⓪-2 追憶は空虚を越え
通路を戻っていると、不意に話し声が聞こえた。警戒しながら進み、近づいてくる話し声。
聞こえていた話し声は一度止まったが、気配は消えていない。気づかれたのは明白だった。内容は一つも聞こえなかったが、殺気は隠す気がないようだ。
会話の一方はレイスであることは認識でき、彼女が生きているのがわかる。
「ですから…………」
レイスの声は思っていたよりも落ち着いている。が、言葉を聞き取ることは出来なかった。防音の部屋ではなかったはずだ。
「…………それでも構いません」
確かに聞こえている。声もレイスで間違いない。
ふいに、違う者の声がしたかと思うと、急にクリアな声が聞こえてきた。
「ラーレ?」
レイスの声だ。普段と変わらない声が、いつもと変わらずに聞こえ出した。
「待って。いるのはラーレです。あの殺気、気配があなたたちだとは思わなかったの。しんがりをして、彼女を逃がすつもりだったのです」
やはりレイスは、ラーレを逃がして死ぬ気であった。そして、会話の相手は襲撃者だろうか。生存者がいるとは思えなかった。レイスにとって、親しい間柄であるかのようだ。そんなことがあるだろうか。
「ラーレ、ごめんなさい。ここはもう大丈夫ですよ」
(大丈夫、とはどういう意味を指すの。ごめんなさいって、嘘をついたこと?)
徹夜明けのような、興奮するような感覚だ。そして、鈍い考えが浮かんだ。
(レイスが裏切りをしたと?)
しかし、レイスがいたのは通路のこちら側だった。出口付近に近づき、マイクを撃ち抜いてから、ラーレの元で警報を聞いたとは思えなかった。マイクの血液はまだ乾いていなかったからだ。死後硬直も進んでいなかった。
(退路で絶命していたマイクを、姉さんは知らなかった。レイスは退路が保たれていたと信じていた。マイクを撃ったのは、姉さんじゃない)
「やめて! 彼女はラーレよ、お願い」
殺気だ。レイスからではない。
「誰?」
先ほど聞こえた別人の声が聞こえ、ラーレと大して変わらないような、少女の声だ。声変わり前の、少年の声のようでもある。
「ラーレだって言っているじゃないですか。ねえ、ラーレ、そうですよね?」
「じゃあ、さっきからあるこの殺意は何」
(私からの明確な敵意を殺意として受け取ってる。隠す気なんてない。そして室内から、最大限の警戒と殺意を返している。おそらく銃口も向けているわ)
ラーレは拳銃を強く掴みなおした。突入しようとした瞬間、再び少年のような声が響いた。
「君は何も話さなかったの?」
あどけなさを残す声が、本当に疑問を持っているかのような、疑いしかないような言葉を発している。
(何を。話さなかったと、言うの……)
「ごめんなさい。どうしても、言葉に詰まってしまって」
(だから何を)
「そう」
(何がそう、なの)
「あいつ、なんだっけ。確かマイクっていう名の」
淡々と、少々と絶命した男の名をかたる声の主へ、緊張が走る。ラーレは全身からじんわりと体が熱くなるのを感じたのだ。
◇◇◇
「先に言っておくけど、あいつを撃ったのはレイスじゃないよ」
「どういうことですか。……まさか、この先にマイクが?」
「いたらしいよ」
「まさか外から……?」
レイスではないという謎の声の主に対し、安堵するのを拒絶したラーレはそのまま拳銃を握り締める。
「襲撃に加わる胆はなかった。命乞いがあれば、救ってやろうみたいなそういう胆はあったみたい。でも、現地を見て、裏切った者として、責任を取って自決しようとしたみたい。だけど、あいつにそんな勇気があるわけない」
声の言うことが本当であれば、裏切り者はマイク・レイリーだ。自決したようには見えなかった。それにマイクの銃弾は6発、満タンだったのだ。
「撃った、というのは……」
会話は続いている。何故、こうまでしてレイスは目の前の声の主と親しげに話すのか、ラーレには理解出来ない。
「そのままの意味だよ。裏切ってまで救おうとした娘さんが、もう助かるはずがないと、漸く理解したみたいだね。娘さんは天国へ行くから、自分はどうあがいても会うことは叶わないって嘆いてた」
(何を言っているの、このひとは)
ラーレは拳銃を握る手に汗を感じるものの、握る手を離す気などない。重苦しい空気と重圧を、レイスは感じ取ってないのだろうか。
「自決なんてしても、娘には会えない。組織を裏切った罪人は、天国へ行くことは出来ない。それでもこのまま生きることは出来ない。だからといって娘が生きたかったのに、生きていられる自分が自決しようなど、自分には出来ないって。……傲慢だよね」
まるで人を何とも思っていないような、淡々とした声が響いている。
「裏切り者として、ここで撃ち抜いてほしい、そう懇願されたんだって。でも、彼の罪が消えるわけじゃないんだよね」
声は止まらずに発し続けられた。マイクは妻を、娘を亡くしていた。その絶望を知ってか知らずか、声の主はマイクを罵倒し続けた。
「それで断ったのに、こう、銃口を額に押し当ててね」
「黙りなさいよ!」
ドアを蹴り上げて銃口を対象に向ける。我慢の限界だった。
室内には二人。
レイスと、その背後に居る、酷く痩せた自身より小柄の、隙だらけで棒立ちの少年だった。表情は一つも揺るがない。
自身を子供だと思っているラーレよりも、ずっとずっと幼い。
白銀の髪、肌は恐ろしいほど青く色白であった。恐らくアルビノとかいったはずだ。それでも、今はどうでもいいことだ。
◇◇◇
少年は武器を持っておらず、手を銃に見立て、レイスの額に押し当てていた。少年は自身を見ようともしない。目線を合わせようともしない。
「やめてラーレ!」
「レイス、このガキはなんなの!? さっきから聞いていれば、人を馬鹿にして」
「そうだろうね。そう受け取られても仕方ないかな」
澄ました顔で達観している少年だ。無感情という言葉が似あうほど、何の感情も見受けられない。
(ふざけている。武器も持たず、あれだけの殺気を放っていたというの?)
「マイクは奥さんも、娘さんのことだって愛していたわ。私たちだって手を尽くしたの。でも、どうやっても助からなかった! だって、もう心臓も止まって……!」
(駄目だ、こんな子供に銃口を向けるだなんて。違う、そうじゃない……! なんで、拳銃を握る両手が震えて、目標が定まらない!)
少年は今だにラーレに目線を合わせない。レイスを見つめたままだ。
「命は生まれ出るわけだから、いつかは尽きるものだよ」
少年は微動だにしない。動かないのは、銃口を向けられていることを、殺意を知っているからなのか、それともラーレが撃てないとでもいうばかりに。どうみても、少年は普通の人間ではない。
「というか、マイクは君たちを裏切ったでしょ? それも、死んだ娘を蘇生出来るなんて戯言のために」
少年は笑みを浮かべる。無表情の笑みからは、反吐が出そうなほどの気味悪さを感じる。
「マイクが正しいことをしたなんて、思ってない。それでも、大切な娘の命なの。わかるでしょ⁉」
「その大切な娘を蘇生なんてしたら、蘇りになる。娘は新たな神を名乗るのかな?」
何の音も聞こえない。
「転生はしないし出来ない、そういう概念の宗派なんじゃないの? あなたたちってさ」
静寂が、ラーレの銃口を少年の脳天に狙いを定める。
「君は誰のために、何をそんなに怒っているの?」
「あなたは、人の死を、命を、なんだと思って」
――違う。
ラーレは本能で感じた。この少年は、普通じゃない。
気付けば、毛が逆立つような感覚だった。
「二人ともやめてください」
「いや、そもそもレイスがちゃんと話してくれていたら……」
すべての感覚が研ぎ澄まされ、少年が次にどう動くかが把握できるようだ。
恐らく悟ったであろう少年は、撃たれても特段何の問題もないと言わんばかりだ。
「いま、ここで討ち果たさなきゃ」
――理由など存在しない。
自身のすべきことは、目の前の少年を撃つことだ。
そうだ、そういう本能だったはずだ。震えもいつのまにか止まっている。
今、撃ち抜かなければ。年相応の、その顔を見る前に。
「言っておくけど、僕はそんな拳銃では死なないからね」
少年の言葉が言い終わるのを待たず、ラーレは少年の心臓を狙い、引き金を引いた。