38.雪
玄関に置いてあった自分の腕時計をひったくって、玄関のドアを開けながら時間を見る。
時刻は十一時四十分を回っていた。
冷え込んできた中、私は自転車に飛び乗って必死に公園へと走り続けた。肺に勢い良く冷たい空気が入り込んできて少し痛い。風が冷たく、手や顔が悴んでびりびりする。一つだけありがたいことは、地面は凍りも無く乾いていて走りやすいこと。
必死になって自転車のペダルを漕ぐ。間に合うはずだ。
梨乃がああして背中を押してくれたのだ。自分がここで頑張らなくてどうする。
必死だった。全ての歯車が急速に回りだした感覚だ。とてつもない高揚感と緊張が織り交じっている。
早く、先輩に会いたい―――
目の前に続く坂道に、負けじと足を叱咤した。
**
後数分で日付が変わるというところ。漸く着いた公園前で自転車を降りて、二つあるうちの一つにだけ鍵をかけて先を急ぐ。
先輩は果たして待ってくれているのだろうか。私が強く言ったことで諦めて待ってすらいないのではないか。
今になってそんな不安が頭を過ぎり始めた。
でも、きっと大丈夫だと自身を奮い立たせる。居なくても、今度は私が追いかけるから。
先輩の言う公園といえばここしかなかった。告白した公園、先輩との思い出がつまっている。沢山あるベンチの中の一つ。
果たして、居てくれるだろうか。
緊張が走る。
走っていた足が止まって、今度はそろそろと歩きだす。
木の陰になっており、こちらからはベンチの足しか見えない。
ごくりと喉を鳴らす。
一歩ずつ近づいていく、段々とベンチ全体が見えてくる、背中部分が見えてくる、そうして――――
「・・・先輩!」
「ゆりな・・・?」
声は掠れてしまって上手く出なかった。
でもそんな事は気にならない。だってそこには、先輩の姿があったから。
思わず走り出していて、そして座っている先輩に抱きついた。ふわっと香る先輩の優しい匂いが私を包み込んで、私はこれは夢じゃないと確信する。
待っててくれた!
先輩は私を抱きしめ返してくれてた、小さく笑って。その温度に、何故だかじんわりと熱いものがこみ上げてきて、私は思わず瞬きをする。
涙だった。
一度ポロリと零したら、止まることなくどんどん溢れてくる。
随分とすれ違ってきたけど、漸くお互い向き合う事ができたから。
「せ、せんぱいっ・・・。今までほんとにごめんなさい・・・っ」
上手く出せない声を聞き取ってくれたらしく、ポンポンと頭を撫ぜられた。
「良いんだよ。友里菜が悪いことなんてない」
その優しさに、より感極まって涙が溢れてしまう。先輩はこんな私をずっと待っていてくれた。
抱きしめた腕を放せば、涙でぐちゃぐちゃになった視界の中央に先輩の綺麗な顔が映し出される。
「友里菜。今日ココに来てくれたのはどうして?」
優しい問いかけに、私は言った。
今までずっと伝えたかった言葉を。
「好きです・・・っ!先輩が大好きなんですっ!」
必死に伝えた私の表情も声もぐちゃぐちゃで、きっと見れたものじゃなかった筈だ。そんな私の頭を撫でて、手を握ってくれた先輩の温度は、私より少し暖かくて。
「自分もだよ。友里菜が好きなんだ。付き合ってくれませんか?」
「・・・はいっ」
頬が緩む。先輩が「ほんとにいいの?後悔しない?」と聞いてくる。
その言い方から察するに緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。何だか恥ずかしくなってきて、ぎゅっと目を瞑って大きく何度も頷いた。
「嬉しい。幸せにするよ」
「・・・はい、私も」
心にじんわりと広がる暖かい言葉、それと同時にひやりと頬に冷たいものが触れる。
目を開けば、ぽつり、ぽつりと雪が降り出していた。
「雪だぁ・・・」
「丁度クリスマスに合わせて降ってくるなんて、中々粋なことしてくれるよね」
ふざけたように笑った先輩に、私も胸がいっぱいになって勝手に笑いが出た。
先輩と一緒に迎えられたクリスマス。こんなに感情的になったクリスマスは初めてだった。
暗い夜空から降ってくる雪を、私達は手を繋いで眺める。
この繋いでくれた手を、今度こそぎゅっと握り返す。
私はいろんな人に支えられて、漸くここまで辿り着く道しるべを作ってもらえて。
背中を押してくれた彼女の決断に多大なる感謝をして。
先輩の隣に、この先どんな事があったとしても居たいと冬空に強く願った。
**
雪だ。
これは私を癒してくれているのか、はたまた嘲笑っているのか。癒しは無いか、もう私の熱は冷め切ってしまったのだから。
いや、もうそんな事どうでも良い。
家を出て、私は友里菜を追いかけるでもなく目の前に続く道を歩いていた。
日にちが変わり、今日は世間が待ちに待ったクリスマス。
クリスマスなんて来なければいいと思っていた。
そんな願いなど時間に飲み込まれ、私の楽しみにしていた最後のイブもあっというまに消えうせ、そうしてイブと共に全て終わってしまった。
友里菜は、私の伝えたかった事を理解してくれていたわ。
声が震えてしまっていた事は自分でも解っていたし、友里菜が気づかないはずもない。それでも涙に濡れた自分の顔を見ずに出て行ったのは、私への最後の配慮。
わかりにくいけど、そういう変に男前な部分も好きだった。
だからこそ、好きだからこそ手放そうと心に決めたんだから。
今はただ、心の中にぽっかりと穴が開いてしまった。
ふと気が付けば、歩く先にホテル街が見え始めた。
そんなところまで歩いてきてしまったのかとため息を付く。同時に、こういう時は誰かに癒されるのが良いのだろうかと考えた。いや、答えは決まっている。結局虚しくなるだけということは何度も経験してはいた。
けれど、それで少しでも埋められるならと、足は止まらず街へと進む。
もう殆ど使われていないだろう公衆電話の横で立ち止まる。
雪は大粒で、先ほどよりも強く振ってきていた。それはどんどんと私の上に落ちてきて、透明になりじわりじわりと髪の毛を濡らしていく。
公衆電話のガラスにはテレクラの番号が張り付いていた。ここは無法地帯なのか。今でもこんな張り紙があるのだと無駄に関心をしてぼーっと眺める。
その時、前から歩いてきていた一人の男が足を止めた。
「ねぇ、もしかして待ってる子?」
顔を上げれば、三十台前半位の体格の良い男が立っている。顔はそこそこ、悪くはない。大して寒そうにしていない所を見ると、こいつは女を買った帰りだろうと予想はついた。
ここは一人でうろつくには趣味が悪い。
「・・・そうだけど」
「すげー綺麗な子だね。良いよ、今日は奮発して四万だ。どう?」
男が言った言葉を脳内で繰り返す。よんまん、か。金額は別にどうでもよかった。
そういえば最近男とは関わりをもっていない。たまにはいいかもしれないわ、こいつやる気だし。後腐れなく出来るのは楽。
そうと決まれば自分の顔に作り笑いを乗せて首を縦に振った。
「良いわよ。好きにして」
男が喜んで表情に色を見せ、私のことをじっとりと下から視姦していく。そうして私の肩に手を回し、私は何も言わずに従って歩き始めた。
少し影に入った所にあるホテルに行くつもりらしい。
そのホテル前まで来た時、キキッと短い音と共に後ろから走ってきた車が隣で止まった。
驚いてその車を見れば、黒塗りの割と値が張る国産車。
そして後ろのドアが開いて人が降りてきた。そして突き抜けるように通った声が、私達の間に割って入ってくる。手には見せ付ける様に万札が何枚も握られていた。
「まって、私はその男の倍払ってあげる」
「え・・・咲・・・?」
降りてきたのは間違いなく咲だった。
けれど学校で見る雰囲気とは違う、相手を威圧するような視線と声色。とてもじゃないが高校生には見えない雰囲気と、シンプルで綺麗に着飾った服装。
私が驚いて凝視していると、男はチッと舌打ちをして踵を返して去っていく。大きな足音が遠のくのを背後に感じながら、咲はにこにこして私を見ていた。
「言ってたでしょ?私は梨乃が好きだって」
咲はそう言って私の頬を撫でた。今までの強烈な威圧感は消え去って、それはいつもの咲だった。
すると急に不思議な感覚が襲ってきて、喉元が熱くなってくる。
なによこれ、熱い、苦しい。
でも、こんなに冷め切っていた心があったかいのはどうしてだろう。
・・・あぁ、そうか。私にはまだ心を暖めてくれる人達が居るんだ。
視界が歪んで、私は泣いているのを知った。咲は黙って私の涙を拭ってくれる。
そうして雪が降る中、私は暫く咲に縋って泣いた。
時間は止まる事なく、淡々と過ぎてゆく。