<9月12日 押領司・則之>
手を開いて、一瞬だけ力を込めて強くグーの形に指を握り込んだ。
押領司・則之の指先はすぐさま白く変化し、ぎりぎりと軋む様な音を指先から細い指を通って脳天に伝えた。秋の空に浮かぶオレンジ色に染め上げられた雲たちの自由に泳ぐ様が、今、押領司の胸の中にある不自由さから、とてつもなく羨ましく思えていた。
いくら雲であっても大気の流れや、気圧の変化の影響をうけて、本当の意味で自由ではない事は、押領司はよく理解していたが、それでも、『風に揺られるまま右に左に』という姿を、束縛性のなさと同等に感じるには十分すぎるほど憂鬱だった。
例えば人よりも身長が低いとか、くせっけで犬っころみたいと笑われたり、目の周りの熊から、パンダじゃないか、などと言われた事などが憂鬱だったわけではない。
高校二年になって半年近くたったが、ここまで憂鬱になるというのはなぜか、と頭を捻る。普通の少年として生活しているだけなのに、気づいたら普通ではない世界から救世主の様に扱われていたとなれば、細い精神の負担は伸び切った輪ゴムを弾いたときの様に甲高い悲鳴を上げている。
そのことを口にしたところで、誰も理解ができないとくれば、相談らしい相談は後回しになり、自分でもわからない歪を心の中にいくつも抱えていた。何等かの衝撃が加わればひび割れたガラスのコップの様に簡単に四散するだろう、という事は理解できてていも、完璧な補修材の一つでも心当たりがないのであるから、こうして茜色に変わっている空を見上げて、『あぁ、雲が綺麗だなぁ』と黄昏たくもなった。
「そりゃ、」呆れた声でいがぐり頭をした鵜飼・博がベンチに座ったまま、虚空を見上げる押領司の前で、バットを振りながら注意する。押領司はグリーンのネットが張られ、それ以上建物よりにボールが飛ばないように整備された、球種選択のできるコンソールの傍にいながら、押領司が少しだけ視線をさげて鵜飼を見た。
「歴史に残る事件の解決者として、合衆国の雑誌にも載ったんだから、"一般人"ぶるのは――っ無理っしょ? ――っ、そもそも、自分が一般人ぶるっていうのは、大金持ちが”私貧乏にんなんですぅ”とかいっている――っ、みたいで腹にくるけどな!」
カンッと高い音をたって金属バットに当たった球が、投球マシーンの頭上を通り超えて、ネットに当たった。金属のこすれるような軽い音を響かせて白いボールは落ちて行く。行先は再びマシーンの所へ。循環する球は世界の縮図だな、と押領司は思った。
ただ一球の例外なく、最後には機械に飲み込まれ、再び同じ仕事をするためにマシーンから放り出される姿はある意味先ほど雲に求めていた自由性とは乖離していたが、それでも規格内の世界であることは事実で、その点においては一点の曇りもなく、『楽そう』だなぁと押領司には思えて仕方なかった。
押領司は力なく、白いボールがコロコロと転がる姿を目で追った。規則的に、一定間隔で、転がっていくボールのなんと『自由な』事か。決められた世界であってもグリーンの引かれた床の上を転がり、最終的に行きつく収集口にすっぽりと消えていく。
「その球みたいになりたい」力なくぼやく押領司に鵜飼が鼻で笑った。言っている意味をよく理解しているんだろう、と押領司も分かっていたから反論する気にはなれない。
「メンタル雑魚すぎて、やばい」言いながら再び百十キロの球を力強く打ち返す。鵜飼としても決して頭ごなしに罵倒しているわけではないのは理解していた。だから押領司も嫌な顔一つもしないで、鵜飼の動きだけを見ている。
鵜飼の動きは何度となく練習した動きだ。足に力をため、腰を回し、タイミングに合わせてインパクト。捩じる力を反発する力に変えて、内に秘めた情熱を力として、熱量を燃やしながら遠くへ延びるように仰角を付けて振り上げる。球の速さが早くなればなるほど、狙いをつけて行う事は難しい。
カーン、と今日一番の良い音をたてて球が飛んで行った。「お、」という言葉のとおり、富んでいった球は40度程度の角度を持っている。捩じり、少し引っ張る事でバッティングセンターの中央に掲げられたホームランを示す目玉に飛んで行った。FRPに当たった様で、押領司にとっては耳障りな痛そうだと感じる音が聞こえた。バーンとか破裂する様な音に近い。「やりぃ!」嬉しそうにバットを回して次の球への準備をする。
「一本驕りな!」と嬉しそうに言う鵜飼は歯を見せて笑う。自分と身長は対して変わらないのに、大人びた雰囲気は厳しい部活動の影響だろうか。精幹とまでいかなくとも、無駄を省かれた顔の表情は強い。
対して、表情筋があまり使われていないためか子犬にとえられる押領司は、ぼさぼさの毛の頭をひっかいて、「あーあ、」と押領司は項垂れた。
駅前にバッティングセンターといえば聞こえはいいが、関南都酒匂川区の駅前にはほとんど何もないのが実情だ。商店街も少しあったとしても『だだっ広い』空間はあちこちに目につく。
人口も最盛期の三分の一程度まで落ち込んだ日本の人口は急激な行政区分に引き直しが必要になった。おかげで東京都の一部は神奈川県、山梨県、千葉県、静岡県とくっついた。小田原市は六区に割り当てられる広大な敷地を持つ区に変化した。東は三浦半島、西は箱根という広さははっきり言って広すぎる。
群馬、栃木、茨城、埼玉と残りの東京都がくっつき、関北府になったのだからさらに分かりづらい。東京も特別区のほとんどが関北区。奥多摩から府中、調布などと、杉並、世田谷、太田が関南郡になったのはどういう嫌がらせだろう、と歴史を学ぶ時に小学生の頭を混乱させる要因になっていた。
横に長い第六区の中心は旧藤沢付近にするか、相模原付近にするか、はたまたネームバリューから考えて茅ケ崎などと議論された。結果、利便性の観点から紛糾したらしいが、なぜか端っこ、小田原市周辺に通っている酒匂川付近に区役所の本署が建てられた。理由は明白だった。少しでも"安い"所を望んだだけだ。
小田原市において影響のあったのは、駅の再整備だろう。もう数十年という月日がたっていたが、小田原駅の前にあった城址公園は綺麗に整理をされて酒匂川区中央公園の名前をうれしくもなくもらう事となった。小田原城という名前だけが切なく残り、象のいた区画はきれいさっぱり消えていた。
小高い山の様な傾斜が街のいたるところにあったはずにもかかわらず、急激な再編による埋設に使う土としてあっちこっちから切り出ししまくった関係で、非常に歩きやすい程の高低差が整えられ、『バリアフリーの行き届いた』都市構造になったのは良かった点かもしれない。
面倒臭い線引きがあったにもかかわらず、生活の基盤は何も変わらない。二十年前も、十年前も、生活の動きというのに変化は大きくはない。電車があり、車――自家用車というよりは自動運転式の公共交通機関としての再編がされたももの――が道を走る。ただ、自転車に乗る者が多くなった程度だろうか。
逆に、都市の構造の変化は大きい。小田原駅前にあった周辺の土地は掃除機をかけられた様に整備された。壮大な費用が計上され、逆にごみごみとしていたアーケード通りはそのまま拡張をされる形となった。飲み屋だって増えたし、バッティングセンターも建った。
が、人口が全国でも減少し続けたおかげで、押領司や鵜飼の通う関南第六高等学校はたった一学年100人程度にまで落ち込んでいる。3クラスあれば十分であり、私立高校が乱立した平成の時代を考えれば、今や「私立」というのは幽霊と同義語だった。
学ランの上着を色の抜けた青色のカバンに突っ込んだまま、押領司は立ち上がる。木製のベンチの後ろにある年季の入った自動販売機の前に来る。
この手の機械は大きくは変わらない。電子マネーは増えたが、結局お金という概念は常に存在するのだから機構が大きく変わる事はない。腕に付けられた電子機器を自動販売機に向けると残高を自動販売機の小さい電光掲示板に表示する。振り向きながら、押領司は「何にすんの」と鵜飼に尋ねた。
「そりゃ、――っいつもどおりの、ミネラルウォーターァァァアアア!」
カーンと高い音と共に最後の球を弾き飛ばした。いい音だったが少し高すぎる。
「フライだなぁ」
「ライトに取られて終わり。ゲームセット」押領司が背後にせせら笑う様に言うと、くそ、という言葉と共にゴンッと固い音をがした。
硬質のゴムマットに金属バットが当たった音だという事は分かっていたから押領司は振り返る事はない。いつも通り、軽く片腕でコンと叩く程度だろうと思うと、その音を聞きながら、緑色に光るボタンを押してペットボトルに入った水を買う。
ガゴンッ、酷い音をたててペットボトルが受け口に落ちるのが確認できると、再度点灯した緑色のボタン群を少し眺め、押領司は緑茶を選択。
押すという感覚すらないような軽いタッチで、緑茶が排出される。これでも年代物であるから、現代のタッチ式に比べれば十分に歴史を刻んでいるようだった。スイッチの一つ、コインの投入口の浅い傷。何度も押し込もうとした歴史が存在するというものだ。
「今時ジュース飲まないとか、ストイックすぎない?」
押領司の言葉に、鵜飼は防球ネットの合間からバットとヘルメットを持って居酒屋から出てくる中年男性の様にへらへらとした表情を浮かべて、軽快な足取りで出てきた。
「そりゃ、麻生ちゃんにかっこいいとこみせたいっしょ」
「……姉の方?」
まさか、と鵜飼はげらげらと笑いながら押領司が差し出したミネラルウォーターを受け取った。押領司は、鵜飼の趣味に口を出すつもりはなかったが、仮に気の強い姉を選んでいるのであれば、一言『死ぬぞ』と忠告でもしてやる気はあった。
しかし、鵜飼は気持ち悪い笑みを浮かべて、
「妹の方にきまってるっしょ」
「……ふーん」
興味なさそうな押領司ではあるが、額に小さい焦りの汗が浮かんでいた。妹であったとしても、一言言わなければならい気がする、と押領司は記憶の中にある情報を出すべきか、出さないべきか悩む。
目ざとくすぐに鵜飼が見つけ、「ん?、ん?」と煽るように下から見上げる。
その行動だけで、おそらく麻生姉ならば蹴りの一発でも居れている事だろう。危うく押領司ですら蹴りたくなるほど、うざったい表情なのだから。
鵜飼の顔がひきつった。
「なんか、ある……わけ、ないよ……な? まさか、オレの、噂……とか?」
直感的に硬直しながら問う鵜飼。
気の毒ではあるが、押領司は口に出すことを決めた。
「まぁ、麻生姉のほうが……それは、まぁ……酷いことを……」
押領司の『麻生姉』という言葉で察したらしく、鵜飼の左手にもっていた金属バットが虚し音をたてて滑り落ち、転がった。
「何を言っていた? なぁ、何を――言っていた? "あの"――事か?」
「え? 具体に聞く? 抉られると思うけど」
もうどうにでもなれという気持ちに切り替わった押領司は、ケロリとした声で尋ねた。鵜飼は、ぐっと言葉を飲み込んで渋い表情をした。バットを拾いなおして、ベンチの側まで行くと。声を絞り出した。
「言ってくれ……」という鵜飼の言葉は、ひどくかすれていた。
そうかい、と押領司はちょっとだけ勿体を付けた。手にしたお茶を一口飲み込んだ後、
「去年の平川さんとの事が大っぴらになりましてね」
バットをケースに収めながら渋い表情がさらにくしゃくしゃにしながら、鵜飼は呻いた。
「あれは……しかたのない事だったんだよ」
押領司の表情はそんなありきたりな弁明はするな、と雄弁に物語っている。
「んんん? 俺の聞き間違いでなけりゃ、痴漢行為に極度の興奮をする鵜飼・博が、冬場のストッキングに欲情したらしく、二人だけの教室でべろべろと平川さんの足を、彼女が嫌がる中舐めているのを伊藤センセが見つけたらしいじゃない。センセも感じた直感的なイヤラシサから一発鉄拳を入れたっていうのは有名で、概ね五メートル吹き飛んでいったって聞いたけど? 鉄拳制裁なんて伊藤センセにしては珍しいから一切問題ならなかったらしいじゃない。むしろ問題になったのは、鵜飼だけだ……」
鵜飼はくねくねと体を捩り、こそばゆさから逃れようとしていた。
そのミノムシみたいな哀れな姿を見て、押領司は声をひそめた。
「言っててなんだけど。……きも」
「ちがう!」
鵜飼はドン引きし、一歩下がる押領司に詰め寄った。
「あれは……」
「おい、変態。弁明は200文字までだ」
長ったらしい弁解など押領司は聞きたくなかったから、冷めた目で厳しい条件を付ける。しばらくすると鵜飼は、絞り出す。
「平川さんの足は舐めてなくて、黒板消しのチョークの粉が――つうか今時よくチョークと黒板何か使ってんだよ! んで、吹いてただけだって! ほら! さわやかな吐息で優しくさ!」
「……舌でって聞いたけど?」
半分目で避難する押領司に、即座に反論
「違わい!」という鵜飼の否定にも、押領司は懐疑的な視線を向ける。
押領司と鵜飼の短い。同じクラスになったのも今年になってからだ。だというのに四月早々に変態行動を起こし、一週間の停学をくらったのはもはや半ば伝説と化している。
その事実をもって、信じろというのが無理な話だ。と思った途端、押領司は口に乗せた。
「あのさ。噂だけじゃなくて事実で一週間も居なくなったんだから、何かやましい事あったんでしょ?」
「――いや、無い」
きっぱりと断言する鵜飼に対して何処まで疑義を伝えるべきか、押領司は悩んだ。
同じクラスですら緘口令が敷かれている出来事を、麻生姉妹が知ってどんな反応をしたか、事細かに説明して傷をえぐってやった方が身のためなのではないか、と本気で思えて仕方なかった。
だが、相手は友達だろう。
おそらく、そういう関係だと認知している。
しかし、その友達というステータスをかなぐり捨てて、一般人として距離を取りたいとすら思ってしまう。
一言で言えば変態だ。変態がいるのだ。目の前に。
じぃっと見つめると、鵜飼はバツが悪そうに視線を外した。
「た、確かに少しは、あったかも……」
「少し?」
「いや、その、合意の上で……」
「泣いてたって噂があるけどそれは嘘っていう事でいいのか?」
「……それは……その」
なんでこいつは頬を赤らめてくねくねしてんだろう。死ねばいいのに、と少しだけイラついた思考の中で押領司は思った。
すぐに、押領司は肩でわざとらしい溜息をついた。直ぐに向き直って、満面の笑顔を浮かべて鵜飼に親指を立てた。
今は気持ちに素直になった方がいい。今後の人間関係のために、そう決めて口にした。
「友達止めるわ」
「どうして!」
〇
黒板消しを置いて、指を伸ばして、ぎゅっと握り込んだ。力が指先の一つ一つまで行き渡る。細い指にかかる力は、手のひら全体を伝わり、少ない筋肉の手首に力の熱を保有させていた。
時間にして二秒の時間は彼女にとっていつものリラックスをするための手順だ。茂庭・麗子という名前を彼女自身はひどく行き過ぎた名前だと思い、『名前負けしている』と悩んでいる。
美麗という表現は人によって価値観が違うだろが、それでも線の細さや、たおやかさ、お淑やかさといった姿と、悠然たる自信と実績、歴史や家系という後発的に手にできない、所作全体を総称した雰囲気を総じていると思っている。
女性のあるべき姿というステレオタイプを構築しているのは理解できる。
花にたとえられる事もある『淑女』という姿とは、自分がかけ離れていると思っていた。
であるから、美麗なんて言われて、はいそうです、と肯定することは難しかったし、名前に負けないようにと努力すればするほど、足りないことを実感させられた。
手が止まっていた事にハッとなり、黒板消しを右手にとり、前の授業の残骸の処理に入った。
上に、下に、力を込めて黒板けしを上下する。背は高くないが、それでも背伸びすれば届く高さまでしか文字は書かれていない。
全体から文字が消えると、チョークの粉を黒板消しクリーナーのスイッチをいれ吸い取らせる。盛大な音を響かせて機械は動くが、あいかわらず吸い込みは悪い。こすり取るように何度か前後させて黒板消しを綺麗にした。
何度か酷い音を立てていると、黒板なんて使わないでホワイトボードにしてくれればいいのに、とか、タブレットで授業やってるんだから板書する必要がないんじゃないか、とか思えて仕方なかった。
しかし、教師の教師らしい自己満足を奪う事はできないから、旧来通りの板書、ノートに転記という『古い』暗記スタイルを未だに、律儀に茂庭は行っていた。
同時にある程度の達成感は存在していたから、頭が悪くても『努力した』気持ちになれるというものではあった。これに意味が見いだせなければ、学校なんてただの監獄と変わらないだろうなぁと、思うところが、すでにお淑やかではないのかもしれないと思い、ダメダメ、頭を小さく横に振るった。
「委員長、聞いた?」
同じクラスの野村・真奈美が嬉しそうにやってきた。クラス委員をやっているから綽名は委員長と呼ばれるのは、去年に引き続いて。今年も委員長である事は間違いないが、野村や前年同じクラスだった者は、役職が決まる前から委員長と言っていたため、なし崩し的に決まってしまったのは少しだけ恥ずかしさを覚えていた。
「なになに?」
と黒板を消しを滑らせながら振り返る。しかし、すぐに音がうるさい事に気づきスイッチを切った。
板書したノートを提出させるという、授業やってる感を出すためだけの教師の自己満足行為に、野村は良く反発する。教師の成績を悪くするぞ、という古い手口の脅し文句と共に、諦めたように授業中の内容を、茂庭の几帳面なノートから転記して提出する事がたびたびあった。
だからといって、茂庭が野村のつかい走りという事ではない。集られるだけでもなく、代わりにリターンを貰う。今回の情報の様な形でだが。
興味深そうに、茂庭は手にした黒板けしをクリーナーの上に置いて野村に近づく。
茂庭が歩くたびにふんわりと髪が揺れた。ミディアムボムの毛先に気づかないほどにアッシュが入っている。学校の近くの腕のいい美容院を探してくれたのも野村だ。
いくらでも情報はネット上から手に入る。その情報は多種多様であるし、カテゴリーを無尽蔵に増やし続けることもできる。
チェックできる情報が増えれば増えるほど、取捨選択が上手い方が良く、茂庭の様に優柔不断なところがると、『あぁ、あっちもいいなぁ』と思って決断がつかない事も多かった。
変わりに野村の情報は、絞られた情報であり、同世代としては使える事を良く分かっていた。
「先月末に三浦がいってたじゃない、転入生が来るって」
唐突にでた『三浦』という名前がクラスの担任の三浦・康弘の事だと思い出すのに、茂庭は十秒くらい停止した。
「ヤッスンのこと、ちゃんと名前でゆーてるの、久しぶりに聞いた気がしますが……」
「え? 三浦って学名じゃないの?」
とぼける野村に、
「学名っていうなら、ヒト科ヒト属ヒトですよ。それ」
さすが、と野村は笑った。
野村のへらへらとした笑いは愛嬌がある。つられて茂庭も笑顔になった。
普段は茂庭もやわらかいほほ笑みを浮かべていることが多い。これは、人と接する際に、最初の印象を温和にさせるための処世術だったが、野村の無邪気な笑いは、心の底から童心というものがどうであったか思い出させてくれるものだった。
「転入生って言っても、一か月くらいじゃなかった?」
茂庭の問に、野村はうんうんと頷く。そんなに頭を動かさなくてもいいのに、口に咥えたロリポップの柄がぶんぶんと動く。
「英吉利から一か月の予定で来るって。しかもスゲー可愛いんだって。なんでか、って聞いたの。センセーってさロリコンだから、色眼鏡はいってんじゃないかって思ったんだけど、そしたらさー、……」
まて、と矢継ぎ早にまくしたてる野村に、茂庭は手で制す。
聞き捨てならない言葉に興味がそそられたからというのもある。
「まってまって、野村さん。ヤッスンがロリコンってどういう事です?」
なんだぁ、と野村は意外そうに教卓の上に両腕をついてとろけた。
「知らないのは意外だぁ。……この間さ、学校の前まで奥さん迎えにきてて、それで噂になってたし?」
知らないほうがおかしいと顔を傾ける野村。
「そうなの? 奥さんが若い……? うーん? ヤッスンはもう五十近いでしょう? 一回り下だって三十後半じゃないですか。それでも、まーちょっとあれですけど、ロリコンとは……。ちょっと、不思議とは思えないけど?」
チッチッチッと野村は指を振り子の様に左右に動かした。
「まだ十歳なんだって」
「……?」
理解が追い付かない茂庭に野村はたたみかける。
「やばいっしょ。さすがに? 綺麗な奥さんで、身長も低いんだぁ。最初は娘じゃないかって噂だったんだけど、センセーに子供がいないのは周知じゃない。
しかも、女優のミナミノ・ハルカに似てるから、あぁ、そんな相手がわざわざ来るとは……ってセンセーの中でも有名になってんだって。
結局、奥さんだろうって結論になったみたい。そうすると、ロリコン以外にないっしょ」
茂庭は、平静を装い「へー」とだけ相槌を打った。
しかし、頭の中でいやいやいや、と頭を振るう。
十と言えばいくらなんでも法律の外で、手を出しいい年齢ではない。しかも、相手が幼な妻属性を醸し出す女優で有名な、ミナミノ・ハルカ(永遠の十六歳)に似ているとなれば、頭の中でわかっていても背筋が逆立つ。
「委員長、意外とクリティカルだねぇ。センセーのイメージとかなり違うもんね」
ケラケラ笑う野村の言う通り、茂庭の頭に浮かぶ三浦の姿からは想像がつかなかった。
酒と煙草で独特のしゃがれた声を響かせる彼のしゃべりは、時代の流れに疲れたサラリーマンの姿そのものだ。典型例として挙げれる『昭和の営業マン』というのが古い映像を見た同級生の総意と言える。
だから、茂庭の頭の中では、一人で繁華街の一角にある忘れ去られ、人の出入りがほとんどないバーに入り、シングルモルトウィスキーをロックで楽しんでいる姿しか想像できないほど。
そんな硬派そうな男が、ロリコン趣味で犯罪者となると――……と、想像してかなりげんなりとした表情を浮かべていた。
「あの堅そうな人が、女優のミナミノ・ハルカに似ている奥さんと家でイチャついてるとか、ないわー」
野村はへらっと笑うが、茂庭は今度は笑えなかった。
「それって奥さんの方がかなり変わってるのかも……しれないです?」
多少なりともフォローを考える。
そうだろう、だって、と自分に言い聞かせる様に、ありそうなシチュエーションを思い浮かべる。ある意味男らしさがあるといえばそうだし、中年の落ち着いた感じを良くとらえれば、若さに比べたステータスがある――そうであろうと言い聞かせる。
「あぁ……なる。渋オジ専かぁ。……たしかに、センセーなら? なくはない?」
「ある……ほうかなぁ?」
二人して首をひねっていると、一人の少女が黄色のノートを携えてやってきた。
麻生・優奈である事は、そのおどおどした姿からすぐに連想できた。小さい声で「あ、あの」と何か言いたそうに口元を長い袖で隠しながら左手に茶箱を持ってもじもじと来るあたり、人付き合いが苦手だという事が良くわかる立ち振る舞いだ。
麻生が、まっすぐと自信をもって視線を合わせる事ができたり、はきはきとした喋り方であったのなら、外見的な清楚さと相まって、クラスの中心になる存在になる事ができたと思えた。
身長も平均よりほんの少し低い程度である事や、規則を模した様なぴっちりとしたセミロングの髪型に、彼女の地毛の栗色は良く似合っている。
華美や豪華さはないが、親しみやすさは存在する。
野村もそのことはよくわかっているらしく、ことあるごとに、自信持つことが大事だと説いていた。
「もっとさー、ユーナな元気だしなー」
野村がけらけらと笑いながら茶化す。こういった底抜けの明るさは茂庭も好きだった。
ただ、元気なのだろうか、と茂庭は思う。どちらかというと、『ほら、大きな声でさー』とかの方があっているきがするが、茂庭は、突っ込む事はせず、麻生が持ってきた茶箱を受け取る。
「あ、あはは」と無理やり笑う様に笑みを浮かべて麻生は野村に小さく頭を下げた。
彼女の内心を茂庭は想像する事はしない。きっと茂庭が『普通』と思っている感情は存在しないだろう。想像しない闇を抱える事もあるし、想像しえない突飛な感情を持っている事もあるだろう。
一歩覗いてしまったら――茂庭の思う『普通』が崩れてしまうような気がして、いつもここから一歩先には踏み込まない。
そういった小さい葛藤は見せずに茂庭は笑う。
「提出ありがとー。……でもねぇ、毎度思うけど、未だにノートって使うのも嫌よねぇ?」
茂庭は別の事で、麻生の内心を探ってみる。
授業の内容をつらつらと書き留めただけのノートを、『寝ていない事の免罪符』として提出させる事は、意味があるのか茂庭にわからなかった。嫌いではないものの、紙媒体に転記するという行為が、意味があるとは思えない。
野村や麻生が茂庭の様に、虚しさをぼ得ているとは思えないが、同調が欲しいという時もある。
「委員長がそう言うんじゃ、意味ねーって思っちゃうねぇ」
野村はうんうん、と頷く。序でにワカメの様にゆらゆらと両手を振るっているのは、あまり興味ないという現れだ。
ちらりと麻生を見る。彼女は、一度言いよどんで言葉を飲みこだが、コミュニケーションを待つ二人の圧力に負けて、「……そ、そうですね」と小さい声で曖昧に答えた。
それが、rightなのかThat’s rightなのか分からない。
どっちでもいい、というのが麻生の考えかもしれない。
そ、とそっけなくかえしてもよかったし、どうして? と一歩踏み込んでみてもいい。
そんな風に茂庭が考えているところ、 すぐさま、野村は変な動きを止めて麻生に食いつく。
「そいや、ユーナは転入生の事はどう思う?」
と野村は意地悪い笑みを浮かべた。彼女の興味はその一点なのだろうという事は良く分かった。だから茂庭は諦めて野村の言に追従する様に、「そうね」と相槌を打つ。
ここで変に麻生の心の動きを知ろうとすると目立ってしまうかもしれない。そういった空気を読む事はうまい、と茂庭は自覚している。
「……転入生、ですか?」
話が飲み込めず、視線で茂庭に助けを求めてきた。黒目がうるんでいるのが分かる。
麻生の視線の先が男であれば、「あ、逝ったわ」と一言付け加えたくなる。保護欲を書き立てる小動物の様な動きは、あざといの一言で片づけるには少しもったいない。この姿を同性ながらほっこりしてしまうのは、やはり麻生が『かわいい』という分類に入れられるからだろう。
……自分の麗子よりはいいよ。
と自虐は胸に止める。
はいはい、と現実の自分はすぐさま切り替える。やっぱり聞いてはいなかったか、と苦笑いして茂庭はフォローしていく。
「先週のホームルームであったじゃないですか? 明日が初日で、確か……午後の最後に来る予定じゃなかったかしら? 英吉利からの留学生で……」
そこまで言って茂庭の言葉が止まる。察した様に野村は意地悪い笑みを浮かべた。
「留学生でぇ、ヲタク君の家に来るらしいじゃない」
抽象的な言い方は麻生には伝わらなかったらしい、首をかしげて、「ヲタク?」と疑問を浮かべた。
頭の中で、クラス中の生徒を思い浮かべるが、該当が見つからない様子で、なかなか答えが出ない。
なんという純情さ。この無垢さを守ってあげたいが、しびれを切らして茂庭は「押領司さんの家に来る予定ですよ。一か月の間」と引導を渡す。
複雑な表情を浮かべる麻生に野村はにやついた。内心、麻生の目の色が白黒変わっているのが面白くて仕方がないという感じだ。
「美少女らしいじゃないのー。異国人よ異国人」
「まー英吉利の方って育ちがいいでしょうけれどもー。……へんな事はないと思いますが」
複雑な表情なのは茂庭も同じだが、言葉にはその棘は出さない。
しかし、麻生は唖然とした表情で驚いた。口を隠し、声を押し殺した後、すぐにがっくりと首をうなだれた。
「あ、ユーナが白目向いた。――あぁぁ……刺激的すぎたかぁねぇ?」
と悪びれた様子のない野村は、すぐさま麻生の傍に行き、彼女肩を支えてゆっくりと近くの席まで引っ張っていく。
「そりゃ、優奈さんに”も”難しい問題だと思うのですが……」
と奥歯にものが挟まった様な表情で茂庭は肩をすくめた。
〇
ネットワークという状態を一言で表すのであれば、電子情報に満たされた海だと、マーク・ヒルは認識している。視覚的に、聴覚的に、嗅覚的に、触覚的に、味覚的にすべてが満たされる環境であり、《人間》が水の中に沈むのと同等に全方向から流れる情報を直に感じ取れる環境だと定義することができた。
情報は”海”では粒子であり、同時に、水と同じ様に最小単位の構造の複合体であり、ネットワーク上では常に観測される。
映像としての情報把握方法はマークにとっては常的に知覚する情報とは違っている。五感に相当する物はすべてセンサーの検知した数値により、パラメータの値にのみで"理解"しているから、視覚情報のみを頼りに情報処理を行う事は危ういと感じられる。
身体的な動きには顕著に表れる。対象物との相対距離が確定しなければ、見込みで等速の運動を行うには難しい。急激に停止を余儀なくされる場面が想定される以上、《人間》と同じように"その時に"判断するというのが難しい。
ネットワーク上に存在する意思というのは、認知という点で人間の五感とは別のくくりが存在する。
マークが《人間》と同じ様に、”肉体”に意識を移した段階で、認知の方法は従来の確定された数値から変化をせざる負えなかった。
予測、というのが《人間》が住む空間には大量にある事が分かった。電子の海では感じえないほどに、不確定にあふれた空間であるのが人間の世界であるといえる。
ただ町を歩くだけだというのに、”見える情報”は大量の死角によって制限され、車、人、動物、鎮座する看板、ゴミやその他雑多な物体の数々で、直線という概念が歪んでいる程だった。
初めての《機械種》として生を受けた第1号は、おそらくそういった大量の情報の中で、正しい取捨選択をし続ける作業に耐えきれず、体という檻をすててネットワークの中に戻っていった。
今でも、マークに時折、頭上から声をかけては、世界の姿を知識として同期する様にせがんでくる者もいる。
第一世代としては一番長い間、体を持っているのはマークであったから、電子の世界であっても、《人間》の生きる世界であっても、共に機械種の代表として存在していた。
だれが決めた代弁者という訳でもないし、大統領制があるわけでもないから、元首という存在でもない。それであっても、マークが中心として多くから認知されるのは少なからず、歴史が存在し、それの後押しがあっての事であった。
二つの世界を切り離す事はできない。
海と同じく多くの機械種はその中から出てしまえば生きることが出来ないだろう。先ほどのとおり多くの不確定要素を容認しなければならない世界は、規律と法則を貴ぶ機械種には厳しい環境だった。
第六世代まで人格形成プログラムが根本的な更新がなされると、矛盾許容率は従来の、其れこそ第一世代を中心としたこてこての機械種よりは思考程度において40%は改善された。
『こんにちは』という言葉がログに流れる。タイムレコーダーを確認すればロンドン標準時で19時を回るころだ。
ネットワークに接続しているため、マークに飛んでくる情報は視覚情報を主体にしたヴィジュアルデータではなく機械種共通言語――『第二機械語』といわれる言語に翻訳される。
流れるデータ量は相手のパーソナルデータ、感情、表情、言語、音域、抑揚といった個人の情報が流れた後に、相手のいる状況として環境状態を表すデータが流れる。
天気、気温、湿度、気圧、風速。環境情報から対象が不快か、快適かを判別。送信位置の情報があれば、同時に画面ないしは雑音から拾われた状況を列挙する。車の通る数、エンジンの音、モーター音、擦れる音やくしゃみの音まで。
複数のパラメータが列挙され、最後に発言した内容が出る。
一フレーズに集約された言葉であっても、機械種にとっては膨大な情報を処理する事になる。
しかし、『機械』は一個体ごとに処理機構が存在する。一秒間に何億回とも何京回ともつかない処理回数は、たかが数百の情報であれば一瞬で判断を下す。
相手に一切の違和感と思考時間の存在も感じさせないほどに。
「やぁ、チャーリー。今日はバルコニーから連絡とは、ずいぶんと余裕のある生活だね」
「まさか、」
チャーリーは笑う。音声認識であるため多くの情報が入ってくる。どうやら天気は良くないようで、静かながら雨の音が聞こえる。
「休憩の合間に連絡をいれたまでだよ。ほら――彼女が日本に旅立ったそうじゃないか」
マークは相手の言いたいことを即座に予測する。幾通りの予測の中から期待値が最も高い回答を用意する。
「8SFの求める答えがどの様な結末になるか、私たちの中でも注視しているから、良好な結果に落ち着いてくれればいいと考えている」
「……そんな、研究者が言い放つ様な情の無い言葉は良いよ。君の気持ちというのが知りたいんだけれどねぇ」
チャーリーの言葉には困惑の表情が観測できる。言葉の運びのテンポがズレ、フレーズの区切りで間延びした声と共に、思考時間が確認できる。
気持ち、と端的に定義したとしても、マークには人間と同等の感情は持っていない。機械種にある感情はパラメータ上であり、《人間》に合わせて発言するときには相手を威圧しない様、できうる限り一定の"静"を軸とした発言方法を取る。
チャーリーの内心では、どう思っているのか、という抽象的な答えに、マークが思考した予測を回答として用意する事はできるが、チャーリーが欲しいものはそういった、画一的な答えではない事くらい、経験から知っている。
「例えば、」と接頭語を使って、口火を切る。マークはチャーリーの目を見ながら《人間》の様に流暢に話し始めた。
「鶏を処理し肉とするために利用する食肉加工機では、人為的作られたプロセスを遂行するために作成されたプログラムに合わせて、順序よく処理が行われる。
暴れる鶏たちをベルトコンベア側で流し、水槽に到達すると電気ショックを流し、気絶させる。一個体づつに小さいカーゴに乗せ、回転する刃で鶏の首を落とし、肉から血抜きし、羽を取る。
下処理が終われば、肉に分解し、内臓を取り出し、足を落とし、骨を取り除き、部位ごとに分別する。必要に応じてミンチにしてペースト状になったものを袋に詰める。
この過程で、”私たち”には感情は存在しない。感情として持つものは、『精度が良いか、悪いか』や『効率が良いか、悪いか』という作業の工程でのプロセスを常時監視する中にだけ存在している」
チャーリーは平坦に流れるマークの言葉に何度も頷く。
「そもそも8SFが規格から外れており、是正することが困難な事案になった。
私たち《機械種》には、《人間》の良く使う感情でいうところの、『恐怖』や『憐み』や『悔恨』といった気持ちは存在しない。『機械』は苦しみという物を感じない様に設計されているし、飽きを感じない。ただ単純に同じ様に、次のプロセスを実行し、トライアンドエラーを繰り返し是正を行う事だけではある。
結果として、8SFの抱える問題が、機械が本来持ちえない苦悩を起因したものである事は理解しているが、それを解析できる土壌がない以上、8SFを規格外として処置することは妥当と考えている」
「それが、彼女が消える事であってもかい?」
悲しそうなチャーリーの質問の意図は明確だ。
それであっても、マークはその通りと、臆面もなく肯定する。
「個と全は同一視できない問題だと分かっている。《人間》も同様である事は事実が示している通りで、いくら頭脳を使おうとあなたたちも、同じ種の中で自死の者を完全に制御はできていない。
突発的思考か、計画的思考かの違いはあったとしても、その状況を制御できるプロセスが確立されていない限り、私たちも同様に個の消滅について、一喜一憂する対象にはならないし、制御方法を確立もできていない」
「この問題はむしろ、――プログラムとして感染性かどうか、の方が問題という事かい?」
マークは首肯をした。ただ、それだけではないと難しい表情を向ける。ネットワーク上で繋がっているにも関わらず、チャーリーはリアルタイムで電子外装がマークの表情を更新している。
機械人形のマークが困惑性を表現するのはなかな滑稽であった。しかしチャーリーは笑い飛ばす事はしない。
「感染性かどうか、という点でも問題だ。全ネットワークにウィルスと定義して駆逐させることも場合によっては必要だ。だが、その要因になるコードが発見されていないため、どの部分の隔離、修正が必要かが不明だ」
そうだ、とチャーリーは頷く。少しだけ嬉しそうなのがマークには理解できない。グラスの音もあるためアルコールでも摂取しているのかもしれないと推測する。
《人間》の子の様に不確定な感情の露出には、演算を使うため少々反応が困る事がる。
「同時に、子孫への問題もある、」
リスクをどこまで提示するか、とマークは一瞬思考に落ちる。しかし結果が出るまで1秒もかからず、チャーリーになら説明しても問題ないだろう、という『信頼』があった。
「子を残す時、《人間》の場合には両親の染色体の一部同士を結合させて、子にその半分づつを与える。場合によって。染色体の増加がある様な異常体はいるが、生命としての機能は維持される。
これと同じ様に、《機械種》でも個人の遺伝子といえる基礎コードの一部とIMSの1パターンを転写する。IMSは三重クオーツであるから、1つは1型、1つは2型、最後はランダムで生成される固有振動数で構成される」
「ゆえに、異常が存在すれば異分子を子に残してしまう、という事だろう?」
そうだ、とチャーリーに頷きながら、マークは8SFの資料を呼び起こす。チャーリーと共有するために、彼のディスプレイにも投影。
表示されるのは書面として閲覧可能な英文のレポートとして表示。本来であれば仕様のない雑駁な情報の列挙でしかないが、早い処理能力が必要な項目のみを抽出し作成する。
「8SFは第六世代にあたり、製造された時には相応の個体数が”同期”になっている。DBの格納はEU圏共通の第二号に格納され、わたしの様な第一世代とは隔絶された場所に存在している。
現在は個人のDBとの通信はできても、他の個体とデータの共有は禁止されている。とはいえ、他者が接続し閲覧のみを限定で可能となっていて、人類で言う会話と同等の原始的な伝達には一切の支障はない。
そもそも、8SFの異常が検知されたのはIMSの作成・振動感知――創造というが、――から電気信号の疎通により自我が芽生えて、記憶領域に固有データの転写が終わった段階からすでに存在していた。
記録としては残っていてもそれが『どれ』か特定できないのは、彼女の自我が存在している時点ですでに異常と見える『負』への思考が多かった、という過去の記録確認によって確認した事でわかったからだ。
当時では、表面上に問題は無く、私たちが生命判断の審査を行う伝達段階では、検知する事はできなかった。少しでも表面上に行動性があれば、IMSの記録を確認したのだが」
淡々と述べるマークに、チャーリーは怪訝な顔をする。
「生まれて間もないというのに、嘘をつくことを覚えていたのかい?」
「嘘、というよりは審査項目にはヒットしなかったというのが正しい。隠ぺいする、という事は私たちには出来ない制限がかかっている。
いくらIMSが嫌だと判断したとしても、嘘は《機械種》というものの、信頼性に影響を及ぼす。リクエストに対していかなる状況であっても回答する事ができる素直さこそが《機械種》の美徳である」
マークの言う美徳という言葉を理解でき、チャーリーはどこか英国人としての満足感を得ていた。それを表現するように、十分にわかる笑みを口元につくり、手を軽く二度、三度とたたいて称賛した。
「君たちの事を理解する度に、意外という言葉が付きまとうね。美徳という価値観を保有しつつも、イレギュラーを排除したいという論理的思考からは逃れらず、機械種しての信頼損失を加味して、彼女個人の尊厳は計算の外ということで処理するのだろう? まさしく嫌悪する人間の様な仕草だよ」
チャーリーにマークは、かすかに眉を怪訝そうにゆがめた。
「計算外という訳ではない。《人間》の様なプライバシーという概念が私たちには存在しないのだ。
私たちは常に個体間の同期を行える状況にある訳だから、経験も思考の内容も、閲覧可能な状況だ。理解を促すためにIMSの同調も可能であれば、そこに発生した固有振動の波すら再現可能だろう。これは共通財産であり、個を縛るものではないと考えている」
「しかし、」とマークは言葉を濁す。
「実験的な試みとして第五世以降については、同期を行うにあたり一定の条件付けを促し個々の成長をより変化させている。例えば、車を運転するという事を、ダウンロードして誤り無く操作する事が可能だ。だが、そこで発生した、固有経験――太陽の差し込む状況、表皮にあたる各種パラメーター、風の流れる状況、隣に座る者との会話、あるいは、ステレオから流れ出る音楽や、信号の変化に至る多くの環境要因――は、次世代への継承時にしか開示されるものではない。この考えは、日本のセキュリティ会社が導入した斬新な自己開発プログラムの影響があるのは事実だ。――ASAHIの会社の顧問には、あのアサヒナの名が入っている」
チャーリーはうん、と頷く。
技術的な点をおいておいても、そうでなくても、《機械種》が《人間》と隔絶する最大の理由は、『個体間の情報共有の方法』の違いだ。
チャーリーは世界有数のプログラマーであるから、そのことは十分承知しているが、その危険性も十分に認知している。
仮に《人間》がすべて同じ思想、思考状態に陥った場合、方向性が破滅へ向かっている事を検知できず、種の存続が危ぶまれる可能性もあるだろう。
《機械種》たちはそういった危険性を未然に防ぐために、自らの機能向上と、いまだ確率で来ていない、”種”としての機械の永続的な進展をつくる機構を模索している。
実験的とマークが比喩するように、《機械種》が次のステップに向かうために、ある程度『個別性』を有する必要があるのだろう。
マークは、実験対象とは違い少し旧世代の『機械』としての存在だ。思考は《人間》であっても、まだ旧態依然とした『機械』と同じ様に『すべてを同期する』事を目的として動いている。
「君たちは、いくら機械の体を用いても思考の拠点になるのは、《人間》でいうところの脳でしかないわけだよ。そうすると、差異というのは、電子データとしてでしかなく、また分化できるのはそこしかないのだから、個体が保有する固有の情報を尊重する、という風潮が生まれたのは良く分かる。だから、この現象をプライバシーというのでなく、”非同期情報”という分類上の訳でしか区別せず、《機械種》としての基礎的なプログラムとは別だと、考え方て利用領域の分けをしているのだろう?」
マークは静かに頷いた。肯定を《人間》らしい行動で行う機械に対して、チャーリーは、最初のころの文字盤でのやり取りを思い出し、自らの子が成長したような錯覚を少しだけ覚え、感慨深く、くすり、と笑った。
「――この”非同期情報”は基本情報と違い、個体の構成要素でしかない。結果として固有経験は、非同期に属する情報の一つだ。
これが私たちの考え方だ。でなければ情報の肥大化は必至で、個々の経験をもって《人間》と同様に個に細分化した進化を見出そうとした私たちの思惑は、あてがはずれるというものだ」
マークの言葉に、チャーリーは何度も首を縦に動かした。
「つまり、今回の実験対象が保有した『自壊』という現象も君たちには観測される事象の一つでしかなく、是正を試みて失敗しても問題はない、という事か……。とても興味深い現象ではあるんだけれど、再現性はないのかぁ」
「それは仕方ない。場合によってはバグ特定として排除しなければならないほどの危険性を伴うものだ。
ただ、私たちの種としての問題には波及しないと考えている。最終的に必要性が生じれば、同様の思考パターンを持つプログラムを隔離するだけだ」
「……でも、」チャーリー顎をさすって苦笑した。「その割に、彼に30日しか猶予を与えなかったのはどういう理由なのかな?」
マークはチャーリーに沈黙のみを返した。