(5)
吉次の先導で歩く。吉次の部屋は僕の覚醒地から30~50歩ほど。ほとんど離れていない。シルバのとき同様、なんの脈絡もなく取手が無の空間に浮いていた。取手は木製で、木目調で縞が縦に走り、松か、あるいは杉の四角い半月状にくりぬかれたやつだ。吉次はその窪みに指を掛け、するとやはりその周囲に四辺を切り取る白線が出現し、なにか巨獣の胃壁でもつついたように、その区画の暗黒が、うごめき隆起を大きくする。そしてスライドするに従い、まるで光線兵器のような密度の濃い光線が漏れ、瞳に痛いほど差し込んでくる。光を浴びる吉次は門戸を開ききった。吉次の立つ先、そこは砂漠、陽炎に揺れる黄土色の大地と、霞むことのない鮮明な水色の空、その2色のコントラストによる灼熱の岩石砂漠だった。
「なにもないとこだけど入ってよ」吉次は言った。そして門戸を潜り、が、途中で振り返り「ホントになにもないからお茶も出せないよ。ま、僕らは喉乾かないから。干からびないから安心して」
僕は入った。熱線が肌を焼いた。例えば掌を開いてみる。熱を持った透明な物体を持ち上げているみたいだった。仰げば太陽は3つ。左右の中空に2つと天頂に1つ、影も3本あったーーどの影も濃くはない。空気は乾燥していて、風が吹くとドライヤーを全身に浴びたみたいだった。髪から潤いが剥ぎ取られ、その1本1本が磁力で反発し合うようにまとまりを失くし、空気の層をまとって膨張した。大地はうねを形成していて、熱線で焼かれ続けたせいか地表は磁器のように硬質で、しかし、風化の侵食を色濃く反映してやすりのように荒い表情だった。それが四方どこまでも続いた。荒野は熱線に照らされ、それを黄土色で反射し、陽光があふれ陽光に溺れるほどだった。この焼けるほど乾いた眩しいだけの世界が自室ーーこれでは白鯨の腹にいるのとそう変わらないのでは?
「どう? 中々開闊とした部屋でしょ? 自然味たっぷり!」
吉次は引戸を閉めながら言った。が、この荒涼の大地に人工的な間口が出現の図ーー取手だけだった引戸は、裏側は全体が具現化されていたーーどう見てもいびつだった。
「ここで夜を過ごすのか? このなにもない荒野で?」
「そうだよ」
「毎夜毎夜の時間を? 幾夜もの膨大な時間を、本当に?」
この空間は確かに開けている。が、こう荒涼一辺倒では逆に完全に閉鎖されているのと同義では?
「言いたいことは分かるよ。でも、ここでも楽しいことはある」
「たとえば?」
「昇龍登りとか」
「なんだそれ?」
「その名の通り昇龍を登るんだよ、龍の背中に乗って。ちょっと見ててよ」そして吉次は周囲をゆっくり見回し、ある虚空の一点に目を止め「ん?」食い入るように凝視し、近づき、懐から片眼鏡を取りだし調べ「違うな」さらに電波の発信源でも探すように、周辺に目を配っていく。
吉次は歩き出した、が、それは目的地のある移動ではなく、探し物をする徘徊の足取りで、西の太陽がどうの東風の強さがどうのと、独り言が始まり、僕などすでに眼中にない。吉次は蛇行しながら地平線に向かって進行した。そして総身が親指の爪くらいの大きさになると、左の方へ、次は右へ、今度は手のひらサイズくらいに見えるまで戻ってきた。僕は無音の中、陽炎の炙りも意を介さず動く熱心な赤い点を感興なく見ていた、安座し、深紅のスーツがまるで発火しているみたいだなと思いながら。それより地平の果て、空の果てに興味があった。この「部屋」は球体か? 大気圏は? 惑星なら、圏外には宇宙がある? その宇宙は室外の宇宙と同一か、あるいは別個か? 疑問や興味が連綿と湧いてくる。
それからようやく呼び出しがあった「おーい!」が、その声は怒号に近く、それだけ歓喜を含んでいた。腕は高らかに、興奮のバロメーターのようにきびきびと振れていた。僕は立ち上がり、尻の砂塵を払って歩き出した、仕方なしといった感じに。が、「早く早く!」どうも早急に招致したいらしい。
僕は駆けた、が、待ちきれないらしく到着する前に「龍の登り口見つけたよ! 見ててよ!」
吉次は足元のうねを2度3度踏み崩した。で、反転し、他所には目もくれず確かな足取りで5、6歩進んだ。すると、わずかに体が宙に持ち上がり、動作なしに、微速で僕から遠ざかっていく。
「ほらいた! やっぱりここだ!」吉次は振り返った。「どうだい? やっぱりここにいただろう! 思った通りだ!」そしてまた振り返り、空に向かって「 さあ中空高く運んでおくれ!」
すると、その声に呼応するように吉次の浮遊が高度を増しだした。最初は10秒で10センチほどだったものが、20センチ、50センチ、1メートルと、指数関数的に足場を高くしていく。そして、ついには目測不能なほどの急上昇ーーそれはほとんど弧状の発射台から打ち上げられた弾頭に等しく、天に吸い込まれるようにあっという間に蒼空の住人になっていた。もう靴底らしき点しか目視できない。
「おーい!」上空から遠い呼び声がする「君も昇っておいでよ!」
「どうやって!」
「足場を崩しておいたろ! そこから昇ってこれるよ! やってみて!」
しばし困惑、が、未知だ! こんな訳のわからないの、見たことがない。で、もちろんそうすることにした。吉次の踏み砕いた形跡を探し、見つけて吉次の歩いた方に5歩6歩、すると足が接地する直前に、柔軟な何かを踏んだーー気がした、で、それが股を裂くように勝手に進行していく。ジャンプしてそれに乗っかった。足元ーー何もない。左右然り、前後然り。が、磁力のように大地と自分を分かつ不可視のそれは、確かに重力に介入し、僕を持ち上げ、運び、それとともに影が畝を乗り越えていく。足元の高度が徐々に上がってきた。吉次同様、最初の10秒で10センチ、その次で20センチ。だが、視界が高度を帯び、地面から3メートルを越えるころには恐怖が勝ってきた。もし落ちたら? いや、そもそもどうやって止まる? 止まらなかったら永遠に上昇するのか? 上昇したとして、その果ては? だめだ、考える時間が圧倒的に足りない! ーー吉次の狂喜ぶりにつられ、無思慮に追随してしまったが、もしかしたら僕は、安全装置のない絶叫マシンに、釣り込まれてしまったのでは? そしてそれは、もはや不可逆。恐怖が心髄まで浸潤してきた。「逃げなければ、でもできない」その高速ループが巻き起こり、そして回避不能が結論づけられるたび、恐怖が濃くなっていく。吉次! そう叫びかけた。が、そうせずにすんだ。回避できない、不可逆なのだ。それが心底に落ちたとき、活路に意識が向いた。つまり、事の成り行きを観察し、脱出の糸口を探り、その好機が見つかったとき、的確に対処できるよう集中するのだ、だから今は、その一瞬を待つ。で、僕はポケットに手を突っ込んだ。余裕ができたのなら余裕らしく振る舞う。流儀だ。高度は50メートルを越えていた。少し冷たくなった風が襟をめくり、シャツをはためかせた。砂漠が一望でき、畝がバームクーヘンのような縞をなしていた。
上昇は速度を増し、それは安全の域を完全に逸出し、もはや必死の領域に突入していた。それでも加速度は一服せず、足元と大地の乖離ーーそれはつまり、落下時のダメージだーーを拡大していく。が、不安は比例しなかった。それは自分の周囲の空間ごと持ち上げられている感じで、下からの圧力がなく、それゆえバランスを崩して足場を踏み外す不安が一切なかったから。むしろ腹や胸、腋を見えないロープで巻かれ上方へ吊り上げられている。その感覚に近かった。確かに龍、神格化された夢幻の生物、その背鰭に首根っこが引っ掛かり、宙吊りにされている、そう言われても不思議はなかった。
上を見た。気づけば吉次が下を覗き込むように腰を折り、こちらをうかがう様子が視認できた。つまり、それくらい昇騰したということ。さて停止は? この遊戯、どう決着がつく? そう思っていると、加速一辺倒だった上昇スピードが、急激に落ち始めた。そして、軌道は緩やかな弧を描くように、垂直から水平に徐々に変化していった。で、ついにはエスカレーターくらいの速度・角度に落ち着いた。そして、振り仰いだ虚空のただ中に、吉次が後ろ手組んで待っていた。
「僕の周囲3メートルくらいは足場があるよ。そこまで登ったら飛び移りなよ」
吉次は平然たるさま。他意はーーなさそうだ。
が、足場などない、いや、あっても不可視なのだ。脚下にははるかな望遠の荒野が広がり、このまま落ちた場合に自分が占めるだろう面積の小ささによって、ここがいかに高所であり、かつ、地面との間にどれだけの空虚が広がっているか、容易に想像される。そのとき、まるで悪質な精霊のいたずらのように、スラックスに風が吹き込んだ。冷気で否応なく滑落が想起させられる。今、ここに飛び移るのか? そんなの生命の本能からいって、絶対無理だぞ!
「おい! このまま龍に運ばれたらどうなる?」
「落ちるよ。龍ってーー」
「説明するな! 今飛び移らなければまずいんだな?」
「かなりね」
「落ちる」「まずい」ーーつまり、このままでも落下するのだ。ならば、と、僕は2度呼吸を整え、心気を奮い立たせ、全身全霊をもってジャンプした、着地も体面も気にせず。で、転がるように飛び移った。
「どうだった? ヒヤッとした?」尻餅の状態で見上げた。山羊づらでもわかる。面白がっている。
「げ、現代にはだ」こわばる膝を起立させながら僕は言った「俺の生まれた時代には、ガラス張りのエレベーターってのがあってだな。これは、まあ、その亜種だな」
「エレベーター? えっと、つまり、怖くなかったってこと?」
「絶叫系としてはいい線だ。70点」
「よくわからないけど、絶叫系で70点なら、なんかちょっとビビってそう。手を見せて」
手を出した。吉次が手首の辺りを指で挟む。
「なんだ、やっぱりけっこうビビってるじゃないか!」
「なぜそう思う?」
「手が冷たいし、そのわりに脈が早く汗が吹き出してる。恐怖で縮こまってた証拠さ」
「高度のせいで冷えたんだ」
「意地っ張りだなぁ、きみは!」吉次は歯を剥いて笑った。「取り乱したところを見せたくないんだね。でも、それじゃ本当のピンチになったとき、助けてって言えないよ? ま、楽しんでもらったなら何より」視線そのままに吉次は反転した「移動しよう。ここは埠頭のすぐそばだ、うっかりすると落ちちゃうから」吉次は歩きだした。
「ちなみに」吉次に追従、つま先で足場を確認してから飛び移るように移動する。「落ちる、と、どうなるん、だ?」
「下の透場に叩きつけられるよ。怪我はしないけど、でもとても痛い。とても」
「とうば?」
「透明な足場。略して透場さ」
「じゃあ、ここで、着地しなかった場合は?」
「龍ってのは、力を溜めながらスライドし、満タンになったら急騰する。で、力尽きると急落する。だから、あのままだとーーやっぱりどっかの透場に叩きつけられるね」
「なんだと!」
「うわっ、怒った」吉次は帽子を押さえながら歯を剥いて笑った。「まあ、そうカッカしないで。成功したんだからオーケーオーケー。それに最悪たる結末、死は、僕らにはないんだからさ。あ、そうだ」吉次はうちポケットをまさぐり、銀の懐中時計を取り出した。蓋を開け、覗き込む。「お! 現在午後の7時。白鯨には飲まれなかったみたいだね。でも、どういうことなんだろう、考察してみる余地ありだ」




