46 ビアンカ危機一髪
……銃声。
独特の匂いに、私、ビアンカは、
(起きろ起きろ起きろ!)
と、自分に言い聞かせました。
遠くに歪んだ会話が聞こえます。
(あんた、こんな……
死んだの?)
(横っ腹だし、こんなドレスじゃコルセットに邪魔されて、即死にはできねー)
(死んで、ないのね?)
(あー、死にはしないだろ)
だれが?
ドレス?
重い瞼を何とか、薄く開けました。
にじんだ視界が少しずつはっきりしてきて……
………!
見覚えのあるドレス
絹の海の真ん中に横たわる女性
赤い……血。
……エマ!
エマッ!エマッ!
「おっ、お目覚めだ」
「……翠の目。
あんた、カフェの外国人ね」
フローラ!
え、どういう事?ここは?
何が?
私は、混乱しながらも、一刻も早く、自分を立て直さねばならないという直感に従い、努めました。
(馬車にエイブと乗って
走り出したら、
急に誰かに口を覆われて
嫌な匂い
それから糸が切れたように……)
そうか。
私は騙されたんだ。
父の事故なんて、嘘。
そして、誘拐されたんだ。
企てたのは、浮気女。
エマ。
エマは助けに来たのね
そして、返り討ちに……
酷い。
なんて酷い事を!
「医者へ……エマを」
カラカラの喉は、嗄れた声を発します。
「まだ、薬が切れてないだろ。
身体も動かないはずだ。
あんた、結構気が強いな
大した精神力だ」
黒眼鏡。
ああ、カフェの……
じゃあ、ここは、仮面パーティの館ね。
アンガスは、来ているかしら。
イーヴォは、居るはず。
時間を稼げるかしら。
それよりエマは……
「騙したのね!」
横からフローラが、言いました。
「地味なドレスと前髪眼鏡。
お綺麗な顔を隠して、
……みんなを騙して、
腹の中で、嗤ってたんだ。
嘲笑う私を見下して!
自分の方が、いい女だと、私を見て……
なんて、意地の悪い!」
彼女は、自分の言葉に苛苛しだして、
「この!」
と、遂には私の頬を何度も打ちました。
痛みも遠い。
まだ、覚醒していません。
「やめろ!」
黒眼鏡の一喝。
「きゃっ」
どさ、とフローラは突き飛ばされたようです。
男は私の頭を持ち上げ、
「まだ、眠いか。
そのトロンとした目付きも、艶っぽい。
……おい、マダム。
この女、俺が貰う」
私は人形のように、男に抱きかかえられました。
煙草の匂いがムカムカします。
「ちょっと。
約束したでしょ!
こいつを辱めて
写真に撮るのっ
あとは、どうとでもすれば?」
「バーカ。
そんな勿体ないこと、するかよ。
おっと、これ以上ぶつな。
価値が下がるだろうが!
傷つけんじゃない」
早く醒めろ醒めろ醒めろ!
動け動け動け!
その時、私の腰の辺りが、じんわり温かくなりました。
(……時計?)
エイブの時計。
持っていたのね
エイブが傍に。それも至近距離。
そして、エイブが目覚めたのを時計が知らせてる……
「エイブ!」
思ったより声が出ました。
「う……」
呻き声が。そして、
「ここは?
フローラ……」
エイブの声!
「助けて!エマが!エイブ!」
私は思わず叫びました。
あんな男でも、居ないよりはましです。
じたばたと何とか手足を動かしますが、男の手が私を押さえつけます。
腕の合間から、寝台から起き上がった姿が見えて、
「フローラ、ここは?
これは一体。
え、血、怪我を
何、何なんだ」
困惑するエイブに、床からフローラが、
「貴方の方が、薬は弱かったのね、エイブ
貴方が悪いのよ。
あんな女を選ぶから」
と言って、喉で嗤っています。
「そのドレス……
もしや、ビアンカ?
ビアンカなのか?
髪……
顔?えっ、どういう……」
混乱を正直に呟くエイブに、これは無駄かも、と、思いながらも、
「エマを……エイブ、
早く手当を手当を」
と、繰り返しました。
「気が強くて、別嬪で、しかもこの身体……胸と腰へのこの差はどうだ。
あんたなら、東の王の後宮に売れる。しかも、法外な値段で」
「嫌!離して!
エマッ!エマの傷を!早くっ」
男は、じたばたしている私の髪を引っ張り、顔を上げさせました。
「……見れば見るほど……
惜しいな。
妾妃に仕立てる前に、俺が味見するか」
「何やってんの!エイブ、早くっ!私は良いから、エマを」
「……本当に、ビアンカなの?」
「そんな事どうでも良いでしょ!
貴方も私もコイツらに、やられるのよっ!
早くっ!」
「やられるの意味が、あんたには、違うけどな」
男は、私のドレスに手をかけました。でも、残念。脱がせにくいくるみボタンに難儀しています。
おまけに、私が次第に元気よく、抵抗するので、余計に。
「エイブ!」
私は夫に懇願しました。
と。
腰の時計が、じわっと冷えていきます。
(恐れ……)
夫は、妻が他の男に組みしだかれかけ、妻の侍女が血溜りに横たわっているのに、
怖がっている。
何処まで、使えないのっ
「元気がいいのも、大概に」
男は、私の上に乗り、下半身を押さえつけ、手首をまとめてねじ上げて。
「その口、塞いでみるか?」
と、私の顎をとりました。
悪寒
男の顔が近づいてきて、
私の、私の、唇が……
(いやぁぁぁぁっ)
その時です。
固く目を閉じて、顔を背けようと努めていた私の上から、重みが無くなったのです。
(えっ)
「グエッ」
恐る恐る目をあけると、眼前に白い民族衣装。
『私の唯一に手を出すな』
広い背中。
黒い髪を束ねる朱色の紐。
イング……ヴァルド?
私の思考が回転しました。
『殿下!銃を持ってます!』
『名前を』
『イングヴァルド!』
『よし』
彼は、低い姿勢に沈み、体勢を建て直しかけた黒眼鏡の顎に、アッパーをお見舞いし、そのまま流れるように、男の腕をねじりあげながら、身体を回転させました。
銃がゴトリと落ちる音と、ゴキリ、という鈍い骨の音がして、
ギャアアアアア!
という絶叫が。
すぐさま王子は、黒眼鏡を床に投げ捨て、エマの上半身を起こし、横腹の銃創をみて、自分の袖を引きちぎって、傷口に巻き付けました。
「……あ、あ、あ」
言葉にならずに、かたかたと震えているフローラは、膝で這って、入口へ向かおうとしました、が。
開いた扉から、
「ビアンカーっ!」
「ちぇっ、先にやりやがった」
と、どやどや入ってきた男たちを見て、
ストン、と、諦めたようでした。
「中兄様……イーヴォ……」
「被害者の身柄確保!
夫妻は無事
侍女は、重症!」
中兄様は、硬い声で、扉の外に伝えます。
それでも、私を見て、大きな息を吐きました。
制服達が、次々と、伸びている黒眼鏡や、巨体男、喚くフローラを拘束して、出ていきます。
「広間は、大掃除しといたぜ!
エマが石を置いてくれたから、ここを発見したんだ」
イーヴォが、得意げに言った後、
直ぐに真顔で、エマを抱き上げました。
「悪いけどビアンカ。
俺、医者に急ぐよ。
その殿下とやらに、任せるから」
イーヴォは、そう言って、背中を見せました。
(流石イーヴォ)
私は、安堵し、そのせいで、脱力しました。が。
倒れる事はありませんでした。
硬い腕が、私を支えてくれたのです。
さらり、と、黒髪が流れます。
微笑む王子。
『どうやって、ここに?』
何故、夜会に来たの?
どうして私がここに居ると。
私の危機をどうやって。
『時計が呼んだ。
お前を見つけろと、騒いだ。
だから来た』
『殿下』
ああ。時計。
本当に、私の時計が、王子の時計に知らせたのね。
私はここだと。
そして、躊躇なく、彼は私を救出に。
『お前はおかしな女だ。
身体をまさぐられるよりも、唇を奪われる方が、嫌だったのだな』
そんな事を真顔で、ずけっと言うので、私はこの状況なのに、カチンときました。
『悪かったわね。
まだ、唇は、誰にも許してないの!』
思わず本音を漏らしてしまうと、
彼は、目を見開いた後、
くっくっ、と笑いました。
笑うとこ?そこ!
彼は、しばし笑ったあと、私を抱いたまま、
女性のファーストキスは、重みが違うと聞いたことがあるな……
と、呟いて、
『助けた褒美をくれないか。
私の唯一』
と、
どストレートに尋ねました。
『……』
彼は、じっと私の目を見つめます。
その表情が、艶っぽくて、
私は、恐怖と違う鼓動の速さに、戸惑いました。
無言に諾と、捉えたのでしょう。
彼は、顎を取った長い指を私の唇に当てました。
じん
と、私に何かが、流れ込んできます。
『殿下』
『名を』
『イング……ヴァルド』
ついに、私は、目を閉じてしまいました。そして、
(私の唯一)
という、甘い声と共に、私の時計が喜びに震えました。
柔らかな二つの重なり。
こうして、
私、ビアンカ・ロックフォードは、
夫、エイブラハム・ロックフォードの目の前で、
イングヴァルド・デル・オムル第二王子と、
ファーストキスをするという、
近年稀に見る不貞をやらかしたのでした。