その漆
三日間、私は眠れない夜を過ごした。
恐怖からではない。
怒りからである。
人斬りは知らない。
奪っているのは、汚しているのは、殺した女性たちの命だけではないと。
軽率に振るっているその刃に、こめられた想いを。
父の想いを。尊厳を。
父の友人たちの記憶を。
決して踏みにじってはいけないものを踏みにじっているということを知らない。
そしてその行為は確実に、私の怒りを焚きつけている。
人斬りが、雪ちゃんに、私の大切な友人に手を出そうと企てているのなら、その企みは、私が粉々に叩き潰す。
確実に。
さぁ。決戦の日だ。
私は箪笥の引き出しの奥から、小刀を取り出した。
父が昔、私の身を案じて作ってくれた宝物である。
鞘から引き抜くと、銀色に輝く刃が現れる。
眺めることはあっても手入れすることはなかったのに、刃は輝きを失わない。
「お父さん、守ってね」
刃には、私の顔が反射している。
我ながら、父に似た目をしているなと思った。
そんなことより、行かなくちゃ。
私は小刀を懐に忍ばせた。
〇
相変わらず、通りは閑散としている。
夜も近くなってきた頃合いだ。
私は、周りに人がいないのを確認して、雪ちゃんの家から少し離れた民家の物陰に隠れて待つことにした。
あんまり目の前だと、尾行野郎と鉢合わせてしまうと思ったからだ。
あの日の後。弥一さんは私に言った。
「絶対に馬鹿なことは考えるな」
だけど、人は馬鹿なことを考える生き物だ。
そうして、大切なものを守ってきた。
命を懸けて守って、繋いできたのだ。
私は父から人らしくあれと願われた。
だから、馬鹿なことをしなくては、私は私じゃない。
集中しよう。
私は深呼吸をした。
雪ちゃんを怖がらせる不届き者は、一体、どこから現れるのだろう。
もう辺りは闇が深い。
天気が悪く、分厚い雲が晴れないために、月が出てこられないようだ。
こんな中を、相手は灯りもなしに、雪ちゃんの後をついてこられるのか。
目がいいのか。化け物なのか。
もし、化け物だったらどうしよう。
私は唾を飲み込んだ。
不意に、私の耳に高い音が入ってくる。
瓦の音?
私は視線を二つの場所にはしらせる。
上と雪ちゃんの家の方だ。
瞬間、雪ちゃんの家の向かいの家屋の屋根から、黒い影が降りてきた。
影はそのまま、雪ちゃんの家を見張れる、近くの物陰に消える。
やっぱり、近くにいなくてよかった。
それにしても……。
私は屋根と地面の距離を目測する。
こんなに高いところを飛び降りた?
それで無事なの?
普通、足を挫くくらいしてもおかしくない。
まさか本当に化け物?
私は人には強いが、幽霊とか妖怪は苦手だ。
心じゃなくて本当の意味で人でなしだから。
い、いやいや、気をしっかり持て。
化け物だろうがなんだろうが、雪ちゃんを苦しめているのには変わらない。
お灸をすえてやるのだ。
化け物なら、人間に怖気づいて、二度と悪戯ができないようにしてやる。
ガラガラ。
引き戸が開いて閉まる音の後に、灯りのついた提灯を持った雪ちゃんが出てくる。
影はその場から動かない。
私は息を止めて、距離を詰めていく。
懐の小刀はしっかり握りしめている。
雪ちゃんが私たちに背を向けて、通りを歩いていく。
遠のいていく灯りの背に濃い闇がまとわりついていく。
それは私にも。
足が重い。息が苦しい。
息をしていないからだ。
でも、ひと呼吸ついたら存在に気付かれてしまう予感がする。
誰かに助けを求めたって、そいつが焦って、雪ちゃんを追いかけたら意味がない。
意味がないんだ。
逃がしてしまっては。
友人を脅かす人でなし。
父の刀を汚す人斬り。
そのどちらかなのか、はたまた、どちらもなのか知らないが、私はお前を許さない。
懐から抜いた、小刀の小さな刃が煌めく。
影が、雪ちゃんを追おうと音少なく立ち上がる。
その後ろ姿。
体躯からして男。しかも若い。
よし、人間だ。いける!
私は男の首筋に、刃をあてがった。