36 地味女 王子の境遇を知る
それからというもの、公爵別邸は、賑やかでした。
「行ってらっしゃいませ」
夫を送り出すと、
「おっはようございまーす♡
アールせーんせー!」
と、
義妹の声。
バシ!
「ひっ」
「淑女らしく!」
「ご、ごきげんよう」
「義姉にも!」
「ごきげんよう、お、お義姉さま」
「はいはい、御機嫌よう。
さあ、レポート2つ、仕上がったわ」
「…どうも」
ピシーッ!
「ありがとうございました!
おねえさま!」
「よし。
今日はこのレポートの音読からだ。
音読50回!」
「ひいいいっ♡」
心なしか、悲鳴に悦びが、混ざってません?
そして、勉強部屋は、
ピシーッ
(いやぁ♡)
バシッ
(ごめんなさあい)
という応答が続くのです。
それから、二階では、
「むり!無理無理無理」
「いけません!ビアンカ様は、ちゃんとなさっています!」
「こんな気持ちいいこと、どうしてでしょう」
「ひぃ、いひひひ……」
ああ、オイルマッサージですね。
エマは、超くすぐったがりですからね。
でも、磨き立てて、上物淑女に仕上げないと。潜入捜査のアンガスは、メンクイですし。
「デコルテと背中のシェービングもしてあげて」
「あ、ビアンカ様っ、そんな」
「「おまかせ下さいませ!」」
ひいいいっ
ぐあぁぁあ
阿鼻叫喚ですわね。
1階も2階も。
私は自分の書斎で、紅茶を頂きました。
すると、
「ビアンカ様。
ご実家のアレックス様でございます」
とのタウンゼントに、驚きました。
平日の、しかも、こんな午前中に。
大兄様は、嬉しそうに私を抱いて、
「はあー。こないだは独り占め出来なかったからー」
と、くんかくんかと、香りを楽しんでいます。
私が香水に目覚めたのは、この兄が匂いフェチだったせいも、あるのですよね。
「人払いできる?」
「では、庭に」
私は大兄様を庭に誘いました。
「いい庭だ。
公爵別邸が生まれ変わったと、評判だよ。兄としても誇らしいね」
香りが邪魔しあわない花の配置が気に入ったようでした。
で?
「……王子の話なんだが」
ええ、そうでしょうね。
「イングヴァルド・デル・オムル。
いわゆる北の国の第二王子。
御歳22
優秀過ぎて、国を出た方だ」
お察し。
第一王子が、焦っちゃうわね。
「10の歳から、帝国に留学。
帝国を拠点に、様々な国に短期留学。
見聞を充分に広め、各国との繋がりを作った。
大学を卒業と同時に、国の重職に就く予定だったが」
そうはいかなかった……
「ああ。
帰国直前に、彼の兄、第一王子に事件が起きた。
突然、興奮した馬から落ちた。
幸い、脚の怪我だけで、命に別状はなかった。
あれこれ取りざたされたが、挙句、醜聞が再燃したのだ」
「醜聞?」
「第一王子派が、動いた。
オムルのような北方の国は、色素の薄い者が多い。
しかし、イングヴァルドは、黒髪。瞳こそは、銀だが。
それまで王家に、黒髪は居なかった」
王妃は不貞を疑われたのね。
「誕生の時に、そのような声が上がったのは事実だ。
けれど、係累を辿ると、王妃の遠戚に外つ国の姫がいてな。
外つ国の血ならば、黒髪であってもおかしくはない」
ああ。
デボラ王太后
ジェイ国王も、
髪色は黒だわ。
外つ国では、珍しくない色。
「それで当時、不快な醜聞は絶たれたはずだった。
しかし、成人した王子が正式に帰国、となると、都合が悪い者が居たのだろう。
王妃は、不貞の子だから、自国で育てられなかったのだろう、と」
「酷い」
「そして今更、国に帰るのは、異国と手を結んで、国を乗っ取るつもりだろう、と。
帰国直前に、王子が落馬されたのは、第二王子の手によるのではないか、と」
「矛盾してるわ。
優秀だから疎んじられて、諸国で過ごしたのに、
そのおかげで、更に優秀に育ったから戻るな、なんて」
「跡目争いなんて、そんなものだ。
そして、そもそも疑われること自体、問題である、と、王妃を責める者が現れ、王妃は二人の息子ためと、沈黙で否定した。
それが仇となったのか、
ある日、王妃は自室でお倒れになった」
「ご病気?」
「いや」
アレックスは、四阿に入り、私に手を貸してくださいました。
「お健やかだった。
突然の病は、薬を盛られたというのが真相だろう。
今、王妃が御隠れになれば、
醜聞の信頼性が増したろうな。
王は凡庸で、王妃に頼っていた。
嫡男も、父同様で、傀儡にするには都合がいいハリボテだったから」
「それで、イングヴァルドは?」
「母親を危うくしてまで、祖国には帰れない……と。
帝国が亡命しろ、と誘っている。一応、今は、王妃の采配で、オムルの国王の名代として、諸国を来訪しているが、兄が立太子すれば、お払い箱だから」
そんな境遇だったの……。
時計。
彼は〈湖畔の館〉を懐かしそうに見つめていた。
彼の、祖国への愛情だったのだ。
どこをさまよっていても、
心は祖国に還る
そう思っている彼は、その祖国も失うのかしら。
「ここからが本題なんだが」
コホン、と、大兄様は勿体ぶって、
「ビアンカ」
「はい」
「彼は、本気だ」
「はい?」
「あれは、とんでもなく意思が強い。
お前を運命のひとだと、言ってはばからない。
人妻に関わるのは、倫理に反すると、私が文句を言っても、馬耳東風」
あー、目に浮かびます。
「ビアンカが公爵家で、幸せになるのなら、何を世迷い事を、と、一笑して、彼を帝国に送り出せたのだが、
お前が、ここでは、幸せになれそうにないと思うと……」
大兄様は、悩ましげに、
「分からなくなってきたのだよ。
お前の幸せが、何なのか。
先日のエマとお前の言葉は、かなり刺さった。
だから
お前が離縁するなら、私は王子をとめられない。
だから」
「だから、私の幸福は、私が決めます。アレックス兄様」
私は、大兄様の頬をそっと触りました。
アレックスは、もういい歳なのに、恋人も作らず、ひたすら兄妹と家のために力を尽くして下さっています。
「大兄様。
どうぞ、見守ってくださいませ。
王子のことも、そっとして差し上げて。
彼は、私が決着をつけない限り、私にどうこうなさいませんから」
「ビアンカ……」
「それより、大兄様
私は、大兄様もお幸せになって頂きたいわ。
好ましい方、愛しい人を早く、このビアンカにも、引き合わせてくださいませ」
頬を触る私の手のひらに、兄は、そっと口付けました。
「……お前を物差しにすると、どの令嬢も、物足りなくて、な」
「お兄様を物差しにする、私の方が、大変ですのよ?」
そんなやり取りで、クスクス笑う私を眩しく見る兄は、
「……了解したよ、ビアンカ。
私は、動かない。
見届け役に、徹するよ」
と、言って、再び私を抱きしめました。
兄の、紫の花の香りは、私を安らいだ気持ちにさせてくれました。