EIGHT:それはひだまりのような
八話、差し替えます。
この後の九話もこの続きなので、差し替えとなります。
『ねぇお父様、あの子はずっとあの離れで一人なんでしょ?そんなの可哀想……お願いお父様、少し様子を見てきてほしいの』
そんなエリーゼの可愛らしいおねだりを、本当ならやんわり断るつもりだった。
なのにどうしてだか、言うことを聞いてあげなくては、エリーゼのためになんでもしてやらなくては、そんな気持ちに駆られてしまったアメデオは、二人が寝入った後に渋々離へと向かった。
が、そこには愛する娘エリーゼが心配していたもう一人の可哀想な娘はおらず。
見張りに聞いても、見かけなかったと首を横に振るばかり。
どういうことだ、何処へ行った、何が起こっている、わからない、わからない、わからない、寒い。
ずっと、呆然としたままそこに立ち尽くすこと数時間。
全く眠らないままに朝を迎え、薄闇の中をそっとこっそり帰ってくる小さな人影を見つけた瞬間、彼は爆発した。
離れに放り込み、頬を引っ叩き、胸ぐらをつかんで起こしてもう片方も叩き、ゴツンといい音をして倒れ込んだ後は腹を蹴り、足を蹴り、背中を蹴り。
執事に「宰相閣下がお見えです」と言われてようやく、彼はふと正気に戻った。
視線の先には、薄汚れた床の上でぐったりと動かなくなった小さな塊。
なんてことを、と心の何処かで後悔する声が聞こえたが、それはすぐに嘲りへと取って代わった。
役立つなら生かしておいてやろう、そう思っていたはずなのに、その時はそのまま死んでしまっても構わないとさえ思った。
前妻の子に愛情などはないが、憎しみまでは抱いていなかったはずなのに。
(私は、どうしてしまったんだ?…………いや、これでいい。愛する家族を守るためだ、精々役に立ってもらわなくては)
彼はのろのろと、便箋を取り出した。
そしてそこに、かねてから婚約の打診をされていたその返事を書き綴っていく。
エリーゼはこの家から出すつもりはないし、いずれ然るべき家からきちんとした身元の誠実な婿を迎えるつもりでいるが、テレーゼは成人後もこの家に恩恵だけを与えるように、家どうしの繋がりだけが重視される相手に嫁がせてしまうつもりだ。
今打診されているその家の次男は現在貴族学校を卒業して仕官したものの、さして有能でもなく加えて女癖が悪いため手を焼いているらしく、いずれは準貴族あたりの地位を与えられて飼い殺しになるだろうという話だった。
そこならば、互いの実家にも利益があるしお互いに厄介払いができるとあって、きっといい関係を築いていけることだろう。
(子供は親の言うことを聞くものだ。生意気なガキめ)
「……というわけで、少し違和感を覚えまして」
「なるほど。確かにおかしい。……調査の過程でわかったことだが、元々クリストハルトの現当主は政略結婚を拒否できる立場でありながら、素直に受け入れたのだそうだ。貴族の子供だ、そんな教育を受けてきているのだから、まぁ当然だな。だが、ある日突然彼は愛人を作った。流れの歌姫など、身分を気にするプライドの高い男が囲うはずもない相手を、だ」
本来なら、愛情はないにしても政略的に結びついた美しい妻と、貴族らしい家庭を作っていくはずだった。
家のことは妻が、外のことは夫が、それぞれ分担してクリストハルトという歴史のある家を盛り立てていく、そのはずだったのに。
ふらりと東方の島国からやってきた旅の一座、そこの歌姫の公演を一度見に行っただけで男はその歌姫に心を奪われた。
互いに尊重していけたらと思っていたはずの妻を邪魔者のように扱い、ついには暴漢に金を渡して攫わせ、そのまま死んでくれればいいとすら願うほどに、歌姫とその生まれた娘を溺愛している。
恋は人を変えると言うけれど。
とある書物で読んだそんな一文を思い出してはみるが、マドカにはどうにも違和感だらけのような気がしてならない。
そしてそれをベックフォードにも話してみたが、彼もまた違和感を覚えた一人だった。
「その旅の一座とやらだが、歌姫が抜けた後は自然解散という形で国に戻ったらしい。……確かに一座の中心に歌姫がいたとはいえ、それもどうにもおかしな話だな」
「国に?ということは倭国に、ですか。調査はできませんか?」
「できないことはない。一座の、というよりは歌姫についての調査は進めておこう。もしかすると、精神操作的な何か怪しげな術を使う可能性もあるのでな」
「精神操作系、ですか……でもそれがもし本当なら、あの男だけがかかるのはおかしいでしょう?」
「それはわからん。彼を最初からターゲットにしていたなら、それも可能かもしれん」
「……最初から狙われていたか……それとも心の隙間に付け込まれたか」
うーん、と考え込みながら歩いていたマドカは、不意にドンと目の前の背中に突き当たって足を止めた。
「あ、申し訳ありません閣下」
「いや。……考え込むのは悪くないが、中に入ってからにするといい。さあ、ようこそ我が家へ」
少々芝居がかった口調でそう言われ、見上げたその家は。
貴族街にあって平民の家のような、そんなこじんまりとして地味めな……国で一番忙しい宰相閣下の家とは到底思えない一戸建てだった。
「まぁまぁ旦那様、随分お早いお帰りですこと。今日はこのままお休みですの?」
「まさか。これからまた城へ戻る。マーガレット、連絡は来ているか?」
「ええ、準備はできておりますわ。ですから旦那様、そちらの可愛らしいお嬢さんのことはわたくしに任せて、お仕事にお出かけくださいな」
「……酷い言われようだ。だが頼んだ」
行ってくる、とくるりと身を翻して降りたばかりの馬車に乗り、宰相閣下はあっという間に城へと駆け戻ってしまった。
ポツン、とその場に残された少女は「あれ、こういうの前にもあったぞ」と内心そんなことを考えながら、馬車を見送っている貴婦人をそっと見上げる。
『他の者の都合がつくまで長くても数日、君には我が家に滞在してもらう。妻や子らが多少騒がしくするだろうが、気にしなくていい』
宰相閣下の奥様、というのがどういう人だか想像もつかなかったマドカは、マーガレットと呼ばれたその見た目三十代前半の貴婦人を見つめ、意外そうに首を傾げた。
髪は栗色、貴族の夫人らしくきちんと結い上げており紺色のベルベットのリボンが結ばれてある。
ぱっちりと大きめの瞳は若草色、美人というより愛嬌があって可愛らしい顔立ちは、実年齢よりも恐らく数歳若く思えるほど。
小柄だがちょっとふっくらとした体型は、女というより母としての貫禄すら伺える。
馬車が完全に見えなくなったところで、夫人はマドカに視線を向けてにっこりと穏やかに、まるでひだまりのような笑顔を向けた。
そしてあろうことか、ドレス姿でありながらその場に座り込んで小さな少女と視線を合わせてくる。
「お、奥様、ドレスが汚れます」
「あら、いいのよ。ドレスくらい、洗えば良いんだもの。それより、わたくしのことはメグと呼んでちょうだいな。旦那様ったら、恥ずかしがって中々呼んでくださらないの。せっかく数日でもここに住んでくれるのだもの、小さなお客様には是非そう呼んでもらいたいわ?」
「え、えぇと……」
(これって、断ったらダメなフラグだよね?……でも呼んだら閣下に睨まれそうな気もするし……うーん)
考えた結果、「メグ様」と呼ばせてもらうことにした。
宰相閣下には睨まれるかもしれない、だがこのおっとりとしたようでいて押しの強いご婦人の好意を断れば、せっかくこの邸にと手配してくれた気遣いに泥をかけることになる。
こっそりと、城に滞在するという選択肢もあっただろう。
実際四人が揃ったら数日は城に滞在することになるのだし、その前にマドカだけでも滞在させることなど宰相閣下に手配できないはずもない。
なのにあえてこの家に連れてきた……これは恐らく、あの家で虐待を受けたマドカに対する温情のようなものだろう、と彼女はそう考えている。
同情するなら金をくれ、と偉大なる先人がそう言っていたのだと書き残された書物も読んだし、実際その通りだと彼女も思う。
だけど、ひだまりのようなあの笑顔を見ていたら、自然とこわばった頬が少し緩んでいた。
「あら、この服……あちこち裂けているわね」
「…………あ」
明るいところで見れば、彼女の身の纏った平民用のワンピースのあちこちが小さく破れていたり、ほつれかかっていたりしているのがまるわかりだ。
治癒魔術で怪我は治した、浄化の魔術で服も綺麗にした、だけどほつれや破れだけは直せなかったのだ。
マドカが何か言うより早く、メグはパンパンと手を叩いてメイドを呼ぶと、「シンシアは起きているかしら?」と尋ねた。
どうやらそれがこの家の娘の名前らしいとマドカが気づいた直後、メイドが動き出す前に駆け寄ってくる小さな……といってもマドカよりはふたまわりほど大きい人影。
「お母様、その子がお父様の仰っていたお客様?うわあ、綺麗!可愛い!着飾りたい!」
「……落ち着きなさいな、シンシア。今貴方を呼ぼうと思っていたところよ。……マディ、この子はシンシア。うちの可愛い長女よ。シンシア、マドカちゃん。わたくしはマディと呼ばせてもらっているけれど」
「シンシアよ、はじめまして!ねぇ、わたしもマディって呼びたいわ!」
「はじめまして、シンシアさま。マドカです。マディとお呼び下さって結構です」
『マドカちゃん?だったらマディね。そう呼んでも構わない?』
にっこりと、ひだまりの笑顔でそう問われては頷くしかできない。
愛称で呼ばれるのは初めてのことだが、確かに呼ばれてみるとくすぐったくて恥ずかしい。
宰相閣下が奥方を愛称で呼べない気持ちもわからないでもないなぁ、となどと考えているうちに『マディ』呼びは定着してしまったらしく、娘のシンシアもそう呼ぶことに決まってしまう。
そしてシンシアのことは『シンディ』と呼ぶことになり、練習と称して何度もそう呼ばされているうちにマドカは精神的にぐったりと疲れてしまった。
シンディのもう着なくなった服をマドカにあげる、という話が親子間で纏まった頃には、マドカは腕を引かれてシンディの部屋へ連行されていた。
これがいいかしら、あれがいいかしら、とシンディとその専属メイド数名が楽しそうにドレスを出しては引っ込め、マドカにあてがっては放り投げ、それを当事者であるマドカは呆然としたまま見つめるしかできない。
「せっかくきれいな金髪なんだもの、淡い色のドレスで儚げな印象を出すのはどう?」
「ですがお嬢様、珍しい紫の瞳に合わせてラベンダー色のドレスも素敵ですわ」
「こちらの深い青のグラデーションはいかがでしょう?ちょっと大人っぽい印象ですけれど、お顔立ちがしっかりされておりますから、こういうのもきっとお似合いですわよ」
(お顔立ちがしっかり……それって老け顔ってこと?それとも、バッチリ男顔だってこと?どっちにしても、ヤな遺伝子継いじゃったなぁ)
忘れてはいけない、マドカは性別や色合い、年齢すらも違うというのにあのクリストハルト家当主とそっくりだと言われ、本人もそれを認めたことであの家に引き取られたのだ。
つまりは、母のようなどこか儚げな印象の美女顔ではない、ということ。
良くて凛々しい系、もっと言えば男性的な顔立ちに成長する可能性も大いにある、ということで。
(体、鍛えるのやめようかな……)
せめてドレスが似合う体型を維持すべきかな、と彼女は珍しくそんな乙女のようなことを考えてしまった。