65 ビアンカ 再びの危機一髪!
「……誰?」
私は手首に肉料理のカトラリーを滑り込ませ、両手のひらを上げました。
頬の金属は、
厨房の鋭い包丁でしょうか。
「綺麗な顔に傷を作りたくなかったら、騒がず、侯爵の金庫を開けろ」
え。
この声。
しわがれているけど、確かに……
「父の金が目当て?
エイブラハム」
そうです。
元夫。
いつ、入り込んだのでしょう。
「……後ろに目がなくとも分かるんだ。そんなに私たちは長く居たかな」
クックと嗤うエイブの口からは、すえた臭いがしました。
私は、そっと、ナイフが当たっていない側から、振り向きました。
ボサボサの頭。赤ら顔。
無精髭。
とろんとした目。
皮肉な口元。
……これは誰なのでしょう。私の知らない元夫の変わりように、声が出ませんでした。
それでも、シワがより、汚れたジャケットは、私が見立てた、あのシルバーのものでした。
「酔っているのね」
「あんたの兄さんのおかげでね。
しばらくは、飲み代には困らない」
ああ、やっぱり。
大兄様は、時計の対価に、相応の金を渡したんだわ。
「どこに住んでいるの?
そんなに酔って、大丈夫なの?」
その途端、頬が熱く弾けました。
「誰のせいだよ!
全部、全部、奪いやがって!
皆を不幸にしやがって、この毒婦!」
ナイフでなくて良かったわ。
私はぶたれた頬を押さえ、エイブの激高を眺めていました。
「容貌を隠して、私を騙した!
なのに、私を糾弾した!
公爵に嫁いで、何がしたかった?
ロックフォードを潰したかったのか?
私たちをあざけ笑って、本望だろ?
こんな私を見て、満足だろっ!」
ええ、そうよ。
人を呪わば穴二つ。
私とて、どんな目にあっても、というつもりで、貴方を追い詰めたのよ。
だから、傷つかない。
自分のやった事、棚に上げて、人のせいにできるおめでたい人の言葉なんかに。
エイブは、包丁
(やはり厨房のものでした。
肉切り包丁ですね)
をピタピタと、私の頬にあてて、
「このお綺麗なかお。
私のサインを付けてやろうか?
私のお古だと、恋人に分かるように」
「……」
「門はかんぬきが、かかっていたが、玄関は鍵がかけてなかった。
人の気配もない。
盗んでくれと、言ってるようなもんだった。
あれこれ物色していたら、
お前たちが、三階に」
私は鳥肌がたちました。
まさか。
私たちの行為をみてた?
「いやはや、あんたはやっぱり色っぽいよ。
昼間のあんたは、丸見えだ!
覚えのある身体をあんな風に見るのは、興奮したよ」
「……!」
目を見開いた私は、それでも、辛うじて表情を変えずにいました。
この、出歯亀!
……落ち着けビアンカ。
この男の欲しいのは、金よ。
「家の大金庫は、父しか開けられない。兄様達のも、同じよ。
使用人が絶えず出入りしているのに、用心しないわけないでしょう。
それを知らない貴方じゃないはず」
ふふん。と、エイブは鼻で笑って、
「脅す材料がないかと、書斎を探したんだが、侯爵家は締まり屋だなぁ。
なぁんにも出てこない。
鍵がかかった所ばかりでね。
……じゃあ、あんたの宝石でも、出してもらおうかな」
「……こんなマネして、無事に逃げられると思ってるの?」
「あー、思ってるね。
ここの使用人、今日は休みなんだろう?」
なんでそれを。
「田舎育ちの小娘なんか、下女に雇うからさ」
「……脅したの?」
くっくっく。嫌な喉の鳴らし方でエイブは、
「可愛がっただけだよぉ」
と、下卑た笑いをあげました。
「分かったわ」
私は頬の肉切り包丁を下目に見ながら、言いました。
「宝石はみんな、あげる」
「素直が一番」
「だから、仕事について。
真面目に生きて。
犯罪に染まらないで、お願いよ」
はっ!
エイブは、息を大きく吐いて一笑。
「あんたが説教?
盗人にしたのは、あんたじゃないか!
……同情?哀れみ?
それとも」
そして、私の腰に手を回し、
「私が、忘れられないんじゃないか?
なあ、アイツより、私の方が
ヨかったんじゃないか?」
「やめて!」
私は、刃を気にしながらも、手を離させようとよじりました。
「ブルなよ。
あんなに燃えてたじゃないか。
私は、あんたの身体、好きだったよぉ?
あんたもさ、私に抱かれるのが、好きだったよねぇ」
玄関ホールの長椅子に、私は押し付けられ、女中服の上から、まさぐられました。
「嫌っ!やめなさい!」
エイブは既に、ケダモノでした。
「コレコレ。
この身体だよ。
ほんと、フローラよりいい身体だったよ。
惜しいなぁ、寂しいなぁ〜」
「やっ!」
私の胸を揉みしだくうちに、異物に手が当たったのでしょう。
「何を隠して……ほおー」
エプロンの胸ポケットから、取り出したのは、懐中時計。
「……やっぱ、私が忘れられないんだね。
嫌だなぁ。だったら棄てなきゃいいのにさぁ」
ぽい、と傍らに時計を置いて、彼は、本格的に愉しむことにしたようです。
私のエプロンをとり、胸のボタンを外し、もどかしげに、引きちぎり、
「はぁ、この白い肌…」
フケの溜まった頭を私に擦り付けてきて、しまいには、スコートの中に手を入れようとしてきます。
(この野郎!
風呂にも入らないで、人に触るんじゃねえっ!)
そういう問題ではないのですが、その時にはそう思ったので、私も動揺してたのでしょう。
でも、両手が塞がって、包丁が手から離れたのが、チャンスだと閃くだけの理性はありました。
「さ……せ、る、かっ!」
私は、渾身の力で、手首から滑り落としたナイフを彼の手の甲に、
突き刺しました。
ぎゃあああっ!
という絶叫
程なく、私は再び頬をぶたれました。
何度も何度も。
「……こ、のっ!
この売女っ!
こうしてやるっ」
私の首に、血を垂らしたままの手のひらがかかり、
視界がぼやけました。
息が、
息が出来ない。
こめかみがズクズクと脈打ち、
頭が痺れます。
「お前なんか!お前なんか!」
力が更に込められて、
私は、ぼおっとしてきました。
ああ。死ぬんだわ。
(イングヴァルド……)
せめて最後に、彼を思って逝こう
(……?)
ふっ、と、身体が軽くなり、血流が戻り始め……
ぎゃっ!
という悲鳴の後に、
『呼んだか』
という、声がして。
私は、ブラックアウトしました。
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