①-2 君ありて幸福の調べ②
フレスコ画が美しいシュタインアムラインの旧市街を抜け、店舗を構える花屋に到着すると、既に花が並べられていた。
「ミュラーさん! 遅くなりました、ごめんなさい!」
マリアの声に気づく、エプロン姿の女性が店内から顔を出した。ミュラー夫人はこげ茶色の髪にウェーブがかったくせ毛の女性だ。手作りのワイシャツにタイトスカートというシンプルでカッコイイ出で立ちは、マリアにとって憧れであった。
「おはよう、マリア。ティニアから聞いていたけれど、時間通りじゃない。具合が悪いの?」
「本当にただの寝坊なの。それに、遅刻だわ。早めに着きたかったのに。だから、本当に申し訳なくて……」
「夕べも遅くまで勉強していたんじゃない? 仕入れもそこまで多くはなかったし、水揚げも大体は終わっているから、大丈夫なら店内花の水替えをお願いしてもいい?」
「もちろん!」
「ありがとう、助かりますよ」
マリアが働いているのはこの町では小さな花屋、Pelargo――ペラルゴ、コウノトリだ。
花は色や種類によって容器に入れられ、水を注がれたまま、ばら売りから束売りされる。
そこまでの工程が最も重労働であり繊細なことを、ミュラー夫人から教わるまでマリアは知らなかった。それぞれ植物事に茎の切り方から異なるのだ。
「それもただハサミで茎を切るだけではないのよね。なるべく水中深くで水圧を与えて切る場合が最も多いし」
「あら、最近は上手くなってきたじゃない。マリアは向上心が高いのね」
「そんな事ないわ。水不足の花や元気のない花は、切ってすぐに熱湯で数秒つけることで、細菌を減少させられるけど、私がやると逆に弱らせてる感じもするの」
マリアは水を替えながら、深いため息をついた。冷たい水が身に染みて感じられた。暖かくなったとはいえ、まだ肌寒い気候である。
「すぐに冷やせてないのかもしれないから、そこは経験を積むしかないのではないかしら。すぐにそんな上達するわけじゃないわ。私だってそうですよ」
水分がより行き渡るように手を尽くす。切り方ひとつで、花の寿命が大きく左右される。堅い枝は叩いたり割ったりする必要があり、繊維をほぐさなければならない。マリアはそれが一番不得意だ。
「うーん、やっぱり苦手。すぐに水が変色してしまうわ」
「切り方だって、経験が必要なのよ。マリアは全植物への水揚げ分類を把握しきれてないでしょう」
「それはそうだけど。ああ、だから躊躇があるのか」
「そりゃそうよ。特に花の種類が増えだした近年では、私だって困惑しているし、若干で変わるものもあるじゃない」
ミュラー夫人は、元気のなくなった花の処分を自ら行う――いつも辛そうな表情を浮かべて。ここまでがフローリストの重要な仕事なのだと、彼女は言う。
だからこそ、少しでも美しく花を保たせ、売りたいのだ。
「この町も、随分と復興。戦争から抜けてこられてきてるよね」
「どうしたの? 急に」
ミュラー夫人は心配そうに尋ねるものの、マリアは笑いながら答えた。
「だって、この町にきてすぐに爆撃があったじゃない」
「そうね。誤爆だなんて言われて、腹が立ったわね」
「私は体調を崩して寝たきりだったし、何も出来なかった。歯がゆかったわ」
「あれからもう5年も経つのねえ」
シュタインアムラインへ来たばかりの5年ほど前、その時のマリアはすぐに体調を崩し、寝たきりとなった。何もする事が出来なかったのだ。そんなマリアを気遣い、ティニアは何度も声をかけてくれていた。
『大丈夫だよ。皆で生き延びようよ』
(皆でって言葉が、とても力強くて、とても励みになったのよね……)
「ティニアが言えば本当そうなるような、おまじないが込められているのではないかと皆で話していたわ」
「ふふ。確かにそうね、本当に物理法則を越えてしまうようで」
ティニアの口癖なのだ。
「ティニアはいつもあんな調子よね」
「そうね。ティニアは決して驕らないし威張ることがない。それに親しみやすく、そして中性的な振舞いを行うから、皆すぐに受け入れて。私よりずっと年・下・だろうに、やっぱり凄いのね」
「ミュラーさんから見てもそうなのね。『僕は何の力もない、ちっぽけなヒトだよ。そんな大層な事を云ったら、神様が神様でなくなってしまう。ただ目の前のやるべき事をやっただけのヒトに過ぎないでしょ』だっけ」
「そうそう。それで」
「『僕は物理法則を越えるからね』」
二人で口癖をまねながら、笑い合って楽しく仕事ができるのも、ティニアのおかげだ。
「マリアはずっと不安そうだったものね。自分なんかが、って」
ミュラー夫人は予約の花束を作りながら、カスミソウを手にマリアを見つめた。
「そりゃ、私みたいな外部の異質な存在が、繊細な花を取り扱うことに対し拒絶していたんだもの、仕方ないじゃない」
本音であった。ミュラー夫人から見れば、マリアなど異質な存在に他ならない。
「自分を異質だなんていうものじゃないわよ。それに怪我から回復しても、部屋にこもっていれば病にかかるわ」
「だからって、ティニアの孤児院で子供たちの相手をするか、ミュラーさんと共に植物の世話をするか、ミュラーさんの旦那と共に不動産管理として人々と接するか。なんて三つに一つだわ。不動産の管理だなんて、私にはイメージできないもの」
それがマリアに存在した選択肢だった。住居も仕事もあるだけで恵まれているのだ。断る理由もなかったが、マリアにとっての選択肢は一つだった。
ミュラー夫人は笑いながら、花束を完成させた。白とピンク、紫のアイリスが美しい花束は見事だ。
「其れでも助かってるし楽しいわよ。ありがとう、マリア」
「照れることを言わないで。水がこぼれちゃう」
マリアは水を花瓶へ足しながら、頬を赤らめた。
スイスは物価が高いというが、当然ながら花も例外ではなく、決して安くはない。しかし至る所の露店で様々な花が売られ、束で買われていく。
花がなければ生活が成り立たない。それが日常に戻りつつある証拠でもあるのだろう。
フローリストは華やかだが、客側からは想像の出来ないほどの重労働である。
冬だろうと関係はなく、水仕事でもある。夏は植物も弱りやすく、水替えも温度から湿度まで気を配る必要がある。
ペラルゴは店舗があるため、高品質が保てるが、それでも限界がある。
水替えの作業を終え、開店によって予約以外の花束の依頼が舞い込んでくる。忙しい一日の始まりだ。