①-5 君へ恩を返すには
スイスへ戻ったマリアは、トボトボと芸術で満たされた旧市街を通過していった。観光名所であるシュタインアムラインの旧市街も、マリアにとっては既に馴染みの景色だった。
あの襲撃が1936年の冬であったとすれば、大戦を挟み15年も経過したのだ。
恐らく拠点は廃墟であろう。大戦によって、すでに何もない可能性もある。イタリアの周辺には多くの島がある。
「はぁ…………。こんな事で、何が分かるんだろう。皆を巻き込みたくなんて無いのに」
マリアは、何度も現地へ赴こうとしたのだ。それが、シチリア島からの避難民の情報によって、何もなかったことを知ったのだ。何故なら、彼等がその島で暮らしていたからである。マリアは彼等を知らないし、彼等もマリアを知らないのだ。
「そんな事、あるのかな……」
ふとマリアは、夕食の心配を思い出した。今晩のティニアは帰りが遅いのだ。
「ご飯の心配なんて、呑気なのかな。……平和ボケかな」
普段の彼女は、孤児院で夕食を作り、食べさせてから片づけを済ませて帰宅する。寝つきの悪い子供たちがいれば、そのまま帰宅しない日もあった。
ティニアが孤児院に住み込みでないことを疑問を持ったこともある。マリアの為に出来ないのであれば、当然断ろうと考えたのだ。だが、その心配はアドニス神父の助言で一掃される。
神父いわく、それだとティニアは休むことも、寝ることもせず、働き続けるのだという。確かにそれでは住み込みなど不可能だ。彼女が倒れてしまう。何も聞かずにティニアと同居してくれているマリアに、ミュラー夫妻も神父も感謝しているという。
「どうみても、逆でしょうに」
彼女たちと過ごすうちに、マリアは彼女たちが敵でない事を願う日々になっていた。それだけ謎が多く、裏がないのだ。そんなことがあるだろうか。
ティニアとの住居は四部屋ある平屋で、周りとはかなり見た目が異なる。町には窓も多く、背の高い建物ばかりだからだ。二階建てのアパートにする予定であったと、ミュラー夫人の旦那は言っていた。大勢が居住するのではなく、ティニアたちが住めればそれで問題ないと計画を変更したのだ。
家には誰もおらず、マリアが飲みっぱなしのカップがそのまま置かれていた。
「ティニアがいないと、全然ダメね、私って。……ほんと、依存してる。誰かが居ないと、誰かに依存しないと生きられないなんて、バカみたい」
◇◇◇
マリアは家事のほとんどが酷い有様だった。かつての拠点では、ほとんどレイスがやっていたのだ。今は気付けばティニアがすでにやり終えてしまっている。
ティニアはやり方を知らないだけだと言い、料理や洗濯などの手ほどきをした。ある程度をこなせる様になったものの、やはり酷い。
買い置きの食料から夕食の心配をしているとき、玄関のドアの鍵がカチャリと開けられた。
「ただいま~」
「ティニア! どうしたの、何かあったの? 遅くなるって言ってたのに、いつもより早いじゃない」
ティニアは特に何かあったという感じはなく、ごくごく普通に帰宅してきただけに、驚きが隠せない。
「うん、ちょっと予定が変更になってね。何かはあったけど、いい動きというかなんというか」
「いい動き?」
「診療所の先生が代わったのは聞いた?」
ティニアはコップで水を汲むと、手に持っていた花を生けた。子供たちに貰った花のようだ。
「ええ、今日診療所の前で人混みに遭遇して、話を聞いたの。花束も結構売れてたから、感謝の花束だったのかなって」
「なるほどね。交代は急に決まったんだって、それも昨日。ずっと故郷で一人残してきた母親の心配されてたからね。それで、まだ30歳くらいの若い先生が着任したんだよ」
「そうだったの? 今日でもう診察は終わりみたいな感じだったし、随分と急なのね」
ティニアは唸りながら、パンをカットすると、買ってきた野菜を洗い、器用に乗せていく。
「うーん。お母様の容態があまりよくないんだって。それで、急いで後任を探してたんだよ」
「そうだったのね……。確かに、いい動きかもしれないわね」
「いい動きは、その先生が結構いい先生みたいでね~。子供たちの診察を買って出てくれたんだよ」
「えっ」
マリアは驚いてティニアの顔を見てしまった。ティニアはぽかんとしながら、カットしたトマトを乗せてパンでサンドした。
「珍しい! ティニアが男性を褒めるなんて」
「待って、ボクまだ先生が男だとは言ってないんだけど」
「医師なんて男ばっかりじゃない。どうしたの? 珍しいじゃない、そんなカッコイイ人だったの?」
「ええっ」
ティニアは更に口をあんぐり開けてしまった。そしてすぐにハッとして笑ってしまった。
「そうかそうか、マリアはカッコイイ人好きだもんね」
「当然でしょ、どうせならカッコイイ人を見ていたいわ」
「ふふふ、それはちょっとわからないけど。とにかくいい先生みたいだよ。孤児たちの健康診断もほとんど無償でやってくれるって」
「え! 凄いじゃない、でもちゃんとした医療なの?」
マリアに医療の事は分からない。わからないからこそ、不安なのである。ティニアは会話をしながら、今度はスープをこしらえる為に具材をカットすると、鍋へ放り込んでいく。
「ちゃんとした医療って、そりゃそうだよ。話を付けたのはアドニスなんだけどね。表立っていう話ではないけど、先生も幼少期は孤児だったんだってさ」
「孤児から医師になったってこと?」
「うん、保護してくれた家が医師の家系だったそうだよ。恩返しがしたいんだってさ。前任の先生と彼を保護した医師は知り合いだったんだって」
「えー。努力したのね。カッコイイじゃない」
マリアはウットリとし、腕を組むと頷いた。
「ははは、好きだね~。そういう話」
「きっと背が高くて、優しそうで、穏かそうで、微笑みが絶えない人よ」
「そこまで想像出来ちゃうんだ。でもボクはまだ会ったわけじゃないからなあ」
「花でも届けにいけば会えたかしら! ああ、あの人混みにもう少しいれば……」
うっとりするマリアに対し、ティニアは無邪気に笑って見せる。雑談の間にティニアが軽く調理を済ませ、テーブルに並べている。
「待って、待って! どうしてこんな簡単に夕飯を作ってしまうの! 今日は私が……」
「ええ? ああ、ごめん。ボクは物理法則を越えちゃうからね」
「それって物理法則関係あるの?」
「まあまあ。さっそく明日の朝一から健康診断になったんだよ。で、朝一出勤の代わりに、ボクが早く帰ってこれたの。だから夕飯は作るし、作ったよ」
ティニアは適当に誤魔化しつつ、注ぎたての熱々スープを両手に、無邪気に微笑んだ。
「もう! ティニアは本当に、そういう所……頭が上がらないわ」
「ふふふ。とりあえず食べちゃおうよ。空腹は物理法則を越えられないよ!」
◇◇◇
食事を終えたところで、ティニアが当たり前のように後片付けを始めた為、マリアはティニアを全力で阻止すると、早く寝るように部屋へ見送った。このままでは、朝食まで作って出勤してしまうだろう。
「朝食は私が作るから、作るくらいなら起こして頂戴ね!」
閉まった扉の向こうから、ティニアの笑い声が聞こえてきた。
たとえ彼女が敵であったとしても、彼女が幸せであればそれでいいとも思える。
そして、彼女と似て異なる存在であるレイス。
恩人であるレイスと再会するまで、掴み取ることも出来ない謎と共に、マリアは歩き続けなければならない。