(9)
その夜も昨晩と変わらず吉次の部屋に仮寓した。吉次は龍の発見に奔走しーーまあ、無為に終わったがーー、吉次とは終夜会話しなかった。情報戦としては好都合ーー相手の手の平でダンスし続けてればいいのだ、気づいていない振りをして。要は現世への帰還が果たせればよい。
シルバの部屋に赴き、現代知識を提供する。が、思わぬ指摘があった。それは僕の風体で、体色が鉄火色に変化していた。赤と橙を交ぜたような熱の色。鮮やかで、蝕の陰りは払拭されていた。あと声も。前より艶があるのだとか。まあ、自覚症状なしなので、本来のものかは不明だが。
「何か心境の変化があったの?」シルバが聞く。「ピョートルさんに助言をもらった……、いやまっさかあ!」と、吉次と笑いあう。「ないない、それはないよねぇ!」
「そのまさか、と言ったら?」僕は言った。途端に笑いが止まり、唖然の目口が2組、ゆっくりとこちらを向く。「ピョートル氏の話では」視線はシルバ、しかし、意識は吉次だ。その挙止、面貌、変化に集中して「もうすぐ現世に帰れるらしいんですよ、俺。それが嬉しくって」が、変化なし。ならばもう1石だ。「だが、吉次さ、お前の目からも変化は見て取れていたはずだろう? なぜ黙っていた?」
「え? あ、教えてほしかったの? ゴメ~ン、君は周りの目なんて気にしないかと思って」平素通り。収穫なしか。
シルバ邸を退出してBさん宅へ。体調変化と対価に手間取られ、PM2時過ぎ。Bさんはジャンヌというらしい。
「どんな人なんだ?」宇宙をあちこち望見しながら聞く。「そのジャンヌって」
「うーん。難しい! 総括できないな、大体本名はジャンヌじゃないし」
「ジャンヌじゃない? 意味わからんぞ」
「総称なんだよ。いっぱいいるっていうかさ」いっぱいいる?「まとも……ではあるんだけど。うーん、まあ、なんだ、行ってみれば、わかる、かな?」
光耀の栄華たる密集地から外れて北極星のような孤影の点を目指して歩いていると、寂然たる闇のただなかに、2対の金の棒が見えてきた。チアリーディングのバトンのような形状で、違いは装飾の華美さ。間近まで来てみるとはっきりわかる。上下端は家紋なのか鹿らしき動物の頭と、角に絡んで伸びる蔓、そしてさらに上へ伸長する蔓の結節点から垂れる大きな葉ーーブドウか?ーー、で、取っ手は、その蔓が螺旋をなしてからまり、精緻にまっすぐ伸びている。どうみても荘重な洋館の門前だ。
吉次が取っ手付近をノックするーー女性の声で応えがある。で、取っ手に手をかけると、2対の棒の中間に白線が走った、まっすぐに、3メートルはあろうかという高さまで。そしてそれは、頂上まで上がると分裂し、左右に垂れ、砲弾の形状をなして足元で再び会同した。手を掛けた方の暗闇がたわんだ。そして戸を引くにつれ沸騰し、高くまばゆい光の亀裂を生じていく。あまりの激しい明光に、一瞬目前が真っ白になった。手で防ぐ。馴染むの待ち、手の影を解くと、そこには5月の息吹が広がっていた。
子鳥がさえずり、小枝で跳ね、同輩の小鳥と合流する。蝶が草につき、寝息のようにハネを上げては下げるを繰り返す。その草は柔らかく、露を含み、草原は、晴れの陽気に喜んでいた。萌出る葉叢が精気を香り、微風にのせて、丘上の低木地帯まで吹き抜けていく。
「どうだい、素晴らしいだろう!」先に入った吉次が興奮気味に振り返って言う。「この景色、この住環境!」
内心で同意する。「ま、お前の部屋じゃないけどな」左右を見回す。「で、ジャンヌさんはどこに?」
「急かない急かない。もうすぐ来るって」
「何が来ると?」
「まあまあ」
すると草原の奥向こうから、執事の服を来た木隅が、両手で銀の盆を持ってやってきた。木隅はのっぺらぼうで、肩から上は薄墨を塗ったバットのよう。身体はブリキ。盆の上には紅の蝋で締めた手紙がのっていた。吉次が礼を言って、開封し、読み上げる。
「ようこそいらっしゃいました、岡向こうまでお越しください、歓迎いたします、春旺館の主、テリーヌ、だってさ」
「テリーヌ? ジャンヌじゃないのか?」
「うーん、多分ねぇ」
「どういうことだ?」
「うーん」で、木隅を一瞥し「そういうことぉ、なんじゃないかな」
今は言及不可、そう言いたいのか? すると木隅が盆を片手に持ちかえ、往路の草原を逆行し始めた。
「行こう。歓待してくれるってさ」
木隅に先導されて歩く。
「ちなみにさ」吉次が耳語してくる。「どう見えてるの?」
「パペットだ。執事服を着ている」
「お!」驚異とでもいうほどの反応。「大体合ってる」
「本当はどう見えるんだ?」
「執事風の紳士だよ、ただ、両目だけくりぬいた木彫りの兜を被ってる」
異様だ、極めて。「奇天烈さではどっこいか」
「進歩したやーん」バンバンと背を叩いてくる。で、歯茎を剥き出しての高笑い。こいつが、この邪念なく笑う快活漢が、俺をはめる奸計を腹でたぎらせているだと? バカな! ーーいや、無警戒は禁物、か。
歩いていくと若木の林に突き当たり、よけた先に日除けのパラソルがあり、その日陰に純白のテーブルセットーー椅子は3脚ーー、テーブルにはやはり、周到に、白磁の茶器が用意されている。が、その1脚、そこには1枚の絵画が立て掛けられていた。主人であるテリーヌ氏その人が鎮座するのでないのか。絵画ーー縦横60・50センチくらいーー、油彩の肖像画で、描かれているのは中年のゲルマン系女性の正面画だ。どうしたモチーフだろう、女性は上向きで目をつむっており、天界との交信中だと言わんばかり。首はほっそりとしており、ほぼ亀のそれ。髪は淡い栗毛色で、三編みを持ち上げ登頂部でまとめているようだが、毛量がないのか居ずまいに厳しいのか、側頭部にしろ襟足にしろ、バレリーナのようにピッチリ結い上げられている。胸元には紅玉3連の首飾り、濃いパープルのドレス。数百年前の西欧の婦人画、ただし、一見の印象はだ。そう、顎を突き出す謎の構図でも、穏和倹恭とは言いがたい、なにか一筋縄ではいかない老獪さ、頑固さが、伝わってくる。それは共和しない私見の強堅さ。損失が予期される集団でも己だけは保身に動く、裏切りも厭わぬ、そういった抜け目のなさ、しかも、それでいて一切の不徳を感じない自尊の心、核、そういった精神の老練さ。しかし、なぜこんな絵が、ここに? が、その絵画に封じられたはずの婦人が、今まさに危機を察知したとでもいうように、無機物の戒めを打ち破って、口を開き胸に大きく空気を取り込んだ。ドレスのひだの荒い筆致が持ち上がり、背景までもが連動してざわつく、まるでアニメーションみたいに。そして、ゆっくりと顎が下がっていき、正視の角度にとどまった。細長い顎があらわになる、で、もう何が映るかわかってる、そう言うように、ゆっくりと、確信的に、まぶたが開く。まずは吉次に、次に僕に。黄や群青に色調を変えながら、婉然と、完璧な友好をかたどって、微笑みかけてくる。
「ようこそ、いらっしゃいました」絵画が言いーー口調は見た目どおり、声も滑らかだーー、
「ええ、えっと、テリーヌさん」そして吉次は木隅を一瞥しーー木隅は脇に控えたまま不動ーー視線を戻す。「お会いできて光栄です」
「ジャン」命令のような口調になる。「お客様にお茶をお出しして」そして、どこからか孔雀の刺繍の入った扇を出しーー手も描出されたーー、口許を覆って、わずかに揺らす。が、こうしてみてわかった。三白眼なのだ、テリーヌは。で、こちらを向くときだけ目元を和らげる、確たる自我を隠蔽して。「それで、今日はどのようなご用向きで?」目だけで僕を一瞥し、「まあ、想像はつきますが」
吉次は両手を広げ「話が早くて助かります」閉じるとともにパンっと鳴らし「本日はお尋ねしたいことがあって参った次第です。こちら、吉崎くんの症状のかたが、以前テリーヌさんの元にも現れたとシルバさんから聞きまして。お話を詳しくお聞かせいただければと」
「もちろんかまいませんわ」目尻が社交を帯び、が、すぐ消える。で、こちらを凝視。警戒、というより観察。なんだ?
紅茶とスコーンが出てきた。ジャンと呼ばれた木隅が下がり、テリーヌが扇を置いて、額外にーーおそらく紅茶にだーー両手を伸ばした。すると、一間あって、カップとソーサーが宙を浮遊し、テリーヌに向かって移動し始める、空間をすべるように。そして、額縁までいくとカップの縁からスタンプされたかのように、筆圧残る油画の描画に切り換わっていく。で、ついには、その手に2Dのカップとソーサーだ。テリーヌはカップに口を付けた。で、テーブルに戻す所作。すると、絵の具から現物、浮遊から着地の逆転現象が起こって、カップの中身は減り、今や赤茶の渦状運動まで発生している。どうなっている?
「といっても」扇を口許に戻し、テリーヌが続ける。「覚えていることはほとんどありませんの、メモも何も残していませんから。なので、記憶ですと、確か……、1人目はジャンの母、でしたかしら? 若い娘子の年齢なのに、少々口に出すのも憚られるような格好でしたのよ。わたくし、閉口してほとんど口も聞きませんでしたわ。2人目はーー」
「ちょっと待ってください」僕は言った。
お前とは旧知でもなんでもない、そう言いたげな視線、間。「なんですの?」
「80年前に1人、男児の出現のはず」構わず続ける。「シルバさんによれば、ですが。2人だったんですか? 同時に2人? 母なのに娘子とはどういうわけです?」
扇が空間を作り、空気を上方へ送る。無言で。ただし、目は正直だ。蔑視の三白眼、それが斜めに、こちらを凝視してくる。「不躾じゃありませんの?」
「吉崎くん」吉次が言う。「まずはテリーヌさんの話を聞いてからにしよう、ね?」
そうするしかないのだ。おそらく切実ととれる山羊の目が、そう物語っている。で、僕は勘念し、両手を上げ「OKだ」
「すみません、テリーヌさん」吉次が言う。「申し訳ありませんが続きをお聞かせ願えますか? 2人目の話を」
「ええ、いいですわよ。2人目、あの子はジャンの父でしたわ。4~5歳くらいのとても素直な子でしてね、活発で。異人でしたけども。ジャワあたりのアジアンかしら、もし真っ当な生まれでしたら、いえ、せめて肌が浅黒くさえなかったら、ジャンにも無下にされなかったでしょうに。それよりもーー、その方が例の、弟さん?」
「ええ」
「何日目ですの?」
「4日目です」
「それで、首尾は? 果たせましたの?」で、僕をちらと見る。「解消されてそうですが」
「うーん、もう1押し、ってとこですかね」
「もう刻限ですわよ」
「いやぁ、そうなんですよね、参った参った」そしていつもの笑い。テリーヌが茶を一口。
小鳥のさえずり、茶器の音。風によって、葉叢が一斉にざわめく。が、こののどかで沈着の小閑で僕は、耐えがたい敗北を噛み締めていた。今の会話で2人は、共謀の仲、しかもそれが、最終段階にある、そう告げたのだ。つまり、抵抗は無意味、なぜなら計略とは、準備6割、機に臨んだ応変3割、残りはたったの1割。で、現況9割達成、もう揺るがない、余裕すらある、抗ってみろ、できるのならば。そして、そんな局面だからこそ、彼らは、カードを開示したのだ。これをどう逆転する? もはや挽回の手なぞないぞ?
いや、ある。あると信じるのだ。いや違うな、逆だ、無いなどと、認めるわけにはいかん、絶対に。
そう、だから、つまりーー、こうだ。今は知らぬふり。で、順良に徹し、相手の驕慢に乗じて情報を抜く。策謀の全貌をつかむのだ。で、逆転の目を探る。これじゃ手段ではなく方針だな、が、今は、これに掛けるしかない。
「テリーヌさん」まず1手目だ。「お茶をいただいても?」目の前のカップを指差す。
「ええどうぞ」
で、ソーサーごと持って引き寄せ、口に含む。美味い。「素晴らしいですなぁ!」が、味などどうでもいいのだ。「おい、吉次も頂いてみろよ」
「え? あ、うん」で、テリーヌに向かい「いただきます」が、口腔上の問題なのか奥歯に相当する唇にカップをつけた。「あ、うん。美味しいです」
感動なしだ、つまり。「リアクション薄いな、かなりの上物だと思うが?」
「まあ、前にも頂いてるからね」
だよな。「で、前回はいつ訪問したんだ? また太古の昔か?」
「太古って。そこまで無沙汰じゃないけど」テリーヌに向かう。「いつでしたっけ? つい最近でしたよね?」
「1、2年前、だったかしら?」肖像が横顔になった「ジャン、そうだったわよね?」
木隅が肯定の意で、腰を折る。
「1、2年、ですか。またうん十年かと思いましたよ」さて2手目だ。「少し歪に感じますね、ここの住人といったら、なん十年も自室に引きこもってるイメージですから。シルバさんといい吉次といい。もしかして……、テリーヌさんも出不精だったり?」
「歪なんて失礼でなくて? 確かにわたくし達、めったに外出いたしませんわ、それは認めます。でも、わたくし個人に至っては、その必要が、な、い、か、ら! いたしませんのよ。目に入りませんの、この光景が。息吹あふれる神の庭園ですわ。そして、永遠の、愛の庭」
「あ、い? どなたとの、愛?」
「ジャンとわたくしですわ。わたくしたち愛し合ってますのよ」
「愛し? えっと、お二人はーー」絵とパペット。吉次を見る。苦笑。そっとしておいてやれ、その笑みだ。「長いのですか? ここに同居して」
「いいえ。ジャンとは最近出会ったばかりですの。それはもう毎日満ち足りてますのよ。わたくしが眠っている間、ジャンが庭仕事して食事の用意をして。必要なものは何でも揃えてくれますの。ねえ、ジャン?」
木隅は先と同様の振るまい。
「わたくしもそれに応えるため、精一杯美しく淑やかになって愛を返しますのよ。それがわたくし達の愛の形なんですの。ねえ、ジャン?」
肯定。
「では僕たちの訪問は」僕は言った。「お邪魔だったんじゃありませんか?」
「そんなことはありませんわ。そりゃ、わたくし達2人だけでも至福ですよ。でもたまには、わたくしの美貌や、わたくし達の仲睦まじさを誰かに見てもらいたいですから」
「ならよかったです、テリーヌさんの喜びに加われて」さて鏡面よ、どう波打つ?「ちなみに前回の吉次の訪問も、ご迷惑ではなかったですか?」
「別に迷惑とは感じませんでしたわ。貴重なお話も聞けましたし」
「それは僕が出現する、という話ですよね?」
「それも含みます。でも、趣旨が多少違いますわね、弟さんが訪れる、が主題でしたわ」
「その弟、というのが、僕?」
が、扇が止まり、蔑視。大きな扇のへりに乗って、軽侮を宿した扇形の双眸が、こちらを射貫いてくる。「あなた何も聞いてませんの?」まるで非礼を働いたと言わんばかり。「吉次さん、どうなってますの? わたくし、てっきり何もかも知った上で、本日いらしたもんだと思ってましたのに」
「いやぁ、そのぉ」頭をかき、両手を膝に。「面目ない」
が、そこで急激にテリーヌの様相が一変した。体が一瞬のけ反ったかと思うと、瞳孔が開き、動力を失ったロボットみたいに、目を伏せ、背筋がしなだれていく。そして、額の上部からは黒い点描の侵食だ、まるでフロントガラスに血の手形がびっしり、有無を言わさぬ勢いで張りつくように。テリーヌは一面黒い点描に塗りつぶされた、で、代わりに後ろの木隅が、大胆に一歩を踏み出してきた、胸を張り、腰に腕を回した姿勢で、高らかに主従の交代を宣言するように。
「吉次さん」木隅は言った。以外にも10代のような若々しい声ーーが、頭部からでない「差し出がましいようですが」そうか、腹だ、腹から声がする。「これ以上の引き延ばしは帰還に支障となるのではないですか? 順序を違えれば、そのかたの帰還すら危ういですよ。そしてそれは、あなたの目論むところでないはず。違いますか?」
「うん。うん、分かってる、ありがとう、ジャン、最後まで、親切に。でも、これで本当にお別れだ。紅茶、美味しかったよ、ありがとね」で、僕を向く。「吉崎くん。さあ、これで最後だよ。これを果たせば待望の帰還、現世だ」そしてポケットから銀の時計を取り出し「日没だ、さあ、準備はいいかい? 飛ぶよ」
その瞬間、眼球の内側から光が発したように全景を白が包み込んだ。目をつむりーー開く。いちめん、乳白色の静止の世界。そして眼前に、目に痛いほどの鮮紅の背広、黄金のぬめった骨形の瞳。わずかに白さの違う体毛は、焔のように揺れていた。
「ようこそ、吉崎くん」口が開いてないのに聞こえる、頭蓋に反響するみたいに。「ここが帰還の牢獄、白鯨だよ」




