19 地味女 絡まれる
『どなたでございましょう。
このような仕打ちに合う程の、ご面識はございませんが』
私の北の言葉に、
男は、ほう、と一言漏らしました。
「奥様、後ろに!」
と従者が庇いますが、そこはビアンカですもの。
『お返しします』
と、私は林檎を手渡そうと歩み寄りました。
食べ物を投げる訳にはいきませんし、ここは王宮ですからね。
近づくと、男の身なりが、中々上等だと分かりました。
ローブに近い衣装は、銀色のシルク。生地に地模様が織り込まれており、襟元は金糸で複雑な文様が描かれております。
男は、美しい瞳で私を睨み、
ニヤ、と、笑って
『流暢な敬語だ
何ヶ国語ができる?』
と、言ってきました。
『だから、どなたでございますか』
差し出された手のひらに林檎を乗せると、ぐい、と私の手は林檎ごと引っ張られました。
『何ヶ国語だ』
近づいた男の顔は、瞳以外も、魅力的だと分かりました。
その瞳は、前髪と眼鏡で覆った私の目を見つめてきます。
『……大陸の国の数は』
根負けして、私が答えると、
ははっ!と短く笑って、
「気に入った」
と、言い、くい、と私の顎を持ち上げました。
「肝の据わった才女。
肌も鼻梁も唇も、見れば美しいではないか。
そなたの瞳、見てみたい」
何なの?エラントの言葉話せるじゃん!
私は、逆手で男の手を払い、捻り上げました。
「どなたでございましょう!」
いたたた、と言いながら嗤う男は、
「イングヴァルド」
と、名乗り、逆に私の腕を回して、
手の甲をとり、
ちゅ、と口付けて、
『またお会いしましょう』
と、軽くキザな礼をして、東宮の方へ去って行きました。
「ビアンカ様!
大丈夫でしたか」
従者は、ポカンと立ちすくむ私に、申し訳なさそうに案じています。
貴人じゃ、手を出せなかったようですね。
(……何、あれ)
イングヴァルド……。
「北の国の客人でしょうか。
失礼な方です。
兄に苦情を入れましょう」
私は、今頃になって、腹が立って来ました。
私は〈今度会ったら殴ってやりたい〉人リストに、記憶しました。
勿論、リストには、女スパイが載ってますよ?
「ビアンカ〜〜〜!
少し痩せたかい苦労してるんじゃないかい虐められてないかい家にこのまま帰りたくはないかい」
大兄様。ちい兄様と、同じ応対です。何処で返事すればよろしいのですか。
「大兄様、ご息災で何よりです。
お父様も、ご壮健ですか」
「叩いても死なん。
全く、宮中の仕事は皆、私に移譲して苦しめている」
クスクスと笑うと、兄は、気を良くしました。
「今日は、付き合ってくれてありがとう。
夫は、快諾したのかい?」
「快諾も何も……ご多忙でお帰りにならないのですもの」
「ロックフォードが?」
「ええ。
四日ばかり、宮務所に詰めると。
先程皆様に差し入れをお持ちしましたが、今日は、外回りで、会えませんでしたわ」
これは、私の賭けでした。
宮中内の事情に通じる兄に告げれば、真実が判ると考えたのです。
「宮務が、そんなに?
……ああ、陛下の生誕祭が近いか。
成程ね」
私は内心、ほおっとしました。
どうやら、仕事が詰まっているのは本当のようですね。
「外回り、か。
市中の警備の担当なのかな。
彼、若手だから、動く仕事が回って来るんだろう。お前も大変だね」
私は表情を崩さず、脳内で、ガッツポーズで踊り狂いました。
ひゃっほー!
エイブ、貴方は、シロです!
おめでとう!
「おかげで、大兄様とデェトできますわ」
「言うようになったね。
流石、人妻だ。
さっ、参ろうか」
兄は、私が上機嫌なのを察して、エスコートして下さいました。
うふふ。
同僚女子官僚と、覆面捜査の線は、残りましたね。
警備対象となるか、ついでにお茶して……って流れで。
そうですか、陛下の。
舅は、王家への祝いをどうなさるのでしょう。エイブは、なさらなくても良いのかしら。
馬車寄せに着いて、乗り込もうとした時、
『何処へ?帰りか?デュラック』
と、呼びかける声がしました。
え。
北の言葉……
『ああ、イングヴァルド様。
如何されましたか』
やっぱり。
男は先程と同じ異国の服装です。
異国の……貴人。しかも、兄が年下に敬称をつける程の。
『何処へ?』
『……オペラです』
『そちらのご婦人と?』
兄はきっと、内心舌打ちをしているでしょう。私を紹介せざるを得ない状況です。
『デュラックの妹にして、ロックフォードの妻、ビアンカにございます』
私が自分で名乗り、礼を取ると
『ほう。
そなた、
人妻であったか』
と、返しましたので、兄が目を剥きました。
『……ご面識が?』
『何、林檎をやり取りしただけだ。
デュラック。私も行きたい』
なんだとお〜
私と兄は、心でシンクロして、同じ言葉を浮かべていました。
男は、ふふん、と偉そうに、
「エラントの言葉くらい聞き取れる。連れて行け」
と、のたまいます。
兄は、明らかに嫌そうに、
『それは、ご命令ですか』
と、北の言葉で返しますが、
「友人として、誘え」
と、命令してきやがりました。
で。
私たちは、三人で、オペラハウスのボックス席にいるのです。
「ビアンカ」
この厚顔男は、何で私の名前を呼び捨てにしやがるのでしょう。
「ビアンカ」
『何でございますか』
『明日、林檎を取りに来い』
『無理でございます』
『東宮にいる』
『無理でございます』
そんな不毛なやり取りで、隣のアレックスは、イライラしています。
私とのデェト、兄は楽しみにしてたのにぃ。
私も、夫への疑惑が少し晴れて、軽い気分で、兄と過ごせたのにぃ。
男は、やはり北の国、オムルの王子だそうで。
父王の名代として、ジェイ陛下の祝いの為に滞在しているのだと。そして、外交が主たる役割の兄は、世話係兼友人、と言う訳で。
『デュラック。お前の妹が、つれない』
『……少しは、鑑賞なさったら。
俳優達が可哀想ですよ』
そう兄が言うと、大人しくなりました。
オペラは素晴らしい出来で、プリマドンナのソプラノが、絹糸のように繊細なのに響き渡って。
アリアは絶品。
引き込まれた私は、両隣の男たちを気にする事無く、楽しめました。
幕間の休憩に、ホールでシャンパンを頂いている間、私はイングヴァルド王子を無視して、兄と俳優の素晴らしさを称えておりました。
(あの長身の殿方は、どなた?)
(ご一緒にいるのは、アレックス・デュラック様じゃない?
相変わらずの美丈夫ね。
お2人並ぶと、壮観だわ)
周りのご婦人方の声って、ほんと、聞こえるものですね。
(連れは、例の妹さんか)
(相変わらず地味だね)
(兄達が、華やかさを吸い取ったんだろうね)
訂正。
殿方の声も、聞こえるものですね!
「おお、デュラックのご長兄!
本日のご観劇でしたか
奇遇ですな」
唐突に、野太い声がしました。
振り向くと、そこには、小太りな中年の紳士と、
柔らかな金髪の淑女が居ました。
金髪碧眼の、淑女が。