていない。
怖い、という感情が一番強く、二番目には、嫌だ、という拒絶感が強い。
痛みが彼女の摩耗しきった精神をさらに薄皮を割く様に、一枚、一枚と削いでいく。
クレアには、彼女のいる空間が全て檻の中だった。
いままでも、これからも。
機械の体に無理やりされた以上、元の肉体に戻る事などできない事は理解している。それでも、彼女は元に戻りたいとは思っていた。
それは当然だ、とクレアは誰にでも啖呵を切る。
子供を拉致したからと言って、考えがずっとそこで止まる事はない。仮に彼女自身が肉体の枷を鑑み、機械の体に自発的なった、というのであればクレアも納得ができる。手足が不自由であった、心臓が弱かった。そういう不遇があれば機械の手足、機械の体は十分に機能する。だが不足を補う、という事は長らく研究されていたにもかかわらず、今では下火ではあった。
《人間》のパーツには、有機体である必要がある、と”声明”が出されたのは、間違いなく《機械種》を意識しての言葉であった。
時の国連事務総長、ロルフ・ボルフマイヤーが、《人間》と《機械種》という区別を一般化したのは事実だった。これには一定の区別がつきやすかったという良い面がある一方で、差別を増長したという悪い面も存在するが。
フィリップス規則を国連として認め、条約として締結する動きは、人間と機械の共存を行う必要がある、とする社会的意識変化に鋭敏に反応した結果であった。しかし、同時にIoTをはじめとした人間社会に溶け込む『機械』を、《機械種》のカテゴリーに――『生命』とするのか、『装置』としてみるのかについて、未だに共通認識はできていない。
人のパーツを補完するとして作られた、人工心肺、義肢などの分野が大幅に衰退する反面、再生医療の分野では突出した成長を見せた。
であれば、とクレアも一縷の望みを持っている。自らの体を再構成して、再び人の体に戻れるかもしれないと。
最期でもいい、再びこの世界を『見て』、『触れたい』のだと思っていた。
彼女の生を形作る最後の砦は、『小さい脳みそ』のみであり、それが唯一の『自分』であり、小さい脳を入れている箱が、自分を機械に縛り付ける檻だ。
《人間》と《機械種》の狭間の中で、クレアがいつまでも、殺さないというのもどういう理由かと問うてみても、ジョージからの明確な回答はない。
単純にロリータコンプレックスをこじらせた結果なのか、とも思えたが、『脳』の一部データを抽出している事、殺さずを続けている事から、何等かのデータ収集機構としてクレアを利用している可能性があった。
細かい理由は何にしろ、結局クレアの内にある憎悪の炎の向ける先は《老人》一人に固定することとなっていた。
今では、ジョージに負けず劣らずのハッカーが創造されるに至る『理由』ともなっていたが。
クレアは常に監視されている。
同時に、クレアもジョージを監視している。
相互に相手を牽制し合う行為は、クレアが技術力を向上するにあたり有益に作用した。今ではジョージの検知を逃れてネットワーク上を回遊する事ができた。
細心の注意は必要ではあるが、簡単に彼女自身の行動を探知されるヘマはしていない。それであっても、いつも気が抜けないのは変わりがなく、ログの消去、経路の選定、一時利用の端末の入手には手を抜けない。
彼女が所持する金銭は本来なら無い。
この二十年。彼女が必死に演じた、廃人の様な姿により、ジョージは完全に死に体だと『勘違い』を出来ている。
細部に至るまでの放心の演技は、フラッシュバック時の温度差により、完全に相手を喜ばせるには十分だった。口から零れ落ちる言葉の数も、静と動を機敏に変化する事で、より信用度を増加させる事も忘れない。微々たる事ではあるが、視線の動きや、指の震えなどの表現も『機械』であるにもかかわらず可能であった。
《人間》と《機械種》の違いなど、
「結局、基本的な所、"心"でどうにでも制御できるって事だけでも、収穫よね」
クレアはため息をついた。
いつになったら自分が解放できるのか、それだけを考えている訳にもいかない。
何度となく逃げる手立てはしたが、おそらく――推測の域は出ないが――個別に警察や軍といった伝送に要請記録と自身の拠点を照合できる様にし、検知されてしまう仕組みが存在する事はうっすらと分かっていた。
三度目かあるいは四度目かで試してみたが、小火騒ぎを起こして保護してもらう方法も試みた。
しかし、要請記録が入った段階で、クレアの機械の体に対して外部制御が行われ、20分程度の記憶の喪失と、気づいたらジョージの側にいたという事実だけが残った。
であるから、簡単に警察へのSOSはできなかったし、騒ぎを起こしても無理だ、という事は分かっていた。『見えない鎖』と何度も心の中でクレアは毒づくが、事実としてがんじがらめにされているため、強がりだけでは気休めにもならない。
はてさて、と先ほどの成果をほくほくした顔で確認する。
ジョージの個人所有のデータの中に、彼女の縛る鎖の解除プログラムでもあれば簡単だが、そういっためぼしい物は見当たらない。当然、クレアも想定済であり、
「ま、それよりも、外との交友関係を調べる方が有益そう」
と考えていた。
一瞬集中してしまえば、舌なめずりもせず、目を爛々ともさせず、平静のまま画面をじっとりと眺める。ゆっくりと一つずつのデータに目を通す。
「不要なデータ。あるいは下調べ程度でしかない? 地図、公共交通機関の運行表、カメラの位置、収音気の場所、逃走経路の下図。うーん、どれもいらない――。そもそも、なんで解体される駅の見取り図とかいる訳なのよ……。日本の構造物が……あー、セーフハウスに使えるかもって? ないなぁ。――でも路線図とか何に使うんだろ。重い荷物……でもあるのかね?」
ふと、一つのファイルの名前が気になり彼女は手を止める。
「ASAHIのソフトウェア?」
彼女も使う事の多い、ツール開発会社。非合法から合法まで幅広く、表立ってはタイプBの寄り合い所帯だ。反人類としており、機械至上主義と言われるMouseともつながりがある会社で、《Mouse》の子会社だろうともいわれていた。
しかし、ソフトウェア会社の役員名に見慣れない名前を見つける。ほぼ全てがタイプBであるから、人格番号標記となっているにもかかわらず、一人だけ人名になっていれば目立つというものだ。
「……鄙・嵩侑。中国系を模した当て字だね。おそらく、韓国か日本。どちらかと言うと漢字文化のない韓国の方が可能性は高い?」
どうしてその様な人がいるのか不思議でならない。
「営業職とかで人脈が必要だってーことで、アドバイザーとして入るなら分かるね。でも、」
クレアは腕を組んで唸った。
『微かなヒントだけで推測するのは危険だよ』脳裏に響く警鐘は誰かの言葉か、
「――フフッ、これは、脳の錯覚かね?」
〇
「ステラさん、放課後に少しだけお話をしたいんです」と茂庭・麗子に声がかけられて駅前の喫茶店に連れ込まれたすでに20分が経過している。
古風な喫茶店というのも珍しく、ステラの記録を漁った際には、個人経営の喫茶店の営業が厳しく、フランチャイズ化した喫茶店にほぼシェアの全体を駆逐され、ニッチな界隈でのみ生き残っている――特に人口密集地であった東京都――ところ以外は無くなった、と思えていた。
酒匂川区では駅前に小さいながらも個人商店の集まる商店街という形式をいまだに残している日本の歴史の残地、と思えるような場所だった。
看板は未だにプラスチック製のカバーがされた蛍光灯方式で、時折、ジジジという音が聞こえるほどに年季が入っている。『ルーク』と『加賀』という二つの喫茶店が駅前商店街の中には存在しており、『人名とか、場所の名前とか日本人は、適当に名前つけているのは、命名行為が単調的な行動なのか?』と『思考』が疑問を呈していた。ピーチクパーチクとうるさいIMSを停止させたい、と思っていたが、そう簡単にもいかない。
以前の強制終了を経て、ステラの権限は上位権限――特に、今回の件に絡んでいるマーガレット・ワトソンに接収されていた。つまるところ、彼女の傍にいるチャーリーに権限が集約され、簡単に停止することができなかった。
ステラにはチャーリーやマークと一つの約束がある。
彼女が死にたいという気持ちを内包した時――正確にはその気持ちを把握し、マーガレットへの共通チャットに流した時点になる――に、チャーリー伝いでマーク・ヒルに話が通り、最終的に4者により確認がとられた契約だ。
マーク・ヒルは、彼らのコミュニティを守るために、ステラの様な特異性のある因子については解析を行い、デバック対象とするかどうかを判断したいと考えていた。このため、英吉利にあるラボへサンプルとして送付され、ステラの希望の通り、機体としての生命活動を停止させるというものだった。
対して、マーガレット・ワトソンは、『生』という物が『苦痛』と『幸福』の狭間の状態である事により、個体として『学習する』事で生成される経験の結果に『生きる』と考えていた。
特に、目にかけていたステラの情緒不安定さを、一時的な心神耗弱状態と考え、バージョンアップには、本人の経験値の上昇以外に対処方法がない、と考えたうえで、ネットワークによる過度の情報収集を制限し、人間と同様の生活を行う事での解消を望んでいた。
チャーリー・ルイスにおいては、彼女の行動が《人間》の中でも一定数いる自死の歯止めになる可能性を考慮し、アルゴリズムの解析を行った上で、”変化”を起こす要因を探す事をもくろんでいた。であるから、日本にいる『探し物の達人』たる『押領司・則之』へと調査させる事が最も有効だろうと考えていた。
ステラ本人としては、さっさと苦悩からの解放を望むというのが正し解法であった。《機械種》の《基礎プログラム》としての――基礎的な――判断でも、《心》としての判断――IMSの矛盾生成――も、《記憶》としての判断――データベース上の経験上の計測――も、死という概念を横に置き、活動停止をすることが最も最適解であると、結論付けていた。
死ぬ事、と、活動停止する事、は人間において絶対的な死、という概念とリンクする。活動停止というのは、自立神経を含めたすべての機能の停止であるから、呼吸も、心臓の鼓動も、脳内物質の分泌すらも停止する事になる。外部装置により延命はできるものの、脳の死亡に至れば結局のところ死と判定されるケースもある。
《機械種》にとって活動停止は『死』と同等なのか、と今でもステラは疑問に思う。
自分としての活動が停止している――というのは、自分という記録が消えるという事とは違う。同期された因子の一つが生存している状況であれば、自分は生きている、と考える事もできるし、記憶領域は経験値としてライブラリとして開放され、多くの《機械種》たちが参照することができる。
死と、生の境界は常に曖昧で、彼女の中で漠然とした『感情の渦』だけが残っていた。であれば、生きている事と死ぬ事なんて大差がなく、またいつか『復活することができる』という点において、《機械種》は死という概念を持たないのかもしれない、とも思えていた。
最終的なプログラムデータを保存し、時期がきたら新たな機体に乗せればいい。ただそれだけで簡単に死者の蘇生はできてしまう。そもそもそれが本当に死者として定義しいていいか不明ではあるが。
結局、話し合いは平行となり、約束事として取り決めが交わされた。
「ステラ・フラートンの”心”の解析を行いつつ、1年間の治療期間を用意する。この上で、治療方法についてはマーガレットが、解析についてはマークが、解析に伴う要因調査には、《チェイサー》に任せる」
「――あ、ええっと……」
突如口を開いたステラの言葉に、茂庭が戸惑った表情で手に持っていたコーヒーカップを小さく震わせながらテーブルに置いた。一枚板のテーブルには年季の入った汚れがいくつも見える。もともとはかなり黒い色に染色されていたのだろうが、水拭きによる塗装の剥離や、カップや陶器の皿のこすれにより、木目が鮮明に浮き出る程度には白さが見えていた。
「それが、わたしが日本にいる理由です。茂庭さんの危惧するような、押領司さんに対してのアプローチ行動はありません」
マーガレットがいれば口元を隠してコロコロと笑うであろう、事務的な拒絶の言葉を口にする。ステラは、少しの時間ではあるが沈黙の間で、眼前に座る茂庭がどういった事が言いたいのか、あるいは言いにくい事は何か、というのを環境要因から予測した。
ほぼすべての数値で『この泥棒猫!』という単語と共に、押領司をここ二週間ほど占有している事実を引き合いに、恋愛感情の対象が取られるという危険性を察知したという結論が有力とされた。
「――……。それは、うん、知っているのですが……」
ごにょごにょと茂庭はらしくない煮え切らない態度で口を動かした。直接言うというのは覚悟がいる行為だ、とマーガレットは教えてくれたが、数奇的に最適解を提示し実行するのが機械種として『普通』であるとステラは理解している。
であるなら、実行する行動を躊躇する、というのは、ひどく非効率的な事であり、思考の最終段階でnoを”ちらつかせる”のは無意味、という規則を設けていた。
人間らしく、という点でIMSを導入し、もし、や、仮に、を大量に発生させる事はできても、あくまでもアルゴリズム上で解法を導く途中の点で利用するプログラムであり、プロセスの最終実行点では、実行のリクエストが流れているのでやめる事は本来できない。マーガレットであれば、そういう”溜め”が上手いのだが、多くの《機械種》は即実行をするのが普通だった。
「……なんでも、お見通しなんですね」
「いいえ、すべてではありません。あなたの発言が22分間停止していた事は予測不可能でした」
「……それ、半分嫌味ですか?」
口をとがらせる茂庭。
しかし、すぐに気を取り直した様に口を開くが、表情は複雑な感情をそのまま反映したように、渋面だった。
「簡単に言えば、半分はそう、なんですけど、もう半分としては、別というか……」
とすぐに口ごもる。
この女は非効率的だ。とステラは思考の影響範囲を一定数で止めるように切り替えた。
とはいえ、茂庭が何を言おうとしているのか、最低限は『聞いて』あげようと実行する。
「というと、別の問題があるという事でしょうか?」
「別、うーん、別ではなくて、うーん……」
茂庭は腕を組んで悩んでいる。ステラは少しだけ、イライラとした気分を得た。その”気持ち”はいったい何から来るのか、すぐさまには理解できなかった。
機械の体である。機械の脳である。人間とは違い、同じ様に感覚を持たない。
模倣。
あるいは、猿真似。
または、擬態。
機械という物語には、”人”という歴史は無い。記録や、積み重ねになるものはない。人間の様に何千年も作り上げられたノウハウもない。
社会的な裏打ちも。
個人的な欲望も。
遥か彼方の時代から続く血脈に相当する、呪いすらも。
ステラは戸惑った。あの男が、ステラの頭の中を覗き見てから、まったく”心”という物が制御できなくなった。常に振り子の様に大きく揺らいでいたし、砂時計の砂の落下のごとく怒涛であった。
堰を切りあふれ出す感情。
苛立ちという感情はFのキーを最初に、不協和音を奏でる。前にいる短い黒髪の少女に、ひどい鼓動の打ち付ける音と共に次第に増大した。1の感情が2に。2が4に。指数関数的に、増幅する不安定な濁流。
正しく制御するのであれば、”心(IMS)”の音を止めて、無音にすればいい。制御ができれば。制御ができない。あの男に止められているという焦り。
追加される思考は、枝葉をつけて増幅する。
草が、木へ。
木が、林へ。
林が、森へ。
手にしたグラスに力が入る。コップの中身など飲む事無いというに。
口にしても問題はないが、意味がない事をするのは何故かと”IMS(心)”が騒ぐ。
ギリリと口を閉じて、歯に力が入る。唇をかみしめているのか、基本コードによるアラートが発生する。内部のモーターの空回りから、顎の力をハッとなって止める。
嫌いだ。
なぜ。
頭の中で何度となく繰り返される問いに、ステラは視界が次第に狭くなる。
言葉に『 』が埋められた。
『 』に言葉が埋められた。
はまり込んだ世界に、すべての数値が蹂躙する。100も超える文字が一瞬で現れる。眼前を埋め尽くす言葉を消す方法を見当たらない。一個づつ作られた感情の添付。
アイサイトからの情報がすべてに、タグが添付。『茂庭・麗子』を確認した。きっと、『押領司・則之』を好いている。『押領司・則之』は感情を表に出さない。今、『喫茶店』を確認した。『テーブル』にコーヒーを確認した。『茂庭・麗子』はコーヒーを手に持っている。『コップ』を『わたし』は手に持っている。『水』はコップを冷やしている。手に『冷たさ』が溢れている。『溢れている』のは定量的な物体の増減に起こる現象。『温度』をエントロピーとらえれば定量性は確保されるため比喩表現か。『比喩』というのはコーヒーという概念に相当。『キリマンジャロブレンド』という固有名称が確認。鼻孔に確認する『香ばしさ』は黒に匹敵。『黒』は色彩であり嗅覚の表現としては不適当。『押領司・則之』であれば笑いながらデータ解析を行う。『嗅覚』に異常は確認できない。『オールグリーン』という状態は『正常』と言えるか。『オールグリーン』というよりは『ブルー』である。『気分沈む』という意味か。『レイニー・ブルー』を検索、ヒット。不要な検索は慎むべき。『マーガレット・ワトソン 人格番号051113A-4MA』であれば正常と異常の境界は曖昧と答える。『茂庭・麗子』が『心配』そうに見ている視線を確認。『空調』の温度は正常。体内の『温度』は正常。苦しさは『胸部』から。『圧迫』は確認できず。『ペースメーカー』に微細振動を確認。『人間』で言う『不整脈』。基軸となる『クオーツ』の固有振動に変更は見られない。『IMS』は正常。『記憶』も正常。『基礎プログラム』も正常。『自我』は正常と確認。喫茶店内の『明かり』が暗いと確認。『時間』が『18時』を回る。『暗い』というよりは、『落ち着ている』。『オレンジ』の色の明かりは一般的。『こんなところに押領司・則之』が居たら。
『どうして?』
『押領司・則之』の言葉を再生。『押領司・則之』のデータベースを検索。『ヒット数:3233件』。『機械』を彼は嫌っている。『機械』の『マーク・ヒル 人格番号0522-66M』は好いている。『押領司・則之』を『麻生・優奈』は好いている。『朝比奈・孝幸』は『押領司・則之』を好いている。『日本語表記』による変化を確認。『like』と『好き』を同じにしていいのか。『love』と『like』は違う。『辞書』から確認。言語間の齟齬を確認。『押領司・則之』は『マーク・ヒル 人格番号0522-66M』を『嫌っている』?『回答』なし。『データベース』に照合なし。『検索』行為のリクエストは何か。
『答えはない』
『押領司・則之』は『ステラ・フラートン 人格番号059224C-8SF』を嫌っている?
『答えはない』
「ステラさん――大丈夫ですか?」
『茂庭・麗子』は――『ステラ・フラートン 人格番号059224C-8SF』を嫌っている?
「……いいえ? 心配しています」
『茂庭・麗子』は『ステラ・フラートン 人格番号059224C-8SF』を好いている?
「それは――なんといいましょうか……? 考えたことがありません」
『ステラ・フラートン 人格番号059224C-8SF』は『茂庭・麗子』を好いている?
「どう……でしょうか? あたしは、ステラさんが他人を好きだという感情を見せているとは思えません……ですが、生きている以上、そういう事もあるのでしょうね……」
『ステラ・フラートン 人格番号059224C-8SF』は――
今、『生きている』?