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輪廻の狭間  作者: 荒野銀
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(1)

 都市生活というものに疲れていたのだと思う。都市化――それは建物のみならず、人も闇も一切を均質化し、効率化の御旗のもと、突出を一様に矯正してくる。どこに行っても理想の箱庭。まるで個人がなんの突起物も持たない素粒子であるかよう。都市では万象が決められた程度を守って動く。それは静穏をたもつ街路樹たちの成育であれ、風に踊る小花の揺れであれ、それを指差し喜ぶ稚児の笑顔であれ、バベルのような天をつんざく構造物であれ、それに感嘆する人々の賛辞でさえ――それは邦人だけでなく異邦人でさえも――、都市は、効率化・拡大化のために、没個性の順守を徹底的に強いてくる。

 僕はそれにうんざりしていた。毎朝定刻に起き、人に後ろ指さされないためだけに判で押したようなスーツに着替え、同じく暗澹たる顔の通勤者の葬列に並ぶ。まるでナチ下のポーランドだ。そして、同調圧力なのか義務感なのか、はたまた常軌を踏み外すことへの恐怖なのか分からない強迫観念によって、16時を中間としたその前後7時間を、仕事という名の意識喪失に奉献する。気づけば深夜、週末、盆暮れだ。7年間。僕はそれだけの期間、その昏睡を受容し、身じろぎもせず、都市の要求に盲従し続けてきた。

 だから、それが起こったとき、まさに天地がひっくり返るような感じがしたのだ、というより、文字通りひっくり返った。

 視界は激しく捻転した。横断歩道の縞や夕闇の空の縁が高速で目前をよぎった。輪郭が曖昧になり、あるものは引き伸ばされ、あるものは見えないはずの色が混じった。肩や肘、骨盤が硬質な重量物に連続で弾かれ、通りすぎると、刺激は静かになった。両腕が解放され、入力は止み、即応するものがなくなって、それにより認知に一瞬の猶予ができた。なにが起こった?――依然不明、でも、この感覚は知っている。そう、これは、中学校の体育の授業、跳び箱の前方倒立回転。つまり、僕の体は今、回転浮遊している。

 でもなぜ? 僕は残業に向けての息抜きに、鉄棒と砂場だけの狭小公園から帰ってくるところだった。区画整理で一方通行だらけになった美麗な隘路を3本渡って、鏡面仕上げの大理石柱を右に折れる。すると旧財閥の名を冠したビルの門札があり、あとは歩行につれて自動ドアが次々開き、膨大な業務が手招きして待っている、そのはずだった。

 だが、次の瞬間、闇を濃くしつつある歪曲の視野内に6連のテールランプが見えた、ような気がした。テールランプ、丸目の、奥に電球が無数に埋め込まれたそんなやつだ。灯ってない。そんな馬鹿な、ここは一通なんだぞ、どうして――。

 そして強い衝撃があって、視覚がさらに歪みの渦を強くし、物語の終わりを告げるように黒い無の暗幕がやって来た。



 ――なにか強力な電流でも流されたみたいに目を醒ました。うつ伏せ、足は開き、ほほは押し潰されている。意識は鮮明だ。水中にいるような揺らぎがあり、しかし視界はクリア。が、動作は一時留保して、まずは状況把握だ。眼前の光景、これはいったいなんなんだ? ここはいったい? 異常事態に陥っているのはすぐに分かった。

 眼前は宇宙空間に放り出されたかと思えるような星の海。無明の薄墨を奥の奥から塗り重ねたような奥行きある闇の平面に、突如として生じた赤青白や、グリーンの切れ目、それは闇に炸裂し、闇に浸透し、そのたった1粒の光源で、周囲にある何倍もの暗闇を光の勢力へと服従させる力を持つ。それが群れをなし、覇を取り――、それはもはや暗黒に明滅する多彩な光点の集合写真ではない、闇を支配し、闇に勝利した星々の、高らかに華やかに自分達を賛美する光の大賛歌だった。

 僕は魅了された、現実では発生しえない超常の事態と分かってさえ。まばたきを忘れ、時間を忘れ、自我を忘れ、全存在さえ放棄して、その光景にのめり込んだ。

 手を突き――どう見ても床はないが可能だった――、上体を起こした、星々に目を縫い付けられたまま。麻のワイシャツ、紺のスラックス、着衣はそのままか。

「やあ。やはりここだったか。久しぶりだね」

 後ろから声がして僕は振り返った。山羊の頭をした赤いモーニングを着た紳士くずれ、みたいな奴が近づいてきた。ハットを被っていて、その縁からしょぼしょぼした目と骨張ったごつい鼻梁が見えている。巨体だ、身長2.2メートルといったところか。

 危機。で、僕は急いで立ち上がった。

「君ひとりかな? ま、普通ひとりだよね」

 自然と半身になる。何者だ? いや、俺はどうすべきだ? 逃げる? 対峙する?

「なんだ、無視か。人がせっかく出迎えに来たってのに。君の時代はそんななのかな?」

「そ、そんなとは?」

「お! 答えてくれたね。声があまり良くないなぁ。そんなってのは、そんなに荒れた時代なのかってこと。ま、なに言ってんのか分かんないよねぇ。その辺はおいおい」くびすを返し、首をねじり「ついといでよ。こんな所にいたって目がチカチカするだけだ」

 同行を求められている。目的は? 山羊ヅラなのはなぜ? そもそも生物なのか? なぜ呼吸できる? いやまずここがどこか――。

 が、疑問は結局、2つに収斂する。それは、こいつに付いていくか、それとも、独自にこの状況を解決するか。

 迷わず赤い背中の方に歩を進めた。

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