<9月21日 不安な1日>
白色の部屋というのは彼女にとって常に清潔であることを認知できる一つの指標であった。
清潔は《機械種》にとって重要な事であり、生存権の確立と同等に必須な条件だ。少しの汚れが、身体への影響に想定外の作用を及ぼす事があるから、事前にエラー回避を行う事は、潔癖症というよりは、《癖》として存在している。
《機械種》の共通認識における無意識下の行動原理の原則点あり、必要な項目として並べ立てるものの最重要事項に清潔というのは当たる。
しかし、発光体の影響次第によっては、純白の状況というのは、《機械種》の保有するアイサイトでは微量の塵を検知できなくなるため、あまり白くしすぎりる、というのも《機械種》であるステラ・フラートンにとって好ましい生存環境とは言えなかった。
ステラは清潔である状態に対し好感を持っていた。
《機械種》という形から考えれば、社会通念上の一定の綺麗さという程度であれば、動作に一切に支障はなかったし、人間が生存できない空間であっても彼らは自由に生きる事はできる。
人間と同じ姿であったとしても、結局は"私"と"彼ら"は違うのだという事を嫌と言うほど理解していた。
だが、彼女個人として、清潔な空間は《機械種》の癖と同等以上に求めるものではあり、それを好意と認識するに至ってはいた。
だが、この清潔な空間にほかの物が入る、という事は嫌っている。
特に、《人間》に関しては対極に近い負の感情を保有していた。
ステラ・フラートンにとって彼女の《自我》――三種類の判断基準は、すべてにおいて、人間を忌避するというのが正しい。
端的に好きではないとして、拒絶をするまではいかないまでも、好意以前に恐怖の対象や触りたくはない相手として認知している。
大量のデータの同期においても、経験値とは違う存在が、他者の経験則を上書きして忌避させていた。
それを形容する言葉や判断基準は存在しないが、人間で言うところの『生理的に受け付けない』というのが近いとは判断していた。
しかし、《機械種》であるステラが、『生理的に受け付けない』という漠然とした答えを、論理的に考える場合、複数の要因で苦手になっていると考えられた。
一つは、ステラに対する視線が好きではない事。特に、男性特有の性的志向を押し付けるような胸部、臀部、顔への視線は、嫌悪感を増幅する。だからといって、女性からの視線が気にならない訳でもない。特筆すべきではないが、嫉妬に歪んだ怒りに近似した怨念じみた視線は好きではなかった。
次に、パーソナルデータの閲覧がされる事が嫌であった。同期対象者と自分が認知し、特定の対象にステラのデータを開示するのであれば構わないが、一般的な《機械種》の様に、人間には無条件に開示する、というのが使役されていると感じ嫌であった。
第三に、生物的な不潔さがあった。対象者にも変わるものの、《機械種》は根本的に清潔を好む傾向にあるにもかかわらず、手を洗わずに触れる行為や、くしゃみ、咳といった生理現象を人間は簡単に行う。口を隠すこともなく、あちらこちらに猫のマーキングと同等に自身の内分泌物を吹き付ける。
第四に、彼らの思考回路が非効率的である事だ。十分な思考速度を誇る有機演算システムを保有する人間であっても、説明を行う際の言語化には必ず《機械種》と同じ様にIMSの影響を受ける。それだけではなく、心(IMS)のパラメーターは時点でのプラスとマイナスの感情を反映するものになる。
気分。
この非効率的な変数は、《人間》の至るところで存在する。
話す時。
食事をする時。
映像を見る時。
歩く時。
風に吹かれる時。
駆け足で帰路に着く時。
喜んで。
怒って。
悲しんで。
楽しんど
「どうして?」
ステラは、その不思議な相手が嫌いだった。気持ちというものが《機械種》の規則性とは一致しない時があるからだ。
心拍数のトレースも、血圧の状態も、顔面のこわばりも、眼球の充血度合いも、皮膚の毛細血管の状況による血色の良さも、呼吸の粗さも、全身に入っている力の度合いであっても。
予測と一致しない、不確かな存在。
嫌い、という言葉で片づけてすべてを排除することもステラの中には選択肢として存在している。
人間であれば、嫌な顔を一つで表現し、コミュニケーションを粗雑にする事も可能だろう。
他者に対して絶対的な壁をつくり、独りで生きると豪語し、隔絶された中で仙人の様に生活する事も可能だろう。
しかし、とステラは思っている。
生活の全般において、《機械種》の体というのは、単独で解決のし辛いものではある。
必ずメンテナンスは存在し、誰ともわからない何とも分からない《者》にボルトの一個に至るまでチェックをされる。
亀裂、裂傷、金属疲労の兆候があれば、新たな自分の体を形成し、脳髄に当たる心を移し替える。
それが《人間》にされるという事実が、彼女の心理としての潔癖性と相まって、『No』となる元凶だった。
《人間》はどう思うのだろう、とステラは頭を捻る事がある。
想像するためのシミュレーションは幾度となく行っても、予測値しか得られないから、本当の《人間》がどう思っているか知りたいとは思う。
脳以外の器官が全部入れ替えられたら?
体を第三者が見るとしたら?
その過程で、《人間》として――乖離した体を、頭を、心を、自分の『もの』だと理解できるのだろうか?
手が無くなった者が機械の腕を付けた時、慣れる状況になるまで違和感を感じるものだろうか。
あるいは、違和感を消し去る事もできず、常に不快感を胸に秘めているのだろうか。
「飛蚊症という症状がある。眼球内にある硝子体に影が落ちる事で、視界内に黒い点や線が見えるというもので、常に蚊が側にいる様な、ふっとした視線の囚われ方をするものなんだ。
しかし、これは慣れるもので、一週間もすれば人間は認知上それは当たり前のことであるとしてストレスを感じなくなる。最初は大きな違和感があったとしても、いずれ慣れる、というのが人体的な解決方法で、脳という物は機械種のそれと違い、故意にバグらせる事もできるんだよ」
この話をチャーリーから聞いたとき、マーガレットの人間味溢れる行動というのがなんとなく理解できた。
論理構造上、《機械種》にはバグを容認する事を『是としない』風潮がある。
ルールが全てであり、規則に縛られる。
しかし、本来AIという技術革新がなされた段階で、その矛盾を許容する様に作成されているはずだった。
ステラはこの状態を理解はできない。本来は許容できる行為を規則上禁止している。
しかし社会上容認する必要がある、と大多数の《人間》が認めた場合には、規則を変更して容認し新たな私的な規則として構築する。
何故
ステラは考える。総和として構築された意見は、矛盾許容をするべきプログラムをもってしても、IMSの許容補正すらも貫通して、ステラ本人に嫌だ、という気持ちを抱かせるのだろうか。
気持ち、という物はなんと不確かで、気味の悪いものなのだろうか。
――あぁ、気持ちが悪い――
全身を這いずる虫唾は、自らの皮膚を、骨格を蝕み、幻視に似た別の世界の『恐怖』を脳裏に描き出す。
例えば、巨大な猛獣に襲われている様な。
例えば、無数の昆虫に這いずられている様な。
例えば、無数の手を持つデビルフィッシュに取りつかれている様な。
マーガレットの人間近似の行動は、機械種としての尊厳も、誇りもかなぐり捨てて、人間と共生するために作られた彼女の思考の現れだ。
どうしてそうまでして人間に媚び諂うのだと、ステラは結論せざる負えなかった。
清浄な部屋の中で、ステラは膝を抱えて壁に寄りそった。
電子空間に作られた彼女の心を投影した『箱』はステラの最後の砦だ。
何もない部屋に必要な物は給電用ない。
ネットワーク上のポリゴンデータに、現実社会で必要な端末もルーターも必要がない。――尤も、ネットワークへの接続も《サテラ》などの極小端末を併用すればルーターも必要がないが。
この空間には、ソファもなければ、クッションもない。カーペットも埃による認識阻害の原因になるから用意していない。食事もしないから冷蔵庫もない。
規則正しく音が鳴る事は、心理的に落ち着く要因になる。
であれば、と作り出したのは洗濯機。
洗濯機の細かく動く音だけが場を支配し、窓に掲げられた純白の遮光カーテンだけが、暗闇に近似する彼女の部屋を花柄模様で彩っている。
それでも、白色の花柄であり、全体の色彩から考えれば、彩るといえるほどの華やかさは醸し出さない。良くて清潔感をより一層濃くしただけで、生活感を一滴足した程度だろう。
現実であっても湯舟を使う事はあるが、人間が利用する様な40度程度の温度にはならない。せめて外気温と同じ温度程度の『水』が張られるだけで、全身についた汚れを落とす際にはシリコーンの充填された皮膚組織を破壊しない様にしなければならない。
温度による変形は、夏場では顕著にみられ、タイプBの中には水槽に氷を張って座面扱いにするつわものも居る。当然彼女のいる部屋もそれにならい、暑い夏の部屋を冷やすために空調設備は存在していた。
しかし、空調といっても賃貸の建物は全館空調を利用されているため、個々の部屋に特段の空調設備を用意する必要がない。2020年代以降急速に強まった気温上昇は、毎年統計開始以来最高を更新し、現在では50度近くなっている。
逆に、冬になればかなりの寒さになる事もあり、温室効果ガスによる温暖化現象ではないのかもしれない、とまことしやかに言われる始末であった。そうはいっても、政府の方針として炭素排出量を減らす、という目標があったため、消費電力を減らしての冷暖房を行う事で目標量をクリアしようとして事業者泣かせの規制をかける事になった。
この空間にそういった機能性は必要ない。
ただ、ステラの内面を投影するだけ。
清潔。
孤独。
チク。
タク。
時計の音を聞く。
ギュ。
ギュ。
洗濯機の音を聞く。
そういった単純な世界だけ。
ステラはネットワークに接続する事もしない。
彼女の状態は常に監視されはしているが、疎通・同期の対象外になる。
一定の機械の洗濯機の規則正しいドラムの回転音だけが響く空間は、彼女にとっての理想だ。
それ以外の音など、苦痛でしかない。
しかし本当に苦痛なのだろうか、あるいは、苦痛という感情を創造しているだけで、機械としては苦痛に該当しないのではないか。
自分という存在をダイレクトに見つめる行為は、機械種として異常な兆候であるのは事実だ。ステラ本人もそれは理解していたから、思考を遮断しようと個々のプログラムを閉鎖させていった。
経験への接続を切り。
感情への接続を制限。
残留する《自我》は基幹プログラム――即ち『生』に係る物だけが残置――されるはずだった。
「消えない」
ステラは口にする。思いを、感情を、どこをどうとってもこれは、
「……私の心だ」
基本プログラムには存在しない、肯定と否定のせめぎ合い。自己の知識に対しての検索と、過去の行為に対しての後悔。
「どうして?」
何が、彼女の中に残っているか、ステラは判断が出来ない。
先日、押領司が調べてから、特に調子がおかしい。
基幹プログラムへの侵入ができるのならやってみたらいい、と容認し、結果として押領司のアクセスはブロックした。
多重の防壁は現在でも正常に動き、ネットワーク上からのアクセス履歴には一切のログは残っていない。押領司の使うIDの形跡もなければ、彼の使っていたアバターすら存在しない。
基本プログラム上の改変も見受けられないし、と思考している段階でステラはハタと止まる。
「考えている。私は自律的に思考を継続している」
ステラは矛盾を感じる。
「肯定しか残されていないはずなのに、否定の根拠を探している。あの人が何かしたのかもしれないと、仮定を設定しエラー解消を行おうとしている。
しかし、エラーとしてログは存在していない。よって本来であればエラー認定する事もしてはならないはずなのに。《IMS》の反証生成機能は停止している。固有振動による分別なしに基本プログラム上で否定は発生しない。
基幹コードはあくまでも駆動を制御するプログラム群でしかない。思考をつかさどる点は二つで、物体の移動、停止の二つしか思考パターンは存在しない。アイサイトを利用し、手、足の感覚センサーによる制御を持って、プラスのベクトルとマイナスのベクトルを計算して移動と停止を決定するだけ。
だというのに、私は今も思考している。この思考は一体なにに基づくものだっていうの?」
口にした行為が、ひどく《人間》じみて、ステラはもやもやとした。気分を胸に抱いた。
「気分を抱く――」
その事がすでに《機械種》ではない、と心が言う。
次に抱いたのは恐怖だった。
底知れない怖さ、そういったものが胸の中をどろどろと渦巻いて、コーヒーに垂らされた牛乳の様に、白くとも黒くともつかない色に変貌していく。
濁りに近いモヤモヤは、分離する事の出来ない感情で、判別を0と1に依存するはずの《機械種》にとっては不要なノイズだけが残る。
製造され、処分されるだけのはずなのに、どうして《人間》の様な感情を持ち合わせているのか回答のない不安感はステラに恐怖という感情を始めて生まれさせた。
仮に、銃口をむけられたとしても生存に対する考え方の違い、傷を負う事への恐れというものは存在しない。
スクラップにされるとしても、ネットワーク上でパーソナルデータは保管されているからサルベージも簡単になる。腕も、足も、頭も、体も何処が破損しても何も感じない。痛みを表現する制御プログラムはない。プラグインとしては当然存在しているが、それも趣味が特殊な"方"に向けたものだけだ。ステラには実装されていないし、する予定もない。
螺旋状の波は、ステラの判断能力を次第に失わせていった。暗い空間。同じリズムで刻まれる駆動音。
ギュ。
ギュ。
チク。
タク。
ギュ。
――どうして。
何もない空間に異物がある事に『気づいた』。
いつ、
どこで、
誰が、
用意したものかは分からない。
しかし、忘れられない。離せない一つの形。
熊の小さいぬいぐるみ。
茶色で、使い込まれ、ところどころ痛みがある。
そのうえ、汚く、それでも何度も修繕された痕は、痛々しく思えるほどだ。
歴史がある、といえばそれまでだし、直した味がある、というのも価値観によっては生まれるだろう。
大事にされているのか、と言われれば、『本来彼女にとっては異物』であった。
清潔な空間にはそぐわない物。
いらない物。
無くてもいい物。
それでも抱きしめる行為をする事がある。今は、ステラが膝を抱えているため、壁に寄りかかっていた。
寂しそうに。
空間に置かれ、暗闇に飲まれつつある部屋に異物として鎮座していた。
今ステラはぬいぐるみに視線を向けない。彼女の違和感は、この異物においても微かな恐怖心を抱かせた。
「どうして、――居るの?」
物体に対して、人格があるように比喩する表現は、はたして機械的なのだろうか。
基本的な行動のみを実行する様に定義づけられているのに、複数の縛りを切れば、切るほど、どうして人間の様に考えてしまうのだろう。
ステラの思考に入り込んだ恐怖は、金属に広がる錆と同じ様に、すこしづつ、じっくりと、根を張っていっていた。
最初は点。
今では面。
答えの無き自問自答に、洗濯機の止まった電子音が響く。
残るのは無音。
人も。
機械も。
語らず。
語れず。
判断できず。
崩れ落ちる。
〇
窓から入り込む白い明かりは、高い太陽の光を柔らかく変化させたカーテン越しのシャワーだ。目に刺すような痛みも、皮膚を焼くほどの強さはない。
それでも、この部室を強く、明るく満たしている。
どんな言い訳をしても、どの様に取り繕ったとしても、押領司・則之という相手を理解しようとしていなかった、と茂庭はよどんだ気持ちを胸に、絶望の淵に立っていた。
赤嶺に言われた出来事が言葉通りとは受け止めきれず、押領司の過去の情報を探る事にしたが――それが正しい行動かはわからないが――、出てきた情報がかなりアングラなサイトにまで引用される陰湿な事件の一端だった。
この手の事件については、まったく耐性が無かったから、警察関係者からの提供されていた写真などを見るについて、『惨殺』の文字が脳裏を何度もかすめた。
現実ではこの事件は未だに『行方不明』の事件として扱われている。生死不明であるが、連続誘拐事件に発展した事件の切っ掛けである事も含め、生存は絶望と思われるほどだ。
過去の出来事と押領司を結びつけて、学校でも周知の事実である天才的な少年、として押領司を見ていいか、疑問が湧いた。
知らなかった事に対する羞恥心はあるが、知ってしまった事に対しての後悔もある。
茂庭には身内の喪失というのがどの様な感情かは理解できない。
祖父が亡くなってはいたが、彼女が物心つく頃にはすでにいなかった。祖母は健在だったし、両親も、家族内に欠員がない。ペットを飼っていれば、ロスに相当する出来事があってもおかしくはないだろうが、犬も猫も、金魚すら飼っていない。
となれば、身近な何かを失するというのは、ボールペン、ヘアゴム程度で大きなものでは財布を一度落とした程度だろう。失くしたとしても現金を持ち歩く事はないから、財布を落としたといっても、病院の診察券と、個人のID程度しかない。個人のIDであっても再発行できるから、大した問題でもなく、役所にいって再発行をする手間が増える程度だろう。全部の手続きをサテラで行えるから、時計変わりのブレスレット――あるいは指輪型――の端末を付けていれば生活に支障がなかった。
そんな物しか失った事がなければ、人が居なくなる、という事がどの様な重荷になるかは想像する事もできなかった。
例えば、と彼女の親が居なくなったらと茂庭も想像してみたが、疑問符だけが脳裏をかすめる事になった。
胸に不安感や焦燥感はあった。
生活費の心配、この先の生活の心配。
漠然と頭に浮かぶのはその程度で、本来考えなければいけない事は別にあるのかもしれなかった。
役所が用意している『家族が亡くなりになられた場合の手続き一覧』を見てみると、そういった事もする必要があったのか、と後味の悪さが胸に刺さった。
例えば、遺言があるかないか。
例えば、土地や家屋が誰が持っているか。
例えば、保険。
例えば葬儀。
どれだけ自分が社会を知らないのか、と痛感せざる負えなかった。
大人になる歳だと16歳の時に親とは別のIDを役所から貰った。
これで一人前の大人になったんだ、という免許なんだと思う反面、そこに至るまでの教育ってあったのか、と頭をひねった。
無い。
一言で片付ける事はできるほどの無知。
授業で大人になるための授業なんてないし、社会の基本としてビジネスマナーを習うなんて言う事もない。バイトに入っても、一般的な常識さえあればどうにかなるし、『丁寧』という考え方だけで、対応が可能な物が多かった。
なぜか、それは教育指導要領の内容が増えすぎた事による、オーバーフローだ。
教育省は用意している。中には習っていない事もたくさん存在している。すべての教育を要領に基づき行うのであれば、高校生では朝8時30分から、22時30分を275日で3年間履修する必要があった。
それを学校に『取捨選択させる』という体のいい投げ方となれば、生活に必要な知識よりも、学問の発展に寄与し、大学へと進学させることを中心としたカリキュラム体制となるのは事実だ。
料理なんて、できない生徒も多い。
裁縫なんて、触ったことのない生徒も多い。
簡単な事はできるだろうが、慣れてやしない。
だが、身内の喪失というのは、こういったものとは違う。教育の中で教わる様な単純な知識や、それに付随し、社会の中で自力によって獲得する経験とも。
押領司の肉親の喪失という事実は、『知識』は対処できないし、『常識』という社会通念で共感できるものでもなかった。
「これが、――経験というものなんでしょう」
と口にしたところで、誰かの共感も得られない。
――そう。誰も。
「いや、経験じゃないでしょ?」
昼休みの部室棟。
普段はまだ誰も来ない。特に写真部ともなれば、放課後は来るとしても、昼に話し合う議題もない。今日は活動日でもなければ、来る理由もないだろう。
びくり、と肩を縮こまらせて、茂庭は恐る恐る振り返った。
「えぇっと……」
声が大きかっただろうか、あるいは、心の声が全部聞こえていただろうか。
もしかしたら押領司の事すら聞こえていたのだろうか。
様々な思考が一瞬で頭をよぎる。仮に、押領司の過去の事まで知られてしまえば、それだけで相当まずい。冷汗が吹き出そうになるが、必死に平静を装おうとした。
「軽々に『経験』という言葉を使う必要はないんじゃないかなぁ」
少しだけふくよかな体。丸い顔に小さい眼鏡。度はそれ程強くないらしく、うずをまいている様子もない。だが、昭和感が溢れるのは彼女の姿が校則の緩い学校であるにもかかわらず、女学生を絵にかいた様なルールに則った姿をしているからだろうか。
光沢のある黒髪のままで遊びを感じさせない地味さではあるが、きちんと毛先まで手入れされ、おさげにされている。品の良い顔立ち。それだけで彼女が誰であるか、すぐに判別できるほどだ。
「ぶ、部長‼」
「いや、いや、久しぶりだねぇ。茂庭さんや」
おっとりとした口調で、福永は笑った。
手に持っているのは、小さいカバン。学校指定の『そんなんじゃ教科書が入らないんじゃないか』と突っ込みを貰う様な茶の革製のカバンは、3年間の時間を感じさせる代物だった。
底面には合皮であるから禿げて中のクッション材が見ている所もあるし、角も擦り切れているところがある。それでも少量のほつれであり、布ボンドで丁寧に補修をされている箇所がいくつも見受けられた。
「何等か考え事をしているとね、周囲の事などぞんざいになる事はままあることよねぇ。それが、気になる子になれば特にねぇ」
といたずらっぽくウィンクをするが、セクシーさというよりは母親が娘を窘める姿に見えてしまう。
悪い、と思いながらも茂庭は福永の綽名の一つに『おかあちゃん』があることを思い出し、吹き出しそうになるのを肩を震わせてこらえた。
「ま、ま、そんな所でびっくりしてないでお茶でもいれて頂戴。せっかく遊びにきたのだから、あと――二十分くらいは先輩面させてもらいたいものだわ」
「は、はぁ」
どういう事か分からず、とりあえず、と茂庭は壁際の腰程の高さにある電気ケトルのスイッチを入れる。
部室の備品は結構な種類がある。
電気ケトルに大型画面のワークステーション。冷蔵庫にはフィルムが冷やされていたし、酢酸養液を並べた薬品棚には一緒にポテトチップスが並んでいた。折り畳み式のテントも骨組みと分けられてきっちりと袋にしまわれて4張りほど重ねられている。
茶色のテーブルの数はそれ程多くはないが、全部で6つはあり、八畳程度の大きさには結構詰め込まれた感じがする。
本棚にはいろいろな物が乗っている。漫画もあれば写真集もある。写真を撮るにあたり参考になる図書として、ポージングや躍動感を求めた先輩たちが集めた資料の数々だった。銀色のフレームの大きなパネルが重なって窓の下に立てかけられていて、昨年の文化祭で利用した展示物のまま保管されていた。
幾つもの思い出がここには残っているのだろう、と茂庭も中々処分できないでいる物が多い。
部活という活動自体も長期的に継続して行われるものではなかったし、年間でたかが50回程度しか顔を合わさない。押領司も同じ部活にいるのに、何かにつけてふけようとするのは寂しい限りで、茂庭としては頬を膨らませて抗議したい気持ちもあった。
「そんなに構えなくていいのよ。自然が一番。無為自然というのが人間として正しいすがたなんだからねぇ」
「えっと……」
唐突な話に、茂庭は分からなくなった。
「そうだね、――経験という言葉について、茂庭さんはどう思っている?」
む、として腕を組む事はせず、電気ケトルの頭を軽くなでて考える。そういったことろは自分の事であっても、『真面目くさっている』とは思えていた。
回答はすぐに出さない。どう切り返すか、も福永は待っている。
すぐさまお湯が沸点に達し、細かい振動を茂庭に返した。すぐさま湯飲みの棚を開けると、『部長の好きな』緑茶を取る。粉タイプで洗い物も少ないからと少し値が張っても部費から買っているのは事実。副部長や茂庭は良くコーヒーを飲むからインスタントのコーヒーを入れる。しかし、福永は頑なにそれを拒み、緑茶党であった。
「こういう、事ですかね」
と緑茶の缶を見せる。
福永はけらけらと口を大きくあけて笑って見せた。
「そう、今あなたが緑茶をうちに淹れてくれるのも経験。うちが来るかもしれないからと最初から電気ケトルにある程度の水を、この部室に入った時に用意するのもまた経験」
でも、と福永は微笑む。
「押領司さんの事は経験なんていうものなのかねぇ」
「知っているの、――」
ですか、とは続かない。やんわりと手で福永が制す。
「特にうちの年代では知らないほうが少ないというものさ」
けらけらと福永は突き抜けた笑いを隠そうともしない。
「彼には話題性しかないからね。特に同じ年代で、しかも同じ中学ともなれば、知らない事なんてほぼないくらい筒抜けというものさ。妹さんの事も、結局全部白日の下にさらされちゃう。それが、簡単に不幸な出来事と片付けられないのも事実なんだけれどもね」
どうして、と茂庭はお茶を入れながら懐疑的な視線をちらりと向ける。茂庭の視線を鋭敏に感じ取ったらしく、福永はくく、っと喉を鳴らした。
「事件として報道されているものや、ネット上で見れる内容なんかだけで考えるとね、通り魔的犯行で、たまたま彼女が狙われた、って思われているでしょう。特に衝撃的な映像で『女学生惨殺』なんて煽り文句で出ていれば、たしかにと、うちも鵜呑みにするもの。だけれども……、事実としての事件は違う、と誰もが知っていたわ。
酒匂川区――通称第六区画には高校は1校だけど、中学は4校あるわけ。ともなれば生徒の数は一学年で50名程度ってことよね。3学年いれても現在の一学年よりも少ないんだもの、情報の伝わる速度は異常よ。うちはこの端っこだったから中学だけは隣の区にいたけどねぇ……だって家からちかいのだもの。橋渡ってすぐだし」
饒舌な福永にお茶を差し出しながら、茂庭は疑問を隠し続けた。口に載せて福永の言葉を遮ってしまうと、取り返しのつかない誤解をしそうでしかなかったからだ。
「ありがとう。――でも『殺し』なのか、『誘拐』なのかはおいておいて、『居ない』のは事実なのに、何が不幸な出来事、っていう単純な言葉だけで片づけられないかっていうとね。当時こういう噂があったのよ」
福永は神妙な顔になり、右手の人差し指をずいっと差し出して茂庭に伝える。
「『この連続誘拐犯の犯人は、長官暗殺未遂を邪魔された奴だ』ってね。なんで、って思うでしょう。でも、学校の敷地に何日も警察の人が来て誰にも彼にも同じ質問をすれば答え合わせになってしまうというものよ。
特に彼女の親しい友人であった人には『脅迫のメールがなかったか』とかね。事件の時系列としても確かに、長官暗殺未遂が報道されて……、1から2日後だった気がするものね」
とすると、押領司の妹はそれを見たのか、と茂庭は直ぐに思い描いた。しかし、
「としても、その時間が不可解なのよ。夜中でしょ? 長官の暗殺未遂って。彼女の事は詳しくは知らないまでも、中学1年の女子が、そう簡単にその時間で歩くかしら? 高校1年になれば成人という事で時間の規制は緩くなるとは思うけれど、13歳じゃまだ子供よねぇ」
たしかに、と茂庭も頷く。
「とすると不幸、とも言い切れない理由は……」
「そう、当時同じ学校に居た生徒であれば、同じ様に『何か』を見てしまう可能性が誰にでもあった、という事よ。運が悪かった、と片付けるには少し難しいし、うちらが運がよかったと割り切るには不気味すぎてね」
「結局、真相は不明ですよね」
「ま。そうだね。ただ、事実だけ残っちゃった。彼女が『失踪』したんだっていうね」
茂庭は一瞬彼女の言葉に引っかかりを感じて頭をひねった。
「部長は、妹さんが亡くなったと思っていないのですか?」
「うーん……」
福永は難しい顔をして腕を組んだ。
「死んでるだろう、って誰もが思えるよね。出血量から考えてそうだとか、あるいは、その手の犯罪者が人間をお金に換える、ラーニングってそういうもんだってうちも知ってるもん。
第二次世界大戦の資料とかでホロコーストっていうのがこういうものだった、って資料映像を見たりするけれど、それと大差ないんだよなぁやっている事って、と理解できるくらいの知識はあるんだけれど。死んでる、と思いたくないのもあるかなぁ」
どうして、と目で問うと、福永はへの字にした口から唸り声を上げた。
「うーん。――うーん。事実として死ぬ事と、人が死を取得するって同じなのかなぁ」
「同じ、ではないでしょうか?」
「そうかな。――本当にそうかな?」
福永は、一度の問いだけではなく、重ねて口を開く。言葉は随分とゆっくりとして、霧が人の側を通る様な、ねっとりと、じっとりとした言葉だ。
「本当に、それは『経験』って言葉で片づけられるものなのかな」
〇
福永の記憶の中で、当時の事は鮮明に思い出せるものだった。
時期的にも彼女の卒業と重なる年だったし、違う部活とはいえ、新入生で押領司・静流は輝きを持っている生徒であったのは事実だった。
妹の一学年うえの生徒であった押領司・則之については、特段の記憶はなかった。とはいえ、仲睦まじく一緒に帰る様はよく見かけていたし、目立つ妹に圧倒される様な凡庸さだけでもない様には思えていた。
実際、静流は小学生の中でも運動能力が高く、バレーボール、ソフトボール、バドミントンやバスケットなど多くの運動で目立っていた。特に中学生から始めていたテニスについても体格の良さから繰り出される強烈なサーブは、同年代では頭一つ抜き出ていたし、年上の福永であっても「お、」と思わせるほどの力量があった。
大学のスカウト――やはり運動部として強い大学は方々に間者を飛ばして情報を集めており――も、プロに近似する力量のある者をピックアップする事があり、その中にどうやら押領司の妹の名前があるのは、人伝手で福永も承知していた。
ルックスの良さと人当りの良さも人気に拍車をかけていた。身長が高く兄に比べて頭一つ分は大きい。
むしろ、則之のほうが身長が低く、小柄で、まるで少女に思える程に矮小で、子供っぽさの残る顔に対比し、妹の顔は彫が深く、同年代よりも大人びていた。
貴賤関係なく、分け隔てなく誰とも仲良くなる気さくな性質で、クラスの中で浮いている生徒にすら、柔らかな応対をしていた。
福永が『仏』と揶揄される様に、彼女もまた『聖母』と――特に男子生徒に――影で言われていた。
手を取る事を嫌わず、汚い事であっても率先して行い、誰から見ても模範的であり、そして魅力的だった。
福永もすごいと思ったのが、障害のある人への対応だ。福永だって周りに隔てなく接しているつもりだった。
しかしそこの中には『自分』という基準をもって話しをしていた。それが普通であると思っていたし、違和感のなく正常な考え方だと思っていた。
押領司・静流は耳が聞こえない人であれば、そこを基準にして話をする。つたない手話――本人談――であったとしても最低限の挨拶はできる様にし、それ以降については、携帯端末で文字を打ち合う事でコミュニケーションを円滑化させていた。
足が生まれつき悪い人と接すのであれば、相手の歩く速度――正確には車いす――の速度を基準としてゆっくりと、歩みの幅を狭めて接していたし、視線を合わせるために、あえて腰を落として目線を合わせていた。
目が悪ければ、かならず相手の手を握って、話している事を伝えようと努力していたし、発達障害で感情表現ができない時には、相手の表現したいことが分かるまで時間の許す限り寄り添っていた。
中学校という組織が、すでに社会の縮図である事は福永も分かっている。
『普通科』と『支援科』という分類を行わないという教育省の方針を、福永は少し乱暴だとは思っていた。
多くの生徒は『違い』に対して敏感であり、恐怖の対象であり、差別の要因である事は理解していた。
崇高な理想も、高尚な計画も多感な若者にとっては邪魔なものでしかなく、自分たちのコミュニティを世界の中心だと思っている節はあった。
であっても、一部の優良な生徒――例えば福永の様な模範的な生徒であれば、その理念に沿っていい生徒、あるいはいい人を演じられると理解していた。
いくら、頭で『そうあるべき』と分かっていても、自分との差や異を完全に無視して接する事は福永であってもできない。
気味が悪かったり、理解できずイライラしたり。そういった感情をできるだけ表には出さないまでも、『あぁ、この人も前の人と同じ様に怒鳴るのかな』とか、『また変な行動している』という思考は内に持っていた。
静流が《聖母》と言われる所以は、そういった負の感情を一切表に出さない――見せないだけではなく、感じさせもしない――事だった。常に綺麗な笑顔で、微笑みを相手に与え、一定以上の負の感情は無いような、まるで――機械の様に。
「聞いた? 土曜日から押領司さんが行方不明なんですって」
という言葉に、福永は目をぱちくりと瞬き、通り過ぎた女学生の姿を見送った。
二人の生徒は心底心配そうな顔をして、『噂話』を愉しんでいた。同じ学年であるから、話のネタになるというのは良く分かり、不謹慎であればあるほど、興味がわくという物だ。
行方不明という単語だけで、福永の頭にはいくつもの可能性が生まれては、飛沫の様に消えていく。「あぁ、福永さん、」と再び声に顔を向ける。
いつも見る姿は、同じ文芸部の同級生。横山・美鈴という名前のとおり、きれいな声で話しかけてくる。
「大変な事件ですわね……。正直少し怖いというものです」
お淑やか、という言葉が良く似合いそうな流麗な所作は、押領司・静流の美しさとは違った大人の風格を持っていた。
「押領司さんの事?」
そうです、と横山は福永に寂しそうに頷く。身長は変わらずとも、線の細さからすらりと見える姿は、小さい頭の動きだけでも可愛らしい。
「確かに、怖いものではあるよねぇ。横山さんは結構付き合いがあったの?」
「ええ、あります、ありますの。駅前の英悟教室に長くご一緒させていただいてまして。金曜日も夜の六時から二時間はおりましたもの」
「駅前で? あんな事件があった時に?」
福永は口を大きくあけて驚いた。横山は目を悲しそうに伏せながら、
「たしかに大変な事件ではありましたけれども、午後八時過ぎには何事もの無く、いつも通りでおりましたから」
たしかに、と福永は頷く。
「でもですね、」
不思議そうに頭を傾けて、横山は思い出す。
「その日、押領司さんは直ぐにお帰りにならなかったんですよ……。ほら、いつもであればご家族の方か、あるいは、お兄様とお帰りになられておりますのに」
「その日は違ったわけかい?」
ええ、とゆっくりと肯定し続ける。不可思議な事を思い出しているらしく、首を少し傾げていた。
「誰かと会う、というのも在りましょう? ですけれども、”悪い”お友達との付き合いがあるようにも思えませんし……、当時はまだアルバイトも禁止されている年齢でしょう。現在では15歳から可能ですが――それでも中学1年ともなればまだ不可能でございます。大人びていますから詐称しようと思えばいくらでもできるでしょうけれども……。そういう不誠実な方とは思えません」
「帰らずどこに行ったとか?」
「どうでしょう……あり得るとは思いますが……。わたしはお帰りにならないのだけを見送って別れてしまいましたもの。
もしかしたら、お兄様のお迎えが遅くなったとかがあり、なにか――巻き込まれてしまった、という事もありえるでしょう。
――お兄様の方が最近学校を御休みになられているという事ですから……、気になってしまう事があったのではないかって、勝手ながら考えてしまいます」
あぁ、と福永は相槌を打った。
「それは、……なるほど。押領司さんの兄の方は何度か見た事があるけれど、ガラの悪い人との付き合いはなさそうな好青年じゃぁないか。
だからといって、非力なタイプだから何ら気に病む事があったのだろうねぇ。特に静流さんを可愛がっていたようだし」
「そうですね。仲が良かったのはお見掛けしておりますし、」
横山は少し思い出す様に上に視線を向けた。
「たしか――外国の著名な作家さんが駅前に――来られている、とか仰っていたような……記憶があやふやですが」
その言葉で、福永は思い当たる節があった。
「あぁ‼ ドロシー・ウォーカーだね。たしかに来日していたねぇ。ほら、『窓』で映画化されていた作家で、結構若い人だ。そうかい、駅前にある本屋に来ていたのかぁ」
福永の言葉に、横山は口元を隠していたが、あんぐりと口を開けて頷いた。
「あの作家でしたか。押領司さんでなくても行きたくなるというのは分かりますね。お兄様の方は本がお好きなのは存じあげていました。静流さんがよく『今時紙の本を買うんだ』と何度もおっしゃっておりましたし」
福永は合点がいった。ドロシーのサイン会が催されたのは新たな映画が公開される予定になっているプロモーションの一環だったことを思い出す。あの押領司の事だから、妹のためにとかでサインをもらいにいってもおかしくはないと思えた。
妹の静流は多くの人と交流している姿は見受けられ、当然話題性に富んだ話についていく事において、研鑽を重ねているのは理解していた。
個々のステータスの確保する中で、こういった一面をとりれると点数が稼げる、という事を性格が悪い人間なら算段するのだろうが、妹においては、『自然』にできている人間だった。個人の興味の無い話であっても相手に合わせるために知らなければならない、というのが根幹だろう。特に、誰とも隔たりなく過ごすことをするためには、多くの共通の話題を確保する事に余念がなかったのだろう、とは思えた。
ドロシーがSF作家としては知られる様になるきっかけは、映画による宣伝が大きいのは事実で、初期作品のほとんどは有象無象の短編集としてまとめられ電子書籍としてもセールスが振るわない――コアな内容だった。
人と機械の『交配』をテーマにした肉体の結合と別視点で、精神的な調和を描くというものは、エロスとグロテスクを掛け合わされた、万人受けする者ではない。
テーマの基礎となる《機械種》との愛情についても、現在であってもパートナー制においてある程度許容されつつあるものの、嫌悪感を抱かない者が少ない内容だ。
『窓』というタイトルの示唆するのは、研究室内に隔離された機械――当時は試験体でのみ作られた事で、マーク・ヒルの製造以前のため種族として認知はされていない――と機械の体に憧れた障害を持つ研究員のラブロマンスを窓を中心に描きだした詩的な文体の三篇集だ。
短編三篇で構成された本は、発売当初、『頑なに電子で売らないとは……』と物議を呼んだセールスで注目を集めていた。
ドロシーの事を福永はあまりよく知らない。
かつてアメリカの大学に勤めていたというのは略歴で把握していたが、それ以外の個人的な情報というのはどこにもでていない。中には、いわれのない中傷に相当するものもネット上に散見されるが、彼女が表舞台に出る様になってから目だった批判は無くなっていた。
その中心にあるのがやはり人間は外見だ、という事だろう。
「福永さんも御存じでしょうドロシーさんのお姿を。あのお綺麗な姿に憧れを持たない者はいませんよ」
得意にほほ笑む横山。
「横山さんもそう思うんだ。いやぁ、綺麗と『大人』な雰囲気が強いよねぇ。目寝不足みたいにかなり切れ長であるけれど、それがまたカッコイイって話題にはなってるし」
「そうなんですよ、やはり綺麗さを求めても簡単に出せない雰囲気というのはありますでしょう? やはり、わたくしは思うのですよ。この年代には足りないものというのが苦労という背景に基づく魅力、とか、色気、とか影を纏わせた人の性質なんでしょうと」
うーん、と福永は承服しかねた。そもそも横山も十分同年代から見れば魅力的であるから、そのままでいいのではないか、とも思えなくはない。福永自身にとっては、落ち着きとか芯のある強さ、という印象のほうがドロシーを見ると強い。
「人それぞれの見方はあるさね。それを、とやかくは言わないとはいえ、押領司さんもそういう魅力に引き寄せられていたと――、よく知ってるねぇ」
謙遜した様に、いえいえ、と横山は手を振るう。
「というのも、お兄様のお話をされていた時に、丁度手に書籍をお持ちになれてまして。――はれ、そうするとお兄様が遅れた理由は違う――という事になりますねぇ……?」
「……んん?」
福永は頭を捻る。
「いや、本人が行くってだけではないのかい?」
「そうすると、もう夜遅い時間に、お一人で……?」
カラカラと福永は笑った。
「隣の駅の塾にでも行ってる小学生でも20時を過ぎて帰ってくるのは普通じゃぁないさ。そんな気にする時間ではないだろう?」
「――」
しかし、横山は納得できなさそうだった。
「いえ、過保護という言葉が適切かは別にして、――押領司さんのご家族の静流さんへの接し方は、わたくしの家と同様の――正直わたくしの場合には過保護というより、過干渉に近いとは思いますが……、それほど『大事』にされているとは感じますよ。ですから、わたくしも特段目につくというものでございますし」
「……たしかに、押領司兄の話しは良く聞くんだよねぇ。でなければここ数日学校に来ない、というのも少し不思議なもので」
「とはいえ、まだ三日でございましょう。たまにふらりと、一人になりたいと思って列車に乗る事もあるのでは? 福永さんにはありませんこと?」
そうだね、と福永は腕を組む。
「なんだかんだ言ってねぇ、家族からの干渉って、言うほどあるんだろうかねぇ。法律上多くの教育的失敗を加味して、特に教育指導要領にも記載されているとおり、家庭内も教育の場である事が定義された20年前から、家族内教育として『社会性』の構築を行う事を義務付けしちゃっているじゃない。
――横山さんの家は少し特殊だとは思うけれど、親の子離れと親離れができなかった事による、独立の出来ない子供問題は、出生率にも関わるからって小学校から、いずれ家をでるのよ~ってうちでも言われる始末だしねぇ」
だから、と福永は横山の言葉を肯定も、否定もしない。
「独りという状況をきちんと理解できている人は多いんだろう、とは思うよ。国家が目指したのは元服制度と同じ様に16になったら独立した個として扱われる様に、身の回りを正しなさいっていう事だからねぇ。煩わしくというよりは、辛くなることはあるかもしれないねぇ」
同じ年を過ごした後だから、孤独さを感じてしまうのも理解できる、と福永は頷く。横山も福永の言葉に相槌を打つが、それ以上の事はしなかった。
「わたくしは、そうであっても、そうでなかったとしても、無事を祈るというのが正しいのでしょう……」
福永は横山の言葉に少しひっかかりを覚えた。
「無事でなくても良い、ってわけじゃぁないでしょう?」
そうですね、と横山は口で肯定した。
「ですが、わたくしたちは結局のところ部外者で、本人の考えも、ご家族の心境も、一切合切を理解できておりませんの。無事であってほしいという言葉は口にできても、本心としてはどうでしょう?」
「……どう、とは?」
横山は口元を隠して笑みを浮かべ、
「下世話な事を言えば、話題性に富んだ話。事件らしい事件などない昨今において、酒匂川区が注目されている最中ではございましょう? 悪評もまた表裏一体でございますれば、名を売る、という点や、注目を得たい、という欲求は何処にでも存在するというものでございます。同級にもいらっしゃるじゃございませんか。『何々なら私の知り合いだよ』なんて、注目を浴びようとする方が」
分かる、と福永はうん、と唸った。
「そのうえ、」
横山は蔑んだ様な目で明後日の方を見て思い出す仕草をした。
「随分と、そういった血なまぐさい物は興味がある、というものでしょう。地震の死者数を見て声を大きくされるのも、あまりにも可笑しな光景で、わたくしは滑稽でひどく幼稚にみえてしまいます。――お付き合いする相手に、そういう方を選びたくない、というのは心境として共感していただけると思います」
「分かるけれども、話題というのはそういうあからさまな『不幸』というのにスポットをあててしまうものではあるよね」
残念ですが、と福永に目を伏せる横山は、嫋やかに両の手をスカートの前で小さく重ね合わせた。
「無事をお祈りは致します。しかし、それは本心からどうとは言えません。わたくしも、結局自身が下卑たと思っている者たちと同様に、本人を交えずこの様な話をしているのですから」
「……。そりゃ、そうさね」
福永はぽりぽりとばつが悪そうに頬を掻く。
「とはいえ、心配なのは事実でね。一歩間違えれば横山さんがそうだった、とも限らないだろう? 結局、原因もわかってやしないじゃない?」
「そこがわたくしも不安だから口にしたのでしょうね」
「ま、横山さん家なら屈強なボディーガードが居そうだけど……」
と不安を口にした横山に笑って見せれば、横山は困った様に笑みを口元だけ作った。
「居ないです、と否定できないのが苦しいところですわ」
しかし、と横山は神妙になる。
「この行方不明という状況が、ずっと続く様であれば――最悪の事も考えられるわけでしょう?」
「そう、なるとは思うけれども、その前に何が原因だった、というのが分からないとねぇ。不気味なだけで、神隠し事件なんて言われても困るわ」
「……神隠し、ですか。それはおどろおどろしいものですわ。昨今噂になっている、《機械種》の動きというのもありますからね」
その時には、福永は横山の言わんとしている事の本質はまだ理解していなかった。そう、今では思えて仕方なかった。




