37.十二月二十五日
クリスマスを目前に控えたある日。
ここじゃなんだから、と連れて行かれたのは屋上だった。
もちろん誰も屋上には居ない。冷たい風が吹き付けてきて身震いする。
急な呼び出しに驚いたけど、こんなのはいつもの事か。
今日は何を言われるのだろうと思い身構えたが、梨乃はフェンスに身体を寄りかけただけで何も言う気配が無い。
「なんだよ、話があるんだろ?」
沈黙に耐え切れずに問いかければ、漸く梨乃は此方を向いた。
相変わらず冷たい目をしている。
「加奈、あんた友里菜を誘ったでしょ。しかも何よあの時間」
「あぁ。昔、誰かさんがイブがクリスマスより好きって言ってた事を思い出して。だから、イブは譲るけどクリスマスは全て貰おうと思っただけ」
「あんたも随分と嫌な事する様になったのね」
「そんなことないさ。友里菜はきっと不思議がってるだろうけど。まさかそんな単純な理由で時間指定してるとは思ってないだろうしなぁ」
ふいに、梨乃は表情を緩めて笑った。自分はそこで違和感を覚える。
今の自分の言葉にはもっと食って掛かると思っていたし、すぐに友里菜は渡さないと突っぱねると踏んでいたから。
「・・・何があった?」
「ふふ、敵の心配しちゃうあたりあんたも大概ね」
くるりと自分から視線を逸らしてフェンスの外へと向き直る。後姿は何故だか寂しそうにみえて仕方が無かった。長い髪が風に煽られて四方に靡く。
「私、やっぱり死んだほうがいいのかも」
ポツリ、と呟く。
いつも気丈なふるまいをする梨乃からもれた弱音は、随分と自分を追い込んでいる証拠だった。
「死んだら友里菜が悲しむだけだ」
「ふふ、悲しんでくれるだろうけど、すぐに忘れるわ」
「それに、せっかく出来た友達も傷つけることになる」
「・・・傷ついてくれるのかしら、私を思って」
梨乃はポケットから煙草の箱を取り出して、中から一本抜き取った。風を避けるように手で壁を作ってライターで火をつける。
ふーっと煙の入った、いつもより白い息が空中を舞うのを眺める。
「・・・急にどうしたんだよ」
「イブは私が貰うわ。クリスマスも貰うつもり。けど、友里菜次第にしてあげる」
吐き出されては風にかき消される煙をボーっと眺めながら梨乃は続けた。
その言葉を、正直に信じられないまま聞く自分。梨乃と友里菜に何があったのか。
「ねぇ、あんたに一つ聞きたいんだけど」
「なに?」
「あたしと付き合ってた頃のあんたは、友里菜みたいな顔しなかった。笑ってるのに辛そうな目。でも私の事好きじゃなかったのは知ってるわ。それでも、少しでも大切だと思ったことはあった?」
過去の事。忘れようとしてた事。
自分は確かに今の様な気持ちになったことはなかった。けれど梨乃となら堕ちてもいいのではと思っていたのも事実だ。それ程、梨乃には不思議な魅力があった。
ゆっくりと当時の事を思い出す。そうして思い出して、上手く言葉に変えていく。
「思っていたよ。堕ちてでも良いから一緒に居たいって。怜奈が居なければ自分達は駄目になっていたと思うけど、当時はお前しか見えていなかったと思う。たとえ恋愛じゃなかったとしてもだ。悔しいけど、人を引き付ける魅力があるんだ。それは今も」
上手く伝えられただろうか。今にも崩れてしまいそうな彼女の心に。
吸っていた煙草を足元に落としてぐりぐりと踏みつけて、足で下へと落とす。振り返った彼女は微笑んでいて、そう、と一言返事をした。
**
梨乃、何を言いたいの?私の表情?
頭が一瞬にしてパニック状態に陥って思考が止まる。
梨乃は私を見つめている、それに私は何も言えずに見つめ返していた。
「り、の・・・」
ふーっとため息を付いた梨乃は、急に笑顔になる。
その表情は何時もと変わらない様にみえて、余計に混乱を極めた。
「あたしそんな顔する友里菜が嫌いなの」
「・・・ごめん」
「謝らなくていいわ。こっちこそ、謝らなきゃいけない。ごめんね・・・もう疲れたの」
その言葉と共にすっと立ち上がった梨乃は、私の手元から写真をひったくるように奪った。
その衝撃に掴みきれなかった写真たちがパラパラと舞って床へと落ちていく。
私は今どんな表情をしているのだろう。
少なくとも笑ってはいない、今の梨乃の様に悪い笑みなど浮かべていない。
「私からのプレゼント、それはお別れよ。私たちのこの関係は、今日で終わり」
ぎゅっと心臓が締め付けられる。呼吸がまともに出来なくて、言われた言葉を何度も何度も頭の中で反復する。
別れのプレゼント。
それはあまりにも残酷な一言。
私にとっても、梨乃にとっても。
「梨乃・・!私は梨乃が・・」
「黙って!言ったでしょ!?友里菜がどう思おうと私が嫌になったらそれでオシマイ」
「でも!」
勢い良く立ち上がって反論しようと必死になったが、強い力で突き返されてソファの上に転がる。突き飛ばしてきた梨乃の手を見る。
手は、震えていた。
目を瞠った。そしてゆっくりと目線を上げる。梨乃は相変わらず嘲笑うように私を見下ろしている。矛盾。
「もうつまらない恋愛ごっこはやめるわ。嬉しいでしょ?私から漸く開放されるのよ」
にっこりと弧を描いた口元は歪んでいて、今にも下へと下がってしまいそうだ。それでも弱まる事無く私に投げかけられる言葉の数々。
机の上に置かれていたポーチを手にとって、うっとりともう一度眺めはじめる。そして私を見下ろすと、勢い良くポーチを後方へと投げつけた。
床へ叩きつけられたガシャリという甲高い音に身体が竦む。
「こんなものも要らないの。もう出て行って」
「梨乃・・・」
「出て行ってよ。今日でこの関係は、オ・シ・マ・イ」
机に置いた写真を手にとって、その手を上へ振れば写真は舞い散る。それは一瞬だったはずなのに全てスローモーションに見えた。
「出ていって」
私は立ち上がった。梨乃は出て行くのだと思っただろう、先ほどみたいに手を出してこない。
「早く・・・っ」
もう一度言われる。声が震えているのが判る。
私は動けない。その声の先は、どんな心情なのかは想像に難くない。
もう、もう解ってしまっていた。
知ってしまっていた。
梨乃が震える理由を。何故今日この日にこんな事を言うのかを。
梨乃は不器用だけど、人を思いやる気持ちはとても強いという事を。どんな思いでこの決断をしたのか、どんな思いで、こうして私を突き放してくれているのかを。
手を伸ばす。跳ね返されないように、勢い良く手を伸ばす。
驚いた梨乃は手を上げようとするが、それより早く、梨乃をぎゅっと抱きしめた。
表情は見ていない。見てはいけない、梨乃のためにも。
一瞬抵抗を見せたものの、腕の中で彼女は納まった。
「・・・間に合わなくなるわよ」
ぽつりと零した言葉に真意は篭っていた。
ぎゅっとその言葉の裏をかみ締めて、私はもう一度、梨乃を強く強く抱きしめた。言葉にすれば全て安っぽくなってしまうから。
どうしたら伝わるか判らなくて、とにかくぎゅっと抱きしめた。
そして、暫くぎゅっと抱きしめたあと、私は振り返らすに梨乃の家を飛び出した。