(8)
吉次の部屋に帰還し、一泊。ただ、この日は昇龍を見つけられず、炎天下で1夜を過ごした。
「実は最近、あんまり身が入らなくって」そう笑っていた。
で、翌朝シルバ宅を訪問。約束通り現代のランチについてーーそれは派生して、冷蔵や物流、港湾、大量廃棄の問題まで注釈が広がったーーを解説し、代わりにAさんーーピョートルといったーーを教えてもらった。
「ええ! あの頑固じいさんかい?」
ピョートルと聞いたとき、吉次はあからさまに後ずさりした。望み薄、なぜなら、寡黙のため聴取は至難、とのこと。月齢18がピョートルの近親者なのもシルバから聞いたが、顛末は不明。ピョートルだからねぇ、が吉次とシルバが口を揃えて放った一言だった。
が、行く。当然だ、手掛かりは2つ、そのうちの1つなんだぞ、放棄するわけがない。
なかば強請のごとく吉次に先導させ、ピョートルの部屋に向かう。
星々の海を歩き、途中で60度ほど足場を転換しーー仮に90度なら現実では壁を歩く格好になる。地平の傾きは意識によって変えることができ、本来登坂だった行路も平坦の地にできるーー、で、直進すること15分ほど。暗黒のなか、小さく浮遊するシルバーの取っ手が見えてきた。だが、それは近づくにつれ、徐々に視野角を切り下げていき、すぐそばまで来たとき、それは足元で浮いていた。堅牢そうな鋼鉄のバルブで、正方形のハンドルに十字の格子が接着。が、なぜ足元? 途中で地平の向きを変えたからか?
「ここだねぇ」片腕を後ろ手に、顎ひげをすく吉次。が、行動が続かない。お前が先に行け、そう言っているのか?
「入ろう」僕は尻に地面があると意識し、足裏をそこに着けた。で、立ち上がろうとし「ちょっと待って」吉次が呼び止める。
「ピョートルさんの部屋は垂直なんだ」
「つまり、向きはこのままで良い、と」
足を元に戻し、しゃがんでハンドルを握る。錠が固く、徐々に力を込めていったがビクともしない。今度は一気にひねった。ハンドルが菱形に見える位置で止まり、金属同士の重厚な衝突音が木霊する。そしてバルブの根本のあたりから、微かに蒸気の漏れる音がしだした。
「どうやって開けるんだ?」
吉次は掌の指4本をそろえ、そのうち2本を反対の手でつまみ上げる。「右にめくるんだ」
左端に片手を掛ける。が、想像以上に重く、全く持ち上がらない。で、中腰になって両手をハンドルに掛け、足腰の力で引き剥がしていく。すると闇が蠢き、左から右に円形の白線が走り、扉が開ききらないうちから縁にそって、薄く揺らめく白煙が立ち上っては消えていく。歯を食いしばって開けていくと、段々灯火が漏れてきた。鉄を溶かしたような赤熱色。さらに開くと、くろがね色の梯子がのぞき、開ききると、同じくくろがねの鉄製の縦穴が、地底深く続いていた。穴は60センチほど、人ひとり分。
「どんな部屋なんだ?」
「うーん」吉次は眉根を寄せ、髭を鋤いている。「あっつぅーい! ところ。正直行きたくない」
「なら待つか?」
「行くさ。初見者には案内必須だよ」
「危険なのか?」
「安全だよ。でも、ピョートルさんを発見できるかというと……、うん。ま、降りてみなよ」
まず縦穴をのぞきこみーー、底は不明、ただ深遠なのはわかる。梯子は赤熱色を暗く照り返し、地下へのレールとして浮かび上がっていたが、そのレールの枕木にあたる部分、その間隔がつぶれて判別できない。つまり、それだけ深いのだ。
鉄格子に足を掛け、降りていく。入った瞬間から異常な暑湿がまとわりつく。ほぼサウナだ。そして地鳴り。これは間断あって続く。なんだ? が、構わず下り、閉塞する鉄のくだが途切れると、眼界が、この高温と怒涛の回答を示唆してくれた。
遠望の暗黒の稜線、そのほとんどで、灼熱のマグマが、まるで怒りに狂う巨大怪獣の背から出た血のように、自壊もいとわぬ勢いで吹き出している。そして溶岩は、丘陵から派遣された悪逆の軍勢のように、下る坂を不乱に悪辣に、周囲をおののかしながら滑り降りていく、なにか触れるもの一切を呪詛するといわんばかりの赤黒いさで。稜線の空は緋色に煌々としていた。火山のふもとなのだ、ここは。つまり暑さの原因、これか! が、これは降りて平気なのか? 吉次は安全と言っていたが。死はない、死「は」ない、か。信じるぞ、吉次!
薄闇のなか、硬質に朱を照り返す梯子を降りる。段々と照り返しの終端が近づき、地面の様相が見えてきた。砂だ、黒色をしてる。それがほぼ一面、平坦に敷き詰められている。が、所々小山があり、そばには穴らしき黒い影があった。梯子の末端近くには細流が緋を照り返していた。
地面に降り立った。周囲を見渡す。荒ぶる丘陵の噴火、そのわずかな明かりで照らし出される黒い砂地。砂は水分を含んでいるらしく、足はとられない。指ですくってみるが、粒子が細かい。少しぬくい。
「暑すぎだろォ!」吉次が降りてきた。薄暮のなか、白い毛と鈍い照り返しの瞳が際立って見える。「それに暗いし。世紀末的だし」
「へたばりそうか?」
「もうへたばってる」袖をまくる。豊満な体毛が飛び出した。「あーもう! 嫌なことは先に片付ける、嫌なことは先に片付ける、嫌なことは先に片付ける! よし! いや、やっぱりダメだぁ~」
「ピョートルはどこにいる?」
「穴見えた?」ハットで扇ぎ始める。
「穴? 隣に盛り土があるやつか?」
「そう。ピョートルさんはその穴のどっかだよ。いつも穴掘ってるから、あの人」
「なんのために?」
「さあ? 涼を取るためとか?」
「なら、1つあればいいんじゃないか? なぜ複数用意する?」
「わかんないって。本人に聞いてみて」
暑さに参っている、それは看取できた。が、なら、なぜついてきた?
げんなりしている吉次を連れ歩く。地鳴りの音圧と振動を感じながら1つ目の小山に到着。穴は2メートルほどの長方形で、垂直に1メートル掘り、そこからさらに斜めに掘削してあるようだ。入り口付近は目視可能。が、奥はうかがい知れない。元々薄明の上に無灯なのだ、見えるわけない。ピョートル氏の名を叫んでみるーー無音、応えはない。が、背中を小突く感覚。振り返って見た。いまわの際のような顔をした吉次が、こちらにマッチ箱を差し出していた。使えってことか。
「気がきくじゃないか」が、無言。口を開く余裕すらないってか。「悪いな、使わせてもらうぞ」
マッチを擦って進む。が、奥行きは3メートルほど、すぐシャベルの跡の残る砂壁に突き当たった。
その後は23回、同様の徒労に終始した。吉次の助力は炭化した棒切れ23本。で、24本目。が、それが擦られることはなかった。
次に向かう小山でなにか動いた、気がした。目を凝らして見る。穴のなかから黒い泥みたいなものが飛び出して、盛り土になだれかかった。それが一定のリズムで何度も繰り返されていきーー間違いない、なにかいる。僕らは走った、空気の熱さを肺で感じながら。そして、穴の側まで来たとき、その穴内で、燭台の明かりに照らされーー穴の1隅にあったーー、両腕にたこ足でも生えたような上半身裸体の男、その厚い背面のシルエットが、逆光のなか浮かび上がった。が、奇異は触手の腕部ではない。それより後頭部。本来、卵を倒立させたようなシルエットが伸びるはずのその箇所に、まるでどら焼きのようなシルエット、しかも、それが首を同根に3本、キノコのように生えている。そして、その妖異の背中が、安穏たる日常はこれで終わりだとでもいうように、シャベルを深々地に突き立てた。で、3つの黒いこぶが、揃ってこちらを振り返る。コブには3つの黒いトカゲの顔、そして、その3匹が、これからお前を食い殺すといわんばかりに、眼光鋭く睨んでくる。が、そのまま膠着、動かない。しかしその間、不動の体勢とは裏腹に、敵愾心の高まりを暗示するように、砂にまみれた眼光だけ、害意の冷たさを濃くしていく。僕は後ずさったーーが、それは半歩だけ。ビビって危地は抜けられない。だから警戒し、観察した。こいつがピョートル氏の場合、なにもしてこないはず。が、そうでない場合、急襲してくることだってありうる、が、そうした場合、何に気をつければいい? シャベル、膂力、両の腕の触手、毒を吐くなんてこともありうるな。が、背を向ける、それだけは絶対に駄目だ!
「セルゲイか?」しわがれ声。確かに老翁のそれ。「いや、まさかな」
が、それだけ呟くとトカゲ野郎は向き返り、また穴を掘り始めた。「誰の客だ」シャベルの砂に食い込む音が聞こえる。
「ピョートルさんいた~?」すぐ後ろから吉次の苦しそうな声。で、「あ、いた」やはりこのトカゲがピョートル氏!
「吉次か」砂を突く手は止まらない。で、話しながらもシャベルを背後に煽り「なにしに来た」その砂が、吉次に降りかかっていく。
「どわ!」足元に散らばる。「なにするんじゃい!」
が、応答なし。もしかして、この2人、犬猿なのか?
「あーもう、靴に砂入っちゃったよ」吉次は片方を脱ぎ、叩いて砂を落とすと履き直した。で、んんっと1つ咳払い。「今日は少々聞きたいことがあって参った次第です」胸を張り、後ろ手を組み、なぜか急にシャンとした感がある。
が、問いの返答は間。砂を刺す音、それがなだれ落ちる音。その繰り返しを2度。
「シルバさんから聞いてきたんです。ピョートルさんがここにいる彼」僕に手掌を開く。「吉崎くんのような状態の人に会ったことがあるって。それで話を聞けないかと」
が、やはり返事はシャベルを刺す砂利音だ。それから砂の落ちる音。中腰の裸体の背中。手首から触手の生えた腕ーーいや、違うな、これは触手ではない、シッポなのだ、トカゲの。いや、そうでもないーーそうか、手指から肩までをトカゲが飲み込み、そのまま僧帽筋、首筋と回って、頭部が人体の頭の隣まで侵食している、で、掌だけが肛門からはみ出してる、そういった図か。でも、中央の頭部が頭脳なら他の2頭は? なんの役割がある?
「シルバさんからは」と吉次。「ピョートルさんの部屋に1泊した。きれいな月のような女性だったてのは聞いてます。でも、その人が近親者という以外、どういった存在なのか、顛末がどうなったのか、回答をもらえなかった、と、シルバさんは言ってます」
が、返事なしだ。やれやれといった雰囲気の吉次。
「セルゲイとは」で、僕はいった。「誰のことです?」
「セルゲイ?」と吉次。
「ピョートルさんが俺を見て言った名だ。いや、たぶん名前、だな」でピョートル氏に視線を戻す。「なぜ俺を他の誰かと見間違えたんです? 俺は東洋人の容姿をしてるはず、なのにセルゲイなんて東欧系の誰かと見まがうはずがない。俺のような存在の理由を知ってるんじゃないですか? どういった経緯で生まれ、何によって消えていくのか。その因果を、その結末を」
が、ピョートル氏は不変のまま。
「なぜ答えない、なぜ穴ばかり掘ってるんです? その先に何があるっていうんですか? 金脈でもあると?」
が、ピョートル氏は応えない。
「地面ばっかり見てないで、たまには人の顔見て話したらどうなんです!」
ピョートル氏はシャベルを刺した状態で停止し、それまでよりも緩慢に砂を持ち上げ、こぼし、シャベルを砂に突き立てた。で、こちらを振り扇ぐ、3つの頭、6つの目、それらで同時に。
「姪だ」
「めい?」
「ラーニャという」そしてまたシャベルを取った。砂を刺す音、こぼす音。「面倒見のいい優しい子だった。わたしを見て話してと、激しく怒っておったわ。そんな子でなかったのに。ああ、聞こえるようだ」それから小休止あって「セルゲイはラーニャの夫だ」
が、僕はほとんど聞いていなかった。ピョートル氏の背中を這う砂に、釘付けになっていた。
腕も、頭も、おそらく胸腹部も、体表中に張り付いた砂が震え、うごめき、筋をなし、背に集まっていく。そして背に乗った蛇たちは、肩甲骨から腰にかけ、黒い楕円の模様を描くように、時計回りに結束していった、1匹、また1匹と。そして最後の1匹が走る円に吸収されたとき、その円から今度は黒い霧が漂い出て、その一粒一粒が帰趨する座標を分かっているかのように背中のある地点に張り付いていく。それは段々と意味ある集散となり、ついには、ある情景、ある表情となって、背の真ん中に浮かび上がった。若く、かんざしを差した女性、それを斜め上から見下ろす絵。視線は前、こちらを見ていない。笑ってもいなく、しかし、柔和な頬は丸く、利発そうだ。だが、不思議なのはその人種、その絵は、どう見ても東洋人ーーいや、中国人か、目が細く、つり上がっている。どういうことだ? ラーニャは、スラブ系でないのか?
「ラーニャとは」僕は言った。「中国人なのですか?」
「いや、ピョートルさんはーー」と吉次が即応し、しかし「なぜそう思う?」シャベルも手放さず、ピョートル氏が振り向きながら遮った。
「そう見えるから、ですね」
「そう見える、だと? どう見える?」
「かんざしを差している。顔は東洋系ですが、2重で、日系でも東南アジア系でもない」
「なぜ分かる?」
「背中にそれが写ってる、あなたの背中に」
「背中?」ピョートル氏は自分の背中を確認した。「ふむ」
「ちょと」吉次が密談のようにささやく。「どう見えてるの?」
「ピョートル氏は黒いトカゲだ」ささやきで返す。「頭が3つある。両腕はトカゲの胴だ。で、背中に砂が集まって若い女の顔になっている」
「えぇ。なにそれ、きもちわる。でもそれ、言わない方がいいよ」
「なぜだ」
「腹立てて、またしゃべってくれなくなるからね」
少時黙考。「なるほど」
「何をコソコソしゃべっている」
「いや、ラーニャさんはロシア人ではなかったかなと思って」と吉次。「シルバさんからはそう聞いてましたが」ダウト。おそらく嘘だ。
「そうだ。だが、迷い月として現れたときはチャイニーズだった」
生前ロシア人だった者が、迷い月として来臨したらチャイニーズ? どういうことだ? 迷い月、おそらく僕のような存在だ。それはいい。経過も。が、これだけは聞いておかねば。
「それで」と僕は言った。「ラーニャさんは最後どうなったんですか? 裟婆送りですか?」
「裟婆送りではない。少し違う」
「少し違う?」
「チャイニーズの形貌、記憶を維持したまま帰った。おそらくお前もそうだ」
つまり、現時の身魂を保持したまま、現世に帰った、帰れる! が、おそらく、とは?
「そのおそらくというのは、不確実性があるという意味ですか? それともサンプル不足で当てずっぽうになるが、おそらく、という意味ですか?」
「それよりお前はなぜラーニャの姿が分かった? 迷い月だからか?」
俺の質問の方が先だ! が、現状相手優位。なら、譲歩すべきはこちらか。「そのーー、迷い月、とは?」
「月のような姿をした者、わしが便宜的にそう呼んでいるだけだ。それよりラーニャだ。なぜ姿がわかった?」
「吉崎くんは特別体質なんですよ」と吉次。「僕らを一風変わったふうに捉える」
「お前に聞いてないぞ吉次」で、こちらを向いて「しかし、若者よ。そうなのか? 我々には見えてないものが見えるのか?」
「ええ、まあ」
「それでわしの背中にラーニャが見えたと?」
「そうです」
「なら、わしはーー」が、ふっと意気が消え「いや、せんなきことだ」転回し、また地面を掘り始めた。
それからは黙秘の回答が連続した、まるでビデオ映像に質疑しているかのように。
が、分かったこともあった。3頭の顔、その両脇の2頭の役割が判明したのだ。彼らは腕の尾を食う。ピョートル氏が手を休め、頭部に手首を近づけるーーおそらく汗をふくなどの動作ーー、すると、すかさず上げた腕側の頭が、尾を噛み、半月状に食いちぎるのだ。で、仕組みは不明だがーー対価か?ーー、穴を掘るたび、そのむき出しの肉が、奇妙な深海の寄生生物の侵食のように、せり上がり修復していく。ピョートル氏はこれを延々繰り返していた。呼吸、なのかもしれない、彼にとっての穴掘りは。
ピョートル氏の部屋を出て魂の燦爛に再三の感動を覚えつつ、ピョートル氏との対話で気づいた本心に、僕は、当惑と歓喜を感じていた。それは現世への帰還の喜び。ピョートル氏は甦りの途中と言った、そしてそれを、僕は、嬉しいと叫んだのだ、心の奥の、さらに奥底で。あれほど奇っ怪で、猥雑な現代という仕組み、その虚構、悪夢に、再び取り込まれようというのに。たぶん、やり残している、いや何も成していない、始まりどころかその準備すら。そうだ、目を潰さんばかりの眼界の光明、その数、その種類、それだけの可能性が、現世で肉体を持ち、狂奔を繰り広げているのだ。きっと、なんだってできた。にも関わらず、溺れ、這いずり、吹き飛ばされて、それでも立ち向かうような死闘の日々を、苦節を、自分はやってきていない。人生を、生きてきていない。常識を言い訳に、凝り固まった偽りの幸福のなかで、生命の持つ真の輝きを試さずにきていたのだ。
そして、だからだ、吉次。前を行く深紅のモーニングを着た獣、その赤に染まった高い背を僕は、猜疑をもって凝視した。別れ際、僕だけに聞こえるように言ったピョートル氏の警告、それを思い出しながら。
「運気を操るなど神の御業。信用しすぎない方がいい」
それは確かに人の死すら左右できそうな力。なあ、そうじゃないか、吉次。




