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かかか

作者: 乙丸

 私の親戚の家には古い蔵があった。蔵の中にはもう随分昔から使われていない畑道具や、用途が全く分からないものが並べられていて、掃除もされていないためかなり埃臭かった。だが、鬼ごっこや大人から隠れるときにはこれほどちょうどいい場所はなく、私はよく、親戚の()()()と一緒にその中で遊んでいた。流石にこんなに埃塗れな場所にお菓子を持ってこようとは思わなかったが、それでも薄暗い蔵の中は何も知らない子供にとっては好奇心の宝庫に違いなく、親戚の家に遊びに来た時には、必ずと言っていいほどそこへ顔を出した。

 あちこちの木々からセミの声が響き渡る中、暇になった私は夏休みの課題を小脇に抱えて、蔵の日陰でバスケットボールを弾ませていたあけ兄へ声を掛けた。


「ねえねえ、あけ兄、蔵の中のやつで使えそうなものないかな。課題のお題が決まらなくて」


 木漏れ日の下でボールをキャッチしたあけ兄は、日焼けした柔和な顔で困ったように微笑んだ。


「それって自由研究の課題だよね。蔵の中にそんな都合のいいもんあったかな」

「絶対あるよ!」


 力説する私をにあけ兄は苦笑すると、足元にバスケットボールを置いてから私の自由研究ノートを取り上げて中に目を通した。


「なに、植物の生長とか、虫の脱皮とか、そんなんじゃダメ?」

「だめ。ありきたりなの恥ずかしい」


 夏休み明けの宿題、特に自由研究については、教室の前に出て発表しなければならないのが私の学校では通例だった。人前で自分の研究を説明する時点でかなり恥ずかしいが、その発表が面白くないもので終わったら、余計に恥ずかしい気がしたのだ。みんなが興味を持つような発表内容なら、自信をもって前に立てるだろうし、あわよくば私が苦手な夏の交通安全ポスターの評価も多めに見てくれるのではないか、という下心もあった。


「こだわりがあるのはいいことだと思うよ。けど妥協したほうがいいんじゃないかなぁ、こんなぼろっちい蔵に調べるものなんてなさそうだけど」

「えーそんなこと言わないでさー」


 ぶらぶらと腕を左右に振ってあけ兄を見上げると、私の頭上に苦笑いと一緒に自由研究ノートが返ってきた。


「はいはい。一緒に探そうか」

「うん!」


 あけ兄の二本の腕に引っ張られて、ぎぃ、と重々しい音を立てて蔵の扉が開かれていく。この扉は木製だが、四つ角に打ち付けられた鉄のせいで、私の腕では引っ張っても開けられないぐらい重いのだ。だからいつもあけ兄がいないとここには入れない。それがまた、幼い私の心に特別感をもたらしていた。

 蔵の扉が完全に開くと、夜中の冷気をいっぱいにため込んだ空気が足元に流れてきた。日差しに当てられて色が抜けた品々に私は目を細めて、早速中へ飛び込んだ。


「足元、気を付けてね」

「分かってるよ」


 あけ兄は叔母たちにばれないように扉を引き戻しながら、横の棚から赤く大きな懐中電灯を取り出して、蔵の中を照らし出した。私がこの蔵を出入りするようになってから、あけ兄がわざわざホームセンターで買ってきた懐中電灯だ。頑張って選んできたんだ、というだけあって、その懐中電灯の明るさは薄暗い蔵の中が全く怖くなくなるほどである。

 約十メートルはありそうな蔵の奥までスポットライトが突き刺さって、壁に反射した白い光が二階に続く階段の影をくっきりと浮かび上がらせた。天井からは埃をかぶった蜘蛛の巣が垂れさがって、私たちが歩くたびに震えて笑っているようだ。


「自由研究ねぇ。僕の時は何をしてたかなぁ」


 あけ兄は小さな声でぼやきながら、少し筋が浮き上がった腕で雑多に置かれた箱や布を押しのけ、ゆっくり奥へ分け入っていった。その後ろを私はついていきながら、棚の中で灰色にごわついた調度品や、錆びだらけの芝刈り機を見てああでもないこうでもないと頭を悩ませていた。

 自由研究を特別なものにしたいと思っているが、そも、小学三年生の頭では、クラスメイトや先生にとりあえずインパクトを与えたいというだけで、本当に何が欲しいなんて具体的なものは露ほども考えていなかった。せいぜいが目に入った物珍しそうなものを面白おかしく文字でおだて、綺麗にして、写真を撮っとけばいいだろうという程度だ。


「あ、こんなのいいんじゃない?」


 弾んだ声であけ兄が差し出してきたのは、何かの絵巻らしかった。懐中電灯で照らしてもらいながら中を覗き込んだが、書いてあるのはミミズがのたくったような意味不明な文字と、侍の格好をした人たちが刀で戦っている様子だった。


「えーつまんない」

「うっそ、だめかぁ」


 私の厳しい評価にあけ兄は本気でがっかりした顔になって、しぶしぶその絵巻を引き出しの中に戻していた。続いて、これは、と大きな手で差し出されたのは、茶色く日焼けした小さな布切れだった。よく見ると縁のあたりに葉っぱの刺繍が施されていて、右端の方には薔薇を模したパッチがちんまり収まっていた。


「なにこれー?」

「綺麗にしたらきっときれいだと思うな。ほら、布をめっちゃきれいにする方法とかスマホで調べてさ、それを自由研究の課題にするのどうだ」

「うーん……なんかぱっとしない……」


 というか、こんなにドロドロに汚れた布をこれ以上触りたくない。家に持って帰って自分の部屋で保管するとなると、ものすごい嫌悪感が沸き上がってきた。

 私の口がいーっと引き伸ばされるのを見て、あけ兄はむくれた。


「わがままだなぁ。じゃあ自分で刺繍するっていうのは?」

「やだよ。へたくそになったらいや。あけ兄がやって」

「それじゃ僕の自由研究になっちゃうよ」


 あけ兄は乾いた笑いを漏らしながら私の手から布を摘んで元の場所に戻すと、服の裾で手を拭いてから懐中電灯を持ち直した。

 それから蔵の一階を十分程度捜索してみたが、私のお眼鏡に叶うものは見つからなかった。あけ兄が見せてくるものすべてにダメ出しをして、また同じ場所に戻ってきたころ、ついにあけ兄が弱音を吐いた。


「もうだめだ、諦めよう」

「えぇ、そんなぁ……」

「これだけ探しても見つからないんだ、きっとないんだよ」

「うぅん……」


 あけ兄がこんな風に諭すように言うときは、本当にどうしようもない時だ。だが、こんな特別な蔵に自分の興味を引くものがないわけがない。絶対にどこか見落としているんじゃないかと、諦め悪く、私はぐるぐるまわりを見渡した。


 するとふと、懐中電灯でうっすらと照らされた階段の輪郭が目に入った。


「そういえばあけ兄、なんでいつも二階にいかないの?」

「前にも言ったじゃないか、二階は危ないから連れてけないって」

「でも、私もう小学三年生だよ。勝手にウロチョロしないし、あけ兄から離れないから、ね、今日だけ!」


 いつも甘いあけ兄ならきっとすぐに許してくれる。そう思ったのだが、以外にもあけ兄は目をそらして渋い顔になった。


「えぇー……でもじいちゃんに二階には行くなって言われてんだけどなぁ」

「なんでよー」

「だから、危ないからだって」

「あけ兄だってもう高校生だよ? もうほとんど大人じゃないの?」

「……それもそうだね……言わなきゃばれないしな……」


 あけ兄も長いこと禁じられていた二階に興味があるようで、迷っているふりをしながらがっつりと階段のほうを見つめていた。数秒後、あけ兄はよしっと声を上げてから、口元に人差し指を立てた。


「ユイ、今日のことは絶対に内緒だぞ」

「うん!」

「しーっ、静かに、音を立てないようにいこう。いるのは五分だけだぞ。じゃないと誰かがこっちまで来ちゃうからな」

「わかった」


 小声で返事をすると、あけ兄はいたずらっぽく笑いながら私の手を引いた。二人ともうきうきを止められない足取りで階段のほうへ行くと、あけ兄はもう一度私のほうを見てにやりと笑った。


「途中でビビッて悲鳴あげるんじゃないぞー?」

「大丈夫だもん!」

「ほら、しーっ」

「しぃー……」

「いい子だ。おいで、階段ボロボロだからおんぶするよ」

「うん……」


 目の前にある階段は腐食のせいで端のほうがボロボロで、いつ踏み抜いてしまってもおかしくないものだった。本当にここを上るのか、と不安になったが、あけ兄は私をおぶりながら何度か試すように階段に体重をかけて、さらに懐中電灯で上を照らして深く頷いた。


「大丈夫そうだ。今回限りだし、きっと大丈夫」


 おぶられた肩越しに、あけ兄のすっと伸びた高い鼻と、緊張した口元が見えた。懐中電灯が示す方向へ揺れ動く瞳は真剣そのもので、なんだかこちらまでドキドキしてしまう。あけ兄はぎゅっと私の足を支える手に力を入れた後、着実な足取りでゆっくりと二階へ上がっていった。

 きぃ、きぃ、とか細く不規則に軋む階段が、いつ穴をあけるか不安だった。だがあけ兄の腕から伝わる体温がある限り、私は強気に微笑んだ。たまに蜘蛛の巣が膝に絡みついてきたが、それもあけ兄が前に進めばすぐにほろりと落ちていった。

 やがて二階にたどり着いたのか、懐中電灯の向きがくるりと下を向いてから、部屋の正面を照らした。二階は一階と違って埃が少なく、黴臭くもなかった。想像していたよりも遥かに物が少なく、そのせいか外から見た以上に空間が広く感じられる。


「降ろすよ、ユイ」

「うん」


床の上に下ろされてからそっと前に踏み出してみると、足元の木板が頼りなく沈んだ気がした。このまま自重で床が抜けてしまうのではないかとあけ兄を見上げたが、彼はこちらを見ておらず、部屋の真ん中にある棚の上の、丸く白い小さな鏡らしきものを見つめていた。

 あけ兄の視線の先にあったのは、神棚とか、神社に置かれているような小さな鏡だった。その両脇には細長い紙をジグザグに折り曲げたような白い飾りが、木の棒に括りつけられた状態で無造作に垂れ下がっており、紙の先端は床に張り付いてから、壁に沿うようにぐるりと部屋を一周していた。よく見れば私の足元のほうにもその紙が横たわっていたが、茶色くカビて今にも千切れそうなぐらいにふやけていた。

 その紙を跨いで奥へ行くと、足元からゾワゾワと鳥肌が立った。ここはものすごく寒くて、至近距離から誰かに見られているようで気持ちが悪かった。


「あけ兄」


 震えた声を出しながらあけ兄の服の裾をつかむが、あけ兄は返事をせず、真っすぐと鏡のほうへと歩いて行った。引き止めようとしても勝てるわけがなく、私はずるずるとあけ兄に連れていかれるように鏡の前に来てしまった。

 あけ兄は何を思ったか、五段ある棚の引き出しの、下から二段目を迷いなく開けた。子供の身長でも覗き込める位置だったから、私からも中身がよく見えた。

 細長い箱に収まるように、一体のお面をつけた人形が寝転んでいた。こんなところにあるのが不自然なぐらい、その人形の着物は手入れが行き届いてきらきらと輝いているように見えた。真っすぐと降ろされた黒い長髪もつややかで、彼女がつけているお面も可愛らしい鼠を模している。

 私は思わずあけ兄に聞く前に人形を手に取ってしまった。あけ兄から隠すようにぎゅっと両腕で抱きしめて背中を向けるが、あけ兄は何も言わず、引き出しを閉じて、次に一番上の引き出しを静かに開けた。


「……?」


 勝手に取ったのだから、何か一言言われると思ったのに、あけ兄はそもそも人形がなくなったことにすら気づいていないように見えた。真剣な横顔のあけ兄は真っ暗な部屋の中でも良く見えて、棚の上の雲った鏡の中にもその顔が明るく映り込んでいた。鏡越しに見えるあけ兄の視線は、ずっと一番上の引き出しの中に注がれている。


「あけ兄、何が入ってるの?」


 声を掛けても、まったく反応してくれない。鏡の中のあけ兄と、横にいるあけ兄の顔がみるみる近づいていく。

 急に腹の底がぐらぐらと不快になって、私は強くあけ兄の腕を引っ張った。


「あけ兄!」

「――っ!」


 スタンッ!


 埃が舞い、鏡の横の紙が揺れた。大きな音に驚いて私が腰を抜かした途端、あけ兄は急に私を抱き上げて走り出した。初めて乱暴に担がれて私は悲鳴を上げたが、あけ兄は崩れかけた階段をものともせず素早く降りて、一階に所狭しと置かれた物をなぎ倒しながら、扉へ肩口から体当たりをした。

 流石に重い扉だったため開くのはゆっくりだったが、完全に扉が開けるまで、あけ兄はうわごとのように何かを高速でつぶやいていた。


「……ない……ない……がない……がないあ……がない……がなえええええああああああああああああ」


 瀕死の獣でもこのような声は出ない。人の声帯と思えない複数の怒号に囲まれて、私はわけが分からず泣き叫んだ。

 外に出ると、私の悲鳴を聞きつけてか、蔵の横にある家のほうから叔母が走ってきた。泣きじゃくっている私を抱きしめたまま、あけ兄は凄まじい形相で蔵の扉を閉じにかかっている。その異様な光景に叔母は血相を変えた。


「ユイちゃん! どうしたの!?」


 きっと怒られると思った。だが怒られる恐怖より先に、私は叔母へ必死に両手を伸ばした。


「わああああん!」

「ユイちゃん! なにがあったの!?」


 あけ兄の腕の中から叔母へ助け出された後、ぎぎ、と閉じたはずの扉から重々しい音が響き渡った。とてつもない恐怖心が沸き上がって、扉を閉めて、と何度も叫んだが叔母はおろおろするだけだ。見てはいけないと思っても、私はついそちらを見てしまった。


 再び開かれた扉の隙間から蔵の闇がじっとこちらを見ている。そしてその奥から音もなく男の顔が現れる。


 遅れて、あけ兄の驚いたような声がした。


「ユイ!? どこに行ってたんだ!」


 蔵の中から飛び出してきたのはあけ兄だった。


「あ、え……あけ兄ぃ……?」

「急にいなくなって心配したんだぞ! こんなに埃塗れになって!」


 本気で怒っているあけ兄はいつも通りで、私はますますわけが分からなくなった。なんといえばいいのか分からずに泣き続けていると、今度は叔母があけ兄を怒鳴りつけた。


「あんた一体なにやってんだい! ユイちゃんをあんまり蔵に入れるなって何度も言っただろう!」

「う……それは」

「ユイちゃんが蔵に閉じ込められたらどうなるか、分からない年じゃないでしょう! まったく」

「……ごめんなさい」


 しおらしく謝るあけ兄を見て、ある程度落ち着いた私は涙声で言った。


「あけ兄は悪くないよ。私が入りたいって言ったんだもん」


 叔母はまじまじと私の顔を見ると、仕方がなさそうにため息をついた。


「はいよ。もういじめないからね」


 望んだ反応が返ってこなくて、私は思わず口をつぐんだ。それを了承と取った叔母は、私を抱きしめながらとんとんと優しく背中を叩いて、家のほうへと歩き始めた。その後ろをとぼとぼと歩くあけ兄はむっと口を引き締めて、少し恨みがまし気に叔母の背中を見つめていた。




 その後、私はあけ兄の部屋のドアの前でもじもじしていた。私の自由研究のせいであけ兄が怒られる羽目になったのもあるし、蔵の中で急にしゃべらなくなってしまったから、もしかしたら人形のことについて怒っているんじゃないかと、いろいろなことを考えていたのだ。あけ兄のことは大好きだし、家に帰る前に仲直りしなくては、と思っていたが、蔵を出る前のあけ兄の周りから聞こえた声が恐ろしくて、なかなかドアをノックする勇気が出なかった。

 うろうろと廊下を行ったり来たりしていると、唐突にあけ兄の部屋のドアが開けられた。


「なーにしてんの?」


 茶化すようにあけ兄がドアの隙間から声を掛けてきた。私はびっくりして壁に肩をぶつけた後、指をいじりながら少しだけ距離を取った。


「えっと……ごめんね。怒ってる?」

「もういいんだよ。終わったことだし。ほらおいで」


 大きくドアを開けて招いてくれるあけ兄に泣きそうになりながら、私はとぼとぼと、あけ兄の部屋に入った。

 あけ兄の部屋はいつも物が少なかった。背の高い椅子や勉強机、黒いパソコンやベッドは父の部屋に似ていて、いつも私を少しだけ厳かな気分にさせた。目の前に差し出された灰色のクッションからはあけ兄の匂いがして、私はそれを抱きしめながらベッドに寄りかかるようにして正座した。あけ兄は回転椅子に腰かけて、読みかけの漫画を広げながら笑い混じりに言った。


「いっつも思うけど、尻に敷けよ。痛くない?」

「痛くないよ」


 私は顔半分をクッションに埋もれさせた後、蔵の前でいつの間にか落としてしまっていた人形のことを話した。


「あけ兄、蔵の前に、人形落ちてなかった?」

「人形? そんなものあったっけ」

「ほら、二階の引き出しにあった人形」

「二階なんて行ってないよ?」

「……え?」


 思いもよらない返答に私は言葉を失ってしまった。あけ兄は漫画に視線を落としながら、あまり口を動かさずに続けた。


「一階で何も見つからなかったから、もう出ようって話になって、そしたらユイがいなくなったんじゃないか」

「違うよ。二階は探してないから、内緒で一緒に行ったもん。おんぶして階段上ったよ」


 数秒の間を置いて、あけ兄は漫画を閉じるなり目を鋭く細め、口角をうっすら釣り上げた。


「さてはお前、俺から隠れてるときに居眠りしてただろ。そん時の夢だよ。俺は二階に行ってないぞ」

「行ったよ! あけ兄、二階の引き出しの中、夢中で見てた!」


 するとあけ兄の顔から表情が抜け落ちた。能面のようになった彼は何か考えている様子だったが、なかなかしゃべらないので焦れた私は立ちあがった。


「ねぇ、二階のこともう聞かないから、引き出しの中に何があったかだけ教えてよ」

「はいはい。もうその話はいいから。人形でもなんでも好きにして」

「あけ兄!」


 大声を上げてもあけ兄は顔をしかめるだけで、勉強机に向かい合ってパソコンを起動した。


「漫画、適当に読んでていいよ」


 ぶっきらぼうに投げかけられた言葉に胸が冷たくなるのを感じながら、私はしぶしぶクッションを下に敷いて、その上で適当に小難しい漫画を手に取った。まったく知らない表紙と題名で、指先でこすりながら見開きを俯瞰する。次のページも、その次のページも、まったく内容が頭に入らなかった。




 結局その後はあけ兄とまともな会話をせず、家に帰る時間になってしまった。家の周りで泣きわめいていたセミはすっかりいなくなって、代わりに鈴虫のいびきの様な音色が草陰からひっそりと聞こえてくる。

 仲直りとも喧嘩ともつかない曖昧な関係のまま終わってしまって、私は居心地が悪かった。あけ兄の家と私の家は車で三十分程度離れた場所で、会いに行こうと思えば行ける距離だから、またいつでも謝れる機会はある。だから、見送りに来てくれたあけ兄に手を振って私は車に乗り込んだ。見送りの間、あけ兄は目を合わせず、私のおでこばかりを見ていた。時折、虚空を見ていたあけ兄の目は濁っていて、私は少し怖くなった。

 私は車のドアを閉めると、お気に入りのリュックを強く抱きしめながら両親が車に乗り込むのを待った。つまらない大人の長話の最中、今まではあけ兄が私の相手をしてくれていたから、こんな風に一人で待つのは久しぶりだった。分厚いドア越しに聞こえる母の声は普段より高くて不安になる。家にいる時より無口な父は近寄りがたい。窓の外を見るのも嫌になって、私はリュックに顔をうずめることにした。

 ふと、薄いリュックの布地越しに固い感触があった。ファスナーを下げて中を覗き込むと、そこにはなんと、どこかに行ってしまったはずの綺麗な人形があった。

 もしかしたら、蔵の前から人形がなくなっていたのは、叔母が気づいて私の代わりにリュックに入れてくれたからだったのかもしれない。

 なくしていなかった、と私はほっとして、窓越しに外を見た。相変わらず両親と叔母たちの会話は長引いているようで、当分戻ってくることはなさそうである。

 私は人形の入った箱をそっと取り出して、固く閉じられたガラスの蓋に手をかけた。少し力を加えただけで蓋は外れて、人形の着物の袖が指に触れた。トゥーンのように頭でっかちな人形は手足は動かせず、素足はかかとをそろえて、両手は腹の上で重ねて添えられていた。顔のお面は鼠を模していて、くりくりとした目が私を見つめ返していた。


「かわいい……」


 そうつぶやきながら人形を掲げてみると、からん、と音を立てて人形の顔が回って、牛のお面になった。


「えっ!」


 私は驚きながらもう一度人形を振った。するとまた顔が回って、虎の縞模様になった。


「すごい! なにこれ!」


 髪の毛は回っていないから、頭は固定された状態で顔が回っているらしい。長髪をどけて顎のあたりを見てみると、じっくり見ないと分からないぐらいの細い線が入っているのが見えた。球体の中にもう一つ、お面が書かれた球体が入っていて、動かすたびに中が回って顔が変わるようになっているらしい。


「これ、自由研究で使えるかな……」


 両手で優しく持ち上げながら人形を見上げていると、助手席と運転席のドアが開けられて両親が入ってきた。母はため息をつきながらシートベルトを肩にあてがうと、少し禿げた口紅越しに笑顔を作って私を振り返った。


「忘れ物はないかしら?」

「うん」

「あら、その人形どうしたの?」

「あけ兄がくれたの!」


 あけ兄は確かに、人形を好きにしていいと言った。それにこの人形のことをものすごく気に入ったから、返せと言われるまで、私のものでいいに決まってる。


「そう、よかったわね。大事にするのよ」


 母はそれ以上追及することなく、叔母と散々したであろう話題を、隣の父へ繰り返し話し出した。父は生返事をしながらエンジンをかけると、ゆっくりと車を走らせながらハンドルを切った。

 家の周りに敷かれた砂利がタイヤでこすれる音を聞きながら、私はもう一度窓からあけ兄のほうを見た。あけ兄はもう家に入るところで背中しか見えなかったが、玄関の横の蔵のほうには、叔父が大股で向かっていくところだった。私はなんとなく叔父が蔵の中に消えていくのを眺めた後、手に持った人形を空中へ泳がせて遊び始めた。




 家に帰ってからも、私はずっと人形のことを考えていた。あの着物はどうやって作ったのだろう。一体誰がこのようなものを作ったのだろう。あのお面は全部で何個あるのだろう。夕ご飯を食べている間も、お風呂に入っている間もずっと人形への興味は尽きなかった。人形がすぐそばにないと私は落ち着きがなくなって、何度も母に叱られた。

 そして、自分の部屋に戻ってから私は改めて人形に向かい合った。やはりこれを自由研究のお題にするべきだ。きっと誰もが羨んで私を褒めてくれる。私は真っ先に、お面のことを調べることにした。

 お面の動物は今のところ、鼠、牛、虎、兎の三つだ。それらをスマホを使って調べてみると、生肖という聞きなれない単語が一番上に表示された。リンクを開いてみれば、なんてことはない、十二支のことだとすぐにわかった。


 本当にこの人形のお面も十二支に沿ったものなのか、私は曲がっていた背筋を伸ばして立て続けに人形の頭を振った。


か、かか、かん。


 振るたびに乾いた木を打ち付けるような音を立てながら、人形の顔が小刻みに震える。なかなかうまく回らないため、今度は思いっきり頭を振ってみた。すると、予想した干支の動物の顔ではなく、真っ白な顔が出てきた。


「あれ? 変なところにずれちゃったのかな」


 私はもう一度強く細かくペンライトを振るように手を動かしてみた。


 かか、かかかかかか!


 かこん。


 なかなか穴に落ちなかったビー玉が落ちるような、心地の良い音が人形の頭から響き割った。同時に人形の面が滑らかに回って、逆様の女の子の顔が露になった。


「えー干支じゃないの?」


 とがっかりした瞬間、ドアからざわざわと大勢の人間の会話が聞こえてきた。一つ一つの声は小さく、人数も多いせいで何を話しているのか聞き取れない。お客さんがいるのだろうかとドアノブに近づいてみると、


 バン! バン! バン!


 突然外側からドアが乱暴に叩かれ、私は腰を抜かした。


「なに!? お父さん!?」


 何者かは返事をせず愚直にドアをたたき続けている。激しい音はますます増えていき、一人の人間が出せるとは思えないぐらいに数が膨れ上がっていった。

 私の自室は狭い廊下に面している。広さは人間二人が横に並べばもう通れなくなるぐらいで、とても大人数でドアを叩けるほどではない。できるとすれば、無数に手が生えた人ぐらいでなければ……。


「お、お父さん! お母さん!」


 喉が叫んばかりに助けを求めるが、両親が来る気配はなく、ドアを叩く音が一層激しくなった。頭がおかしくなりそうなぐらい狂ったように震えるドアはでこぼこに変形して、留め金の一つが金切り声を上げてはじけ飛んだ。私は肺が痙攣してへたくそな呼吸をしながら、ずりずりと後ろに下がろうとした。踵がフローリングで滑ってなかなか動けない。手を使って動こうとしてもうまく力が入らず、もどかしくて涙があふれた。

 私はリビングを隔てる壁に向かって、必死に叫び続けた。


「お母さん! おかあさん!」


 バキッ!


 ついにドアが耐え切れなくなって、腹のあたりに拳サイズの穴をあけた。真っ黒な服を着た人間の足が見える。片足の膝が二つあった。それが上から順に、屈むように曲がっていく。


 見られたら終わる。


 私は手に持っていた人形を抱えたまま押入れの中に飛び込んだ。震える手で何度か押入れの戸をつかみ損ねて、何度も手を伸ばして、ドアが開く寸前にどうにか閉められた。

 ドアが開くと、喧しかった打撃音が拭い去られて、耳が痛くなるほどの静寂が満ちた。私は口を押さえながら人形を抱きしめて、押入れの隙間から洩れる光を凝視した。

 ひたひたと、風呂を出たばかりのような足音をさせて誰かが入ってくる。天井のど真ん中にある照明に逆らうように、半透明の影法師が音もなく伸びて、部屋の真ん中で水たまりになると、人の形になった。背が高く顔が見えなかったが、右腕に銀色の時計が光っていた。それは父がよく自慢していた時計だとすぐにわかった。服装も、あけ兄の家に行った時の恰好のままだ。

 父の姿をした何かは、一つ一つ、机や棚の下を覗き込むようにお辞儀をした。背骨がないのか、だらりと腕を重力に任せて、頭だけはせわしなく辺りを見回している。ここからでは後頭部しか見えないが、かくかくと時計の針みたいに、頭だけが定期的に震えていた。その人のお辞儀の速度は、部屋の奥に進むたびに早くなり、やがて野球バットの素振りのように風が唸るほど、目に見えない速さになった。音は時計回りに部屋の隅々を回って、私のいる押入れのほうへ段々近づいてくる。

 もっと膝を体に引き寄せようと、私は恐る恐る床に手を付いて臀部を後ろに下げた。だが押入れの中に置いてある父のパソコンに背中をぶつけてしまい、大きな音がした。


 音が止んだ。


 隙間から見える景色は変わらず、押入れの横まで来ていた気配もなりを潜めている。私は泣きそうになりながら必死に息を止めていた。あの父の姿の何かが、上から私が出てくるのを待っている姿を想像した。だがいくら待っても、あの人が押入れを覗き込んでくることはない。

 押入れの中は冷房が効いていないせいで蒸し暑かったが、背中にかいた汗はピッタリと服に張り付いて冷たくなっていた。心臓もうるさすぎて、この鼓動が外に聞こえているんじゃないかと不安でたまらない。しかしいつまで経っても、何者かが現れることはなかった。

 私は人形を抱きしめると、ほんの少しだけ身体をずらして、押入れの隙間からどうにか見える角度を変えてみた。押入れのある壁に沿うようにあの男は立っているはずだが、どこにもつま先が見当たらない。もう少し角度を変えてみても、ぎりぎり壁全体を見ることはできなかったが、やはり足はなかった。

 本当にどこかに行ってしまったのだろうか。相変わらず鳥肌が二の腕を這いずり回っていて気持ちが悪いし、鼓膜の血管ははち切れそうなぐらいに瞬いているのに。どうしていいか分からないまま、暑い押入れに微かに流れ込むクーラーの冷気を指先でこわごわ確認していると、部屋の外から声がした。


「ユイー! そろそろ寝る時間よ!」


 母の声だ。十時になる前に、母は私が夜更かしをしないようによくこうして声を上げる。そして私が返事を面倒くさがっていると、どすどすと重い足音を響かせてドアを開けてくるのだ。

今夜もいつも通りに、母の足音が廊下から聞こえてきた。私は押入れの戸を開けようか迷っていたが、出る前に部屋のドアが開く音がした。


「ちょっとユイ? どこにいるの?」


 隙間から見えた母の後姿は、夕食前に見た格好と全く同じだった。私は満面の笑顔になって押入れを開けた。


「お母さん!」


 母は驚いたようにこちらを振り返った。


 母ではなかった。


「あら、だぁれ?」


 その人は、他人を見るような目つきで私に微笑みかけた。

 顔は、まったく母と同じように見えるのに、何かが違う。古いビデオに写っている私の知らない母が、母のふりをしてそこにいる。彼女を見ているだけで、自分の居場所を汚された本能的な恐怖と喪失感が押し寄せてきて、私は言葉を失った。

その人は押入れから出てこようとしない私を不思議そうに見つめた。それから私の手元の人形を見て顔を引きつらせ、もう一度私の顔を見た。その時にはもう優しげな雰囲気はどこにもなく、化け物を見るような恐怖に染まった顔で、限界まで口を広げて絶叫した。


「出て行け! 出て行けええええええええええええええ!」

「いやあああああああああああああああ!」


 恐ろしい形相で私へ飛びかかる人間に私は悲鳴を上げ、押入れの戸に必死に手を伸ばした。つかまれる寸前で戸を閉めると、人間の手が挟まれてバタバタと暴れ出した。指の関節を外して、逆に手の甲で戸をつかみ始めたそれに、私はまた悲鳴を上げて、足で蹴るようにして押入れの奥へ逃げようとした。


 だが、予想した床の感触はなかった。小さな段差を踏み外しただけだと思ったが、がくんと重心が後ろに落ちていき、完全に落下が始まる。だまし絵のように、押入れから洩れる光が何か大きな影に隠れて、完全に見えなくなる前に女のけたたましい怒号がこだました。


 まもなく、私は背中をしたたかに打ち付けた。全身を押しつぶされてしまいそうなほどの鈍痛に見舞われて、指を一本も動かせずに私は呻くことしかできなかった。しばらくして痛みが引いた後、暗闇に同化してしまった天井を睨んだ。しかし、あの人間はいつまで経っても追いかけてこなかった。

 逃げられたのだ、という安堵が一気に押し寄せてきて、両目から蛇口みたいに涙が溢れ出した。こめかみを伝い落ちる涙は髪の毛にしみこんで気持ち悪かったが、私は声を殺して泣き続けた。

 ただ家にいただけなのに、急に母親が別人になってしまった。しかも出て行けとまで言われて、心配すらしてもらえなかった。どうして自分がこんな怖い目に会わなくてはいけないのだろうか。勝手に蔵の二階に上がってしまったから、人形を持ってきてしまったから罰が当たったんだろうか。

 私は鼻をすすりながら、いまだ強く抱きしめたままの人形を持ち上げた。仰向けのままそうしたから、人形の長い髪が私の鼻をくすぐった。こんな真っ暗な場所でも、不思議と人形の顔だけはうっすらと見える。落ちた時に仕掛けが動いたからか、人形の顔は別のものになっていた。


 逆様の私の顔だった。


「ひっ!」


 思わず人形を投げ捨てて飛び上がる。すると今まで見えなかった部屋全体が、淡く青白い光で輪郭を纏っていることに気が付いた。隙間から差し込む月明かりに埃が映り込んでまた闇に溶けていく。目を凝らすと、闇の向こうに四角い祭壇のようなものが見えた。立ち上がって近づいてみると、それは蔵の二階にあった、丸い鏡が置かれた棚であった。


「……なんで」


 よく見ると、棚に飾られた白いギザギザの紙が震えていた。部屋の四方を囲うようにひかれた紙も風に攫われているように激しく震えて、やがて蔵全体がガタガタと地震に見舞われた。訳が分からないままじっとしていると、振動が止んで、また静かになった。

 気づけばびっしょりと全身が汗みずくで、足元にはお漏らしをしたように汗で黒い染みが出来ていた。埃塗れの蔵の中で私は震えながら息を吸い込んで、大きくむせた。

 すると、棚の二段目が勝手に動き出した。引き出しが静かに滑る音が終わると、その中から黒いものが流れ出した。月明かりを浴びてごわごわとしたそれは髪の毛だった。


 かかか。かかか。


 人形のほうから音がする。髪の毛は途絶えることなく溢れ続け、私の足元まで迫ってくる。


 かこん!


 私は弾かれたように飛び出して、一階へ続く階段を駆け下りた。ぼろぼろに朽ち果てた階段は三段目で私の重さに耐えきれずに崩壊し、そこから文字通り真っ逆さまに転がり落ちた。だが私はすぐに立ち上がって、一階に無造作に転がっているものに肩をぶつけながら出入口まで走り続けた。真っ暗なせいで顔から扉に突撃する。鼻の穴から生暖かい液体が流れたが、私はお構いなしに扉に両手をついた。

 扉は私の腕に押されてゆっくりと開き始めて、隙間から淡い月明かりを差し込ませた。


「開いて、早く、早く……」


 背後から地を這う掠れたうめき声が近づいてくる。ぱきぱきと壊れた階段を踏みながら降りてくる。


 扉はまだ三センチしか開いていない。


「早く、早く早くっ!」


 かかか。


 首の後ろから人形の音がする。無数の呻き声は床に転がっている段ボールや木箱を踏みつぶし、凄まじい破壊音を響かせながらすぐそこまで来ている。


「なんで、開かないの!」


 ようやく私の頭が通れそうなほどに扉が開いた。その先で、あけ兄の家が見えてきて、私は顔を隙間に突っ込んだ。


「助けて! 助けて! 誰か!」


 恐怖でうまく声が出ない。想像したよりも小さな声で、すぐそこのあけ兄の家に灯りが付くことはなかった。もう腕に力が入らない。押される力を失った扉は徐々に閉まり始めて、私は頭を挟まれてしまった。無理やり頭を引くと、扉のささくれた角に耳や頬を切られて、そこが灼熱を帯びた。今更になって全身のぶつけた個所ががんがんと痛くなって、ますます力が入らなくなる。だが私は、扉の外に手を伸ばして叫び続けた。


「誰か、誰かぁ!」


 扉に手首が挟まれる寸前、大きな男性の手が私の腕をつかんで蔵の中に引きこんだ。同時に腹を抱えるようにして扉の前から引きはがされ、そのまま持ち上げられてしまう。見る見るうちに月明かりが遠ざかる。

 やがて扉は、重々しい音を立てて完全に閉じられてしまった。しかし、さっきまで内側から聞こえていた騒音はなく、代わりに耳元で囁くものがあった。その言葉を理解する前に私は泣きじゃくった。


「やだぁ! あけ兄! あけ兄!」

「ユイ! どうしたんだ!」


 私をつかんだままの腕を振りほどこうと暴れまわっていると、急に目の前に大きな光が差し込んで腕をつかまれた。それから力強く暗がりから引きずり出されて、温かいものに包み込まれる。眩しさのあまり重くなった瞼をどうにか持ち上げると、父親の肩と、後ろで口元を抑えて泣いている母が見えた。


「お、おかあさ……!」

「ユイ! ずっとどこに行ってたの! 家中探したのよ!」


 母は泣きながら父ごと私を抱きしめてそう言った。私は安堵のあまり大声で泣きだして、目一杯腕を伸ばして両親のぬくもりを感じた。父のうなじからは煙草の匂いがして、私の背中を叩く左腕には腕時計の感触があった。私を大切そうにのぞき込む母の顔も、間違いなく知っているものだった。


「こんなに傷だらけになって何があったの!?」


 怒鳴りつけてくる母の声を聞きながら、私は涙で霞んだ視界を部屋にさまよわせた。破壊されたはずのドアは傷一つなく、私が蔵に置いてきたはずの人形は床に置かれたままだ。その横で開かれたままの自由研究のノートには、誰が書いたか分からない文字がめちゃくちゃに書きなぐられていた。




 両親の話によると、私は一晩中行方不明だったらしい。私がいなくなったと気づいたのは、呼びかけても返事をしなかった私を注意するために、母が部屋に来た時だった。母は部屋中どこを探しても私がいないことに気づくと、今度は父とともに家の中を探し回った。それでも見つからなかったため、外に出て行ってしまったのではないかという話になり、親戚のあけ兄たちに電話をして全員で街中を走り続けたそうだ。それでも見つからずに途方に暮れながら家に帰ってきたときに、泣きわめいている私を見つけたらしい。

 私の体感では一時間以上も経過したとは思えなかったが、家の時計は真っすぐと十二時を指示していた。両親はすぐに叔母さんと叔父さんに電話を入れて、私が無事に見つかったことを報告して何度も謝っていた。汗びっしょりだった私は久しぶりに母と一緒にお風呂に入ってから、両親と同じベッドで朝を迎えた。カーテンから差し込む朝日を見て、本当に私は帰ってきたのだと、また泣いてしまった。


 その後、私は親戚の家に呼び出されて、両親と共に客間で座っていた。畳が敷かれた古い客間は全体的に薄暗く、風通しも良いのになぜか圧迫感があった。

 私の対面の座布団の上には、昨日いなかった祖父が厳めしい表情のまま胡坐をかいてこちらを見ている。祖父はじろじろと私の顔を見た後に、静かに問うた。


「昨日、蔵の二階に行ったな」

「……ごめんなさい」


 私はいたたまれない気持ちになって顔を俯けた。本当にあそこには入ってはいけなかった。祖父がわざわざ私たちに言い含めていたのに、馬鹿な事をしたと本気で思った。祖父は私の考えていることをどこまで読んだのか、大きくため息をついて眉間のしわを解いた。


「二人とも席を外しなさい。二人きりで話がしたい」

「で、でも……」

「娘のためを思うなら、行きなさい」


 祖父は厳しい口調で母に言い放つと、父は母を連れて静かに部屋を出て行った。本当に二人きりになってしまった客間はより一層重苦しく、夏の湿った風が縁側から吹き付けてきて気持ち悪かった。


「お前、蔵で何を見た?」

「……丸い鏡の乗った棚」

「中身を見たか?」

「えっと、下から二段目しか見てない。上のほうはあけ兄だけ」


 祖父は悲痛な表情になって、皺だらけの口元をぶるぶると震わせた。


「おじいちゃん……?」


 やがて祖父は大きく肩を落として、ゆっくりと語り始めた。

 あの蔵の二階には、祖父の父親の、曾祖父の代から、サカミ様というものを祭っているらしい。祭る方法は詳しく教えてくれなかったが、私が取り出した人形はサカミ様を呼び出すときに使う物で、棚の中にはサカミ様を祭る道具が大切に入れられているという。いずれは、叔父からあけ兄へその方法が伝えられるはずだったそうだ。

 だが、サカミ様を取り扱うには注意しなければならない事があった。それは、祭る人間の年齢が二十歳を超えていること。もしその年齢に達していないままサカミ様の部屋に入ってしまうと、魂が向こう側に引っ張られてしまうという事だった。


「お前はサカミ様の人形を持っていたから、元の場所に帰ってこれたんじゃ。後でようく、感謝しておけ」

「……うん」


 当時小学三年生だった私は、それ以上のことは分からずただ祖父の言葉に頷くしかなかった。そして、私の部屋にあったサカミ様の人形を祖父に預けて、話は終わった。その日はあけ兄も私と同じように祖父からサカミ様の話を聞いたのか、慰めの言葉を言いながら私の頭をなでてくれた。



 それから私の夏休みが終わったころに、祖父は蔵の中で亡くなった。心筋梗塞だったようだ。医者からもいつ倒れてもおかしくないと言われていたようなので、両親も叔父たちも驚いていなかった。サカミ様の祭事は、おそらく叔父が引き継いだのだろう。そして後二年もすれば、あけ兄が後を継いでいくのだ。

 きっと祖父は私にすべてを話していなかった。サカミ様のことも、向こう側のことも、詳細なことは何一つ語らなかったから、きっと隠しておきたかったのだろう。幼い私に責任を感じてほしくなかったのか、それとも言えない理由でもあったのか。


 どちらにしろ、本当に、二階に入ってしまったことを悔やんでも悔やみきれない。


 ヒグラシが鳴く下校時間、私は少し遠回りをしてあけ兄の家に向かった。土塀から見える蔵は相変わらず古びていて、重い門は厳重に閉じられて閂までつけられるようになった。私は敷地に入らず、外からその様子を目に焼き付けた。


「ユイ、おかえり」


 蔵の横の玄関からあけ兄が顔を出した。私は小さく手を振って控えめに笑う。


 私が、蔵の中で長い髪の毛に追いかけられ、誰かに後ろから抱きかかえられた後に、声がしたのだ。耳元でささやいた声はあけ兄のもので、今も蔵を見るたびに脳裏でこだましている。


『開けないで』


 私をこちら側に戻してくれたのは、本当にサカミ様だったのかはもう分からない。祖父が死ぬまで口にしなかったのだから、知らないほうがいいのだろう。だけどあけ兄の顔を見るたびに、私は考えてしまう。


 目の前にいる人は誰なのか、と。

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