(4)
ドアの閉まった後、山羊ーー吉次ーーは、肩をすくめた。
「まったく、シルバさんの暴走っぷりも健在だな、あと200年はお呼びがかからなそう」
「お呼びってのは、捨婆巡りのことか?」
「お! 覚えてきたね。そう、あるとき虫の知らせみたいなものが来て、数日後には部屋ごと姿がなくなる」
「虫の知らせ?」
「えっと、なんか、なんだっけ? えーと、超言語的観念での告知と運命的な受容が云々」
「なんだそれ?」
「知らないよ。要は近日出立するよ、えー、仕方ないなぁ、いいよ、って意味だと思うよ」
「曖昧だな」
「まあ、お偉いさんの言うことだから。伝わればオッケー、オッケー」
で、吉次は歩きだした。その斜め後ろを一歩遅れて歩く。視界一杯の星々の無音の協奏、その光輝の圧力が、目を通じ、脳を通じ、光彩の波となって胸に浸透してくる。壮麗な感動が胸に満ちるのだ。
「どこに行くんだ?」僕は天球を見回しながら聞いた。
「君の部屋さ。言ったろう? じきに夜がやってくる」
「君の部屋? 俺の部屋ってことか?」
「そうさ、こう、なんていうかさ、あ、この辺にあるって感覚、あるだろ?」
僕は知覚を試みた。「ないな」
「ええ~、そんな馬鹿な」吉次は歩くのを止め、しっかりとこっちを向いた「多分、君が最初に倒れていた辺りだと思うよ、何か感じない?」
「そう言われても」再度感知を意識して「ないぞ」
「うっそーん、じゃどうやって夜を乗り切ればいいの!」
吉次は腰に手をつき、俯き、黙っていた。赤いハットの縁から白毛の鼻梁が見える。長く細いため息でひくつく濡れた鼻も。
「問題なのか?」が、聞くまでもないことと悟り「夜は部屋で過ごすものなのか? 自室がないとどうなる?」
「白鯨に飲まれるんだ」
「白鯨?」
「便宜的にそう呼んでるだけ。実際は白い牢獄ともいうべき虚無の空間。夜が近づくと宇宙の一角が白んでくる。夜が明けるみたいにね。で、それがどんどん大きくなって宇宙の3分の1を占める頃、急に白一色の空間にワープする。白以外なーんにもない。誰もいないし、果てもないし、無音だし、ジタバタはできるけど何にも触れることはない。眠ることも移動することもできないし、声を出してもそれさえ聞こえない。完全なる個我の時間さ。で、それがまったり3、4日続くとまた元いた場所に急に飛ばされる。反対の方角には白鯨の尻尾、つまり白い一帯があって、それがだんだん遠ざかっていく」
「つまり、夜とは白鯨なのか?」
「そうともいえる……、言えるかなぁ? まぁ、半分くらいは言える、かな」
「もう半分は?」
「部屋で過ごした場合だよ、現世と同じように12時間くらいで朝になるんだ。眠るも研究もご随意に、さ」
「白鯨の腹だと3、4日なのに、自室だと半日なのか?」
「そう! それ! まさにそこなんだよ。良く気づいたね。とにかく長いんだ。叫んでも、動いても、周囲になんの反響もないから、すぐにやることがなくなる。寝て時間短縮もできない。拷問だよ」
「問題は理解した。つまり、夜ーー白鯨は、自室でしかやり過ごせないのに、その自室が俺にはないから、毎夜の拷問が確定的、と」
「うーん、言葉にするとやんべぇね、これ」
「他人事だからって、これだから」畜生は、は飲み込んで「山羊は悪魔の使いと言われるが、本当だな」
「山羊が悪魔の使い? うーんと? えーと、なんでいま、山羊?」
「どう見ても山羊だろう、その顔は!」腫れぼったいまぶた、骨の形の黄色い瞳、白い体毛「鏡がないのか、この世界は!」
「いや、鏡って……、いや、それよりも、えっと? もしかして?」吉次は顔を指差した「何に見える?」
「だから山羊」
「山羊ヅラってこと? リアルな山羊の頭部そのまんまの、どっち?」
「な! 山羊、じゃ、ない、のか?」
「あー、やっぱり。なんか違った風に見えてるのね、了解。ちなみにシルバさんは? どんな風貌だった?」
「巨大な砂のゴーレム」
「ゴーレムゥ?」吉次は笑った、心底おかしそうに、口をめくり上げて「あのすんごい美人がゴーレムとは! もったいないねぇ」
「俺は? 俺はどう見える?」
「亡霊さ。赤銅色で、半透明で、月蝕のような風体だ。人間ではあるよ」
僕の覚醒した付近まで行き、そこに部屋らしきもの、入り口らしきものがないことを確認した。
「やっぱりないか」吉次は言った。「まあ、今夜はうちに来なよ。僕も帰宅しないとマズイからさ」
「もうすぐ夜なのか?」
「現世だと午後4時くらいかな」
「誰かの家にいれば白鯨からまぬかれるのか?」
「うーん、そんな話は聞いたことないけどねぇ。逆の失敗談なら多々あるけど」
だろうな。でなければ、再訪を提案したとき、シルバはもっと強固に拒否したはずだ。1晩と言わず、3晩でも4晩でも。そう請うて、興味の果てまで辞去を許さなかったはず。
となると、寝所の選択肢は2つ。吉次の部屋か、暗黒の虚空か。いずれにしろ白鯨には飲まれるが、どちらが好事だ? ーー決まっている。僅かでも回避の可能性のある方だ。
「吉次。すまんが、今晩は世話になる」
「オッケーさ」
「でも、白鯨とはなんなんだ? なぜ苦痛を住民に課す?」
「さあてね、君ーー吉崎君だっけ? 吉崎君はなぜ季節がめぐるか、生前気にしたことがあったかい? 昼夜は? 潮の満ち引きは? 精気の増減はどう? なぜそうなるのか、自分で解明してきたかい?」
「いや」
「人の世とはそういうもんさ。生活に致命をもたらすものでなければ是として許容する。それが禍つ神であっても。生け贄なんてその最たるもんだろう」
「しかし、解明できれば災禍を抑止できる。操作できる。マイナスの事象をプラスに変容させられる。人類はそうやって発展してきた」
「いんやぁ~、すごい! さっすがお月さんまで足を伸ばそうなんて考える時世の方だ、根本が違うね」
「吉次はいつの時代の生まれなんだ? 現代、ではないんだろう?」
「江戸時代、と君たちが呼んでる時分さ。多分1650年頃じゃないかな? 江戸のお城が焼け落ちた時分だから。まあ、そんな時代だからさ、識字っていうか、まあ教育かな? そういうのがそんなになくて、とにかく親や村の掟が絶対でね、受容と忍耐こそが生きる秘訣だった。もちろん、解明とか、発展とか、そういうのに熱心な人もいたけど、そういう人達は迫害されて流浪して、悪事に手を染めたり、飢えたり大病を患ったりで、早逝していった。そうやって死んでいった人を1人、知っているよ。待ち、しかるべき時にしかるべき事を行う。これ一番大事。初午過ぎたら種をまく、とかね。人間は手口が達者なだけの動物なんだ。分限を知らなくっちゃ」
「だが、それは吉次の時代の話だろう?」
「もちろんだとも!」吉次は笑った「ま、そういうのは時代で時代で変わるんだよ。生きるが正義さ」
「もう死んでいるぞ」
「そうだったそうだった」それから周囲を見回し一点に目を止め「時限が近いね、まずは僕の部屋に行こうか。続きはまた後で」
左の足の方角の一角が白み始めていた。




