真っ赤な薔薇とクリスマス
今日はクリスマスイブ。
でも、今年は特別な年。例年ならば街には手を繋いだり腕を組んだり、最も苛立つのは肩を抱くように寄り添った奴等だ。そんなカップルも今年は疎ら。浮かれて騒ぎまくる若者グループもいない。
煌びやかなLEDランプで着飾った街路樹も、どことなく寂しげに佇んでいるように見える。
そう、それは今年の初めから続くCOVID-19、つまり新型コロナウィルスの所為だ。外食産業には時短営業、市民には不要不急の外出自粛要請が出されている。そんな中でも街に繰り出している人達がいないわけでは無い。現に僕の目の前を歩いているカップルの女性の手は、彼氏のポケットの中にある。きっとあの中でしっかりと繋がれた指と指が、互いの体温と愛情を確かめ合っているのだろう。
僕の横を追い越して行ったサラリーマン風の男が、横に並んで歩くカップルに道を塞がれ、苛立っている。少しだけ身体を斜めにしながら、わざとらしく肩を女性にぶつけ、マスクの中でくぐもった声で「失礼」と呟きながら通りすぎていった。
サラリーマン風の男が発した『失礼』の言葉は、『失礼しました』では無く、『失礼な人達だな!』なんだろうな。そんな事を思い僕はマスクの中の頬を緩ませた。
例年の華やぎを失った街をひとり歩く僕はと言えば、恒例行事と化してしまったこの日のために、赤い薔薇を一本携えていつもの店に向かっている途中だった。
コロナ渦といえども、恒例化してしまったこの日の行事は欠かすことが出来ない。一人で行きつけのBARに行くだけだ。行きつけのBARは感染予防に気を遣っているし、いつも客の少ない店だ。そう言い訳をして家を出た。そうまでして外出をしたのは……。
あれは今から二十年も前の話になる。その頃の僕はまだ若かった。とは言え、既に三十路を目の前にしていた頃だったが、会社ではやっと中堅の仲間入りをしたばかりだ。まだまだ経験豊富な先輩達が社内の実権を握ったままで、僕など『ひよっこ』扱いをされていた。そのくせ業務だけは先輩達と同等。時には「若いんだからまだまだ頑張れるよな」なんていう言葉で、僕のキャパシティを超える量の仕事を割り当てられる。無理ですなんて言えるような雰囲気は微塵も無い。
当然のように重くのし掛かるストレスに押し潰されそうな毎日だった。
あの日もクリスマスイブだった。世間の華やいだ雰囲気などとは無関係で、正月休みまでの数日で溜った仕事を終わらせなくてはならない。そんな重圧に耐えきれずに夜の街へと逃げ込んだのだ。
行く当てが有ったわけではない。唯ふらふらと街を彷徨い、曲がったことも無い小径へと足を踏み入れた。その小径を抜けた裏道にその店は有った。
妙に重厚な木製の扉は、ここが店舗であると言うことさえ気付かせないような作りだったが、その扉には「BAR Happiness seed」というプレートが取り付けられていた。
どうやらBARらしい、しかし……、
そうは思ったものの、ストレスという重圧に屈しそうな僕にとって、それ以上に危険なものなどあり得なかった。幸せの種という店名にも惹かれたのだろう。この扉の向こうには僕の知らない夢の世界が待っているような気分になっていた。
僕は木製の扉を押し開けて、見知らぬ世界へと足を踏み入れたのだ。
店内は重厚な木製扉の割には、さほど高級そうな雰囲気も無く、かといって場末のうらぶれた雰囲気も無い。ある意味可も無く不可も無くと言った感じだった。
カウンターのみの席には、まだ客はいなかった。僕よりも少し年上と思われるバーテンダーがグラスを磨きながら、呟くように「いらっしゃいませ」と言った。彼にとって僕はグラスを磨くことを阻む以外の何者でも無いような対応だ。だからと言って敵視する訳でも無い。ただ単に全く興味が無いといった感じだ。
バーテンダーが席を案内するわけでも無いので、一瞬躊躇した僕は一番落ち着きそうな最深部の席へと進んで足高のカウンターチェアに腰掛けた。
それが合図だったようにバーテンダーが、おしぼりを手に僕の目の前にやって来た。しかしなんの言葉も無い。僕はこの僅かな沈黙にさえ耐えきれ無かった。
「バーボンをロックで」と言った。
「銘柄のお好みは?」とバーテンダーが応じる。
「特にない。適当な奴を……」
「かしこまりました」
僕は一瞬、まずかったかな? そう思ったが、たかだかバーボンだ。そんなに高価な事はあるまい。自らを納得させるように呟き、バーテンダーの後ろ姿を見送った。
間もなくバーテンダーは、ラベルに赤い薔薇の花が描かれたボトルを手に、再び僕の前に立った。
「フォアローゼズです。こちらでよろしいでしょうか?」
このラベルなら見たことがある。酒店でも比較的安い酒だ。安く見積もられたかな? と言う思いと、安価で済みそうだと言う思いを交錯させながら頷いた。
僕の目の前にはフォアローゼズの注がれたグラスが置かれた。この酒とこんなに長い付き合いになるとはこの時は思ってもみなかった。
客の来ない店内で、小一時間ほどグラスを睨み付けるように、ちびちびと啜っていた時だった。木製の扉が開き、ひとりの女が入ってきた。真っ赤なコートがサンタクロースを思わせる。女はコートを脱ぎもせず、僕からひと席離れたところのカウンターチェアに腰掛けた。常連の様で、バーテンダーが目の前に来る前に「フォアローゼズをロックで」と告げた。バーテンダーはおしぼりを彼女の前に置いて、何も言わずにグラスに氷を入れてフォアローゼズを注ぎ女の前に置いた。
バーテンダーは一言も語らずに、グラス磨きへと戻っていった。
女はコートを脱ぎながら、僕を見て軽く会釈する。僕はと言えば、コートの下にも真っ赤なワンピースを来ていることに驚いた。さすがにミニスカサンタのコスプレでは無かったが、僕は彼女の顔を無作法に見詰めてしまっていた。
「あらやだ、私の顔に何か付いている?」
僕は慌てた。慌てながら口をついて出て来た言葉にまたしても慌てる羽目になる。
「いや、真っ赤なコートの下も真っ赤なワンピースなんだなと思って……」
女は笑顔を見せながら立ち上がり、まるで新しいドレスを買ってもらった少女の様にクルリと回転してポーズを決めた。
「サンタクロースみたいで良いでしょう? せっかくのクリスマスだから真っ赤にしてみたんだけれど、どこにも行くところがないのよね。情けないけれどね」
ちょっと悲しげな女の笑顔が美しかった。
「あなたも行くところがないの? 寂しい人なのね」
酷い言葉だが不快では無かった。彼女の屈託の無い笑顔が、僕の心の疲れ切った部分に優しく触れたような気がした。
心地いい。
グラスを睨み付けていた苦い時間が、まるで別世界のような至福の時間へと変貌したのだ。
「真っ赤なコートとワンピース、素敵ですね。まるで僕に楽しい時間という名のプレゼントを持ってきてくれた、サンタクロースみたいで……」
彼女と話をする内、押し潰されそうだった僕の心は次第に癒やされて行った。その日から僕の毎日が変わった。明日というものが苦痛でしか無かった僕に、明日が来る喜びを与えてくれた。彼女はまさにサンタクロースだったのでは無いかと思った。
それから僕のBAR通いは続いた。彼女と会える日は少なかったが、彼女はいつも僕に癒やしの時を与えてくれた。彼女はいつも楽しそうだった。
それから一年が経った。またクリスマスイブがやってきた。僕は今日もこの店に来ている。また今日も彼女に会えること期待して。
彼女を待つ内に午前零時を回った。
彼女は現われない。
午前一時を回った。
やはり彼女は現われない。
僕は諦めて店を出た。
寒い夜だった。
白い雪がクリスマスの夜に舞い落ちていた。
年が明けて新年会の後、僕はまたあの店に向かった。今日こそは彼女に会えるのではないかという期待を胸に、「BAR Happiness seed」の木製扉を押し開けた。いつものように最深部のカウンターチェアに尻を乗せると、バーテンダーはおしぼりを手に僕の目の前に立った。
「フォアローゼズをロックで」
彼は注文に頷くと僕に背を向けた。その背に何か不穏な気配を感じたが、僕は彼女が入ってくるかも知れない木製扉へと視線を移していた。
直ぐにフォアローゼズのロックを持って戻ってきた彼は、グラスを置きながら口を開いた。
感情を押し殺したような声で、淡々と……。
「彼女、クリスマスイブに天国へと旅だったそうです。自殺だったと聞いています」
僕は唖然としてバーテンダーの目を見詰めた。唐突な訃報に驚いた。そして彼は、僕の知らない彼女の話を始めた。
彼女は絵本作家だった。僕はそんな事さえ知らなかった。絵本作家と言っても、有名な作品も無ければ、大きな賞を取ったことも無い。素人に毛が生えた程度の作家というのが彼女の立ち位置だった。当然のことながら、絵本の収入ではとてもじゃないが喰っていけない。収入の大半と言うより、ほぼ全額をライターという仕事でひねり出していた。ライターと言う仕事がどんなものなのか? 僕には皆目見当が付かなかったが、バーテンダー曰く、記者が書いた原稿を記事として載せられるように書き直すのだそうで、当然記事に名前が載るようなことは無い。媒体のほとんどは三流週刊誌やフリーペーパーのような冊子。収入も知れているという事だった。
彼女には付き合っている男がいたらしい。そして、その男には妻子が有った。つまりは不倫関係だったわけだが、彼女は男に妻子がいることさえ知らなかった。付き合いも長くなればそのくらいは気付きそうなものだが、彼女は全く気付いていなかった。ピュアと言うほどの歳でも無いだろうに、男のずるさにすっかり騙されていたのだ。まるで世間知らずの少女のように。
彼女が男の素性を知ったのは、一昨年のクリスマスイブ。そう、僕とこの店で知り合った日だった。
真っ赤なワンピースの上に真っ赤なコートという格好で、師走の寒空の元、男の勤め先の前で待っていた。サプライズのつもりだった。仕事終わりに職場から出てきた男が彼女を見て、驚きの後に見せる笑顔まで想像しながら。
男が出てきた。彼女が駈け寄ろうとしたとき、「パパ~」と言う声と共に、男に飛びつく五歳くらいの女の子が目に入った。女の子を抱き上げた男は近付いてくる女性に優しそうな視線を向けて微笑んだ。それが男の妻子である事は直ぐに解った。彼女は踵を返して歩き始めた。彼女の視界は涙でにじんでいたが、涙でにじむイルミネーションは、今まで彼女が見た中で一番綺麗な輝きを伴っていた。
彼女はイルミネーションで飾られた街を歩いた。涙が涸れるまで歩いた。そして、まるで海に落ちた椰子の実が見知らぬ海岸に流れ着くように、彼女はこの店に流れ着いたのだ。
常連客だと思ったのは僕の勘違いだったようだ。そんな事さえ今更知った。僕はなんて無神経で鈍い男なんだ。その上、傷ついた彼女に癒やされていた大馬鹿者だ。
その時の……、それ以降の彼女の窮状に気付いていれば、彼女は今日もここに現われたのでは無いだろうか? 僕なんかに彼女の苦しみを癒やしてあげることは出来なかったかも知れない。それでも……、僕にだって何かしらは出来ただろう。……多分。
今となっては彼女のために涙を流すことしか出来ない。なんと情けない男なんだ、僕は……。
落ち込んでいる僕を見て哀れに思ったのか、少しでも力付けようと思ったのか、バーテンダーは僕から視線を外し、まるでそこに彼女が居るかのように何も無い空間を見詰めながら付け加えた。
「フォアローゼズの名前のいわれを知っていますか? あの名前には『二人の出会いを永遠に』という願いが込められているそうです。あなたと会っているときの彼女、とっても楽しそうでしたよ。それと、あなたと知り合ってから彼女、絵本を書いていたそうです。遺作みたいな形になってしまったけれど、近々出版されるそうです。タイトルは『少年と赤い薔薇』だと、知り合いの編集者が言っていました」
僕はフォアローゼズのラベルに描かれた真っ赤な薔薇を見詰めていた。初めて会った日の彼女を見詰めたように……。
あれから二十年と言う歳月が流れた。バーテンダーは僕の持ってきた一輪の真っ赤な薔薇を、フォアローゼズの空き瓶にさしてカウンターに置いてくれた。
僕はいつもこの店のこの席に座り、真っ赤な薔薇のような彼女を思い、真っ赤な薔薇をラベルに描いたフォアローゼズを見詰めている。
何も出来なかったあの頃の自分を恨みながら、あの日の二人の出会いが永遠であった事を証明したくて、フォアローゼズの注がれたグラスと会話する。
永遠に君を想うために……、僕は今日もここに座っている。
ある日突然
この世にあなたが居なくなったら
誰が悲しむでしょうか?
家族? 友だち? 恋人?
確かにそうでしょう
しかし、
あなたが気にもしていなかった人
あなたが想像すらしなかった人
そんな人達も心を痛め、悲しむのです
この男のように……
お読みいただきありがとうございました
よろしければ、
感想欄に一言だけでも書いていただければ幸いです