現実逃避の何が良いのか判らない!
少々の重さを感じる音が、扉の向こう側で鈍く鳴った。
俺は構わず、手にしたスマートフォンを慣れた手付きで操作していく。
今は食事よりも、こっち。
すぐに一階へ戻ればいいのに、母親という邪魔な存在がノックして来た。
当然、うるさい。控え目に恐る恐る的な叩き方が、特に。
大体は俺を放置して食事のみ運んで立ち去る。
だけど、こうして時折、俺に接触を試みたりする。
それが、俺を堪らなく苛立たせるとも知らずに。
「ねえ、ひーくん。今夜はひーくんの好きなオムライスにしようと思うんだけど」
櫻雛罌粟。
冗談みたいな本名。
俺がまだ無邪気に学校へ行っていたガキの頃、テストの名前記入でどれだけ苦労したか。
それに、オムライスが好きだったのも、その辺りまでだ。
いつまでも俺が成長していないと、思っているんだろうな。
そりゃ、八年も顔を合わせていないんだからそう感じるか。
「ひーくん。顔だけでも、見せて。おかあさん、ひーくんの力になりたいの」
うるさい。
啓発本でも朗読されているかのようだ。
胡散臭い言葉を平気で並べて、俺の世界を否定してくる。
つい目を離してしまったスマホの画面へ意識を戻す。
今、人間が飛び降りるところなんだ。
「御願い、ひーく……」
「おかあさん、何してるの」
通りの無駄に良い、勝ち気な声。
俺の姉貴である女が、戻ってこない母親を回収に来たらしい。
早く持ってけ、と言いたい。
でも声を出すことも嫌だったので、俺は溜息を小さく吐き捨てた。
少しだけ争うような、それか諭すような遣り取りを繰り広げる。
その後、足音が階段を降下していく。
やっと、消えた。
俺は安心して、立ち上がる。
布団にスマホを投げ捨てた。
記入されているのは、最近更新されたオンライン小説サイトの注目作品。
またひとり、異世界とやらに転生したらしい。
朝食を扉の隙間から寄せて持ち込む。
苺ジャムを塗ったトースト。
チーズの練り込まれたソーセージ。
果物が入っているヨーグルト。
それから、オレンジジュース。
「量が少ねぇよ、クソババア」
叩き付けてやろうかと思ったが、希少な食糧を自ら台無しにするのもアホらしい。
結局、カーテンをしたままの薄暗がりで、俺は飯を食らう。
食べながらスマホを操作。
コメント欄に直行。
「んーと。……こんなもんか」
現実逃避の自己満でしかない、と綴った。
きっと、作者が見たら削除するんだろう。
いつも通りに。
でも、俺はそれで良いと思ってる。
どうせ、それ位しか出来ない人間なのだから。
直面している問題をフィクションに変換。
そして、自分を主役に置き換えて、第二の人生を空想。
気色悪い。
書いている人間も大概だし、それを支持して夢中になっている奴等も同等。
トラックに轢かれて、ファンタジーな空間へ?
階段から足を踏み外して、異世界に転生?
寝て起きたら……白い部屋?
「頭、大丈夫かよ。こいつ等」
何も俺は、転移やらなんやらにケチをつけたいわけではない。
この、リアリティの無さが気持ち悪いって話。
現実世界に不満を抱いている主人公が、何の努力もしないで無敵になる。
それで、何が一番怖いって……元の世界に、未練を抱いていないこと。
死んでしまったのだから仕方が無い、とか。
今の人気者生活を手放す気はない、だの。
本当に必要だったのは此方側の世界だった、なんて。
本当、好い加減にしろって話だ。
「……あ?」
俺がヨーグルトに手を伸ばし掛けた時。
スマホに通知音が響いた。
おかしい。
俺は、年中サイレントモードにしてる。
新しいアプリケーションも特に入れていない。
確認しようと、画面を切り替えた。
途端。
「なんだよ、それ……っ」