19.本物
空は随分と暗く厚い雲に覆われていて、雨が降り続いていた。
止む気配は一向に無く、路肩には雨水が溜まって水溜りとなっていく。
いつも休日は自分の家に玲菜が来て過ごすことが多いのだが、今日はいつものカフェに行きたいと言われた。
この雨なのに?と問えば、だからこそ行きたいのだと言われる。
今日の彼女は感傷に浸りたい気分なのかも知れない。
落ち合う場所もカフェだった。
「早かったね、濡れなかった?」
中に入って店内を見渡せば、悪天候のせいか自分達の他にもう一組、それも窓側とは反対にある奥のテーブルに座っているだけ。
玲菜はいつものように窓際に腰掛けていた。
「大丈夫。玲菜こそ濡れなかった?」
「今日は大きい傘を持ってきたから」
傘立てには確かに、いつも二人で使う傘が入っていた。
カフェラテを頼んで、いつもの様に他愛の無い話をする。
仕事の事、学校の事、友達の事。
夏休みに入ってからまだ半分も経っていないが、加奈の高校はこの時期から就職活動を始める。
その為に夏休みも学校に行かなければならず、ゆっくり二人で居られる日は少なくなっていた。
「ごめんね。最近はあんまり時間が取れなくて、休みなのに中々遊べないし」
「いいの、就活してるんだし仕方ないよ」
にこりと微笑んで包んでくれる彼女の寛容さには頭が上がらない。
本当に気が利いて、自分の事を想っていてくれる大切な存在。
もう、自分は玲菜だけを見ていくと決めたのだ。
友里菜あの日突き放した後、しばらくは胸が痛んだ。
けれどそのままでは怜奈に変な気を使わせてしまうし、何より傷つけてしまう。
だから『就職活動』にかこつけて忙しさでごまかしてきた。
自分でもそれは上手くいったと思う。現に今こうして彼女の為を思って、今まで以上に大切にしたいと思えているのだから。
「ねぇ、今日はね、加奈とちゃんと話をしたくてココを選んだの」
「え・・・?」
「加奈、最近何かあったんでしょ?それに・・・もうずっと、バイトの話もしなくなっちゃったね」
玲菜は少し寂しそうな表情を浮かべて、それでも諭すような声だった。
正直この話題を振られるなんて考えもしていなかった。意図的にバイト先の話はしないようにはしていたが、その意図まで彼女に気づかれていたのだろうか。
「いや、そんなつもりは無くて。最近は就活中心だったから、バイトも二の次で」
「・・・本当にそれだけ?」
「そうだよ、どうしたの急に」
「友里菜ちゃんの事、隠さなくって良いよ」
どきりと心臓が高鳴る。玲菜は知っている、気づいている。
それでも自分は全て断ち切ったのだ、何も心配を掛けさせることはない。
「別に隠してた訳じゃ無かったんだ。それにただの後輩だよ」
「それは嘘。加奈は気になっていたからあの時私に話したんじゃないの?それに、私が気を使わない様にその子の話を避けるようにしていたんだよね」
「・・・確かに話さない様にはしていたけど、自分の感情は無いよ!友里菜は自分に好意を持ってくれていたけど、断った」
「私が居たから、でしょ?」
「当たり前だよ!」
「・・・イベントの出来事、この前ユウから聞かされたの。加奈が凄く真剣だったって。私、確信しちゃった」
「それは・・・どういう事?」
「私は加奈を縛りたくないんだ」
自分の想いを玲菜に伝えたいのに、玲菜はどんどんと離れていってしまう。
玲菜はきっとこんな話をしたいはずが無い。
そうだ、それは解ってる。
だって目の前の玲菜はみるみる表情が暗くなっていって、今にも泣きそうな、とても辛そうな表情をしているから。
「私に対しては情。友里菜ちゃんへの気持ちが、恋愛感情なんだよ」
「そんなこと、ない」
ぽろぽろと、ついに彼女の目からは涙がこぼれ始めた。
両手をぎゅっと握りこんで感情を押し殺し、見上げてくる玲菜のこんなに辛そうな表情は、付き合うようになってから一度も見たことが無い。
思わず目を瞠って、奥歯を噛み締めた。
静かに、静かに彼女は泣き始めて、言った。
「隠しきれてないんだよ、加奈」
「何を・・」
「もう無理しないで。好きなんでしょ?あの子が」
涙は目に溜まったまま、苦しそうに、けれども何かを悟ったように表情を緩めて、ゆっくりと玲菜は微笑んだ。
それは強く自分へと訴えてきて、強がって笑う子供とは違う、大人の顔だった。
知っていたのだ、自分の気持ちが動いていた事を。
でもそれは、過去の事だと自分に言い聞かせていた。
玲菜の握った手の上に自分の掌を乗せて、包みこむように握る。
「玲菜、泣かないで・・・確かに友里菜の事は気になってた。それは認める。けど、それは玲菜と一緒に居る事を考えたら凄く小さい感情だった。だから、こうやって一緒に居る事を選んだんだよ」
どうか伝わってほしい、自分の決断を、自分の思いを。
目の前にいる彼女を幸せにすると決めたから、恋愛感情なんてわからなくても後にきっと付いてくる。
友里菜を振ったあの日、自分は改めて決意したから。
それでも、玲菜の瞳からは涙が止まる気配はない。
「ふふ、加奈はバカだなぁ。そんなんだから、本当に大切にしたいものを見失っちゃうんだよ」
「玲菜!もっと話を聞いてっ・・」
「今まで恋愛感情がわからなかった。でもそんな中、友里菜ちゃんだけは気になった。それが加奈の求めてた答えじゃないの?」
声が出なかった。どうして。玲菜を説得できる言葉が浮かんでこない。
それが答え。自分の中で芽生えた気持ちは今まで求めていたもの。
気づかないようにと自分をずっと押さえ込んできた感情。
「やっと見つけたんだよ。それにね、情で付き合っても愛情に変わらなければダメになる。私達は、もう終わったんだよ。悔しいけど、その人に叶うわけないんだもん」
「玲菜・・・」
「別れよう、私達」
ぴしゃりと言い放たれて、本当に心臓が止まった気がした。
包み込むように握っていた玲菜の両手が離れて、今度は自分の手を掴んでくる。
解ってほしいとまるで懇願されているみたいだった。
それに今、気づいた。
自分も頬を一筋の線で濡らしていた事を。
「・・・嫌だよ。玲菜が良いんだ」
「もう私を枷のように思う必要ないよ。私も、本当に愛してくれるような人を探す」
「愛してくれる、人・・・」
愛してくれる人。
自分は玲菜を愛してあげることが出来なかったから。玲菜は我慢していたのか。
やっぱり自分は、人を幸せにすることなんて出来ないのだろうか。
玲菜や今までの子にしてきたように、傷つけることしか。
「そう。私もいつまでも加奈に未練なんて掛けたくないから。加奈、自分に素直になって、ちゃんと向き合ってみなよ。これからも話は聴くし相談にも乗れるけど、暫くは一人にしてほしい。まだ聞ける状態じゃないから」
「玲菜、もう少し考えてよ。納得できないよ」
「ごめんね。私の方が、もう無理だと判っちゃったから」
「だって、こんなに玲菜が好――」
「言わないで。決意が揺らぐ」
彼女の手の温度が自分の手から離れていって、急に寂しさを与えられる。
嫌だと、引き止めたいと心の中では叫んでいるのに、その離された手を再び握ることが出来ない。
どうして自分は友里菜を好きになってしまったんだ。
「それとね、また人を大切に出来なかったとは考えないで。その逆で、加奈は幸せにできる希望を見つけたんだよ」
『今まで、大切にしてくれてありがとう。また次会うときは友達として』
優しい声で、本当のお別れの挨拶を告げられる。
それでも、自分は何も言い返すことが出来なかった。
ただじっと、そんな彼女のを見つめていた。
玲菜は自分なんかよりずっと大人で。他人の幸せをどんな形でも考えられるのだから。
自分の気持ちを押し殺して、涙はあっても、決して取り乱す事はなく。
ずっと、この想いを溜め込んできたのだろうか―――
先に席を立った彼女が、先ほどとは変わらずに降り続く雨のなかに傘を開く。
もうその傘の中に二人で入る事は、ない。そう考えればまた視界がぶれる。
華奢な彼女にはより大きく見える傘の下、ゆっくりと歩みを進めていく彼女の背中を、ぼうっと眺める事しか出来なかった。