9.崩れる
両親は共働きで忙しく、過多に干渉してくる性格じゃなくて本当に良かった。
何かあったのだと悟って何も言わずにそっとしておいてくれる。
今日は土曜日。
学校もバイトも何も無い休日。
私は部屋に篭って、赤くなった目を擦りながら鬱々とした心をどうにも出来ずにいた。
雨に暫く打たれたせいで風邪を拗らせたようで、熱が出て体がだるい。心なしか喉も痛かった。
昨日見た先輩の優しい表情。彼女と至近距離で絡み合う目線。
傘の中には誰にも入る事ができない空間があって、優しく包むような先輩の仕草が何度も頭の中にフラッシュバックしてくる。
自分は失恋したんだ、といってもまだ告白もしていないけど。
あんな先輩を見てしまえば、自分には先輩を振り向かせる事など出来ないと解ってしまって。
私は先輩にとってはただの後輩で、もちろん先輩の中の一番になんてなれやしない。
あの二人を見た時に、私は本当に先輩の事が好きなのだと改めて感じた。それ程に苦しくて、辛くて、先輩の隣を歩ける彼女が本当に羨ましくて。
見つめる自分の視線はきっと、虚無と羨望を混じえていたと思う。嫉妬なんて感覚は到底生まれなかった、それは彼女が本当に可愛くて優しそうな人で、自分には手の届かない人だと思ったから。
それでも、あの人には及ばなくても、先輩が私に見せてくれる全てを好きな事には変わりない。
「・・・もう忘れないとな・・・」
ぼそりと呟いた声は細く掠れて、汚い自分の声に嫌気がさす。何だか本当に惨めに感じて。
梨乃にはこの事実を話していたのに、何故私には教えてくれなかったんだろう。
教える程でもないから?いや、きっと私には教えるつもりがなかったんだろうな・・・
馬鹿みたいにまた涙が出てきて、弱い自分がまた嫌になって、何度も頬を伝い濡らしていった。
**
午前9時を回った頃、文具店の休憩室には五人程の人が居たが、その中でアルバイトは一人だけ。
加奈は朝ご飯のメロンパンをほお張りながら、設置されているテレビで流れているニュースを眺めていた。
時々社員と雑談しながらも、天気予報が始まるのを今か今かと待っていた。
今日の夜から明日に掛けてのイベントに支障が無いか心配だったからだ。
「おはようございまーす」
カチャリと扉を開けて入ってきたのは梨乃で、顔は向けずに声だけで挨拶を返す。
色々と関わるだけ面倒な事になっていくのは解っていた。
梨乃が他の社員と軽い雑談を話しているのをうっすら聞きながらも、自ら会話には入るつもりはないのでテレビ画面から目をそらす事はせず、もくもくと食べ続ける。
メロンパンをあと少しで食べ終わるかという所で、上から声が降りてきた。
「先輩、おはようございます」
ニコりと微笑む梨乃に、おなじく作り笑顔を返す。
「おはよ」
「隣、座っても良いですか?」
「うん、どうぞ」
すっと隣に座った梨乃は、ポケットから一つチョコレートの袋を取り出して口に放り込んだ。
そして食べ終わったところでボソッと声を掛けられる。
「ねぇ、昨日はまたあのカフェで愛でも囁きあってたの?」
「・・・またそれか。そんなに知りたいのかよ」
冷たくあしらう声は周りのざわつきとテレビの音でかき消され、わりと広い休憩室にいる社員には一切聞こえていないようだった。
ちらりと横目で梨乃の顔を見れば、面白がるように目を細めてクスクスと笑っている。
「上手く行ってそうに見えるのに間逆だなんて、ホントに辛いわよね、可哀想」
「余計なお世話。ってかストーカーしてくんな」
「そっかぁ、じゃぁ昨日は会ったんだね。じゃぁきっと今頃友里菜は落ち込んでる筈だわ」
「・・・は?どういう事」
「昨日、友里菜に加奈は女が居るって教えてあげたの。友里菜には可哀想だったけど・・・」
「・・・お前」
「私が信じられないなんて言うから、仕方なくカフェの事を教えてあげたわ、そしたらその方角へ歩いて行ったからきっと見に行ったのね」
「・・・」
今まで秘密にして来た事を、この女にあっさり言われてしまうなんて。
この揺れてしまう自分の気持ちに整理をつけるまではずっと隠していくつもりだったのに。
「友里菜の気持ちに気づいていたんでしょ」
「・・・だったら何」
「でも友里菜が気になりはじめたから、余計本当の事を言えなくなった。違う?」
自分の思考まで図られているとは、梨乃は本当に聡い。
思わず返す言葉を失うと、梨乃は加奈の表情を覗き込んで更に口元を歪めた。
梨乃はあの時から自分を恨んでいるのは想像が付いたが、それでも此処までとは考えが及ばなかった。
「友里菜は可愛い後輩だ。そんな後輩に薬飲ませて襲うような最低女と一緒にすんな」
「なんだぁ、気づいてたのね。自分も同じ手を使われた事を思い出した?」
そう言ってテーブルの下、死角になる部分で梨乃の手が太ももへと纏わり付いてきた。
その卑しい手つきに思わずカッとなり、それを手で振り払う。
強く睨みつければ、梨乃は細めた目を更に細めて嗤う。
「・・・友里菜を苦しめてるのはお前だろ」
「何言ってるの?私は幸せにするんだから。だから、あんたが邪魔なの。大人しく仕事終わりのプチ旅行に思いでも馳せてれば?フロア長から聞いたわ、“お友達”と出かけるんですってね」
「・・・黙って」
「昔あたしを捨てた時と同じ事するつもり?」
「それはっ」
「ともかく、もう友里菜は私のものよ」
低い声で凄んできたかと思うと、ふっと仮面をつけた様な笑顔に戻ってすっと立ち上がったかと思えば、そのまま休憩室を出て行った。
気づけばメロンパンの最後の一口もそのままで止まっている。
テレビ画面を眺めれば、今夜遅くまで雨だという予報が流れていて、憂鬱な気持ちに拍車を掛けた。
**
ずっと部屋にいれば、どんどんと気持ちも心もぐだぐだになっていく。
気づけば、過去あのDV男と一緒に居たときのことを思い出していた。
あの時は感覚がおかしくなっていて、殴られた後は自ら手首に傷をつけて慰めていた。酒を飲んで忘れようとして飲み過ぎて、更に煙草の吸い過ぎて吐き気が増して何度も吐いたり、。
もしかしたら彼の暴力は自分への愛情と比例したものではないかと錯覚したりもした。
あの時の傷はありがたい事に全て綺麗に消えたが、心の傷というものは中々癒える事はない。
こうして、落ち込んだ時には思い出してしまう。
部屋に以前飲みきれなかった缶チューハイがいくつかあった。
そのうちの一つを手にとって、一気に口の中へと流し込む。炭酸に思わず咽そうになる。
発熱した身体にアルコールを加え更に熱く火照った身体を冷まそうとカーテンと窓を開ければ、湿気った空気と雨の匂いが鼻を掠め、まだ陽がある時間なのに暗い空が顔を出した。
幸い今は雨が降っていない。
「・・・出よ」
少し外に出よう。
時刻は夕方4時を回った所。
箪笥から適当に服を引っ張り出して、小さい鞄だけ持って、フラフラする頭を冷やそうと玄関を出た。
やっぱり風邪に酒はまずかったかもしれない。
一向に良くならないふらつきを抱えて歩きながらそう思ったが、吐き気がないのがまだ救い。
しばらく近くの川沿いに通っているサイクリングロードを歩いて、生い茂った木々の匂いを嗅いで満足したので、帰りは別の道を歩こうとサイクリングロードを出て、車道の方へ歩いていく。
ポツ、ポツとゆっくりと振り出した雨が頬に当たった。
これ以上濡れるときっと風邪も長引いて面倒なことになるなぁとぼんやり考えて、早足で帰り道を進んでいく。
後ろから車が来ている音が聞こえる。
歩道と車道の境界線がない道のため、中央に寄って歩いていた身体を徐々に左へと寄せていく。
―――――あれ?
身体が思うように動かない。
左に多少は寄ったけれど、まだまだ寄らないと車は通れないのに。
クラクションを鳴らされるのは嫌だなぁ。
更にゆっくりと身体を寄せて、ギリギリで幅を作った。
後ろから車のエンジン音と共に誰かが叫ぶ声がする。聞いた事がある声。
だれだろう・・・そう思って振り返ろうとしたとき、身体がぐらりと揺れた。
あ・・・やば・・・!
「―――危ない!!」
瞬間、ぐっと逆方向へ腕を引っ張られ、悲鳴をあげることなくその勢いと共に道路の端へ倒れ込んだ。
車は無事狭い道を通っていって、どんどん音と共に遠ざかっていく。
倒れ込んだ私に痛みは無く、暖かい温度があってむしろ包まれているようだった。
近くでその温度が叫んでいるけども、聞こえてこない。
「友里菜!しっかりして!」
肩を掴まれて必死に叫ぶ声に顔を上げる。
そこには、今まで見たことのない必死な顔をして私を見つめている梨乃がいた。
「・・・りの、なんで」
「馬鹿ばかばか!ふら付いてあのまま行ったら轢かれてたんだよ!何してんの!」
両肩を掴んできた手ががくがくと揺さぶられる。目線が合うと少し困惑した表情を浮かべ、私の少し濡れた髪を掻き分けて、額に掌を当ててきた。
ひんやりとしたその手が気持ちよくて思わず目を瞑る。
雨は激しさを増して、先ほどまでは聞こえなかった地面を打ち付ける音が聞こえてきて。
ぼんやりとした意識がだんだんと覚醒していくのがわかった。
「あ、あたし・・」
「しかも熱あるじゃん!どうしてこんなに熱あるのにふらふらしてるの!」
「・・・そんなに怒られたら頭に響く」
「文句言わないの!!今日は両親は家に居る?居るなら迎えに来てもらおう」
「・・・居ない。それに、迷惑掛けたくない」
ぶっきらぼうに私が言うと、梨乃はで目を丸くして、それからため息を一つ付いた。
「もう、我儘言わないの!馬鹿!」
「だってまだ子供だもん」
「はー、まったくもう・・・、そしたら私の家に連れてくわ」
立てる?という言葉に頷いて、私の腕が梨乃の方に回って、ゆっくりと身体を起こされて。
大きな傘を二人の上に広げてくれた。
あぁ、なんだかこうやって真剣に怒られたの、すごく久しぶりな気がする。
そのまま一緒に歩を進めて、タクシーを拾う為大通りまで歩いた。
質の良いソファに横になって、ふわふわの毛布を掛けられて、額には冷たいタオル。
「ごめんね、ひえぴたも氷も切らしてて」
梨乃が言いながら暖かいココアをテーブルの上に置いてくれた。
「ううん・・・ありがと、私こそごめん。さっきは意識朦朧としてて・・・」
「良いよ、無事だったんだしね。それに命の恩人に感謝しなさいよ」
にこっと冗談っぽく笑って見せる梨乃に私の口元も緩んで、なんだか苦しかった心が少し和らいだ。
横になると少しばかり楽になって、意識がはっきりしてくる。
梨乃はご飯でも作るかー!とキッチンへと向かっていく所だった。
「・・・・さっき、本気で怒ってくれたの、嬉しかった」
最近の梨乃は本当によく解らないし恐怖さえ感じていたけど、さっき本気で心配してくれた事が一番胸に響いていた。此処までつれて来てくれて、看病までしてくれて。上辺などではない温もりを感じた。
独り言のように呟いた声は聞こえていたようで、ばか、と一言だけ言われた。
梨乃は焦ったら馬鹿ばか言うんだな、以外に子供っぽい。でも、そんな所がとても可愛く感じられた。
きっと言ったら怒るんだろうな・・・とぼんやり考えているうちに、意識が遠のいた。




