1.予感。
日曜日の昼下がり。
暖かい日差しと春の穏やかな風に吹かれて、今日はなんだかとても気分が良い。
肩下まで伸びた少し茶色い髪が、風になびく。
無事高校二年目を迎え、新しいクラスメイトに担任。
まるで自分の中身まで新しくなった様だ。
自転車を漕ぐ足にも心なしか力が湧いて、いつになく軽快に進んでいく。
しばらく道なりに進んだ街角にある文房具店。
目の前の駐輪スペースに自転車を止めて元気いっぱいに伸びをして、アルバイト先となる文房具店の中へ足を踏み入れた。
決して大きくはない5階建てのうち、3階までが販売スペースとなっている。
エレベーターで更衣室兼休憩室となる5階のボタンを押す。
次に開いたときにはひんやりと薄暗い廊下が現れて、左へ数メートル程歩いてすぐのドアを開ければ休憩室。
“今西友里菜”と書かれたタイムカードを引き抜いて、機械へと差し込んで、いくつかあるパイプ椅子の一つに座り一息付いた。
今日は先輩も出勤だから、大分早く来ちゃったな・・・
思わず頬が緩む。今日も沢山話せたらいいなと考えて。
街中から少し外れた所にある文房具店で私、友里菜は働いている。
本や画材が好きだった私にとって、この職場は本当に恵まれていた。
好きなものに囲まれて知識を付けることが出来るし、一緒に働いている人たちは温厚で優しい人たちばかりで、とても丁寧に教えてくれる。
やりがいのある職場だった。
その中でもとても可愛がってくれる先輩が居て、私はその人が大好きなのだ。
面白くて、頼りがいがある優しい先輩。
「おはよー!お、今日早いねー!」
「あ!おはようございます。先輩も早いですよね」
「当たり前じゃん、今西さんとしゃべりたいからねっ」
「…とかいって本当は暇だったから早く来たんでしょう?」
「なんだよー、鋭いんだから!どうせ暇人ですよ」
明るく挨拶してくれた先輩に告げれば、笑顔をわざとらしくしかめる。
でも話したかったのはほんとだよ?と笑って付け足して、“長瀬加奈”と名前が書かれたタイムカードを機械へと差し込んだ。
今日の先輩は淡い水色のシャツに薄手のカーディガンを羽織り、緩いうす茶のチノパン。髪の毛はショートよりやや長く、パーマが掛かっていてフワフワしている。
そして私の好きな、切れ長だけど優しい目。
女らしさは欠片もないが、170センチメートルはある身長に、程よく筋肉が付いた身体はとてもバランスが良い。
そこらへんの男子よりカッコいい。そして綺麗だから文句の付け所が無い。
「ほんと先輩って、そこらへんの男子よりカッコいいですよね」
「でしょ?お洒落なイケメンが目標だから」
高校生になった女子は途端に色気づいて、男からの目線ばかりに気を使う日々を送る。
そんな中、全く逆を追求していく先輩は異色だった。
それでいて周りの女子と離れる事は無く、むしろいつも話題の中心に居るような、太陽みたいな人。
「ホラ、さっきアイス買って来たの、一本あげる。」
コンビニの袋からラムネ味の棒アイスを一つ取り出して、目の前に翳される。
もう片方の手には同じアイスの袋があり、どうやら私の分を別に買ってきてくれたらしい。
「うわっ、いいんですか?じゃぁ、遠慮なくいただきますっ!」
「きっと今西さんも来てるんじゃないかと思ってさ。買ってきて正解だよねー」
「先輩…マジで大好きです」
「マジで!?じゃぁ付きあってください」
いつものノリで一通り笑いあってから、袋を開けてアイスにかじりつく。
ひんやりと冷たいラムネ味に、一瞬にして真夏を連想させられて、一人で食べるよりとても美味しく感じた。
これから夏に向けてきっといっぱい楽しいことがある気がして。
**
先輩は、自分の名前が嫌いらしい。
話すようになって少し経った時、『加奈先輩』と呼んだことがあった。
すると先輩は苦笑いをして、私から視線をふっと外して、諭す様に言った。
「ごめん、じぶんの名前嫌いなんだよね。呼ばれるのも。」
声は大分優しく聞こえたのに、その時の表情は冷たくて。
急な反応に驚いてしまった私は、小さい声ですみません、としか答えられなかった。
それから後はすぐにいつもの先輩に戻ったんだけど。
だから私は、心のなかでだけ『加奈先輩』と呼んでみたりもする。
そこで夢は途切れた。
目の前は一面横線が入った茶色の木目。なんとなく早めの時間に登校してきて、春の陽気にうとうとしていた。
これは夢だけど、夢じゃない。
この夢の内容は実際に言われた事だった。
今でも引っかかっているのだけど、今更掘り返して言い出すような事は出来ずにいたのだ。
普段は忘れているのにこうして思い出すという事は、私は気になっているのだろうか。
「彼氏に振られたぁ・・・」
眠気に頭を机にべったりとつけてだらけていた所に、雲行き怪しい発言が降ってくる。
のそりと重たい顔を上げれば、同時にしゃがみこんだ咲と目線が合う。
「マジでか。めずらしく落ち込んでるの?」
「うん、そーなの。ここ最近の中ではかなり好きな方だったのに…」
はぁ、とため息を付く咲の目はうっすらと赤く腫れていて、昨晩泣いていた事が見て取れた。
田中咲。同じクラスメイトで親友。
多くの恋愛遍歴を持っているが、相手にあまり肩入れしないことが殆どの、俗に言う遊び人。
だからといって見た目も性格も派手で荒いのかと言えば正反対で、知らずに見ればまるで淑女。
これは多くの男が気づかないのも無理は無い。
まぁ、私と話す時は淑女からかけ離れた言動をするのだけれども。
そんな彼女だからこそ、今回の様に落ち込んでいるのは本当に珍しかった。
長くてフワフワしている髪も今日は弾んでいないし、化粧もしていない。
「最近までラブラブだったじゃん。何でまた急に」
「それがね、私が他の男とも繋がってるのがバレてね…。だから他は切るって言ったんだけど、そんな淫乱女とは思わなかった、ビッチ、寄るなって全然とりあってもらえず」
「あーそりゃ咲が悪いな。そろそろ落ち着けって神からのお達しだわきっと。」
「そうなのかもね。ってか彼氏にビッチって言われたの初めて。酷いけど何か面白かったー」
「面白いのか・・・?まー言い方は他にもあるよね、事実だったとしてもさ、事実だったとしても」
「え?事実ナンテ、ソンナコトナイヨー。でもしばらく落ち着くこうかなって思ったよ・・・」
こんな調子でおどけてはいるが、彼女は彼女なりに反省しているのだろう。
そして随分と落ち込んでいるみたいだった。何時もなら登校して直ぐに鞄から荷物を出して身支度を整えるのに、鞄は机の上に放りっぱなし。今日は授業なんてやってられないといった風だ。
たまには親友として、気持ちを発散させる付き合いするか。
「よし、今日はサボろ?保健室行って早退しておいで、あたしはこのまま抜けてくからさ。」
がしっと両肩と掴んで意気揚々と言って見せれば二つ返事で咲は承諾してくれて、そのまま保健室へと直行していく。
私も先ほど出した荷物を鞄に詰めて、そのまま校舎を抜けて出た。
まだ朝のHRも始まっていない時間帯で、私は先生には会っていない。
校舎を抜けてすぐ学校へと電話し、休む旨を淡々と伝える。
これでよし。
咲は委員会の関係で朝先生と顔を合わせている為、保健室で証明をもらってこなければならない。
進級早々問題児として見られると今後に影響が出る。
形だけでも真面目さを見せるのが一番なのだ。
「おまたせー!」
十分程遅れて咲が走って来て、そのまま街中のカラオケ店へと向かった。
**
叫ぶ、泣く、食べる。
久しぶりの咲とのカラオケは、それはもう色々な意味で白熱していた。
フライドポテトやホットドック等のジャンクフードのヤケ食い。
それから泣き始めて沈んだと思えば、急にパンクロックの曲を叫んで歌い、またヤケ食い。
エンドレス。
普段のおしとやかでやわらかい雰囲気とはかけ離れた地獄絵図。
私もノリに合わせてロックを叫び、歌い、食べる。
そんな事を3時間も繰り返し、体力を使い果たした咲はようやく落ち着いてきた。
「うぅ、ありがと友里菜。ちょっとスッキリしたよ。」
「どういたしまして。凶悪な何かに取り付かれたみたいだったね」
ふふふ、と何時もの咲に戻った笑いを返されて、私もふふふ、と笑ってみる。
本当に咲は、現金な奴で面白いと思う。
「最近は私の話ばっかりだったけど、友里菜こそ好きな人は居ないの?」
「あたし?好きな人かぁー。」
最近はバイトが楽しくて仕方がなかったから、そんな事考えもしなかった。
中学時代は好きな人は居たけども、高校に入ってから特別気になる人が現れなくなった気がする。
まぁ、殆ど女子高みたいな学校で見つけるのは難しいし。
―――でも、ここまで考えてないのは不思議だよなぁ
なんでだろう。
バイト先でも男子はいるけど、最近は先輩のことばっかりで・・・
そうだ、先輩のことばっか。
でも、それって?
「?友里菜?」
固まった私の顔を不思議そうに覗き込まれ、はっと我に返る。
「あ、ごめんごめん。昔にさかのぼって考えてたんだけど、ここしばらく居ないなぁって思ってさ」
「でしょー?でも友里菜、綺麗な顔してんだから遊ばないともったいないよ」
そこからの会話は曖昧で殆ど覚えてはいない。
きちんと受け答えはしていたと思うんだけど、頭の中は別な事でいっぱいになっていた。
先輩の事を好きな自分の気持ちって、なんなんだろうって。
会うたび嬉しくなって、そのためにバイトも頑張れて。
友達に対しては生まれない気持ちだけど、“先輩”に対して皆がもつ感情なんじゃないかと思っていた。
でも、もし違ったら?
私は、どういう意味で先輩を好きなんだろうか。
ふと湧いてきた疑問に、私は答えが出せなかった。




