そのチョコ、僕にくれるんじゃないの?!
初投稿です。
聖バレンタインデー、それは恋人同士が愛を祝う日。
今、僕の眼前で一組の高校生カップルが正にその祝福の日に青春を謳歌していた。
あどけなさの残る可憐な女子が照れながらも意中の男子に想い(手作りチョコ)を贈る光景。
本来なら祝福されるべきその光景は、僕にとっては世界の終わりのように感じられた。
チョコを手渡す女子の名は会田万里愛、何を隠そう…僕の想い人だ。
そして、チョコを受け取っている男子は内村悠人で、僕の幼馴染だ。
僕と会田さんとの出会いは高校に入学してからだ。
同じクラスの出席番号1番の僕と2番の会田さんは教室での席が前後同士という事と、同じ図書委員という事で知り合った。
そして、実は僕達が隣の中学出身で通学に同じ駅を利用している事も判り、登下校で一緒になる事も度々あった。
他にも二人共、読書が趣味であったり、誕生月が一緒であったり、共通点の多い人に親近感を覚えるという心理学的効果のせいだろうか。
僕達二人が仲良くなる事に、さほど時間は掛からなかった。
そして、この一年で、僕の中ではそれは明確な恋心へと変化していた。
だが、意中の女子と両想いだなんて、僕にとって都合の良い妄想に過ぎなかった。
僕がそうであるように、会田さんも僕の事を慕ってくれているなどと勝手に思い上がっていた。
思い返せば、彼女との話の中で悠人が話題に上がる事は比較的多かったと思う。
それは、会田さんが僕の友達である悠人に多少の親近感を抱いていたからだと思っていたが、それは完全に間違いだった。
彼女にとっての関心は専ら悠人であり、僕はそれを引き出す為の情報源に過ぎなかったという事だ。
なんという道化だろう。
気分が悪くなった僕は笑い合う二人を尻目にその場を走り去り、人生で初めて学校を早退した。
家に帰ってぼんやりしていると、会田さんと悠人から、僕の体調を心配する旨のメッセージがRAINで送られて来た。
返信するかどうか迷った僕だったが、己の狭量さを恥じ、一応は無難な返信をすることにした。
彼女達は悪くはないのだ。
自分の好きになった人に想い(チョコ)を贈り、そして受け入れられた…むしろ素晴らしい事じゃないか。
それを僻むような器の小さい僕などが、会田さんから好かれるはずが無い。
次の日、体調を崩した僕は学校を休んだ。
やはり会田さんと悠人から、RAINでメッセージが送られてきたが、昨日のような葛藤は起こらなかった。
二人の事は祝福したいと思う。
今は無理でも、その内に笑顔でおめでとうを言ってあげたい。
翌週、体調が良くなった僕は登校した。
たった四日間休んだだけなのに、土日を挟んだことから、かなり久しぶりに登校した気分になった。
だが、休み明けで呆けるわけにはいかない。
休んでいる間に己を見つめ直し、僕は一つの真理に辿り着いていた。
それは、想いを寄せられる人には人を惹き付ける魅力があるという事だ。
例えば超絶イケメンであれば、黙っていても女の子から言い寄られる事もあるだろうが、普通の人はそうはならない。
スポーツや勉強が出来たり、話が上手だったり、気配りが利いたり、他者に好かれる人には何かしらの魅力がある。
人を好きになる事に理由はいらないという言葉は、僕からすれば嘘だ。
人は感情的な生き物ではあるが、根の部分では案外合理的である。
つまり、本人が意識していなくても誰かを好きになるには何かしらの根拠が必要なのだ。
僕は変わりたい…誰かに好かれる人間になるんだ。
その決意を胸に、僕は残りの高校生活を送った。
月日は流れ、卒業を間近に控えた今日、2月15日。
二年前のバレンタインのビターな思い出の日から約二年が経っていた。
あれから僕は、人から好かれる人間になる為に努力をした。
生まれついた顔面偏差値はどうにもならないが、清潔感を保つ程度に身嗜みは整え、学業での偏差値も高水準を保った。
結果、先日のセンター試験は成功を収め、眼前には二年前とは似て非なる光景が広がっている。
頬を染め、想い(手作りチョコ)を差し出すその女子の視線は僕に向けられている。
会田万里愛、僕が好きだった女子だ。
一度は、親友の悠人と付き合う事になったそうだが、その後、直ぐに別れたらしい。
この光景が二年前であれば、僕は喜んで彼女の想い(手作りチョコ)を受け取ったであろう。
だが、今の僕にはそれを受け取る事ができない。
何故なら――
「ごめん。僕、彼女いるから。」
そう、2月14日の日曜日、つまり昨日。
僕に人生で初めての彼女が出来た。
一つ下の学年の後輩で、同じ生徒会に所属していて知り合った子だ。
わざわざ休みの日に僕の家まで来て、手作りのチョコレートとその想いを届けに来てくれたのだ。
嬉しかった。
人に好意を持たれる、認められる事はこんなにも満たされた気持ちになるのだと知った。
人は己が目指す人間へと変わる事ができる。
それは時に途方もない努力を必要とするかもしれないし、一生を費やすほどに時間が掛かるかもしれない。
それはまるで、甘いホワイトチョコのようであり、渋いビターチョコのようでもある。
甘いも苦いも好み次第だが、チョコレートである事には変わりはない。
そう、人生とは手作りチョコのようなものである。
―完―
…え?意味不明?ホワイトチョコは本当にチョコかって?
うん、分からん。
お目汚し、失礼しました。
少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。