第一話①
母が亡くなった。80歳も半ばを超えていたので、仕方ないといえばそれまでではあるが、杖もなく元気に歩きまわり、持病もなかったがために衝撃だった。一人暮らしの母は、冬の寒さが一段落したある日突然、一人で亡くなったのだ。
虫の知らせというものを私は初めて思い知ることになった。その週末は仕事だったが、なんとなく、しばらく実家に帰っていないことを思い、翌週の予定をメールしたのだ。いつもなら、高齢とは思えないようなレスポンスの速さで返信が来るのだが、その日に限っては昼を過ぎても連絡がなく、何となく不安になって、兄に様子が見れないかお願いしたのだ。
市役所勤めの兄は私よりも実家に近く、土日休みの仕事のためにすぐに様子を見に行ってくれた。そして、こたつで横になり、眠るように息を引き取っていた母を見つけたのだ。その日はすぐに早退し、嫁や兄嫁、孫たちを集めての大騒ぎとなった。
家に着くと、まだ警察が部屋を確認していた。一人住まいの高齢者が自宅で亡くなると、一応事件性がないかどうかを調べるのだという。鍵がかかっていたこともあり、監察医の見立てでも病死と判断され、事件性はなかった。どうやら心不全だということで、監察医の先生は、苦しむよりも先に息を引き取ったのであろうと、本人も死んだことにすら気が付いていないであろうと、私たちに伝え、それが何よりの救いになった。
それからの一週間は怒涛の時間だった。葬儀の手配や役所への届け出、保険や銀行の手続きなど、正直、悲しむ間もなかった。祖父や祖母、そして3年前に亡くなった実父の葬儀の時は、子供も孫もただただ悲しんでいればよかったが、兄とともに一からすべて葬儀の手配をすると、こんなにも悲しむ暇がないものかと驚いたものだ。
今では兄も私も結婚し、別に家を持っていたために、実家は売却することに決まり、ようやく片付けが始められるようになるまで半年近くの時間がかかってしまった。それまでに四九日や納骨を終えたが、それでも母が亡くなったという実感がわいてこなかった。
「早いなぁ。もう半年過ぎたんだな。」
実家の仏間で天井を見上げながら、私はひとり呟いた。仏間の欄干には両親の祖父母と両親の遺影が飾られている。遺影の母の笑顔を見ていると、ふと視界がぼやけてきた。本当にいなくなってしまったのだと、今さらながらに、それも急に実感がわいてきたのだ。
兄も私も、もう人生の分水嶺に差し掛かった年齢だ。なかなか実家に顔を出すこともなくなり、むしろ、嫁たちのほうが心配して顔を出していたくらいだ。母と最後に会ったのは、亡くなる1ヶ月ほど前、正月休みで戻った時だ。
狭い台所を嫁と三人で右往左往しておせち料理を作り、六帖の仏間で父の思い出話や孫たちの話で盛り上がった。アルバムを引っ張り出しては昔話に花を咲かせ、孫が食べるだろうとお菓子を出し、昔ながらのカードゲームで遊んだ。そして、ことあるごとに私や兄が幼かったころに好きだったお菓子や料理を作っては食べさせてくれた。そう、母は元気だったのだ。
三が日を実家で過ごし、つかの間の里帰りはお開きとなった。
「あんた。もう少し痩せないと身体に悪いよ。」
散々食べさせておいて、母はいつも最後には必ずこう言うのだ。
「気が向いたらね。」
そう言って、私達は実家を後にした。車が角を曲がるまで、母はずっと外で見送ってくれた。それは父が健在だったころも変わらない。雨が降っていようが、夏だろうが冬だろうが、私たちが角を曲がるまで、いつも必ず見送ってくれるのだ。そして、角を曲がる少し前でハザードを焚いた。「またね。」の合図だ。これが家族の暗黙のあいさつになっていた。
まさか、今回のそれが今生の別れになろうなど、誰が思うだろうか。
「さて、片さなくちゃな。」
涙をぬぐうと、私は再び片付けに戻った。兄とは、アルバムや特に両親が大事にしていたものを除き、家財は処分することで話がついていた。衣類関係はすでに処分した。さっきまでは、大量に出てきたノートを片付けていた。母はご丁寧に家計簿を大学ノートにまとめていたのだ。何年、何十年をそうしていたのだろう。とにかくとんでもない量のノートだった。
そして、合わせて出てきたのは母が友人たちと紡いできた手紙たちだ。母が生まれたのは太平洋戦争の少し前、小学校に通っていたころは戦争の真っ最中だったため、そのころの同級生たちは特に思い入れが深かったようで、中学以降の同窓会の話は聞くことがなかったが、小学校の同窓会には毎年参加していたようだ。携帯電話が普及した昨今でも、筆まめな母はいつも手紙で友人たちとやり取りをしていた。そのために購入したのだろう、大量のレターセットも出てきた。きっと、買い物に行くたびに残りの枚数を忘れ、とりあえず買った結果がこの数量につながっているのだろう。
なんとなくその手紙のやり取りを読んでいると、自分たち子どもや孫の話、そして、年齢とともに出てくる身体の不調のことばかりが書かれていた。自分もいずれそうなるであろうと思うと、なかなか笑う気にはなれなかったが、時折読んで取れる母の幼き頃の姿がかわいらしく、微笑ましい思いで眺めていた。
そんな中、ひとつ気になったのが、母が小学生時代を過ごしたという横浜市のことだ。母の生まれは都内だったが、父と結婚して埼玉県内に居を構えるよりもずっと前、幼い時には横浜市の外れに住んでいたことがあったのを思い出した。横浜にいたころの話は聞いたことがなかった。銀行口座の凍結解除のために、住民票を追っていて初めて知った事実だった。
続く
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