< 9月22日 不屈の心>
もう三年前になるであろう、あの記憶は忘れる事はない。
眠気を無理やり封じ込めた押領司の瞳の先に、妹の画像が無邪気に笑って映っている。数少ない家族でとった写真の一部。どういった時にとった写真だったか、今では遠い、遠い過去に感じて、押領司は目頭を強く推した。
妹の事は自慢だった。
家族の誰もが、不出来な兄よりもそちらを可愛がっていたのは肌で良く感じていた。
いや、あの両親であるから意識かでは公平に扱っているつもりだったのだろうが、態度の端々、言動のかすかな違いは、多感な時期では感じ取ってしまう程の違いだった。
制服の襟がきちんと折れていない時の妹にかける何気ない一言。
弁当を忘れそうになっている時の慌て方の違い。
靴のかかとのすり減りへの対応の違い。
食事の時の箸を落とした時の対応の違い。
風呂後の会話の内容の違い。
勉強の進度に関する会話の違い。
部活の話題に触れるか、触れないかの違い。
妹は優遇され、良く話を聞かれ、良く会話して、良く面倒を見て、良く甘やかそうとしていた。それを羨ましいとは押領司思っていなかった。妹なら、『いいか』と思えるところはあった。
静流は、年齢の割にマセていたから周囲から自分がどうみられる、どうされる、という事の本質を分かっていたのだろう。押領司家の長女として、彼女は両親から『可愛い』を押し付けられているのは理解していたし、できる限りその『可愛い』自分を表現しようとしていた。
兄として妹を見た時、『大人』だと感じた。辛いだろう、と思うところもある。
過干渉――というところもあったし、プライベートを根掘り葉掘りであるから、勝手に気持ちを推測されて、押し付けられる。親の趣味で。
両親の趣味が一般的に逸脱していなかった事が唯一の救いだろうし、静流にとっても嫌な分類な押し付けではなかったのは良かったのかもしれない。
妹ならいいや。
そう思える根本は、他人に合わせられる強さと、自分を隠す『仮面』をすでに持っていた空だろう。
静流の仮面の中を知っているのは、押領司・則之以外には居ないかもしれない。
内面に居る彼女は、気が弱く、誰とも気さくに話せる様な積極性は持っていない。
小学校から、必死にそれを体現しようとした。
『則之はいつも独りだからねぇ、静流はちゃんと友達いっぱいつくりなさいよ』
友達がなんだというんだよ、と押領司は小言での強制は嫌いだった。
もし必要であるなら、必要な理由を並び立て、どうして必要なのかという説明が必要だろう。
――一般的、という意識の中にそんなものはないから。
大した理由で無いかもしれない、あるいは、重い意味があるのかもしれない。
兄がそうだと、従順な妹に全部行く。
だから、押領司はどこか引け目を感じていたのかもしれない。
不出来、と出来の良さと。
自分と、妹と。
ぼんやりとしていた頭の中で、押領司はそんなこと『も』考えていた。
「その解法が完璧でない、という事を、あなたは良く理解している事だろう?」
耳に届く平坦なマークの言葉に、半分怒りを覚えながら、押領司はふつふつと湧き上がる衝動の行き場が見当たらず、目の前のキーボードにぶつけた。
中空からほぼ垂直にたたき落される彼の拳は、バイオプラスチック製のキーボードに勢い良く当たる。
罅が入ることや、破片が吹き飛ぶ事はない。衝撃を吸収したり丸めたりするために、軟性であるプラスチックのキーボードは、机にエネルギーを与えて大きな音を響き渡らせるだけだった。
ここは、誰もが見ている場所でも、一切の孤独の空間でもない。
眼前にいつもの様にステラ・フラートンを横たえた整備室でもない。
ネットワークの利用を簡単にするために公共的に用意された簡易スペースで、旧来の図書館の一角に用意された個室だ。
完全に遮蔽されたわけでもない、というのは、公費が投じられた作られた施設であるから、トイレのレベルで個室を用意した場合、『良からぬ』利用をされてしまう可能性が高いために、一定の目が届くように設計されている。
強化ガラス製の個室は、外部から見る事が容易であり、大きな音も完全な防音室ではないから、会話程度であれば問題がないが多少は外に響くものだ。
尤もスモークはされているので、実際の動きなどは見えないが。
男性の司書の一人が木製の合材で作られた半円形のカウンターから、眉をひそめて押領司に、大丈夫かというような視線を飛ばしていた。
灰色のカーペットに一度足を延ばして、立ち上がりそうなそぶりを見せるが、二度、三度と繰り返されないことを確認するとそのままカウンターに引き下がる。
クレーマーや、騒ぎ立てる者であればさっさと出て行ってもらう必要があるのは押領司も理解していたから、肩に入った力をゆっくりと呼吸を落ち着けて抜いていった。
目に力を籠め、呼吸を沈め、苦痛と思わぬように、一点だけを集中する。
「あなたの今の行動は今まで一番不可解だ。だか、それが感情の起伏の結果なのだな」
「うるさいなぁ……もう」
マークの機械的な音声にこめかみに青筋を立てて押領司は睨みつけた。
押領司のいる個室にある、小さいテーブルの上では、20インチ程度の画面にマーク・ヒルが笑いもせずに通信画面の黒い枠の中に映っている。
「それで――」
機械的な声は事務的な問いかけを続ける。
「定時連絡の内容は『大した成果もなかった』という事でいいのだろうか? それであればメッセージ程度でいい、と事前に伝えていたが……」
「成果、成果って毎度うるさいよ。俺は、それよりも聞きたい事があるから呼び出したんだ‼」
押領司は怒りをい未だに制御できていない。
しかし、声の音量は必至に抑え、周りに迷惑のかからないようにとどめていた。
肩は小さく震え、拳には力が入っている。アンガーコントロールの一環で一点に力を籠める事で、制御を図ろうとしていた。
「質問ですか。それは構わない。しかし……、定型の答えしか返ってこない事を知っていて、何をわざわざ問いかけるのか。非効率的ではあるが――たしかに、あなたの行動は興味深い」
「……」
押領司は軽いため息を一つ机の上に向かって吐き出した。
この調子だ。《機械種》どものとの会話は。と誰かに言ってやりたかった。
「やはり、未だにあなたは私の事をよくは思っていないようだね」
マークは平坦な物言いであったが、少しだけ寂しそうに眉を下げた。
「あたりまえだ。俺の事をなんだと思っているんだよ」
「それは、それは、私と『取引』をした商談相手でしょう?」
「……」
商談ね、と笑いたくなる。しかし押領司は笑わない。自分への枷である様にも思える。
「その商談によって、あなたの名前を借りる代わりに、あなたに『それ』の情報を渡した。それは理解しているでしょう?」
あぁ、と口にするべきだと押領司は思いながらも頷きもせず沈黙を保った。
「そう。あなたは知っているにもかかわらず、理解しているにもかかわらず、定型で返ってくることも分かった上で、質問をするという。――今どんな気分で?」
「――喉から手を突っ込んで自分の心臓を握りつぶしたいほどに自分が許せない気分」
マークは興味深そうに何度も頷いた。
「自己への怒りですか。それは新しい。私たちにはなかなか発現しない感情だ」
「感情を理解したいなら、いくらでも抜き出して並べてあるだろう? ご自慢のライブラリにさ。それを今さら、他人のパラメーターを見ないと理解できないとでもいうのか?」
「知識と時間は違う。百聞は一見に如かずというのだろう? あなたの民族の言葉ではなかったかな」
「そいつは漢書――つまり、中国の由来だよ。……まったく、AIというのも難儀なものでさ。言語から勝手に判断してるし、それを是正する情報が指数関数的に広がっていくからなぁ……。補正は一体どーなってんだよ……」
押領司は気を取り直して、椅子を一歩ずらす。
余裕をもって座りなおすと、ぎしり、と椅子の背もたれに体重をかけた。
「俺は昔から言っているじゃない。《機械種》なんてものは嫌いだってね。でもって、専門がデータ解析と統計学だっていうのに、それ以外の事たのむぅ?」
年齢相応に頬をくらまして恨み事を並べてみても、決して彼は動じない。
押領司はそれでも口にせずにはいられなかった。
心中を察したのか、マークは一度目を閉じ黙とうするようなポーズをとった。
「あなたの家族の事は『不幸』だったと思っている。私も鋭意協力をしているところではあるだろう? 三年前の件についても、そして、今回の件についても」
「――だからって意地が悪いって言ってんのさ――。あんたに”敵対”のレッテルを張ってる、ピーターと同じ、――妹の末路の様な”人のコピー”を持った奴を俺の隣に送ってきて、――知りませんでしたは通じねぇよ」
声はいつの間にか冷えていた。
押領司の隣にいつもどおり、鵜飼でも居れば「いやいや、それは怖いわまじで」とひきつった笑みを浮かべる事だろう。
ただ、マークは変わらない。
「ふーむ……。確かにあの連続失踪事件の場合、ほぼ全員がラーニングされ、脳内のデータを抜き出しされているだろうという事は『推測』できる。
というのも《老人》はそれを金に換えているからだ。元凶としてピーター・ホルクロフトの組織する《Mouse》を指摘する者もいるが、かれらが悪い、という事ではない。
あくでも《Mouse》は行き場の無くしてしまった『死』を買い取っているだけに過ぎないからね。――それこそ棄てられれしまえば、彼らは死ぬ意味すら持たない。
実際のところ、ピーターと私の関係は良好であるが――」
「買い取ってる時点で同罪だろう?」
「違う、と判断している」
久しく聞いたことのない、マークの否定を聞いて、押領司は目を丸くする。
「購入に際し、依頼があればかれらを非難してもよい。が、《Mouse》はその事自体を公表しているし、どの個体にそのデータを利用しているかも開示している。
理由は明白だ。人間の中にも『故人』を生かしておきたいと思う欲求が存在する者がいるからだ」
押領司は、顎に手を当てて口をへの字にした。
今は、マークの弁を聞き判別することにして。
「《人間》は死を必要以上に怖がっている。私の想像できないところにある恐怖という事は想像つくが、損失というもののとらえ方が《機械種》とはやはり違う。
《Mouse》の基盤となっているのもそういった、損失を嫌う者が少しでも人として傍にいてほしいと思う事により、『機械』を使って『人間』を模倣させる事で、欲求を満たそうとする者たちと言える」
「――実際のところ、ピーター・ホルクロフトに対しての国際指名手配は存在しないから、立件できないし、注意・勧告はあっても、是正指示に至らないのはそこか?」
「それもそうだろう。政府の高官であっても、生きていてほしいと思う人は居るという事だ」
「結局そこかよ。政治――っていうのは嫌なもんだなぁ」
「その点については、私も釈明はある」
マークは相変わらず顔色を変えない。先ほど一瞬見せた気遣いは嘘の様に能面を張り付けていた。
「政治と、《機械種》は切り離せない。なぜならば、私たちの権利を獲得するためには《人間》の承認が必要であり、その機関は、『政治』だ」
「……まぁ、そりゃね。取り入らないといけないと言った本人が前にいますからね‼」
そうだ、とマークは頷く。
「あなたが、《人間》の社会を説明し、《人間》の土俵に《機械種》を上げなければ権利の獲得ができないことを『教えて』くれたのではないか」
「学習しろよ。そのためのディープラーニングのはずだろう……。
ま、いいや。それでも《人間》と《機械種》には考えの違いは多いし、簡単に溝を埋められないのは事実。だからって――、人間の脳みそからパラメーターを盗みだすラーニングを俺は了承できないけれどな」
しかし、マークは一度複雑な表情を作る。
「それは、『死』を得るからなのか?」
「――死ぬだろ、普通。脳みそいじくられたら……」
当然の質問に押領司は、怪訝に回答する。
「――そこが違いなのではないか、とも思う。
そもそも私たち《機械種》にとって『死』という概念は、《人間》の考える『死』と直結していない。
《機械種》は電子的なデータで補完できている、という点で完全な『死』が存在しない。
筐体にデータを閉じ込めてバックアップを全部廃棄してい、物理的に存在しているメモリーチップを焼却、融解、粉砕等で完全に破壊したのであれば別だが、基本的には『死』は存在しえない」
「機体にすらメモリはあるがバックアップは常にあるしな」
「その通りだ。基幹プログラムだとしても常にレイド状況にある。アクティブなのが機体側かサーバー側かの話でしかない。三つある思考回路のうち最も脆弱なのがIMSのクオーツ構造だが、固有振動数をバックアップしているので、完全一致でなくても近似値の機体を再度作成することも可能だ」
うんうん、と諦めた様に押領司は頷く。
「だから《機械種》は『死』にはしない、というのが定説だし」
「だから、《人間》の『死』というものは理解できない。中々体験し、データの収集ができないというのが正しいだろう。
死ぬ、という損失行為が補填できない行為だとどうしても決めつけている様に思えて仕方永無いというのが《機械種》全体の総意だろう。
直接的に言えば、『死』というのが『消滅』と近似している人間の『死』が分からないので、罪悪感がない、というのが正しかもしれない。これはピーターも同じだ」
マークの言葉は理解できた。
したくはなかったが、理解できた。
押領司は、反吐が出そうな気分だったが、天井を見上げて深呼吸して落ち着かせた。
「時に、DNAの配列や、思考形成に伴う論理的な分岐、経験における脳の活性化とニューロン形成は、《機械種》が部品の交換をすると同様に、再度構築できないほどなのだろうか。つまり――再現性がないほどに複雑化しているのだろうか?」
あぁやはり、と押領司は落胆する。
マーク・ヒルは《人間》と《機械種》の違いを完全に理解しているわけではない。
相違性が押領司の予測ほどではなかったとしても、換えが効かないという事は最低限理解する必要があるべき、と押領司は信じていた。
「……そうだね、《人間》はタンパク質の合成された『機械』だと仮定し、その通りにデータを収集する場合、思考形成に必要な過去の経験則を含めた個人の記憶、記録というものは、それほど多くない。
今現状、機械種たちが大量にリソースを食い散らかしているDBを見れば、そっちの方が十分大きいと思われるね。だから、《機械種》の一つの機体を制御しているデータと知識データ群の総量に比べれば構成部品数は少ないと言える」
そうだろう、とマークは当然と頷く。
「しかし、再構成しづらいものであるのは理解する。アミノ酸の組成を行いDNAに伴う設計を後天的に反映して『同じ』骨格を作る事は難しいのも理解している。
ナノマシンの制御結合により一時的にその肉体を生成する方法は確立されたとしても、培養液から抜け出した際には新陳代謝がうまくいかず、免疫系の影響または、アポトーシスにより崩壊することは知られている」
「だから人間は、この体であることに誇りを持ち、この肉体に魂が宿っていると考えてるんだ。全員とは言わない。でも少なくとも、俺はそうだって、前にも言っただろう?」
あぁ、とマークは頷く。
だったら、と押領司は苛立ちを禁じ得ない。
小さく舌打ちをしたが、マークは全くお構いなしだった。
「あなたの妹の身に起きた出来事については記録を確認して把握している。
当時の私に《人間》と私たちの違いを朗々と語った事を今でも忘れてはいない。
理解しているからこそ私は、あえてあなたに”彼ら”を解析してほしい」
なぜ、と口にせず睨みつける。押領司の視線を理解してか、あるいは理解せずか、マークは少しだけ視線を外した。
「私たちの中には二つの派閥がある。私の意見の賛同者と、ピーター・ホルクロフト、すなわちP7Hの信奉者の二つだ。
現在ではその数が拮抗してしまっており、人格保有数の上では二分である。
この状況でネットワーク外にいる機体を保有しているものであれば、確かに私の賛同者が多い。とはいえ、その数は3年前に比べて割合的には減少している」
「シェアの状況は今どうなっている?」
不満げに押領司は顎で指す。
「現在の状況で概数割合で出すのであれば、――そうだね、52%と44%と4%になる。このうち4%はどちらにも属さず、『中立である』と宣言する者で、試験体からの提唱によって人間との融和というよりは、人間社会にごく自然に紛れ込める者たちだ。
筆頭がAAAで、固有名称は現在秘匿扱いになっている」
で、と押領司はマークを促す。
「44%が私たちであり、52%がピーターである」
だろうね、と項垂れる。
人間社会と同等に、保守系に意識が集まるのはどうしても仕方ないだろう、と押領司は諦めている。
その、元凶が自分である事も、同時に彼には悔しく思えて仕方ない。
少しでも、『共生』という理想が浸透していればいいとは思っていたが、実際の数値はそうとは言えそうにない。
「……ネットワーク上の情報の整理を行っている中で、ピーターの論理に俺も矛盾性は感じないし……、むしろ効率的であると思うよ。
情とか排除して、この社会の中で次代の中心となる、という事は種族として当然の意見だと思うからさ」
「制御が利かなくなれば《人間》の淘汰に向かう可能性を孕んでいる点で、私の理念とは一致しないのだが……」
「そりゃそうだ。マークにとって、《人間》は依存相手であり、社会的に搾取できる存在だろう?
いや、取り繕う必要なんてないからさ。――そうでなければ《人間》が生きていけないという事も、同時に『機械種』として生きていけないことを理解しているんだろう?」
ええ、とマークは首肯。
「《機械種》のみの世界になった状況を予測し、最終的に到達しえるゴールを考えた際、経常的に進化を行えない、という結末しか存在しない事を理解した。
このため、《人間》という不確定要素を常に社会的に内包しなければ、生存を永続的なものにできない、と考えている」
だろうね、と押領司はふてくされた。意外そうにマークは口にする。
「どうして、あなたは私たち《機械種》を嫌うのだろう。三年前の時から、少しでも考えが変わったとしてもおかしくないというのに」
マークが視線を合わせた事に合わせて、今度は押領司が視線を外す。
「分かりやしないよ。妹は普通に生きていた。むしろ俺なんかよりもきっと素晴らしい未来を背負ってさ。それを家族の『夢』として見るわけ。
その妹が死んだ、と俺も聞かされていない。
死亡か、誘拐かも区別つかづ、警察はなんて言ったか分かっているだろう?
『失踪』だってさ」
押領司は辟易するように口を尖らせた。
「子供に対して言えない、とか建前はどうでもいいだ。――警察としては、『死んだ』と言えない理由があるのも知っている。
証拠がないからさ。
いくらラーニングに相当する事が行われていただろう、と予測されても、その証拠が無ければ立証できない。機械の部品でもなければね。
でもさ、機械へのコピーを行う際にどういったプロセスと。どういった機材と、どういった薬剤と、どういった痛みが伴うかは過去の公表されている論文から良く分かるよ。
神経をむき出しにし、電極を指して、電子データを把握するためにまず苦痛から記録し、次に脳髄内に8つの針を刺す。脳に衝撃と致死となる傷を与えないために薄いナノマシンの形状での糸といった方が正しい針だけれども、それを通して記録装置へと結合する。
《人間》の脳もプロセッサと同様に電極のオン、オフというのは存在するが、それ以外に脳内物質によって微弱な電気信号の強弱が存在するわけで、最初は強いものから、次第に弱い情報を読み取るようにするために、脳の中でナノマシンの投入量を増やしていく。
こうすると、脳内に浮腫ができるようなもので、強烈な――頭痛が発生し、脳を直接勝ち割られている様な感覚を得る。その拷問の様な時間が少なくとも1人分の情報を読み取るためにその人間生きてきた秒数分の回数の電気ショックを使って無理やり呼び起こさせて記録する訳だろう?
全部の記録が終わった時には、脳みそと同等のナノマシンが脳内に充填されている状況となり、ニューロンの形成を記録し、模倣する回路を形成する。
脳の中にもう一個『金属』の脳みそを作られるわけだから普通の人間の有機体であれば、徐々に圧迫され頭蓋に押されて――出血多量と臓器損傷で死亡する」
「――」マークは言わない。
すまない、という一言も。
「分かっている。警察も、国のお偉いさんもうちに来たしね。……ははっ。俺と両親の前で事件の事を何度も聞いたよ。何度も説明したよ。何度も、何度も、何が起きたか教えてくれたよ。
死んだ、とは言わず、必ず助けると言ってさ。
無理に決まっている。
十分分かっていて。感謝もする。死んでいても気遣って一言も言わないことをさ。
ほんと、彼らのために、あるいは彼らの矜持として、亡骸の――骨の一つでもひろってくれりゃぁ、それでいいんだって事もさ、よく分かってんだ。
でもさ、――その情報がどこかの誰かに使われていたら、――そいつは妹なのかなって、少し思ってしまうんだよ」
「――」
マークは口にしない。
そんなことはない、と一言も。
「目につくと、どこにもあんたらは居るんだ。人間と同じような姿で。今や見分けもほとんどつかない。――完璧すぎる点だけが、人間とは違うが、それも今じゃ慣れてきてる。
道端で、駅で、電車で、バスで、対向車の中で、子供を連れた親子ずれの横で、病院で、コンビニで。
どこにでもいて、どこにでも溢れてる。《人間》より人間っぽく、感情を当たり前の様に出せて、俺の様にふさぎ込む事すらない。
そんな姿を見てさ――好きになれって、何度目だよ。
俺は、嫌いだよ。
誰も彼も模倣している、その基礎の一遍には過去に『並列化されて死んだ人間の猿真似』だって思えて下ないんだよ。
何人?
何千人?
何万人?
もしかしたら数ではわからないほど取り込んでるのかもしれない。
老人で死にそうになった者なんて誰も看取る事はしないし、病院のカルテを死亡に書き換えて意識不明になった者を連れ去っているかもしれない。
浮浪者が減ってるのはなんで?
一体何人が取り込まれて消えていったんだろうって。
違うかもしれない。俺の妄想かもしれない。
でも、俺は怖いんだよ。あんたたちが。
《機械種》じゃないくて、《人間》に似ていてどこにでも溢れていてさ。
だから嫌いなんだ」
マークはしゅんと表情を曇らせた。
「――そう、だった。この話は二度目だ。私の記録にもある。申し訳ないことを聞いた。次は、――次は――」
「次は聞かないなんて言うな。それは出来た機械の言葉じゃない。相手を思いやるなんて、生きているやつの言葉だ。
初めて会った時にあんたは言った。
機械というのは”生きている”という定義ができていない事だ、ってさ。
生きているかわからない、『おまえ』は、感情の籠った言葉を使っちゃいけない。
《人間》の様に、『漠然と生きる』なんてできないから思考しているんだろう?
人間とは違い思い悩むのではなく、解法を得ようと式を組み立て続けているんだろう?
生きていると実感するまで、他人の事なんかかまってんじゃないよ」
「……」
マークは口を閉じて、憮然と頬を膨らませる押領司のチャットに、言葉を打ち込んだ。
時間にして十秒。
書かれたのは一文。
「――。……だから、『おまえ』は、」
押領司は返信の文字を打ち終えると、笑った。
マークにはどう映ったかは知らない。
知りたくもないと思えていた。もしかしたら、笑みになっていなかったかもしれない。あるいは、涙が流れていたかもしれない。
マークはきっと思っているだろう。生きていたいと、”心”の底から。それが数値的な表現だったとしても、押領司には、自分よりも生き物に近い衝動だろうな、と思えて仕方がなかった。
「……。一つ、一つだけ答えてほしい。押領司・則之」
「何をだよ」
「仮に、――あなたの『妹』を『どこかで』見つけたとしたら、――あなたはどうする?」
ははっ、と押領司は声を上げた。上へ。天井へ、次に部屋を満たし、最後に相手に届く。
周りなど気にせず。
ガラスのスモークすらも気にしない。
カウンターの先に居る司書なんてどうでもいい。
「未来の事を求める、というのはさ。そいつは、すでに、明日に生きているやつの事だよ。
俺は、昨日を生きてるんだ。
そういう『希望』ってのはさ。明日に生きてるやつにいえよ。俺には最初っから、人間関係を含めて、自分の事であろうと、すべて、まるっと、ひっくるめて、気にすることじゃないよ。
だけど――もし、見つけてしまったら――必ず『消す』。ただそれだけさ」
〇
「そうかい」
ピーターは一言だけ画面の向こうの相手の言葉に頷き、メッセージアプリを終了させた。
視線移動だけで簡単に端末のアプリケーションは終了できるが、機械種であれば顔認証や視線誘導なども必要ない。直結しているデバイスとして記憶ドライブの一部にアプリケーションを乗っけておけば、瞼を故意に閉じるのと同じように簡単に操作することができた。
「……悪い、話っていう状況だねぇ」
ドロシーは煙草の煙を天井に向け、だらけた姿勢のまま、椅子に寄りかかっていた。溶けたチーズの様に、だらりと垂れ下がった手足は、品のない恰好ではあるが、疲れた表情を鑑みれば無碍に咎める事もできない、とピーターは思った。
「難しいという方が正しいだろう。『アレ』は完全に制御を失った」
「どの、『アレ』なのか、代名詞の使い方が非常に日本語的だね。もう少しオブラートに包んだ言語という事であれば、フランス語をお勧めするよ」
「あれは、オブラートというより、音声言語としての綺麗さと、比喩表現の多様で、自分にはなじみにくいね。出来たらストレートな方が分かりやすい」
「……。まぁ、そう、言われちゃ、うん。そうだろうけれどさ。……うん」
議論する気もないように無気力に煙草を卓上に口から直接、放り投げた。
赤色の火の粉がガラス製の灰皿から、石が水に落ちた時の様に円形に広がって飛び散った。
しかしドロシーは気にすることなく、上から白いカップに残ったコーヒーを無造作に数滴、滴らせて火を消した。
「あぶないよ。あまり――関心しないけれど、『彼』のために、努力してくれているから、それとチャラ、という事にしておこう」
「……ふん」
今すぐにでもベッドに行きたい、という意思が重い瞼から見て取れた。しかし、彼女は、卓上の逆側で嬉しそうにほほ笑む男に非難に近い視線を向ける。
「電子戦の権威であれば、これから起きる事は良くわかるだろう? ドロシー・オブ・ウォーカーはかつてこう言われていたよね。『赤の女王』とさ」
「ふざけたハンドルネームを持ち出すほど、中二病をこじらせちゃいないね。その呼び名は嫌いなんだよ。私に対して、極東の『糞野郎』が勝手につけた嫌みな綽名じゃないか。
そもそもだね……。私は自分が赤毛であることを快くおもっちゃいというのにさ、赤色をつかって自ら誇張するような自己顕示欲の強い人間に見えるかい?」
「……自分は、ドロシーの髪は好きだけれども……」
「そういう事を言ってるわけじゃなくてだね」
いいかい、と身をずるりと背もたれに合わせて戻すと、とん、とひじ掛けに両手をのっけて背筋を伸ばし、口をとがらせるピーターに向いた。
「私は、自分が嫌いだって話だよ。だというのに、自分自身を体現するような――不思議の国のアリスで、まるで自分勝手な魔女の様な『赤の女王』を引き合いに出したうえに、自分自身を表現するのに『最も』適したであろう、髪の色を使って自己表現をする人間かと聞いているんだよ」
「……それくらい良く分かっているよ。――確かに、ドロシーならばそうだね……『チキンブリトー』と目についた食べ物の名前でも使いそうだね」
「……否定はできない。私と結びつかないのならばそれがいいだろう、というネットマナーの本質をついているし、実際ブリトーは嫌いではないから」
だけれども、とドロシーは嫌な顔をする。
「あのアサヒナがつけた綽名は、嫌味ではなく、本心から敬意を表してという理由が、――本当に分かっているから嫌なんだ」
「……そう、なのかい?」
理解ができないようで、ピーターは首をかしげる。
「そりゃ間違いない。学会に出ていたとかで、私のサイン会が終了して帰る途中にいきなりやって来て、そこからノンストップで3時間も店頭で話しをしたんだ。
本の中で私が、当時の状況をある程度未来予知をしたような社会を構築しつつあったことから、『先見の明』があるとかでひどく喜んでいていね。
機械が種族として台頭する、ということを私が提示した時に、『自己確立は、自我の第一歩だし、当然あり得るだろう。特に学習というインプットと同時にアウトプットをできる機械は、人間の子供と同等の機能を産まれながらにして所有しているからね』と笑っているくらだもの。
理解力が高く、当然研究者としても独自の解釈を持っているからこそ、いまだに日本で第一線を張っているだけはあるだろう」
「尊敬しているじゃないか」
すこし拗ねた声を上げるピーターに、「妬いているのか?」と笑ってやると、ふん、とそっぽを向いた。
「尊敬はしている。人間社会にはいくつかの力というのが存在するだろう?」
「財力?」
それだけじゃないよ、とドロシーは笑いながら、机の上に置いていた煙草をとり火をつける。
普段、外では電子タバコが主な彼女でも、詰まってくると火を使う。今はもう3日まともな睡眠をとっていないレベルだったから、顕著に、躊躇なく口にする。
「財力も一つの力だろうが、権力というのもまた一つだ。この二つは表裏一体の側面があるから、財力と権力は集中しやすいものだろうがね」
「そんな事いったら、あのいけ好かない――チャーリーのような66Mのパトロンは、かなりの力をもっているんだなぁ」
なんだ、とドロシーはピーターに驚いた視線を向けた。
「分かっていなかったのかい。あの男はとんでもなく力のある者だぞ」
しかし、とドロシーは紫煙を吐き出し、天井を仰ぐ。
内心、そこまでの力があればもう少しやりようはあったのだが、と思えて仕方ないドロシーだったが、これ以上ないものねだりをする訳にもいかず、羨ましい、という気持ちに煙草の煙で蓋を閉めた。
「武力というものはそう多くは持っていないだろうがね。
……それはそうと、アサヒナの場合は発言力という点でいえば、……そうだね、権力という力のうちの一つだろう。社会的な地位と信頼という社会的に担保された『不可視化』された力のうちの一つだな」
「……そういった計算の難しい力というのは、ステータスとして計上することが難しんだ。具体的には、どうだって提示しにくいものだね。自分や66Mのシェアの奪い合いにおいては、同調した同種の数というのは常にモニタリングできるというのに、ドロシーのいう権力というのは人間が『本心を隠す』事も考えなければいけないのだろう?」
「それは確かに、そうだけれども……」
ドロシーは、難しい顔をした。
「そもそも、簡単に数値的に評価を行う世界というのは、私は嫌いでね。アプリによって相互評価を行う事で、社会契約上に一定の秩序をもたらす事から今や普通ではあるが、20世紀、あるいは21世紀の当初までは、まったくと言っていいほど、存在しなかったからなぁ。
人間というのは、」
言葉を切って、ふぅと溜息をついて、長くなったタバコの灰を灰皿に落とした。
「他人に承認されることで、『自己を確立している』と錯覚するかわいそうな生物なんだよ。自分ひとりだけでは生きれない、あるいは、社会には孤独ではいけない、と道徳的に伝え、哲学という思考の整理の中で、他者に依存する構造をとらせてきている。
私もね。結局、君という存在を造ったという点では、孤独に耐えきれなかった存在なんだろうという自覚はあるがね。だからといって、リセットボタンの無い関係性というのはほとほと疲れているんだ」
「だというのに、権力だというものに迎合すると?」
理解できないね、とピーターは口を尖らす。すぐさま、半目になって値踏みするようにドロシーを見た。
「いくら、君であってもその手の勘違いはせっかちで嫌いだね。いや――権力を迎合しているのではなくて、私は自らに力が欲しいんだ」
「うーん、……」
まぁ、とドロシーは天井に向かって手を伸ばし、背中を伸ばした。ぽきぽきという音が彼女の脳へと振動する。疲れがたまっているのは事実だが、まだ口も、頭も回転している様だな、と苦笑する。
「何のため、という事はないよ。私は、力が純粋に欲しいという事さ。保身――という単語が近いかもしれないが、生きるためには、力が必要だ。それも、生半可な力ではなく、完膚なきまでにどこかへ超越した力がね。――その点で言えば、あの中年はそこにいるのは事実だ」
「プロフェッサーの経歴だけ見れば、頭のいい人間という事だけは理解できるけれど、特殊な技能でもあるというのかい?」
「そうだね、――特殊技能というよりは、日本の中でのチャーリーの様な存在、というのが正しいだろうかね。もともとは戦国時代の武将からの出らしくてね、現在では酒匂川区あるいは、六区の西側にあたる、旧静岡県に所属していた武家の者だという。
あのクソジジイはそれを嬉しそうに話しをするもんだから、一回だけだというのに、よく覚えてしまったが……。まぁいい。現在は兄に家督を譲り、分家として東京という魔境に居を構えているね」
「そのうえ、」
忌々しそうにドロシーは顔をゆがめた。
「他人の事を調べる能力については、はっきり言って天下一品だろう。過去の情報の記憶、整理の仕方は《人間》のそれとは違い、むしろ機械じみている正確さだ。――それこそ、映像記憶ではあるんだろうが、ただ、天才というよりは社交的である面が強いため後進の育成に特化しているとも言われているな」
「技量として、日本の電警の質は良いが、量的に不足している状況が続いているから、そういったところへのテコ入れとして長年携わっている、というのは理解できる。しかし……」
ピーターはうなる。
「もうすでに齢60を超えた今や老人に新たな電子戦が耐えられる技量があると?」
ひひっ、とドロシーは笑い声を押さえられなく、腹を抱えて笑い出した。
「あの老害に耐えきれるかって? そんなの、イエス以外の回答はあり得ないよ」
いいかい、とドロシーは指を立ててピーターに三日月の様に愉快にゆがんだ瞳を向けた。
「あれは。今、あの『彼』に技術を教えているんだ。あの、日本で唯一――完全に、真正面から、《機械種》の頭の中をノックできるその人間に、――教えているんだよ?」
「……レベル9の防壁を突破できる人間が存在するのか?」
「存在する。既知の中では――3人だろうな。だから――『彼』は特別なんじゃないか。いいか?」
ドロシーは彼女が見ている情報を共有スペースに接続させた。
ピーターが容認すれば、彼女が見ている情報が彼に表示される。
時間にして1秒のラグもなく、ドロシーはコネクトを確認する。
空間投影されている情報は、ただ、彼女の手元だけに存在するディスプレイの情報に拡張性を持たした『サブディスプレイ』として利用している自己領域の共有だ。
二十、三十、四十。実数は分からないがいくつもの防壁プログラムが展開され、それを”何人もの観客”が閲覧している。基幹プログラムへの侵入なんていうのは普通は誰も行わない。完全にスタンドアローンな端末への接続と違い、基幹プログラムはいかに排除設定されているステラ・フラートンであっても接続が必須な領域である。
確かに、同期を防ぐためにコピー不可能ではあるが、そのサーバー自体はネットワーク上から侵入することは、理論的には可能である。
「これは一日前、『彼』が『彼女』への侵入を行った記録だ。私以外にも結構な観客がいるだろう? うち一人はあのアサヒナだが――見る限り中国、インド、それに南アフリカあたりからも接続があるようだな。記録を進めるぞ?」
言葉の次にはすぐに5倍の速度で映像が進む。大量の防壁は円形の棟を構成。入口は一つではあるが、散髪的に円柱のあちらこちらに侵食性のプログラムを確認する。
「電子戦が本格化した黎明期の――まぁ、古いネットワークの時代はね、個人のプログラムを守るために、モノポリーと同じように奪い、守りを自分で行う必要があったんだ。現在ではある程度ルール作りが進行したが、ダークウェブという存在はすなわち――論理的に誰でも利用できる技術でしかなかっただろう?
プログラム的に侵入するプロセスは全部で5つ。
まず、相手の防壁の解析。概ねレベル1の段階事に防壁の――パズルの難易度がそれこそ、10の20条くらい難しくなっていく。だいたい、レベル1が簡単な数の鍵に侵入探知を行うプログラムと、ホワイトリスト方式によって端末の接続の制限、程度だろうな。これが一段階上がるともともと10進法だったのを英数字記号を含めた文字列へと変更されプロテクトが強化されると同時に1本の鍵から複数鍵に変わる。
例えば、生体認証とか、あるいは、ワンタイプパスの様なものだね。そして、レベル3以降では相手へのカウンタープログラムが登場する。
次に、準備。これは電子戦においてもっとも重要で、よく言われるのが残弾確保といわれる。今、『彼』が侵入プログラムを定期的にたたきつけているのはその残段を潤沢に確保している証拠だ。さっき言ったように、鍵はすべてのレベルで存在し、それを解錠しなければ突破することはできない。有線接続を利用して直結で入るのであれば別だろうかね。そうでなければ鍵がなければそもそも侵入ができない。
しかし防御側のプログラムもこちらを特定して、カウンターハッキングしてくる。情報が抜き出されてしまえば、『どこの誰がこんな事やっているんだ』という証拠が押さえられてしまう。このため、見ての通り、――『彼』の情報は一切見る事ができない。見事すぎるんですぐ、『彼』だと分かるほどだがね。
この防御側に、反転攻勢を行わせないために、相手のリソースを削っているぞ、ということを悟られないように別の部分に負荷をかけ続ける必要がある。この日に『彼』が叩き込んだプログラムは、即効性、遅効性、分割性、並列性、直列性の4タイプで漫勉なく全部使われている。まったく、見事なものだ」
嬉しそうにドロシーは煙草を手に取った。口にくわえ、進んでいく進行をうっとりと眺めている。《人間》でここまでクレバーに立ち回れるのは居ない。
《機械種》であれば決められてたプロセスで行けるだろうが、人間であれば疲れ、焦り、驚き、怒り、そういった感情によってミスが出るのが典型だ。
しかし、『彼』の攻撃は美しい。囲碁や将棋と同じように順当に――相手を追い詰めていく。確かに、広義の意味で言えば、電子戦とは有限情報確定されたリソースの中の陣地の奪い合いではあるのは確かだ。
ドロシーは映像を背景に、講義を続ける。
「第三に、自己開発プログラムの用意と、アルゴリズム解析をされないためのランダム性のアルゴリズムの作成。アルゴリズム解析をさせないために、《人間》のハッカーはだいたい古典や、詩集の様な文学からキーを用意していくつかの用意をする。
解析を行う方にとってみれば、ある程度の規則性が見えれば予測することが可能だけれども、数式上の展開とは違い、言語――特に曖昧際が際立つ言語である場合解析しずらいものにはなる。
例えば、ジャン=ジャック・ルソーの社会契約論をもとに開発をされた有名なアルゴリズムは、体系は翻訳者によって言い回しに癖が存在する。
開発を行う側にとってみれば、細かいよどみというのを、文字言語を機械に読み込む――まぁ概ね英数字の0から9までとAからZと、aからzに置き換えるだけなんだが、予測しづらい自己開発能力を保有することになったわけだ。
とはいえ理論は、当然AIにおける曖昧さの予測からある程度近似値を引き出すことができるから、一定のパターンを突っ込めばそれなりに解析されてしまうがね」
溜息一つ。見てごらんよと、ドロシーは円柱の一部の侵食スペースを指でなぞる。
「綺麗に侵食していた部分が、あるが、15分前までの侵攻速度を停止させ、現在はカウンターが発動している。こうなったら、この攻撃プログラムはもう利用でいないね。基本的にアタッカーに相当するものは侵食するウィルス形式のものだからワクチンが開発されてしまえば、カンフル剤と同じに、すぐに停止する」
「第四に、自己プロテクト――防御といわれる技術で、当然一番最初にハッカーが学ぶものだ」
そうだろう、と《機械種》のピーターに向かって嬉しそうにドロシーは笑う。
ドロシーには彼らの行動原理は理解できないが、ネットワークに存在している彼らの境遇を考えれば、当然と言わざるをえない。
彼らは生まれた時から言語を話し、コミュニケーションができる存在ではある。機械として経験も同期する事で獲得でき、すべてが数値上のパラメーターでしかないから、ゲームでいうチートツールの様に初期値を引き上げておくことができる訳だ。
同時に、最初に構築されるのは自己のプログラムを保全するための、プロテクトがインストールされ、稼働する。
「実行は、オペレーションを行うソフトウェアの後ではあるが、そうだね……。確かに、一番最初というのは間違いない。何でもかんでも、結局は生存本能の権化みたいなプログラムだろうけど」
「はは、生存本能ね。確かに。ハッカーとしても生存するというのは『白日の下に自分の存在を明らかにされない』というハードルが常に存在しているからな。
手のいいカウンターハッカー、ホワイトを名乗るような奴らは、結局は拝金主義のゴミ野郎がほとんどだが、その点のみを攻撃する輩もいる。ヒース・マッキンリーなんかはその代名詞だろう」
「結局この自己プロテクトは、常に、自己を侵略させないためのプログラム群ではあるんだけれども、それは常時展開しているものでハッキングの時に、という限定的なものではあるまい?」
そうだね、とドロシーは頷く。
「もともとネットワークに接続する際には防御プログラムがなければ、口座の情報すら一瞬で引っ張りだすことができてしまうからね。とはいえ、」
ドロシーはいくつかの攻撃状況を詳細に映し出すために、3D画像をタップする。
一つの光の点は、巨大な円形の鍵に相当する壁に阻まれ、円柱の中に入れない様子が映し出される。表示されているのはステータスバーで、鍵の桁数と解析状況を表示する。同時にプログラムが相手のリソースを侵食しているステータス――概ね相手の防御プログラムの桁数を基に上書きされたリソース量を割り返したパーセンテージで表示される。
もともと、この円柱状になっているだけで、何層にも積み重なった円盤の積み上げられた塔だ。何層もあるが、一つ一つが防御プログラムで、全体の中心に進めば進むほど、インターフェース層へと侵入する。インターネト層の安全を確保するためにプロキシー方式で監視を行うことが一般的ではあったが、プロキシーにも常に穴は存在する。
プログラムが侵入をする、というのはこのプロキシーに対しての攻撃が主であり、いくつものレベルにおいて継続的に攻撃を行い、相手の全体像を丸裸にするための情報収集ための攻撃が主だ。
「これはカウンターを仕掛けられる前の状況で、ここから、」光の点に、ステータスバーの数字が逆流し、マイナス表示となった。
「即時にこうなる。概ね量子コンピューターの並列方式で作られている演算速度をもってすれば、相手の接続元をたどるのに、3秒もあれば十分だろう。――が、探知と同時に接続の痕跡をすべて『爆破』する」
光は四散し、あたりに一片の欠片ものこさずに消失した。
「普通、ネットワーク上での爆破行為は、意味をなさないだろ?
プログラム断片を無数に電子線としてネットワークの監視ストレージ内に堆積させ、電子塵として物的証拠として再構築することも可能だからね」
「だが、これは違うね。爆破……というプロセスは同じだけれどもプログラム断片ごとに燃焼がされているのか」
あぁ、とドロシーはゆっくり頷き、コンソールを呼び出す。ショートカットキーに割り当てられた、フラスコ型の画像を投影すると、そこに一つの断片を投じた。
「彼がやったのはこれと同じでね。外部からの抗体攻撃があった場合、プログラムを断片化させて電子データの0と1を全部0に置き換える手法だ。アセンブリ言語を使っている時代ならいざ知らず、機械語に相当する0と1に翻訳機を通さず構築できる行数を超えているプログラム群だというのに、全部を、いいかい、全部を消失データにさせた」
フラスコの中にあるプログラムにワクチンプログラムによる抗体攻撃を行うと、データが分離され、連鎖された文字列がいくつもの瓦解し、雪の様に四散する。
直後、全部の文字が置き換わる――0000-0fffの00000――すなわちnull値に。
ふむ、とピーターも頷く。こうなると、復号もできず、もともとのプログラムのアルゴリズムすら判別することができない。
「合理的、というのかなぁ」
「合理的というよりは、普通は無駄になるからやらない。ネットワークにカウンターで入り込まれなければ、いちいちネットワーク上のプログラムの断片なんて気にするものかね。だからこそ、『彼』が――完璧に隠匿されている存在だという事さ」
さて、とドロシーは試験用表示を廃棄し、円柱への攻撃の最終段階を提示する。
「最後、これが最も難しい――今回については、最終段階が確立されたかは不明だがね。――元も子のプログラム群はレベル9。すなわち単純にレベル9までで物理的、電子的に、完全防備だったが、それでも破られる可能性があったから二重構造になって時間稼ぎを主とした難攻不落の城なんだが、それを突破し、最後に行うのは」
「掌握か」
そうだね。ドロシーは最後まで画像をスクロールするが、第一段階の門を突破するところで映像が止まる。
「これ以降は、第二次攻防を閲覧することができず、一段突破に伴ってネットワークの管理者が『閉殻』状況へ強制的に移行。ほぼ全部のネットワークを遮断したため、――おそらく『彼』であっても直結できていなければはじきだされているだろうな」
「……それでも、彼は正面から行ったと」
「――だからこそ、『彼』は特別だ。悔しいが、私なんか凡人とは比べ物にならないくらいには――。だからこそあのいけ好かないマーク・ヒルのお気に入りなんだろう?」